2010年12月31日金曜日
ヨゴレの罪悪感
やまんばは暮れの大掃除がだいっきらい。
なんできらいなのか。ヨゴレを見るのがいやなのだ。じゃなぜいやなのか。それはそのヨゴレを見ると、自分の罪悪感が盛り上がって来るからだ。
「わ~、汚いねえ~。。。ここまで汚くするって、それってどーなの?そこまでほっといたあんたっていかほど?」
と、言われている気がするのだ。じわ~っと罪悪感に苛まれる。そして次の瞬間、自己嫌悪に移行する。
その罪悪感と自己嫌悪のダブルパンチを食らいたくないために、見ないフリする。しかし「暮れの大掃除はよい年を迎えられる」という伝統(掟?)による強迫観念の中で引き裂かれる。かくして無理矢理、いを決してぞうきんを持つ。しかしぞうきんを持つまでの行為にいたるまでに、そーとーのエネルギーを使っている。
みんなそんなにエネルギーを使っているわけではないのか?わたしだけなのか。
その根底に、いいこと、悪いこと、という2元論が横たわっているのに気がつく。ヨゴレは単なるヨゴレである。しかしそのヨゴレという言葉の後ろに「いけないこと」という形容詞がつく。自分は怠慢にもそのヨゴレが出るまで放っておいたのだ、という判断が下されている。掃除をするとは、そのいけないことをしてしまった私の、そのいけないことを白日の下にさらされるのである。
よそから見たら、「あんた、これ、単なるヨゴレじゃないの」となるのかもしれない。しかししつけの厳しいウチに育った自分は、なんでもかんでもいいこと、わるいこと、という判断やレッテルを知らない間に貼付けていたのだ。
単なるヨゴレとしか思わない人は、お掃除するとき親に怒られなかったのだろう。
「あんた!なにしゆうぞね。こんなに汚うして!さっさと洗いや!」
「おんしゃあ、なにしよらやー!」
とは言われなかったに違いない。
今、横に怒る人はいない。しかしインプットしてしまった罪悪感が私を勝手に責める。ヨゴレを見る。罪悪感が走る。自己嫌悪になる。その苦しさから逃れるために、言い訳を考えだす。
「し、仕事が忙しかったから」
「あ、あとでやろうと思ってたのよ」
「き、今日はちょっとからだがだるくって。。。」
心は正当化に忙しい。
つまりこうゆうことではないのか。
1:何かを見る。
2:ネガティブなことに結びつけてしまう。
3:それに対して罪の意識を感じる。
4:そんなことをする自分がイヤになる。
5:だが依然としてそれは消えない。
6:苦しくなってくる。
7:なんとかしてそこから逃げようとする。
8:そうなってしまった理由をさがしだし、自分を正当化しようとする。
そうやって、人は絶えず罪悪感と言い訳の中で翻弄されているのかもしれない。
ということは、ヨゴレを見て、勝手に自己嫌悪におちいっているだけなのだと気がつく。すると、ヨゴレを見ても何も感情的におもわなくなる。
「あ〜。こんなところに綿ぼこりがある〜。とっちゃえ!」
と、おもしろがれる。前のように、取れないヨゴレにイライラしたりしない。からだは勝手に軽くうごき、テキトーなところで終わらしてしまえる自分がいたのだ。
なんだ。そんなことだったのか。
絵:「ハーバードビジネスレビュー」Michaerl E.Porter
2010年12月27日月曜日
生物多様性畑
知り合いのお家から、大きな大きな大根をもらった。一個もっても持ち上がらない。たっぷり栄養をもらって育ったりっぱな大根だ。サラダや煮物にしていただきます。
