2010年5月25日火曜日
ちゅぱちゅぱふんふん
東京駅へ向かう途中の車内での事だった。私の左となりの席に若い男性が座った。
座ったと同時に何やら音がする。「ちゅぱちゅぱ。ふんふん。」「ちゅぱちゅぱ、ふんふん。ちゅぱちゅぱ、ふんふん」
横目で見ると、爪を噛んでいる様子。ちゅぱちゅぱはその音。ふんふんは、常に鼻を鳴らしている音。私も蓄膿症気味だから彼の仕草はよくわかる。つまりがちになる鼻を常に意識している様子。
小さい音だから電車の音にかき消されるかとおもいきや、そのちいさな音は私の頭の中にどんどん入ってくる。
このまま東京駅までこの音を聞き続けるのかあ?
そう思うと、ちょっとゆううつになる。本を読んで本に集中してみた。なぜか頭に文字が入って来ない。無理矢理読んでみる。単に字を追っかけているだけだ。耳にはあの音が鳴り響く。あきらめて、寝の体制に入る。眼をつぶれば寝るかと思いきや、ますます聞こえてくる。眠気なんて吹っ飛んでしまった。
ちゅぱちゅぱ、ふんふん。ちゅぱちゅぱ、ふんふん。
ええい。こうなりゃ、とことんその音を聞いてやれ。
で、私は彼の出す音に耳を傾けた。ちゅぱちゅぱ、ふんふん。ちゅぱちゅぱ、ふん。ちゅぱちゅぱふんふん、ちゅぱちゅぱ、ふん。
ふんふん、なるほど。彼はこんな大人になっても爪を噛んでいるのか。どっかが心細いんだろうなあ。鼻を絶えずならすのも、息するのがしんどいんだろうなあ。わかるわかる、あたしもそうだもん。鼻って一度意識するとあんがいくせ者よねえ。息する事を意識するってつらいのよお。
そう考えながら聞いていると、カラダが彼の方向に傾いているような気がする。私は彼の音を全身で聞いていた。
と、とつぜん彼が静かになった。あれ?やらないの?じっと耳を澄ましてみる。やっぱり聞こえない。やがて電車はすーっと駅に入った。彼はすっと立ち上がって降りていった。
不思議な瞬間だった。
あれほど抵抗していた彼が出す音を、聞き耳を立てるほどに消えていくこの現象はなに?現実的に考えるなら、彼が降りる駅が近づいたから、ならすのをやめたのだ、と言えるのかもしれない。しかし私があのとき体験したのは、なんとも形容しがたい静かな時間だった。私が彼を好きになった瞬間だった気もする。その瞬間彼は穏やかになった。二人だけの時間が流れた。
抵抗。。。。私たちはなんといろんな事に抵抗しているのだろうか。あの音が気に入らない、この時間がいやだ、この仕事がいやだ、あの人が嫌いだ。。。
あの電車での出来事は「抵抗する」ことの結果を教えてくれた。抵抗すればするほどその存在は大きくなり、それをそのままにしておくと存在しなくなる。
「痛みは観念である」という。これも同じ事なのかもしれない。痛みに抵抗すればするほどそれは激しさを増すのかもしれない。
先日、生理痛が激しかった。そこで実験してみる。じっと座って痛さを感じてみるのだ。どこが痛い?どのように痛い?カラダ全部にチェックを入れる。おなかが痛い、腰も痛い。足も重い。それをカラダが感じるままにする、するとほどなく、痛みが漠然としてくる。どこがどのように痛いというものではなく、どこが痛いのかさえ分らなくなってくる。ところが立ち上がって他の事をしていると、また痛さがやってくる。それでまたジッとその痛さを観察していると、ほどなく痛みは漠然として、消えていくのだ。
こういう事だろうか。人は無意識の奥まで痛さに対して抵抗をしている。ほんの少し痛みをカラダが感じると、無意識がそれに抵抗をはじめるのだ。それはずっと小さい時から教わって来た「痛いのはイケナイこと」という条件づけからきている。だがその条件づけを意識してほどいていくと、ほどなくしてその痛さは消えていくのではないだろうか。
ちゅぱふんにいちゃんに、私は最初抵抗していた。本を読んだり寝たふりしたり。しかしそれはその音を増幅させるだけだった。しかしその抵抗をやめ、その音を聞く体制になると消えていったのだ。それは別な言い方をすると、「お兄ちゃんと私」という分裂をやめた瞬間だったのかもしれない。痛みを「痛みと私」と分裂させて扱うのではなく、痛みとともにある、そしてお兄ちゃんとともにある、という行為が、何かの摩擦を取り除いていくのかもしれない。
絵:「COOPけんぽ」表紙
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4 件のコメント:
気になる人たまにいますよね。
駅中徒歩中から車中、継続して大声で、しかも訳のわからない話をしている若い奴(外国語というか、ろれつが回ってないというか)がいて、そいつの事は相当気になりました・・・。
そーゆー気になるやつには、がしっと捕まえて、ブチュッとキスでもくらわしてあげましょう。
いやです!
残念だなあ〜。
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