2022年3月16日水曜日

カラスにゃスギ花粉はモウマンタイ


 

原っぱでくつろいでいると、

梅の香りに誘われて登山者たちが入ってくる。


ここは私有地。私も了解を得て入らせてもらっている。

入り口には立ち入り禁止の張り紙があるが、

人がいるのを見かけると入ってくる。


イヤな気持ちになる。


自分の中に排除の意識が生まれる。

ここは私は入っていいが、あなたたちは入ってはいけないと。


その自分の思いにもチクリとする。

二重にイヤな思い。




目の前の杉山からスギ花粉が、ぱっふ~んと飛んでいく。

「げ!」

それをみた途端、目が痒くなる。


私はスギ花粉を排除している。


一羽のカラスがそのスギ花粉が束になって舞う木の中で巣作りをしている。

カラスにゃスギ花粉が目に入らぬよう。

きっと粉まみれになっていることだろう。


しかしカラスに排除の気持ちはない。


排除するから苦悩する。

カラスにゃ苦悩はない。




排除したいという気持ちは、

自分も排除されるという恐れも抱く。


無意識の中に忍ばせているが、同時に存在させる。

排除という名のコインの裏表。


小さかった頃のいじめられた思いと同じ。

「私は排除された」


それは私は神に見放された!

という思いにつながっている。



駄菓子菓子!

ちゃう。


だがしかし!

神は私を排除しない。


私は今でも神の光の中で、

大きな勘違いの悪夢にうなされ、

ウンウンうなっている幼な子なのだ。


神はそっとささやく。


「我が子よ。

それは単なる夢だよ。


ほら、

私が遣わした聖霊が与えてくれる赦しの道具を使って、


我が子よ。

ゆっくり目覚めなさい。。。」




絵:「ささやく杉」/和紙



2022年3月12日土曜日

自分でできるもん


 


昔、畑でどうしていいかわからなくなったとき、

自然農の川口さんの言葉を思い出していた。


「困った時は、そのままにしておきなさい」

その言葉通り、そのままにしておくと、自然にことは動いていった。




最近「判断しない」をやっている。

(しないをやるってオモロい)


「これはいいことなのか。悪いことなのか」

そう言う判断を私たちは頻繁にやっている。


それは「自分で解決しなければいけない」と言う、

物心ついたころから染み付いた条件反射のような思い。


それは相当な緊張を生む。

今のその私のいいか悪いかの判断一つで結果が出てしまうのだ。


そしてその「自分で判断できるもん!」というていでやってきた結果がコレだ。

全然幸せじゃない!



形而上学を学ぶほどに、だいたい自分で判断などできないんだ

と言うことがだんだん明らかになってくる。


全ての条件を満たした、誰もが幸せになるいいアイディアなど、

60年しか生きてこなかった私にできるわけがない。

それができる人は、500年は生きてこないとわからないだろう。

。。。いやもっとかもしれない。


「自分で判断できるもん!」のはずが、

じつは自分は何もわからなかったということを知る。



ということで、私は片っ端から

「私は何もわからない。自分で判断しません!聖霊さん、お願いします!」

と、密かに宣言するようになった。


不思議なことに、その何もわからないアホになると、

自由な気分になるのだ。




ある日、あるできことがあった。


「え~~~。もう、私にゃ、わっかりませーん!

何も判断できませーん。

聖霊さんにお任せします!」

と、まな板の鯉になる。


お任せして勝手に自由な気分になって気楽に散歩していると、あるイメージが。。。


「え?あれ、やるの。。。?

いやいや。無理でしょう。。。。


でも浮かんじゃった。。。

じゃあ、その件、聞いてみるか。。。。」


やるかやらないかも自分で判断しないでいると、

あれよあれよというまにやることに(笑)。


それが良い結果になるのか悪い結果になるのかわからない。

それさえも判断しない。

そもそも良い悪いという判断さえ必要ないのではないか。



判断しないことによって、心が静かになっていく。


自分でやろうとしていた頃は、あれじゃないこれじゃないと、

あれこれ考えに耽っていた。

それは今思えば「良い悪い」に囚われた罪悪感が心を乗っ取り、

責任重大の心でドラマが繰り広げられていたのだ。


今はその罪悪感がどこかに消えてしまっている。


考えが浮かんでも、瞬時に「判断しない」と思う意欲が、

その考えを消し去ってしまう。


そして起こることは、いつも何かに支えられて起こっている。

それを良いとか悪いとか判断するものをはるかに超えた何か。


その断片を感じられる喜びがそこにある。





絵:「三年寝太郎」


2022年3月9日水曜日

お誕生日チーン3連発


 

61回目の誕生日がやってきた。


私はこれまで、何をしなくても、

なんとなく自分の誕生日はどこかウキウキしていた。


母に「お母さん、私を産んでくれてありがとう!」

というメッセージを送るのが嬉しかった。


ところが今回の誕生日はまったくウキウキしない。

テンション激チーン!