さて、それとはうってかわって、ウチの大根は大根とは言わない。どんぐりみたいにちっこいんで、小根と呼ばれている。ショーコンというと、なんだか根性のちっこいやつ、みたいなイメージだなあ。商魂たくましいとか。なんだ、ほとんど私じゃねえか。やっぱペットみたいに、野菜も作る人間に似てしまうんかなあ。
そーいやあ、種取りしたアブラナ科の野菜も思いっきり根性曲がっている。
先日ちっとも育たない白菜をふと、横から眺める。なんと、白菜の下にでっかい白い根っこが地面からぼっこり飛び出しているではないか。
な、なんじゃこりゃあ~~~っ。
直径10センチ以上ある白い大根が地面に突き刺さっている。いやカブか?その下はいったいどーなっているんだろ。丸いのか、長いのか、引っ張ってその正体をのぞいてみたい衝動に駆られる。これは確かウチでとった白菜の種だ。よく見たら、あちこちの太らない白菜の下に大根が潜んでいる。お、おもしろいじゃねえか。。。。
このように複雑怪奇な野菜(こうなると野菜なのかなんなのかわからない)が育ってしまう妖怪畑である。やっぱりペットと同じで似ちまうのか。。。
去年は全滅したソラマメ。今年秋口にまいた種は順調に育っていた。ある日、コウベをたれているソラマメちゃんを見つける。みんなでしょんぼりしている。よくみると、おびただしい数のアブラムシがソラマメちゃんのコウベにビッチシくらいついているではないか。顔中にアブラムシを付けて、がっかりしているようだ(ちがうだろ)。
ここまでくらいつかれていると、手で取るということはまったくできそうもない。おもわず、根っこから引っこ抜いて、水道でジャバジャバ洗って干して、また植えなおしたい衝動に駆られる。
しばらく考えて、
「困った時はそのままにしておけ」
という自然農の師匠川口さんのおしえどおり、ほっとく。(おい)
見ないフリしていたソラマメちゃんを久しぶりにのぞく。あれ?なんだかがっかりしていない。よくみると、あんなに顔にくっついていたアブラムシちゃんが、顔洗ったあとのように消えている。はは〜ん。あいつら、夜のうちに地面から這い上がって、近所の川で顔を洗ったな(それもちがう)。
ふと彼らの足下を見ると、カラスノエンドウが育ち始めている。そこにアブラムシがべっとり。。。
なんと移動しているようなのだ。
アブラムシは、「やっぱ、ソラマメより、カラスノエンドウよね~」
と言ったのか、どーなのか。
こーゆーのをコンパニオンプランツというのか?アブラムシちゃんにはアブラムシちゃんの好き嫌いがあって、
「あたし、ソラマメはあんまし好きじゃないけど、まあ、大好きなカラスノエンドウが出てくるまでは、これでガマンしてやるか」
と、当座のしのぎだったのかもしれない。草がないきれ〜いな畑じゃ、こんなことは発見できないど。これはコンパニオンプランツというよりは、今ハヤリの生物多様性っちゅうやつなんかもしれん。うちの白菜だって、大根と合体しているし。これを多様性と言わずして、ナニを多様性と言うのか。
今度、近所の畑のおやっさんにアホにされたら、草ぼうぼう畑と言わずに、
「ウチの畑は、生物多様性保全ですから」
といっておこう。ドーダー!
絵:ムックの表紙
2010年12月22日水曜日
予言ごっこ
「あんた、2011年10月28日に地球は終わるんだって、テレビで言ってたよよ」
と、母が電話で言う。私はほとんど見なくなったから、近頃のテレビの動向はわからない。
あれ?確か地球が終わる(人類だっけ?)のは、2012年12月21日じゃなかったっけ?いつの間に早まったんだ?
