2011年8月1日月曜日

地震で足をふんばるやまんば




やまんばは地震が来ると、足をふんばる。なんでか。何となく地面が揺れるんが収まるような気がするからである(お前の力はそんなに強いんか)。だから地震が来るたびりきむんで疲れる。

こないだ近所の幼稚園の子供たちの話を聞いた。あの大地震があった時、幼稚園児たちは、一緒になって自分たちも揺れて大騒ぎしたのだと言う。たぶん、彼らにとって地震が恐いという記憶も体験もないからだろう。だから「あ〜っ、地面が揺れてる!おもしろ〜い!」となったんだろうな。

子供は、地震についてのイメージがない。だからそれそのものを受け取る。地面が揺れるっておもしろいことじゃないか。ところがここで大人が「危ないじゃないの!」というと、地震=危ない事、という記憶がインプットされる。
そうやって地震はこわいものだと私はインプットして来た。だから足をふんばって揺れないようにする。はたまた机の下に隠れる。

さて先日も揺れた。ウチのダンナが「わ〜揺れてる〜、オレも揺れよう」といって身体を揺らしだした。すると私もなんだか揺れたくなって、揺れた。大の大人二人が地震に会わせて身体を揺らしたのだ。するとどうなったか。
おもしろかったのだ。

今朝までその事を忘れていた。
友だちからのメール「宇宙に安定などないのだ」という言葉に触発された。そうだ。ニンゲンなんて大しけの中にいる大型客船に乗っているお客みたいなもんだとおもった。右往左往するだけで何にも打つ手はない。だけど心がなんとかしないといられないので、船の中でうろうろする。きっと足をふんばってみたり、テーブルの下に隠れたり。その姿ははたから見たら、こっけいにうつるんだろうな。

恐怖は人を翻弄する。しかしその恐怖も自分が作り上げるとしたら。自分で自分に恐怖の種をまいているとしたら。

自分で揺れた時、そこには何も恐怖はなかった。あるのはただ、楽しかったのである。それはダンナと一緒に揺れたからか?多分、子供たちもあの時楽しかったに違いない。みんなで一緒に揺れたのだ。

足をふんばるのと、一緒に揺れること。この二つに何の違いがあるのか。
前者は揺れへの抵抗である。そして後者は揺れを受け入れているのだ。

人は恐怖を感じると、とっさに逃げようとする。肉体的にも、心理的にも。けれども園児たちにその恐怖はなかった。だから抵抗もなかった。ただその揺れを受け入れた。それはただ楽しかった。
しかし私たち大人はすでに揺れる事に対する恐怖がある。だから揺れると即その場から逃げようとする。抵抗である。するとその恐怖はより増幅される。ところがそれを受け入れると、そこに恐怖は存在しないのだ。

それはあらゆる事に通じる事ではないのか。あるがままを受け入れる事は、エネルギーになっていくのではないだろうか。あるがままに抵抗するとそれがマイナスに転じ、あるがままだったら、ゆかいな事になるのかもしれないではないか。

だからといって、大揺れの最中にへらへら笑って揺れて踊って、上から天井が落っこちて来たらあほであるが。

やまんばが家の下敷きになって発見されたら、
「あ、こいつ踊ってたな」と思っておくれ。


絵:似顔絵「松尾貴史」

5 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

確かに海や、波の出るプールで、水の動きに任せるのは気持ちよかったねぇ。
あまり小さなときの記憶はないけれど、十勝沖地震の記憶辿ると、すでに恐怖を植えつけられていたと言うより、想像を超えたパワーに驚いた。という記憶です。
超デカイ人にあった感じかな。

天井に潰される時は、せめて笑顔はやめて欲しい(笑)。

つくし さんのコメント...

十勝沖地震にあったの?
大自然の猛威にであうと、恐怖というよりは畏敬の念にかられるね。
わしら高知県人はなんでか台風が大好きなようなのだ。こないだ親と友だちに確認した(笑)。
超デカイ人にであうと、それだけで、そんけーしちゃうよね。台風もそんなもんかも。

え?死ぬときゃ笑顔で死にたいよー。(希望)

リス さんのコメント...

最近、夜中に地震があります。寝ている時は、踏ん張れないです。

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

いやいや、はるか中野で経験しただけです。
でもぼろ屋だったので、相当怖かったですよ!!

つくし さんのコメント...

リスさん、ふははははあ〜。そらそーだ。
今日も夜中にありましたよねえ。。
わたしゃ、足ふんばれないんで、身体硬直させました(意味あるんかい)。なかなかへらへら笑えんもんやなあ。。

ぱぱさん、そっか、中野でもぼろ屋だと、大衝撃なんだな。