2010年9月13日月曜日

いらんことする人間




ニンゲンは、心を空っぽにすることをおそれているんじゃないだろうか。
延々と思考が動きまくっているのは、何か考えてないと死んじゃう!と、サメみたいなところがあるんじゃないだろーか。

何も考えないことを5秒でもやってみたことある?なんだか自分が漠然とし、誰でもなくなり、自分が消えてしまうような心細さって感じたことない?足下に大地がなくて宙ぶらりんな感じ。一瞬でもそれを味わったら、次の瞬間あわてて頭の中に言葉がでてくる。すると何かに捕まっている実感が得られるのだ。「私」という実感。それでまた思考がはじまる。
「おっと危ない。今のみた?私じゃなくなっちゃう感じ。ああいやだ。おもわず自分を忘れるところだった。くわばらくわばら」
思考は「私」と言うこの個人を意識させてくれる。

ところが、その無心の状態が少しつづくと、自分でなくなることがどうでもいいことになって来る。モノと自分との境界線がなくなり、自分は木でもあり山でもあり、そして空でもある。世界がただひとつの存在のように感じ、日常の生活がたいしたことではなくなる。その時のなんとも言いようのない感覚は私たちがまだ知らない、いや、忘れてしまっているなにかをかいま見せてくれるのだ。
だが突然思考がはじまり、一瞬のうちに「自分」に日常にかえってくる。


私はそのなにかを知りたいのだ。
きっとこの私たちがみている世界はほんの一部だけのことで、そのまわりにはとてつもない世界が広がっている。それを思い出すには、この厄介な思考が何かヒントを握っている気がするのだ。それは滝に打たれて修行することでも、瞑想することでも、世界に人々を救いに走ることでもない。ただここに今いる自分自身の中にその入り口がある。


やまんばは実験するのが好きになった。
石けんなし生活で自分の身体を使って実験した。そしたら身体は、それひとつで完成されたものであることを知った。畑も今、実験を繰り返している。

だから自分のこの考えも実験するのはおもしろいじゃないか。自分がなにを考え、なにに反応しているのか観察するのだ。この世のすべての不幸はこの心というか頭の中からはじまるのだ。人が死ぬことはいけないこと、病気になるのはいけないこと、会社をクビになるのはいけないこと、お金がないことはいけないこと。と言う基準は外からもらったものだ。その基準を元にして人々は、自分で幸不幸を作り上げている。その基準は遥か昔からもって来たことかもしれない。おじいちゃんのそのまたおじいちゃんから。それが人間本来のものなのか。どうして昔から延々と不幸なのか。歴史はどうしてこうも悲惨なのか。人間生活自身が不幸そのものなのか。

地球を見渡しても、地球の環境を邪魔しているのは人間しかない。人間以外はみんな見事に巡回して調和を保っている。地球にいわせたら、人間そのものがガンだ。
そんな煩わしい種族は、くしゃみでもしてのけちゃえばいいのに、地球さんは黙って我慢してくれている。きっとそこにもヒントがある。

いらんことするのが人間以外いないのだ。そのいらんことは、思考からはじまる。だからその思考から実験を始めるのだ。


絵:ペーパーバックミステリー扉イラスト

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