またはじまったなあ。『ノストラダムス現象』はいまだに人々を魅了するらしい。
やまんばも中学生の頃、ノストラダムスの予言を読んでコーフンしたたぐいの純朴な少女だった(どこが?)。その頃はまだ「やまんば」ではなかった私は、
「ああ、その時代に地球がなくなるんなら、子供は産めないわねえ。大変だもの。1999年に死んじゃうんなら、それまでにどんな人生にするのか、しっかり考えとかないと」
と真剣に考えたのだ。
んで、ニューヨークでその時を待った。なんにもおこらない。。。
「はれ?予言はどこ行っちゃったの?」
それからまもなく、マヤの予言というものが出現。今度は2012年12月21日に地球は終わることになった。その予言の説得力のために、フォトンベルトというものが現れ、地球温暖化があらわれ、千里眼者があらわれ、ありとあらゆる方向から、マヤの予言の説得力を演出する。それで一時期出版物もテレビも盛り上がった。が、どうもそれだけじゃ、ネタが減って来たらしい。たいくつしはじめた。それで、もちょっと早めの予言、どっかになあい?と。
みんな心底この社会がいやなんだろうな。だからちょっとでも早いとこ「終わって」くれればもっとうれしい、という深層心理なんだろうなあ。何の根拠でその日なのかはしらないが、あと1年も地球が持たないんであれば、ほとんどあくせくしないでいいではないか。わくわくしてその日を待つのがいいではないか。と、言う心理なのか?
どっちにしたって、ナーンにも起こらんとやまんばはフんでいる(人為的な演出はあるかもしれないが)。
歴史を辿ると、いつの時代も「予言」があった。その度に人々は右往左往し、実はワクワクし、あっけらかんとその日は過ぎ去り、予言なんてなかったかのようにやり過ごす。そしてまたある日、あらたに出現する「予言」に、凝りもせずまたコーフンを繰り返して来たのだ。
しかしこの世は終わらない。
アメリカ映画が映像で起こすような派手な崩壊は起こらない。地球のどこかで地震が来て火災が起きて家は崩れるだろう。しかしまた人々は動き始める。大カタストロフィーなどというものは起こらない。人類はひたひたと生き続けるのだ。そしてそこにはまた人々の葛藤がつづいていく。人生はいつまでたっても、その人が死ぬまで否応なく続いていくのだ。
だから予言に喜んでいてもしかたがないと思う。予言は一種の娯楽にすぎない。ゴシップネタのように楽しんで、自分の人生から逃避しているだけのことだ。
だからそろそろ私も自分の人生とか自分の感情から逃げないことをせんといかんなあと思うのである。
怪奇現象に逃げ、UFOに逃げ、予言に逃げ、スポーツに逃げ、レジャーに逃げ、金儲けに逃げ、不倫に逃げ、エステに逃げ、ほんでもってパワスポに逃げる私たち。今いる自分がいやで、今置かれた立場がいやで、年がいく自分がいやで、どこか別のところをいつも探している私たち。
その結果が、こんなにもみょ〜な世の中を作った。ホントは人のせいでも政府のせいでも予言のせいでもない。それを作ったのは他でもない、私たち自身。
その理由を理解するには、心が混乱して変になっていく過程を、はっきりと自分で見ることじゃないだろうか。そこには何の方法論も存在しない。その人にしかできない。誰も助けられない。そしてその心の中には、探し求めた青い鳥が住んでいる。実はその青い鳥そのものが自分なのだ。
でもさあ、最近太陽の位置がおかしいのを感じるのだ。
こりゃ、予言どころの騒ぎじゃないぞ!
って、相変わらず逃げてんじゃねえかよ。
絵:「ハーバードビジネスレビュー」イラスト
2010年12月18日土曜日
最初のインプット
「こんなアラグイ歯で、よく大口あけて笑うなあ」
これがウチのダンナの私の印象。私は歯並びがチョー悪い。しかし本人はちっとも気にしていない。それは前歯が外れたとき、「お、ゲージツ的な歯並びだ」と母に言われたからである。子供の私は、「人のはずらっと横並びなのに、私のだけがたがたしている。かあちゃんはこれがゲージツ的だといって「ほめて」くれた!」(と、おもいこんで)喜んだのである。
それが私の自分自身の歯にたいする印象。「歯並びが悪いのは、かっこいいのだ」と。だから大口を開けて笑う。
だってかっこいいんだもん。
ここには二つの価値観の違いが存在している。
1:歯並びが悪い→かっこいい
2:歯並びが悪い→かっこわるい
母にほめられなければ、(ほんとはほめていなかったかもしれないが)私は今頃、口に手を当てて笑っていたかもしれない。
どうも最近思うのだ。人は最初のこれがいい、これが悪い、と言う価値観のインプットが、そのまま続いていくのではないかと。
そもそも感情が揺れるのは、その価値観のいい、わるい、という判断がなせるわざなんじゃないか?
