例えば「病気」になる。
すると「ああ、病気さえなかったら、幸せなのに。。」
とおもう。
そして病気といわれるまえの「健康」だった頃のことを思い出し、がぜん「病気」と闘い始める。
「健康は幸せだ」とおもう。
病気になってはじめて思う健康の幸せ、ありがたさ。(よく聞くセリフ)
だが、その「健康」だったころ、はたして幸せだったのか。
現実は、そんな自分の健康なんて気にもせずに、何か他の「問題ごと」に気がいって、
「ああ、あれがなければ幸せなのに。。」
とか考えていたりするじゃないか。
じゃあしあわせってなんじゃらほい。
どーも世間がいう幸せとは、「今そこにないものを手に入れると得られる快感」のことを言うようだ。
と、いうことは、「今そこにない=不幸せな状態」を、
「そんなのいやだあーーーっ!」
って猛然と戦ってゲットするという、いわば手応えを必要とするもので、
ゲットできた瞬間、
「ああ、か、い、か、ん」
と薬師丸ひろ子ちゃん的に感じるような程度のしあわせ感である。
んで、ゲットできた瞬間、その快感を味わったのち、いつのまにか次のターゲットに意識が向かうぐらいの、つまりいつもここにはない何かを追い求めるだけのしあわせ感なんじゃないだろうか。
だから「健康」であったときは、しあわせをかんじてはいないのだ。健康はふつうにそこにあり、追い求めてゲットするものではなかったからだ。
だから「健康」であったときは、しあわせをかんじてはいないのだ。健康はふつうにそこにあり、追い求めてゲットするものではなかったからだ。
これがあったら幸せ。
これがなかったら幸せ。
何かが有る無しによってつくられる幸福感。
つまり幸せとは、条件付きなのだ。
それって、なんかおかしいってやまんばはおもいはじめた。
外の状況によって人の幸不幸が決められるなんて。
コマーシャルなんか、そういう価値観を次々にあおって来る。
これがあるのって幸せの条件じゃん~とか、あれ持ってないと不幸だよねーって。
やまんばはこうおもう。
今ここで存在していることが、無条件にうれしくて、たのしい。
それがほんとのしあわせなんじゃないだろうか。
何かを持っているから幸福でも、何かをやっているから幸せでもなく、ただそこにいることが、ただうれしい。
そのとき、そこには「しあわせ」という言葉さえ、おもいつかないかもしれない。
ほんとうは、わたしたちはただよろこびのために、この世に生まれてきているんではないだろうか。
それは、だれかから与えられて感じるよろこびではなく、自らが意識的に創造していくよろこびなんじゃないだろうか。
時代はあまりにも不幸に満ちあふれている。
それは条件付きの幸福感から来ているからじゃないだろうか。
時代はあまりにも不幸に満ちあふれている。
それは条件付きの幸福感から来ているからじゃないだろうか。
畑の真ん中でトマトにかけていたビニールをはずしながら感じたことだった。
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