時々リアル会に参加させてもらっている
茂藤かおりさんが発信されているポッドキャスト。
その中で「#12罪悪感や葛藤は、愛!?」
というタイトルに惹かれて、視聴させてもらう。
親やペットの介護に対する思いや葛藤、罪悪感などを
「それは愛ゆえに出てくる思いなんだ」
と話してくれるかおりさん。
そうだよなあ。ほんと。そうだそうだ。
それは去年6月に亡くなった母へのあらゆる思いを溶解させてくれる言葉だった。
人はその人を思うがゆえに葛藤する。
どこに正解がある?どれが一番正しい?
しかし「正解はない」という彼女。
10年ほど前、母のことで悩んでいた時、
高知市内の鏡川の橋の上で気づいたこと。
「この世界に答えなどないんだ。。。」
あの安堵の瞬間を思い出した。
人は何か起こった時、いや何も起こらなくても、
常に罪悪感を発動している。
今回の謎の症状が次々に起こっている時も、
「私が何をした?一体私の何がいけなくてこんなことが起こったんだ!?」
と考えたし、母のことにしても
「本当は私が面倒を見なければいけないのに、どうして私はできないのだ?」
と自分を責め続けた。
そして今は思う。
これこそが誘惑なのだ。
何年も前のことを思い出し、罪悪感に震える。
さっき道で会った人との間で交わした会話の中で、
あんなこと口走ってしまったけど、気を悪くしたかなあ。
私ってば、つい調子に乗って。。。
そうやってふいに浮かぶ思いに震え、
あんなことするべきではなかった、これから気をつけよう
と、自分を戒める。
しかしいくら気をつけても、いくら自分を戒めても、
相変わらず同じヘタこく私。
私はしらないうちに何かを「やらかすヤツ」だと信じ、
ビクビクおどおど生きてきた。
だがそれこそが私を強烈に魅了させる代物だった。
いけない私、悪いことする私、
そういう私を欲していた。
その時、自分という個人をはっきりと意識する。
自分と他人は違う。自分は人より劣っているんだと思う。
その「ダメな私」を見つけることに執着していたのだ。
惨めな気分になりたがっていたのだ。
自分に罪をみつけて、ぞわぞわする。
母の介護ができない自分を見つけてぞわぞわする。。。
それが罪の魅了だった。
なんて変態なんだ(笑)
しかしかおりさんは別の視点を与えてくれる。
それはその人を思う愛が故に起こる葛藤と。
自分の罪を見るのではなく、
その思う心の真実に迫る。
自我はそんな私を罪悪感に陥れて、苦しませる。
聖霊はそれを愛に変えて見せてくれる。
そう思うあなたの心は、実はこっち側にあるからなんだよと。
あなたは愛でできているんだ。
もう自分を責めなくていい。
私の周りにもたくさん自分を責める人たちがいる。
特に若い人たちに多い。
それは私たちの世代よりも、
より自分の心を見る力を持っている人たちだからだろう。
物がなくて物を増やしていく時代から、
物の先にあるものを見始めた世代。
だが心の中がクリアに見えるほど、
その葛藤もクリアに見えるのは事実だ。
しかし自分の弱さを見ることができるのは心の強さだ。
人はたいてい自分の弱さを見ることを恐れ、誰かのせいにする。
なかなか動かない他人を見て葛藤するが、
やがてそれは自分の考えが現れているのだと、
自分が原因だということに気づいていく。
無意識の中に押し込めて見えなくさせていること
「自分が自分を責め続けている」ことに気がつきはじめ、
少しずつ解放への道を歩み始める。
変態を終わらせて行こう。
どんどん軽くなるよ。