つまり、真っ白なキャンバスに最初に塗られた色、又は最初に描き込まれた○か×かで、判断基準を作ってしまい、それは気付かないまま大人になってもその価値基準を続行させ続けるのだ。ヨメと姑がやり合うのは、生まれた時にインプットされた価値基準がまるで違うからだ。姑とダンナは価値基準が一緒だ。当たり前だ。ダンナの価値基準は、その母親がインプットしたものだからだ。
ひょっとしたら、人間は、ものすごーい単純なのかもしれない。
真っ白なコンピューターに、ある日「歯並びが悪い」という言葉が入ってくる。と、同時にそれはいいこと、悪いことという判断が一緒に添えられる。「歯並びが悪い」というアイコンをクリックすると、私のコンピューターには「かっこいい」という文字が出てくる。しかしダンナのアイコンをクリックすると「かっこ悪い」と書いてあるのだ。ダンナはダンナで、歯並びにたいする価値基準が、どこかでインプットされている。
私の「白髪」というアイコンをクリックすると、「かっこいい」と書いてある。母の「白髪」というアイコンをクリックすると「みっともない」と書いてある。
私の「ほっぺた真っ赤」というアイコンには「かっこ悪い」と書いてある。ダンナの「ほっぺた真っ赤」というアイコンをクリックすると「かわいい」と書いてある。
最初にそれがしのび込んだら最後、延々とその価値基準のまま、人は行動するのではないだろうか。
その基準が「みっともない」とか「かっこ悪い」と心を動揺させるのだ。感情的になるとは、この価値基準がもとになっているにちがいない。人はポジティブな価値観よりも、ネガティブな価値観に心を動かされる。ほっぺた真っ赤が恥ずかしいと思う私は、つねに自分のほっぺたの色を気にする。鼻の頭に汗をかくのが恥ずかしいと思う人は、つねに鼻の頭の汗を気にする。最初の第一歩の、その項目が出来上がった瞬間の、いいわるいに振り回され続けているのだ。
小さい時、その真っ白なコンピューターにアイコンは爆発的にふえる。
そのアイコンの中には、最初にインプットされた価値観、「いい」「わるい」という単純な価値観が入り込む。
少し大人になってもう少し複雑な心境も入る。ここちよい、ここちわるい、キモイ、キモくない、損、お得、勝った、負けた、好き、嫌い、えらい、えらくない、すごい、すごくない。。。。。などと。だが依然としてそこには二元論が展開されている。
たったこの二つの価値基準が、人同士を争い事に持っていく。二人の人間の後ろには膨大な数の二元論がひしめき合っているのだ。それは子供の頃にインプットされた価値基準によって。。。。
続く。。。。?
絵「ハーバードビジネスレビュー」扉イラスト
2010年12月16日木曜日
まだ知られていない感情?