落ち込んでいるような、でも何に落ち込んでいるかもわからない。

何があったわけでもまったくない。


どした、私!?


ズーーーーっとテンション低いまま、

「まあ。酒でも飲んで、美味いパスタでも食って、気分を盛り上げるぜ。イエーい!」

と、いつも行くパスタ屋さんへ。


入り口に「マンボーのため、お酒はお出ししません」という張り紙。

チーン。。。。


まあ、しゃあない。。


気を取り直して、

「ここのボンゴレはサイコーよね!

あ。それから漁師のガーリックソテーも!」

と食べた。


チーン。。。。


まずっ!

どした!?今日のシェフ。どしたんだ???


マンボーのせいで、客足が遠のいて新鮮なものが提供できなかったのかもしれんが、

それにしてもその前に味つけがおかしいやろ!


お誕生日チーン3連発。



幻想を幻想として生きる。。。

などとほざいていた私。

どこが幻想やねん。

おもいっくそ現実だと信じているやん!

これをどーやって、幻想として見るねーーん!


ああ、食べ物って、私にとってハードル高いわ~。。。


とブツブツ言ってたら、旦那が言う。


「まずいもんを、まずいって、楽しめばいいんじゃね?」


「!」

「それやっ!」


「うわ~。コレっ、まっず~~~~~。わはは~~💙」


そう言ってみると、急に楽しくなった。



この世界を深刻に捉えると、途端にこの世界が重くのしかかり、リアルになる。

この味を問題として捉え、判断し、批判し、どうにかすべき現実になる。


しかしそれを笑って捉えることは、軽くさせ、明るくなり、リアルではなくなるのだ。

それはただ通り過ぎていくもの。


笑いはその場を変える。

それまでのものを一瞬にして反転させる力がある。


旦那の言葉は、聖霊の言葉だった。





誕生日は、夢の始まり。

夢の主人公が夢の世界に出現するとき。


それは母と子が、激しい痛みとともに、

泣きながら分離する瞬間でもある。


この世が分離の世界であることを象徴するような出来事。


しかしこれが真実ならば、

母と子は笑いと喜びの幸せの中で、一つとして現れるはずだ。



誕生日にいろんなことを考えさせられた。




絵:MF新書表紙イラスト






2022年3月6日日曜日

幻想を幻想として

 



