2017年8月15日火曜日

雨が降る理由


そぼ降る雨の中、盆踊り会場でだれかがつぶやく。
「雨、やまないねえ。。オレ、なんか悪いことしたかなあ~。。?」

それに反応して、横にいた人が答える。
「まったく!何も悪いことしてないのに、なんで雨ばっかり降るの!?」

するとそれを聞いていた親分が、
「イヤイヤ。きっと誰かが、なーんか悪いことしてるんだよ。。」
と、にやりとした。
一同が納得をする。



やまんばはそれを聞いてにやりとする。
雨が降ることと、悪いことすることは、なんもかんけーないのに、心はそれを結びつけちゃう。

1:盆踊りをするのに雨が降ること=悪いこと
2:悪い事が起こる=バチが当たった
3:バチが当たる理由=悪いことをしたから

↑あたまの中がこーゆー構図になっている。

するとあたまの中は、ひとり劇場が始まる。
「悪いこと、よくないこと、、、なんかあったっけ?
ああ、そうだ。あのとき私があれをしたから、あれがよくなかったのかな?
それで今日お祭りなのに、雨がふるって言うバチが当たったのかな?
イヤイヤ。なんであたしだけが悪いのよ。だいたいあいつがあんなこと言うから、ムカついただけよ!それにしっぺ返ししただけじゃないの!なんで神さまはこうもわたしにいじわるなの!?」
雨は降り続けるわ、あたまの中はムカつくわ、もう、イヤイヤ状態が炸裂~~~っ!



別に雨が降ることに、いいも悪いもない。
人は勝手ないきもんで、雨が降らないと文句を言い、雨が降ると文句を言う。
やまんばも畑に雨が降らないと、降ってくれないかなあ~と願い、降り続けると、もういいよ~と、文句をたれる。

「人はおこる出来事に原因を探す」
これは先日お会いしたタクさんの言葉。

「タクさんレンタル企画」で、高尾山のふもとにまでわざわざお越し頂いたのだ。むずかしー非二元のお話を、軽いタッチで笑わせながら、新たな方向から気づかせていくブログを毎日お書きになる。やっぱり難しいんだけど、何だか後からじんわり来る、不思議なブログ。やまんばは毎日読ませていただいている。どんなお方かドキドキして待っていたが、実際お会いすると、笑うと口元にちらっとえくぼが見える素敵な方だった。


まさに人は雨が降るという単なる出来事に、原因を探している。
なんで雨が降るのだ?と。

これ、状況が違うと原因なんか探さない。

待ちに待った雨が畑に降ると、「なんで雨が降るのだ?」とはおもわない。
「わーい、降った降ったあーーーっ!」と、よろこんでおしまいw
たまに「なんで雨が降ったのだ?そうか。私の日頃の行いが良かったのだ!」とか言っちゃうけどw

そんなもんで、人は出来事に対して文句があるほどに、その原因を探し求める。
それは生存本能が、悪いことを回避しようとすることから起こっているのだろうが、そもそも生死に関わる出来事など日常ほとんどない。雨が降ることは、死にいたる話ではないにもかかわらず、風が吹けば桶屋が儲かる的な発想で、すべてを深刻にとらえるため、思考は必死でその原因を探す。原因さえつかめば、もう悪い状況はやって来ないのだ!と、架空の安心を求める。

こーして「悪いことをしなければ、雨が降らない」という法則を作り上げるのだ。(ややこしーなーもう)

やまんばは、人が作る勝手な法則のしっぽをつかんじゃったので、おこる出来事に反応しなくなって来た。

雨が降った。
ですよね~。で、ハイ終わり。



追伸:

タクさんの今日のブログは、まさにそういうことを指し示している。
人は起こった出来事に自分を参加させようとしているんじゃないだろうか。
なにがなんでも法則を見出すのは、そこに自分がいる!という実感をほしがっている。
それはほっといたら、すーっと消えていく自分というものを、だめだめだめ!って、グッとつかんではなさないってことじゃね?
わしらは必死で「自分」であろうとしているんかもね。



「桶狭間は晴れ、のち豪雨でしょう」MF新書/表紙イラスト

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