怒りというものが、言葉によって固定化されたかも知れないので、ついでにいろんな憶測もしてみる。そもそも感情というものは、怒り、悲しみ、恐怖、嫉妬、喜び、などなどの言葉によって表現される。なんとも計上しがたい感覚ってえのんは、「言葉にならない」ですまされる。だいたい上記のものが主流となっているが、ひょっとしたら、この世には、まだ知られていない感情が存在しているかもしれない。赤色と青色の間には、紫色が存在するように、怒りと悲しみの間になんかまだ言葉にされていない感情があるかもしれん。KYみたいな。(意味不明)
んで、それが「発見」されたあかつきには、皆大手を振ってこれがその感情だあ〜と表現する。そうやって新しい感情が、市民権を得る。純文学には、その手の感情があふれているので、これでまたあらたな純文学が開拓されるのであろう。
ということは、感情とは5、6種類だけではないかもしれないのである。音が8音階でできていると勝手に思っているが、それは西洋さんだけの決まり事で、アラブさんとこにいきゃあ、64音階(?)もあるように。そうなったら、純文学はいそがしーのである。
ではその元になる最初の言葉になっていない感覚とはいったいなんぞや?なのだ。何やら胸の辺りがもぞもぞと、もやもやとするあの感覚である。
何か出来事があったときや、人になんか言われたとき、なんか知らんがもやもやする。それは即座に怒り!と反応するが、それはその言葉を知っているからだ。同じ過去の体験を思い出し、
「こっこれは、過去にあったぞ。そうだそうだ、これは怒りジャー!」
と瞬時に脳みそが言葉によって導きだしてくるのだ。
じつは悲しみも同じように反応からやってくるのではないか?
「こっ。。このもやもやは何だ?そうだ、これは悲しみという種類のものだ。え〜ん」となる。
つまり、ひょっとしたら、最初のもやもやはほとんど同じ感覚で、そこから、これは、恐怖や怒りや悲しみや喜びであると判断した脳が、その言葉によってそれを増幅しているのではないか?
最初に何らかのエネルギーが発生して、それを脳が各分野に振り分ける。(ちょっと間違えたら、怒りが喜びになっちゃうかも?)それは放射線状に広がり、これは悲しみだあ〜とどんどんその力を増していく。ということだったら?
すると、感情というものは、ほとんど同じ感覚から来ているという事になる。ある種のエネルギーの爆発。ひえ〜、そうなっちゃうと、感情ってたいした違いのない、ただのエネルギーってことかあ?
純文学さん、これは事件です。
絵:「ロクシタン」ネット会員さんの似顔絵
2010年12月13日月曜日
なんかようかい?
言葉というものは不思議な作用があるものだ。
言葉によってイメージは強化される。「閉じている」「KY」「2番じゃダメですか?」
時代時代によってハヤリ言葉が現れる。その言葉を聞くと、その時の状況や固定化されたイメージがすぐ浮かぶ。
それをおもちゃに、人を「閉じてる人」とか「KYな人」とかいってみたりする。するとそれはまた固定化され、Aさんを「あの人はKYな人だ」と、Aさんに対してイメージが固定化されるのだ。いっぺんついちゃうと、これがなかなかとれない。Aさん=KY。
言葉はイメージを固定化しやすい。人の名前でもそうだ。
ガンジー=えらい人。小沢いちろー=ダーティな人。
一旦なにかの拍子でついちゃったイメージは、なかなかとれないもんだ。意識的にとろうとも思わない。だって、誰かが言ってたんだもん。それをそのまま受け入れちゃうのが手っ取り早い。右にならえ。人と違うこと言ってたら、白い目で見られるし。
感情のエリアでもそうだ。たとえば「怒り」という言葉。
この言葉もイメージなのだ。ダンナとけんかしてむかっ腹立つとする(日常茶飯事)。このやろあのやろと色々心が大騒ぎする。そして過去にあった出来事をつらつらと机の上に並べ始める。一旦広げ始めると無限に広がってくる。東京ドームぐらいの大きさに広げたところで、だんだん飽きてきてそのうち寝ちゃうのがいつものパターン。昼間だと、仕事を思い出してダンナのことを忘れている。そうやって怒りは「そのうちおさまる」というパターン。そうねえ。かれこれ、20年はやっているかしら。ほほほ〜。
さてこの「怒り」という言葉を使わないとどうなるのか。この世に「怒り」「腹が立つ」「怒る」という言葉がなかったとする。
ダンナと口喧嘩をする。心が動揺する。ダンナに言われたことを繰り返して考える。また心が動揺する。動揺するということは、少なからずあたっているからだ。全く外れていたら、動揺しない。つまり私が何か間違ったことをしたかも知れない、とおもっている。失敗したかもしれないとおもっている。でもでも、それはこういう理由でやったことなんだから!と自分がやったことを正当化しようとする。心の中で一所懸命言い訳している。。。。だけなのだ。
この時の感情を「怒る」という言葉を作ったことよって、イメージが固定化されていく。この動揺は「怒り」なのだと。まわりの状況を見計らわず好き勝手に振る舞う人を「KYな人」というように。そんなことをいうと、感情と言葉とは違うといわれそうだけど、ほんとに?「KYな人」と言った言葉の後ろに感情は入っていないのか?
