2013年5月22日水曜日

その先へいこう




昨日ニュースをみてた。

誰からいきなり金属バットで殴られた事件、刺される事件、犯人が逃げる途中で交通事故に巻き込まれた事件、飲酒運転で車を何台も巻き込んだ事件、新幹線の中でスプレーまいた事件。。と、いろんなニュースを見た。
みんなその日一日に起こった出来事だ。

昔は計画的犯行というのが犯行の主流だったような気がするが、最近の事件は突発的と言うか、感情的と言うか、誰でもよかったと言うか、そんなどこか「ぷっつん切れました」的な事件が多い。

心に何かとてつもない不安を抱えた状態が極まって、そうさせてるんではないかとおもえてしまう。
犯人の人柄は、
「とてもそんなことをしそうな人でなかった。やさしい温厚な人柄だった」
なんてコメントされることもふえた。
犯罪者とわしらは、ほとんど境界線のない時代に入ったのだ。

やまんばが生まれてから、今のような精神的な問題が、ここまで浮上してきたことがあっただろうか。ちまたではあまり取りざたされていないけど、老婆心ながら、これからはっきりと意識的に精神的なことを言葉に表していかないと、文明は物質的な問題よりも、ニンゲンの心の問題で文明は続いていかなくなる気がする。

わしらは、ふだん目に見えるモノがこの世のほとんどを占めていると信じている。だから目に見えて明らかなものだけを問題解決していけば何とかなると思っている。目に見えるとは、机とか、パソコンとか、お金とかの、物質的なものだけじゃなくて、政治とか経済とか医療とかも含めてのことだ。目に見えてこの問題、あの問題、と提示することが出来るもののことだ。

だけどその問題を考えて考えて考え尽くして、はや2000年。
文明はコロコロ変わって、いわゆるコンビーニエントにもなった。だけど、はたしてそのコンビニエントは幸福とつながっているのか。その幸福は絶対的な不変な永遠に続く幸福か。こんなに突発的な事件が多い世界が幸福なのだろうか。
では問題のひとつ、原発がなくなれば、私たちは幸福になるのか。
きっとやっとのおもいで原発がなくなっても、また次の問題が見つかるのだろう。そうやってまた次の2000年をすごす。。?はたしてこのままこの文明がずるずると2000年続くと思うだろうか。やまんばにはおもえない。

とんでもないものを忘れている気がする。あの問題この問題と外に指さして変えようとしてきたが、わたしたちは一番大事なところを指さすのを忘れてないだろうか。
ここ(胸のとこ)の問題だ。

すべての行動のはじまりは、ここからきている。なのに「ここ」はちっとも顧みられることがない。なぜならそこが一番怖いところだからだ。だからそこにずーっとふたをしてみないようにしてきた。あっちやこっちがわるいから、あたしは不幸なのよ。と言い続けてきた。その結果が「ぷっつん切れました」になる。

道徳観や倫理観は恐怖をうえつける。
ニンゲンはこうでなければいけない。そうしなければお前はニンゲン失格だ。そういわれてきたんじゃないか?
つまり道徳観は、恐怖の上に成り立たされている。だから「ここ」を見れないのだ。

そんな「恐怖による洗脳」の道徳観や倫理観などもう古いのだ。その古い形を持ったままでは、この先の文明はかなしいものになる。。。


その先へいこう。(なんかどっかのCMみたいだな)

2 件のコメント:

まいうぅぱぱ さんのコメント...

少しでも、自分の思った通りにならないと、切れる人多いですよね・・・。
きっと、そうやって育ってきたん(育ってこれた?)でしょうね。って私は思います。次の世代は更に悪化するのかなぁ…

つくし さんのコメント...

たぶん、そーなるでしょうね。。。