2025年8月8日金曜日

何者かである自分

蛇滝のイワタバコ

 

明け方の4時から5時にかけてひぐらしが鳴く。

その声で私は目をさます。

開け放した窓から川風がわずかにそよいで心地よい。

圧倒的な大自然に囲まれて、私の心は満ちる。





昨日スポーツクラブでストレッチをしながらふと思う。

「何者かである自分」と「何者でもない自分」

どちらが自由だろうかと。


スポーツクラブにいる私は「何者でもない私」だ。

リタイア後のオヤジ達もおばちゃんもみんな一緒くたになって踊り、泳ぎ、マシーンで鍛える。

でも「何者かである自分」が沸き起こってくるとき、そこに差が生まれる。


先日、絵本を作ってそれを持って人に見せた時、

自分が表現者であるという気分に変わっていた。

「私はこれこれこういう人間です。よろしく」みたいな。

その時の優越感は、奇妙な歪みをその関係にもたらした。



何者かにならなければならないと思ってきた。

そして何者かになってきた。

だがここにきて、何者かであることの不自由さを感じる。


何者かであることは、防衛でもあった。

何者かであるという鎧をつけて人と接しているのだと気づいた時、

少なからずショックがあった。


それが立派なことだと思ってきたし、

そのアイデンティティが自分の立ち位置だと思ってきたし、

それが大人としての距離感やマナーだと思ってきたし、

それが人として向かう姿のように思ってきた。


だがそれが鎧だったとは。。。




何者でもない時、そこに防衛/鎧はない。

何者でもない時、そこに信頼がある。


何者でもない時、誰の話もそのまま聞ける。ジャッジも湧かない。

「暑いねえ~。家になんかにいられないわよ。もうずっとジムにいるわ!」

「ほんとほんと!」

そんなたわいもない会話に、小さな信頼が乗る。


しかし何者かである自分が出てくると、

小さな判断や解釈がニョキッと出てくる。

「いや、ジムでずっといるって、何するんだよ。。。」


何者かである自分は、人との差を見つけ、違いを見つけ、

ジャッジし、攻撃し、心の中で防衛と正当化を繰り返す。


その心は過去を生きている。

何かを達成した自分、肩書きを持った自分。

その自分で今度は未来を考える。

今日は何をしようか、これからの予定は。。。

過去と未来という時間の中で生きる。


何者でもない自分は、今を生きているのかもしれない。

名前もない、性別もない、肩書きもない、

そして個人という感覚さえも曖昧になっている。


そんな感覚でいる時、ダンス仲間のみんなは楽しいし、

陶芸教室もみんないい人ばっかりだ。

そこに肩書きなどいらない。

むしろ持っていたらギクシャクする。


ただただ「わーい!」ってはしゃいでいるだけだ。

みんな一緒!って感じ。

それがなんて楽しいのだ。





何者でもない自分から、

なんでもないものに変わっていくのかもしれない。


その時、人と自分という分離は存在しなくなるのか。

この世界は幻であるということをはっきりわかるのだろうか。




そう言いながら、今日も作品を作っている。

今は毎日散歩に通う蛇滝付近に咲いている「イワタバコ」を制作している。


私は「それ」と出会った時の感動を絵に置き換えている。

言葉では言い表せないから、絵という形にして誰かに伝えているのだろう。


「私は絵描きです」という必要はない。

その感動や喜びが、水に投げ込まれた石の波紋のように広がるさまを
目撃する
なんでもないものでありたい。








和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです














2025年8月2日土曜日

記憶とは、今を思い出すこと

新たな器 直径6センチ お刺身用の醤油入れ

 

