2011年11月22日火曜日

自分を見るのってこえ〜

ところが、私はその「いらんことした私」を真正面から見ることができない。怖い。怖くて、自分自身がやったことを見られない。
だから心は怒るばかり。
「いかんやろ!」
すると小さな子供のままの私は
「ごめんなさい。ごめんなさい。もうしません。もうしません」というばかりだった。

なんでやねん。

悪いことしたんやろ。それはいかんと思たんやろ。そしたら、どこが悪いんかちゃんと見てみないかんやろ。

理屈は分っている。反省したなら、なんでどこがどのようにまちがっていたかを見ればいいだけだ。見ろ。
ところが理屈は分っていても、自分が「やってしまったこと」を何の臆することもなく、見ることができない。

そりゃ、他人のことは冷静に見たり、観察できたりする。(特にダンナには言える(笑)
「あんた、ここ。ここがいいところ。ほんで、ここ、なおさないかんところ」
ところが、こと、自分のことを冷静に分析してみって言われたら、案外できない。

「え~。あたしい?うーんとね。だらしないやろ。あほやろ。仕事できんやろ。ぶっさいくやろ。のろまやろ。ほんでえ。。」と、悪いところばかりが見える。
ためしにやってみよう。となりの部下、上司、ダンナ、自分の子供、近所のおばちゃん。彼らの性格を冷静に、いいところ、わるいところを言ってみよう。
言えるやろ?

んじゃ、こんどは自分。
自分のこと、彼らを観察するように冷静に自分のいいところ悪いところが同じように言える?



なぜ冷静に観察できないかというと、心に感情的なフィルターがかかるからだ。他人については、感情的なフィルターははずすことができるようだ。なぜなら人ごとだから(笑)。だがこと「自分」という重~い存在には、あらゆる感情的フィルターが挟まっている。引けない、とでもいおうか。

何かを注意されて反省する。
その時自分を怒ったりすることはできるが、自分のした行為を冷静に真正面から見られないのは、「いけないことをしてしまった=批判」という感情的な動揺を挟み込みながら自分を見るから、冷静になれないのだ。
観察とは何の感情も交えず「見る」という行為のことだ。そのためには、まず自分が自分に対して批判をしていることに気がつくことだ。
この批判の感情(批判という言葉に、すでに感情が入っていることに気づいて欲しい)があるかぎり、自分自身を冷静に見られない。ということは怒られたことを真正面から見てどこが悪かったのか冷静に判断できないのだ。だからいつまでたっても同じ感情の繰り返しになる。

まったく批判の感情を抜きにして自分を見ると、他人のように観察できる。「つくしさん」という他人がした行為。それを外から見ると、
「ああ、ここ、気がつかなかったねえ。それはあのとき、心がバタバタして落ち着きがなかったからだ。ああ、そうだ。なぜ落ち着きがなかったかと言うと、自分がやったことを否定されたと思っていたんだ。あの言葉は別に否定ではなく、純粋にそこいけないんだよ、とあの人は教えてくれていただけだったんだ。ああ、そうか。そこだったんだな。じゃ、こんどはそこ気をつけよう」
というふうに。

すると、自分自身を見ることがコワくなくなってくる。

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

他人のことは言えるのは、自分に責任もないし、恐らく判ったように言えてるだけと思います。だから他人に言われても気にする必要なし!!
って言いながら、言われれば気になっちゃうんだけど・・ね。

つくし さんのコメント...

他人にオレのどこが分る!だよね。
だけど気になっちゃう。
それはどっか、何かに触れているからかも。。ね。