起こっているけど起こっていない。

という非二元の言葉がわからなかった。


現れているものは真実であるが、

それに意味をつけて、解釈判断をすることによって、

頭の中で展開していく物語が幻想である。


そして目の前にあわられているもの、すべてが私。

人も木々も建物も、そして空気でさえ、すべて私が表現されている。

それは私という大きな意識から現れてくるもの。


私とは意識であり、空。

そして現れているものは、色。


それはただ現れる。それをただ現れるがままにしておく。

これが至福。愛の表現。

そこに愛が現れるだけなのだ。


そこに意味をつけて、

ストーリーにしてしまうから苦悩が生まれる。


現れるがままなのが完璧。

しかしなぜ現れるのかは知り得ない。


現れては消えていくもの。

それが「私」であり「意識」であり「愛」。。。



7年ほど前、非二元スーパーウーマンが登場して、

私も非二元を必死で勉強した。


現れてくるものは知り得ないもの。

目覚める私などいない。

悟る個人の私などいない。それはただやってくるもの。。


勉強すればするほどわからなくなった。




そこからコースを知った。


コースは目の前に現れるものに意味づけをし、

解釈をして物語を作り上げることも幻想なら、

その目の前にあるものもすべて幻想だと説く。


その考え、その考えからくる感情、目の前に広がっている景色、

その五感の感覚、すべてが幻想。


そしてなぜ現れるのかは、知り得ないことではなく、

実は私が作り出したものだ。


目の前に現れているものすべてが私というのは非二元と同じ。

私の考えがそこに現れたのだから。

この体も景色も全部ひっくるめて、

それを作り出したのは私。

つまり意識であり空。


「作り出したのは私」とは言わないが、

そこまでは非二元と似ている。


しかしその意識とは、常に対象物を見ている。非二元というより二元。

その意識は、見るものを必要としている。




コースはその作り出した理由をはっきりと説明する。

その対象物を必要としたのは、

見ることによって、自分の無罪性を証明したいからだという。


無罪性を証明したいというのは、

実は自分には罪がある!と信じているからだった。


その自分が犯したと信じている罪から逃れるために、

この世界を作った。

その世界に罪を見て(罪を押し付けて)自分には罪がないと言いたがっている。

こうやって自分が信じたものを投影し続けている。

だからこの目の前に見えている世界は私そのものなのだ。


しかしこの「罪、罪悪感」というフレーズ。

ピンとこないし、居心地が悪い。


コースよりも非二元が人気があるのは、

この罪悪感に触れてこないからだ。

自分の隠し持ったものを見る必要はないのだから。



でも本当は罪などない。

罪があると信じただけなのだ。

罪があると信じたからこそ、この世界がある。


罪がないことを知るためには、
一旦自分に罪があると信じていることを
自分に正直に見ないことには始まらない。
見て、認めて、
それを赦すことによって、
徐々にそれがないと知り始める。


だからこそ、ここは実在しない。

罪などないのだから。


これがあるだけ、ではなく、

これもない。


起こることが起こっているのは、

起こっていることを見て、

それを判断なしに見ることよって、
本当は起こっていないことを知る。


幻想を幻想として知るために、

日々罪を見る自分を赦していく。


目の前の煙幕の世界を見過ごしていくうちに、

しだいに平安とともにある、本当の私/自己に触れていく。





絵:山桜/和紙



2022年3月4日金曜日

地球を取り巻く心


 

「僕、日本を出ます。

もっといろんな世界を見たい。

広い世界に飛び出してみたいんです」


ドラマでそんなセリフを聞いた。


私もそんなことを思っていたなあ。

一体どんな世界が待っているんだろう?って。


7年半のニューヨーク生活の間に知ったことは、

私にとっては、日本が最高だったってことだった。


そして日本に帰ってから、そのことをみんなに伝えたいと思った。

本まで出版してもらおうと編集者さんと取り組んできた。

だけど結局挫折した。


編集者さんには申し訳ないことをした。

だけど今はそれでよかったと思ってる。


なぜかというと、比較によって、

この国は良いとか悪いとかいうことは、

虚しさを伴う。


アメリカの酷さと比べて、なんて日本はすごいんだ、

などと今は言いたくない。




冒頭の彼のセリフには大賛成。

日本を出てもっと広い世界を知って、

世界の価値観をたっぷりみてくるといい。


そしてその価値観が、場所によって時代によって常にコロコロ変わること、

そしてそれは本当は何も意味しないことを知る。

その体験の方がはるかに大事。


だから今の私には、日本がいいとか、

どこそこの国のあり方がいいとか、

何も思わなくなった。



地球は思いのほか小さかった。


形が変わろうとも、どんな形であろうとも、

世界中の人々の心は同じように感じる。

みんな同じことで苦しみ悩み、そして喜ぶ。



形や言葉を取り除いたら、

一つの大きな心が、この地球を取り巻いている。


愛に満ちた心が。




絵:「水仙ちゃん」/越前茶キャラクター


2022年3月1日火曜日

裏と表のあるコイン

 


「つくしちゃん、私はあなたのことがキライよ。

なぜって、昔はキレイだったのに、今は醜いじゃないの。

だから私はあなたのことがキライになりました。さようなら」


そう言ってさっていく友達を見送りながら

その言葉に腹も立たず、

「そっか。やはり醜いのか私。それを受け入れることだな。。。」


しょぼーんとしてたら目が覚めた。


夢だったのかー。

なあんだ。

ほっとしながら、そのシーンをあらためて思い出す。


その言葉を言いそうな友達が現れて、

私が密かに信じている言葉「私は醜い」を彼女は言った。


まさに私が信じているものが現れたんだな。


夢は、自分が何の信念を持っているのかを教えてくれる。



「何を信じている?

それは本当に必要なもの?

それがあなたを苦しめてるんじゃない?」


美しい/醜い

若い/老い

高い/低い

お金持ち/貧乏

善/悪

自分/他人


美しさを誇れば、その背後に醜さを背負う。

若いことに執着すれば、老いの恐れを伴う。

お金が手に入れば、失うことを恐れる。

時代や文化が違えば、善と悪はいとも簡単にひっくり返る。


その考えは判断。

そう判断すれば、一瞬でその相反するものを引き寄せる。

自分の善は、他人の悪。

それはいつでもひっくり返る。


そこに答えはない。


冒頭の夢は私に問う。

美しいと醜い。

その裏と表のあるコインをあなたは持っていたいのですか?と。


相反する判断によって、この世界が作られている。

しかし世界は常にあっという間に、どっちも転げ落ちる恐怖。


夢は醜さを受け入れるということではなかった。


どっちにも立たない。

そのコインを捨てていく。

この世界の法則から離れていく道へといざなっていた。




絵:「春」/和紙