「今、ここ」


ずいぶん聞き慣れた言葉になったけれど、

今の私にとってこの言葉は大きな存在になった。


コロナが開けて、6年ぶりに行われる夏祭りのために、盆踊りの練習をする。

大人が円陣を組み盆踊りをする間を、たくさんの子供たちが駆け回る。

真ん中で子供達が腕の引っ張り合い。

踊りで振り下ろした手が、間をすり抜けた子供の頭をはたいてしまう。


子供は大人の真似をするか、じっと側で見ているもんではないのか。

今の時代はそういうものなのか。

あまりの混沌とした情景に唖然とする。カオス。


家に帰ると旦那が映画を見ていた。

その音だけを聞きながら、「今、ここ」にいる。


「今、ここ」は、さっきあったカオスを思い出さない。

そのカオスに対する思いもない。




時間は追いかけるものなのかもしれない。


今ここにないものを思い出し、心を泳がせる。

あれはどうだ。これからどうしよう。


アメリカのイラストの仕事が潮が引くようにスーッと引いて、今私は依頼仕事をしていない。

純粋に自分が描きたい絵を描いている。


それがお金になるかどうか全くわからない。

それに加えて自費で本も出し、これから旦那の写真集も作る。お金は出ていく一方。

常識的に考えても恐ろしい話だ。




そうやって未来を心配する。

過去と未来の行ったり来たりは、確実にこの世界を実在させる。

時間を考えると言うことは、この世界を実在させているのだ。


今、こことは、時間がないことを表していた。

今、こことは、この世界は実在しないことを教えてくれていた。


「記憶とは、今を思い出すことだ」とコースは言う。


記憶とは、過去を思い出すことではなかった。

過去を思い出すことは、この世界を実在させることだったのだ。


昨日のことを思い出して、あの躾は如何なものか、子供の教育はどうすればいいのか、

これからの日本の未来は。。。


そうやって、心はこの世界がさも実在するかのように見せてくる。

その仕組みを体験を通して知り始める。


この世界は一見理屈が通っているかのように見える。

でもよくよく見ていくと、矛盾だらけだ。

何かの法則を見つければ、科学も、医学も、農法も、すべて答えが見つかると思っている。

しかしそれは本当だろうか。

ただただひたすらさらに混沌に向かうばかりではないか。


この世界にその答えは見つからないのだ。


「探せよ、されど見つけることなかれ」




だから私は今、ここにいる。


静けさがある。

蝉の声を聞きながら、パソコンを見る。


この静けさの中に叡智が宿る。











和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです






2025年7月25日金曜日

メソッドは変化する


 

心の解放を得るためにメソッドを使う。


最初のうちはその効果を感じるが、

そのうち徐々に効果が消えていくことを感じたことはないだろうか。


だんだん決まり文句のように使い始め、

そこに心は入らなくなり、呪文のようになっていく。


同じような問題が繰り返し起こっていると気がついた時、

そのメソッドを心の安定のために使うだけになっていないか?

同じ問題が繰り返されているというのは、

そこから次のステップに踏み込むきっかけをくれているのかもしれない。


メソッドは変化する。

その人の心の状況に応じて。


コースのワークブックの中の日々の文言の種類があれほど多いのは、

一つの文言で統一するには意味がないことを教えてくれている。


「赦し」という言葉の中に、膨大な意味内容が入っている。

心の奥深くに入っていけばいくほど、

その単なる三つの音が、あらゆる意味を含んでいることを教えられる。


言葉はあまりにも記号だ。


「世界は愛でできている」

という言葉と


「世界は愛でできている」

という言葉は、


それを発する人の心によって、全く意味が違う。


「この世は幻想だ」

という人がいる。


「この世は幻想だ」

という人もいる。


その意味を本当に理解している人と、

していないで言う人。
側で聞くと同じ音である。


言葉は、簡単に口にできるという恐ろしい道具である。

言葉だけ聞き、それを真似すると、知った気になれる。


だが心の中は正直だ。

小さな違和感で、それを発する自分に抵抗を感じる。


「世界は愛でできている」

「この世は幻想だ」

そうらしいよ。

でも本当だろうか。

いや、正直言ってそれを鵜呑みにしちゃいかんだろう。。。等々。



だからこそ、考える。

自分から、その淵に向かう。


今、私に何が起こっている?

これはどういうことなんだろう?


誰かに教えてもらったメソッドを捨てて、

自分の心に入っていく。


それはあなたにしかわからない、

その時その時で変化するメソッドだ。



言葉で知った知識を持って、

心の海に沈んでいく。


聖霊という酸素ボンベを連れて。






和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです