2025年7月2日水曜日

心の解放




 起こる出来事は、心の解放のために起こる。

そんなことをひしひしと感じる。


ある人の行為についてLINEで三人で話をしていた。

三人の意見はまったく同意見。私はわざわざ口を挟むまでもないと思ったが、

まとめる意味であることを書いた。

ところが私の言葉の一つ一つにそれはどうかなと、

他の二人の心にひっかかる何かを及ぼして、

二人対一人の状況におかれる。


思いは互いに同じであるのに、

言葉とは時に誤解を招き、それが一人歩きをする。


恐れと怒りが出てきた。

でもこんな時は同じところで話をしても拉致があかないので沈黙した。

その日は用事があり、もやもやする思いを抱えながら自転車で出かける。

風に吹かれながらある感情に気がついた。


寂しいんだ、私。

一人のけ者にされる寂しさ。

いじめられっ子でみんなから汚いものとして扱われてきた時のあの感情が吹き出した。


ああ、この感情。。。

持ってたなあ。。


日頃あまりそんな感情を感じたことがなかった。

それは小さい頃味わったいじめや親の暴力のおかげで、

どう言えば人と同調できるか、争い事を起こさずにすむか、

密かに技術を身につけてきたおかげで、

そういった思いをせずに回避できてきていたのだ。


ところが今回はそれが否応なしにやってきた。


誰からも突き放された、たった一人ぼっちになった寂しいという感情。。。


坂道を猛スピードで降りながら、

その感情を存分に味わった。




出来事は、この世界をどう渡り歩くかを学ぶために起こるのではなく、

心の中に隠し持っている感情を表に出してくるために起こる。


これは私が実際体験しながら気がついていったことだ。


冒頭の誤解を「いやいや、そうではなく。。。」と、

彼らの誤解を解くために奔走する必要はない。


普通はそうやって誤解を解いていくものだ。

しかしそれは私と他人という分離の上に成り立った行為。

分離しているという前提に立ってこの世界で行為をする。


長いことそうやってきたが、ここにきて、そこじゃなかったと気づく。


心なのだ。


心の中に隠し持っている、悲しみ、怒り、恐れ、、、諸々の、

喜びではないものを光の下に持ってくる。

それこそが一番重要だったのだと。


「神さま。私は今こんな寂しさを抱えています。この思いをあなたに渡します。」

と、渡すことで、消してもらうために表れてくれているのだと。


闇は光の下に晒された瞬間消える。






私たちは日頃ネガティブな感情に気がついた時、即座にそれを否定する。


いやいや。こんなに怒ってはいかんだろう。

いやいや。こんなにしんどいのはいかんだろう。

いやいや。こんなに嫌ってはいかんだろう。


そうやって瞬時に心の奥に隠す。


その思いを味わいたくない、そんなものもっていてはいけない。


その自分の感情への否定がことを複雑にする。


出てきた感情を否定し、即座にこの感情にさせた誰かが悪い。あいつをどうにかしてくれよう。

出てきた感情を否定し、即座にこの体が悪いのは、あの治療をしたら治るのだ、どの治療方法がいいのかと「どうすればいいか」を考え始める。


そうしてこの世界をますます重く苦しく、リアルな世界に持っていくのだ。


苦しんでいる自分、嫉妬している自分、拒絶している自分、はたまたお金がないと嘆く自分、

その一見醜い自分のすべてを受け取って、味わう。


それは自分自身を赦すことになる。



自分を責めると、相手も責めることになる。

自分を赦すと、相手も赦すことになる。


なぜならそれはひとつだから。





心の中にある感情を拒絶せずじっと味わっていると、

それが消えていくのがわかる。


心が広がったり、軽くなったり、明るく見えたり、喜びが出てきたりする。

その微妙な違いを知る。


最初は微妙かもしれない。でもだんだんそれがはっきりと見え出す。


その違いに驚く。一体これはなんだ?

こんな変化、今まで味わったことがないぞ。。。

それを知り始めると、もうそこにしか心は向かわなくなる。


それまでは外の何かを変えたら得られるはずだと思っていたが、今は違う。

指一本動かしていないのに、心が解放されていくのだ。

その想いとともにいることで。


それは外に何も求める必要はない。

すべて心の中で起こる。



『このコースは愛の意味を教えることを目指してはいない。それは教えることのできる範囲を超えているからである。しかし、愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることは、確かに目指している。愛の現存そのものは、生来あなたが受け継いでいるものである。愛の対極は恐れであるが、すべてを包み込むものに対極はありえない』ー奇跡講座「テキスト」序文




私の中にある愛が、すべてを溶かしていく。









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ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです



2025年6月30日月曜日

ただいま〜!


 

昨日映画「リバー、流れないでよ」を見た。


京都の貴船の料亭を舞台にしたタイムループ物語だ。

たった2分間だけがずっと繰り返すというコメディ。


3分の2まで見て、2分間を繰り返している話に飽きてしまった。


映画を見るのをやめた後で、

これ私に起こっていることなんかもなあと思った。

輪廻転生って、こういうことなんかもと。



こっから先はまともな人はスルーしてください。

私の妄想劇が始まります。


私はなんども生まれ変わっていると思っている。

原始時代にいた私がいて、縄文時代に生きてた私がいて、江戸時代にいた私がいて、

ある時はインド人、ある時はイタリア人と、勝手に思っている。


でもそもそも原始時代はあったんだろうか。江戸時代もあったんだろうか。

縄文土器が出てきたからあったと思っている。

江戸時代の巻物が出てきたからあったと思っている。


でも本当にあったのか?

だって教科書に出てたもん!

でも教科書だって私が見たいように作ったのかもしれない。


そう思うとリニア式に時間の流れに沿って

過去から未来に流れてるって考えが怪しくなってくる。


ひょっとしたら、今人間として生きている私っていうものも、

あの映画のように2分間の人生を繰り返しているだけだったりしたら?


2分間じゃないけど、朝起きて夜寝るまでのドラマ。

18時間くらい?

それをただ繰り返しているだけだったりして。


昨日と今日は出来事が違うし、

ちょっとづつ老けていってる自分を見て、

時間が過ぎているように思える。


でもそれも単なる記憶。

記憶があるから、少しづつ進んでいって、変化している、、、、だから時間はあると。


ひょっとしたら、時間は私の中にしかなかったりして。


幼い頃、この目の前に見えている世界は、

私が見るからあるのだと思っていた。

見えてない部分は存在しないと。


だから私の後ろはないのだ。

どうにかしてその「無」を目撃してやろうと、

ものすごいスピードで振り返って「無」を見ようとしたが、

無はすばやく消えて後ろの風景が広がっていた。

ほら、世界はあるだろ?と言わんばかりに。


それと同じだ。時間も私の中にしかない。

私の中で時間と空間はひたすら輪廻しているのだ。

あの映画の2分間は、私の1日だ。





この世界に気を取られて、それしかないと思い込んで、

その中でどうにかして賢い生き方をしようと懸命に努力する。

でもこの世界は知れば知るほど地獄だ。

母は死ぬような思いで子を産み、

その子もまた泣きながら生まれてくる。

この世界にやってくること自体が苦しいものだということを暗示しているかのような現象だ。


頭は完全にこの世界の法則にのっとって考えている。

私たちは自分の人生がどうなるべきかを知っていると思っている。

だからこそ、この世界をずっとループしているのだ。

同じ時間をひたすら繰り返すという輪廻転生。


あの映画を見たとき、面白くないと思った。

たった2分間をひたすら繰り返す。

それがどれほど退屈か。

あの映画は意図せずしてそれを教えてくれていた。


同じ感覚、同じ考えでこの世界で生きている限り、

そのループから離れることがない。


「もう、こんな繰り返しはたくさんだ。。。」

そう思い始めたとき、


この世界に同調することができなくなってくる。


そうすると、目の前に見えている世界ではないところに心が向かい始める。

五感を越えて、思考を越えて、感情も越えて、

今にいる。


今は時間ではない。

今の中に全ての秘密がある。


ただ、今にいる。

今に帰る。



「ただいま〜」


放蕩息子は、本当の自分を思い出して家に帰る。


「おかえり〜」


本当の自分が笑顔で迎え入れる。




さて、あとであの映画の最後を見ることにしよう。








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2025年6月26日木曜日

心を見るプロセス

「夜の梅」和紙、水彩

 

コースの難しさは、自分の心を見るということだろう。


私たちには罪悪感がある。

だがその罪は存在しない。

私たちに罪などないのだ。

そのことを思い出すために学ぶ。

ざっくりいうとこんな感じ。


だがそれにはプロセスがある。



私たちには罪悪感というものがあると言われても、まずピンとこない。

罪と聞くと、人殺しとか物を盗んだとか、

明らかに「犯罪」と言われるものを想像する。

でも心の片隅に「ひょっとして人を傷つけてしまったことも入る?」

という思いもちらっとはよぎるが、

「そんなことは私はしていない!」と蓋をする。


ところが人生を生きていくうちにどうしても解決しない問題がやってくる。

解決できるはずだ、解決できて当たり前であったはずなのに、

解決できないところに行き着く。

自分が無能であると証明されたような気分になる。

人はそんな時相当落ち込む。鬱になったりする。


外にあるものを解決さえできれば、この苦しみは消えるはずなのに、

その外のものをどうやっても解決できないところに来る。

または解決できたはずなのに、ちっとも心が晴れない。


そこで「どうしてだ!?」と、内側に向かい始める。

その時が心を見るきっかけになる。


そしてある時から、自分の中に罪悪感がある、

またはどうしようもなく自己嫌悪や自己否定してしまう自分がいることに気付く。

それを意識し始めると、息するように自分を責めている自分を知る。


自己嫌悪や自己否定は自分に罪があるという思いからくる。

罪を感じていないものが自分を否定するだろうか。

自分は何かわからないけれど、いたっていないものがある、

許されざるものがある!という強い思いが自分を痛めつけようとする。


そんな自分に気がつくと苦しさが増す。

自己否定をやめようとすればするほど、

責めることがやめられない自分をさらに責める。


この責め苦に耐えられなくなってから、

自分には罪はないということを本気で欲するようになる。


「自分には罪はないんだよな?マジでそうなんだよな?

それなら救われる。ああ、本当にそうであってほしい!」



それまでは罪はないと言われても、

もともと罪なんか感じてないから、

ないって言われれば、そういうことじゃん。

もともとないんだから、なぜそれをわざわざ知る必要ある?

だってないんだから。

とたかをくくっていた。


ところが心を深く見れば見るほど、罪を隠し持っていたことに気付き、

その罪がゆえに恐れ、怒り、人をさばき、

そして自分をさばき続けていたことがわかってくる。


そしてこの時真摯に神を求める。

今までの考え方ではない、別の道があるのかもしれない。

そこに解放があるのかもしれないと。


そして罪ではない、もう一つの道、無罪の道へと心が向かい始める。


これは意欲の問題だ。

そっちに向かうという意思を持つ。



今まではそんなこと考えもしないで、

心がいうことをそのまま鵜呑みにしてきたから、

道には深いワダチが出来ている。

放っておいたらいつもの方向へスーッと進んでいく。

嘆き、悲しみ、怒り、惨めになり、ガタガタ震え。。。


でも途中で気がつく。

ああ、こっちじゃなかった。

もう一つの道だ。


そっちじゃない!こっちだ!

そのワダチがある道から外れる意志を持つ。



心は形にとらわれて判断し、恐れの中に埋没する。

形にとらわれ、形の中で判断し、変えようとしていた形の世界。

その世界から飛ぶ。

それは形のない世界。


ワダチに引き込まれては戻り、また引き込まれてはまた戻る。

行きつ戻りつが繰り返される。

ちっとも進んでいないように感じる。


また前と同じ状態だ。。。

何も学んでいない。。。

それを責める自分をまた見つけ、また責める。。。


だが心は確実にもう一つの道に向かって進んでいる。


誰かが、何かが近くにいる。

すぐ近くで見守っている。


そこだ。そうだ。そのまま進んでいいよ。



最初は知識として知り、訓練して次第に自分のものにしていく。

それは一人ではやっていない。

何かわからないものと一緒に歩んでいる。



時々静けさがやってくる。

ふいに喜びがやってくる。

罪などなかったことに、だんだん気がつき始める。

安堵の思いが心を満たす。



形の世界ではないもう一つの世界が、

心の中に広がり始める。









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