2014年5月15日木曜日

どっちが正しい?どっちも!



意見のちがうものどおしが対立する。
両者互角でちっとも勝負がつかない。

長い格闘を見ていると、これ、そもそも勝負なんてつくもんだろうか?とおもう。

意見が違うのは、産まれた環境も、育てられた親もちがうのだ。考えからからしてじぇんじぇんちがうんだから、どちらかの意見に収まるってのは、ほとんど幻想に近いんじゃないか?

理想としては、
「なるほどそうか。あなたのいうことはもっともだ。あなたの方が正しい」
と納得しておわるってのが理想だ。

だけど現実は、恨みつらみを抱えたままムリヤリどっちかに「おれる」か、はたまた「時間」というベンリなもので「解決した気になる」か、「なかったことにする」か、そこら辺が本音じゃないだろうか。

いやいや、産まれた環境や親がちがうどころじゃないぞ。兄弟だって、とゆーか身内ほど、熾烈な争いが繰り広げられるではないか。近けりゃ近いほど、すごみを増す。

仏教だって山のように宗派がある。
キリスト教だっていっぱい宗派が世界中に広がっている。これって神様の言葉の解釈をそれぞれの解釈で受け止めるからでしょう?
でもって同じ宗派の人たち、同じ思想同士でさえも、中に入ればもやもやした関係が繰り広げられているのだ。それってさあ、人が3人よれば、すでに派閥が起こるってことじゃん。

とゆーことはだ。
自分以外のニンゲンは、み~んな考え方がちがうってことだ。

そもそも自分と同じ意見を持ったイキモノは、この世に存在するんだろうか。いたらその方が気持ち悪い。
ほんとうは、意見が違う方があたりまえで、自然なことなんじゃないか。


気にもとめてない人がへんなことをいうと、
「あ、そーですか。はいはい」
と、そのまんまにしておく。
だけど、身近にいる人がへんなこというと、
「え~~~っ!それ、ちがうでしょう!」
と、その意見にたいして、あーだこーだという。

身近にいるニンゲンは自分にとって重要人物だから、相手を変えて直そうとするのだ。
気にもとめてない人は、自分に何の影響もないから、ほっぽらかしておく。

人に意見して変えようとするのは、自分にとって不都合な事が起こる可能性を秘めているからだ。ま、よーするに、相手を変えようとするのは、自分の身のことを考えてのことだな。


ところが相手は自分を直そうとしたりコントロールされる事をきらう。自分にてらしてみればわかる。やまんばだって、自分の意見を変えさせられようとするといやになるもの。

自慢じゃないが、やまんばは今まで人の考えを正そーとして、正せたためしがない!

むしろその人の考えを、そのまんま受け取ることをしたほーが、1億倍速くことがスムーズにいく。

また、ちょっと賢くその人の行動を理解しようとすると苦しくなる。理解なんかできなくてあたりまえだ。だってその人が過ごしてきた人生を後追いできないんだもん。だけど、間違いなく、その人の考えは、その人にとって「正しい!」ことなのだ。
人が「正しい!」って思っている事を「あなたはまちがっている!」と言い続けてもしかたないのだ。



その人の考えをそのまんま受け取ると、不思議なことに何かの流れが変わる。
理屈ではない何かが起こりはじめる。
理屈や、理性や、方法論や、二元論や、いわゆる左の脳で考えるよーな結果ではないなにかがうごきはじめる。

二つの対立する意見は、まるで対立とは無縁の、統合されるような大きなものに変わっていく。カタチもなく、包み込むような理解のようなものがおとずれる。きっとそれは脳を通さない、胸の奥から来る宇宙の中心からの理解なのだ。



対立する意見は、実はどっちも自分の一部だ。
自分の中に起こった、ある概念が形に現れたものだ。あるものが「正しい」といった瞬間、「正しくない」ものをも生み出す。コインの裏表だ。これは一つのものだ。

対立とは、
「わたしはこのコインの表は必要だが、裏はいらない」
と言っているようなものだ。けっして分ける事はできないのに必死で分けようとする。
自分の中に作ったものをこっちはいるがそっちはいらないとはねのける。
だから苦しい。
でもどっちも自分が生み出した概念なのだ。

そのどちらも自分の胸の中に、すっと引き寄せる。
どちらもそのまま受け取る。
すると胸の奥の異次元空間で概念が次元を越えて、まあるく納めていくのだ。




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