2009年12月11日金曜日

不安〜〜〜〜っ!






はて、親にあやまってもらったものの、なんだかすっきりしない。
こんな性格になっちゃったのはあんたのせいだーっ!っていってみたけど、よく考えてみれば、もうその性格になっちゃんたんだから、あやまってもらっても、その性格が変わる訳じゃないんだ。アタシってばか。

こういう風に不安の固まりになっちゃった私は、この固まりを自分で取り除かない限り、不安は消えない。自分以外、ほかに誰がやってくれる?

と、いうことは、不安の材料をメディアがくれようと、政府がくれようと、自分で取り除かなくてはいけない、というスンポウになってくる。ここで間違っちゃいけないのは、取り除くものを、親を取り除いたり、メディアを取り除いたり、政府を取り除く(どーやって?)ということではないのだ。ここでさらっとすり替えが行われるからご注意。ほら、よく気に入らないやつがいるから排除しちゃえって無視するでしょ?あのパターン。そんなことしても根本的なところを見ていないから、また新たな気に入らないやつが目の前をうろちょろする。

そのすり替えは薬に似ている。対処療法というもの。痛いところがあると、それを感じなくさせるペインキラー。それは痛みの原因と関係ない気がする。でも最近はもっと進化して、頭が痛くなるのは、血管が狭くなるから。で、その血管を広げましょうというお薬があったりする。でもそれも、じゃあなんで血管が狭くなったのか?という原因までいってない。単に広げるという役目をするだけだ。
そもそもなんで血管が狭くなるのか?という最初の発祥を見ていない。

だからものすごーく飛んだことを言うと、ムーア監督がいくら資本主義は悪だ、それを取り除けといってたくさん映画を作ってみたところで、彼の根本的な不安は解消されないと思うんだな。え?別にムーア監督は自分が不安だなんていってないって?そうです。でも自分で不安というものを知っていない限り、「人々の心に不安がある」と気がつかないと思う。
ムーア監督は子供の頃、GM全盛期の頃の町に生まれ育ち、豊かさを謳歌し、その後会社経営の破綻によって、町が見る見るうちに衰退していく様を見てきた監督だ。その自身の経験から社会のあやうさ、矛盾をずっと見つめ続けてきたのだ。だから彼は、その矛盾の行き着いた場所が資本主義で、それは悪だと断言する。だから資本主義を変えろと。

たしかに資本主義は、搾取する側、される側と2分割してしまい、悪い部分はたくさんある。しかしこれじゃ、対処療法と同じ発想だ。ペインキラーを飲むようなもんだ。彼の不安は多分消えないだろう。まあ、それが起爆剤になってたくさん映画を作ることになるとも言えるが、彼自身の人生はつらいもんじゃないだろうか。



不安とは反応なのだ。
人々のそれぞれの記憶の中にあるものが、目の前に展開する出来事をきっかけに、プチプチとそのとき味わった反応を繰り返しているだけなのだ。

誰かが机をバンッとたたく。すると条件反射のように、昔父親が机をたたいたことを思い出す。そしてそれは父が暴れることを意味し、その後の精神的、肉体的苦痛までも思い出す。それは一瞬にして反応として体がびくっとするという現象として起こる。朝起きたとき、ヤバい!と思ってがばっと飛び起きる。それは昔寝坊して遅刻して怒られたことを再現している。誰かがちょっと嫌な顔を見せる。すると、昔自分はいじめられっこで、みんなに総スカン食らわされたあのつらさを思い出している。

それはほんの一瞬にして起こる。映像が浮かぶ訳でもない。そしてそれは意識されない。ただ、似たようなことが起こるたびに、ずっと同じ反応を繰り返しているだけなのだ。
こんど何かで自分の感情が動いたとき、その反応を観察してみるとおもしろいことがわかる。どこかで似たようなことはなかったかい?ずっとずっと昔に最初に味わったあの頃のことを。

厄介なことに、その不安や恐怖などの感情は増幅する。そこに集中すればするほど巨大化する。誰かが自分の悪口を言っているんじゃないかと疑う。すると心はその疑えるだけの証拠を無意識に求める。
最近、近所のおばちゃんが、いつも愛想よくしているのに、その日に限ってちゃんと挨拶をしてくれなかった。いじめられっこの私は「私のこと嫌っているんじゃないかしら?きっとそうだ。そういえば、先週もそんな風につっけんどんな挨拶をした。やっぱりそうだ…..。ああっ!私はこの村から村八分にされる!!!!」と、頭を抱える。でも後日、また愛想のいいおばちゃんに出会う。そのとき単にその人はほかのこと考えていただけなのだ。

そういう風に、絶えず人は何かに「反応」をしている。おばちゃんは、愛想よくしてくれた。で、そのときホッとする。でもそれだけだ。また別の機会に、今度はおじちゃんにつっけんどんにされる。するとまた「あああ~~っ、あのおじちゃんに何か悪いことしたかしらあたし?」となって、また悶々とする(ヒマなんか)。

実は、ひっきりなしに外に反応している習慣があるだけなのだ。それは人によって違う反応になる。おじちゃん無愛想にされると、私の場合は「何か気に入らないことしたかしら?」と思い、また別の人の場合「あのやろ、俺に挨拶もしねえ、ふてえ野郎だ」となるかもしれない。この人の場合は、敵対心になる。
ムーア監督は、社会で低い立場の人を見ると、自分の子供時代のことを連想してしまうのかもしれない。そしていてもたってもいられなくなり、映画を作る。しかしその不安はぬぐえない。

まずその心のパターンに気がつくことだ。
外の出来事にいちいち反応をするから、心が不安になるという仕組みを知ることだ。心とは複雑なように見えて実はとても単純だったりする。自分がいつも反応しているものは何か?と探ってみるべきだ。

例えば会社で給料が減る。すると不安が押し寄せる。家のローンは払えるのか?子供の教育費はどうなる?その思いの奥には過去、お金に苦労して苦しい思いをした経験があるのかもしれないし、または親が苦しんでいるのを見たのかもしれないし、はたまた同僚が自殺したことを思い出すのかもしれない。その状況に置かれたとき、似たような過去を思い出し、未来を憂うのだ。心はいつも過去と未来を行ったり来たりしている。過去のつらいことを思い出し、未来を憂う。このパターンってよくあることじゃない?
しかしその考えている瞬間、自分は家の中にいて、ストーブがぬくぬくあって、子供たちが楽しそうに笑っているかもしれないじゃないか。その瞬間、今、本当に苦しいのだろうか?あなたはその瞬間、お金がないことで苦しんでいる?まさにその瞬間。
目の前に展開されている幸福なシーンを見ないで、心は不安をつのらせていく。その無意識に作られた苦しさは、やがて家族に八つ当たりの形であらわされ、家の雰囲気をだんだん暗いものにし、子供たちまで暗くさせていくのだ。そこに本当に苦しさがある。だが、それを作ったのは誰だ?会社じゃない。



私が危惧してしまうのは、無造作に無自覚に垂れ流しにされているその感情なのだ。
今の世の中に、こんなに不安が蔓延しているのは、無意識に勝手に増幅させていく心のクセなのだ。
なぜだか知らないが、この世の情報は、不安に駆り立てるようにもっていく。もっと警戒しろ、もっと心配しろ、もっと縮こまって暮らせ!と言っているように見える。そのオドシに乗ってはいけない。不安の感情を無造作に膨張させるな。
「私は無害です」というような顔を作って「地球にやさしく」と呪文をとなえて満足している場合じゃないのだ。それじゃ外の反応を気にして、いい子に見せておいて、自分で安心しようとしているにすぎない。一人一人が本当に自分の内面の状態を見つけることだ。怯えおののいている姿が見えないか?(自慢じゃないが、私もだ!)


不安になる材料を考え続けていてもそこに答えは見つからない。不安の始まりは心の中からだからだ。外の現象はたんなるきっかけにすぎない。ということは不安を解消するものは、ものではなく、自分自身の中にあるものなのだ。本当の答えは外にあるものではない。
不安なとき、心や頭はものすごい数の言葉で埋め尽くされている。それはたいていどこかで聞いたことのあるフレーズたちだ。あなたのオリジナルの考えではない。そんな時、頭の中は突貫工事の大音響が鳴り響いている。
その人に一番大事なヒントは、心の奥からそっとやってくる。本当に小さな小さな声。
工事現場の中ででホントに大事な答えは聞こえない。その言葉が聞こえるときは、ふとした瞬間に、何気なく、さらっとやってくる。あれっ?いまのは?って。

だから心を鎮めるのだ。静かにさせるのだ。そうすると聞こえてくるのだ。答えは自分の胸の奥深くからやってくる。
心、考え、想念、すべて頭のなかの脳みそがやっている。しかしもう一つの脳みそがある。それは胸の奥だ。それは宇宙とつながっている。そしてそれは英知への入り口なのだ。



不安になろうがなるまいが、人生は進んでいく。
だが不安になるほどに不幸な気分になる。それは家族も巻き込み、自分もつらく、果ては病気になってしまうかもしれない。いいことなし。
不安を解消しようと、あの手この手を考えるが、だいたいにおいて悲壮感漂うアイディアしか浮かばない。どんどん縮小型の生活になり、守りの体制が度を越えて、縮こまって生きることになる。いいことなし。

だから私は黙ることにした。心の中で一人歩きをする想念、考え、思い、習慣になっている感情、すべてのことを黙らせる訓練をしている。一分黙らせることができるだろうか?できない。じゃあ、30秒は?いんや。はっきりいって、1秒くらいしか心を黙らせられない。ということは、私たちはひっきりなしに絶えず考えているということなのだ。

インスピレーションはふっと舞い降りてくる。それは理屈を連ねた結果でてくるものだろうか。たいていは、突然ふってわいたようにやってこないか?会議中にうんうんいいながら、いいアイディアって出るのだろうか。絞り出すように出てきたものは、つまらない保守的などこにでもあるような案ぐらいだ。そんなものは後でどんどん変えられてしまう。ところが、唐突にぽっとやってきたものは、大胆不敵で、え〜〜〜っ!ていうくらいびっくりさせる。でも後で冷静になって考えると、すごく理にかなっていたりする。そのアイディアがいったいどこからくる?
そう、きっと想念と想念の間の、ほんの一瞬心が黙ったとき、その隙間から、しゅるしゅる〜っとやってくるのだ。私はその沈黙の時間を少しでも多く持とうと思っている。そうすると、体の奥から何かがわいて出てくるのを感じるのだ。

高知県人がよく使う言葉で「お日さん、西西(にしにし)」というのがある。つらいことがあっても、お日さんが西に沈んだら、すべてハイおしまい、というアホチンな思想。でもこれには深い意味があったのだなと最近思う。一日が終わればすべて過ぎ去ったこととして後を振り返らない。家族はアホなこと言ってバカ笑い。そんな家には病気神もやってこないだろう。
たしかに高知は台風が多くて、家なんかあっという間に吹っ飛んじゃう。そんな状況を悶々と考えていると神経がもたない。それはその地で住む人間の知恵なのだ。それは返して言えば、人間の心の厄介さを身をもって知っていたからなんじゃないだろうか。昔の人があまり多くを語らなかったのは、心が一人歩きして、爆走するということを知っていたからなんじゃないだろうか。
今の人は、爆走させっぱなしだ(笑)。

さて、あなたは1分心を黙らせることができる?



絵:「セクシイ古文」のための表紙イラスト/メディアファクトリーより来年発売

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

「お日さん、西西(にしにし)」
いいですね。頂戴します。
私ら良く使ったのは、「今日できなかったものは、明日もできない」
だから、今日頑張ろう!ってのもちょっとあるんだけど、通常は、”だから、ずっとできないんだから、ほっぽって帰っちゃえ。”って乱暴な解釈してました。

つくし さんのコメント...

「今日できなかったものは...」は、なんだかこわいねえ。おどされてがんばらされている感じだなあ。
「だからほっぽっといて帰っちゃえ」は、ある意味で、生きる知恵なのかもしれないね。
ニンゲン、ほんとは底のほうで「お日さん、西西」なのかもね。