「怒り」という言葉を教えてもらったのは子供の頃。これが怒りというもんだと、母や父から教わる。そうやって私は小さい頃から「怒り」のイメージを記録に残して来ているのだ。だからダンナとけんかすると動揺がおこり、これが「怒り」だと、過去の経験に照らし合わせて思い出し、無意識に「怒り」をグーグル検索し、あらあら出てくる過去のいろんな怒りのオンパレード。
いつの間にかダンナへの怒りも、世の中への怒りも一緒くたになって爆発するのだー!
と、なっているのではないか?
だから「怒り」も「KY」も似たようなもんだと思うぐらいが、よろしいんではないかとおもっちょる。「怒り」というイメージの言葉に、執着するほどの価値もないかも。
じっさい、腹立った時、その腹の立った感情だけをみてみるといいかも。ダンナの言った言葉を思い出すのではなく、ただその自分の動揺だけを観察してみるのだ。自分の心の大きな動揺に気がつくだろう。その動揺をいいとも悪いとも判断せず、ただみる。ただひたすら自分の心だけを見る。いいわけもしない。きっと言葉がどんどんうかんで出てくる。ああいった、こう言われたと。しかしそれも映画のワンシーンのように眺める。人ごとのように見る。そのとき、何かが溶解していくのを見るだろう。
そのときこう言うのだ。
「なんかようかい?」
(えーかげんにしなさい!)
絵:「ハーバードビジネスレビュー』カットイラスト
2010年12月11日土曜日
石けんなし生活1年と9ヶ月に突入
だらしなーい話なんですが、久しくトイレ掃除をしていなかった。何ヶ月?ゲゲ。最後に洗ったのいつだっけ?
ここだけの話、あんまりトイレがにおわないのでかまけてました。鼻がイカレてしまったのか。一階と二階に二つのトイレ。一階は公的な場、二階はほとんどダンナ専用(げろげろ〜)。
久々にトイレ掃除。一階を終わらせ、恐怖のダンナ専用トイレへ。。。。
なんと。におわない。便器に「さぼったリング」はしっかりついている。しかし便器まわりや床に撒きちらしまくっているはずの液体のにおいがしないのだ。この嗅覚鋭い私が、排泄物のにおいを嗅ぎ分けられないとは。ここまで老いぼれたのか?はたまた石けんなし生活1年9ヶ月で鼻がイカレタか。もしくはダンナのシーシーのにおいに何かの変化があったのか。どちらかしか考えられない。食生活は全く同じ。変わったと言えば、ダンナが仕事に出ることぐらい。仕事に出れば排泄物も汗もかく。じょーしきなら、もっと臭くなっているはず。ところがにおわない。身体もにおわなければ、排泄物もにおわない。そんなことってあるんかいな。ちなみにうんこは臭いよ。ついでにおしっこも出た時は臭いよ。しかしそのあとが消えるのは、どーゆーこっちゃ。
先日、髪を切りにいった。
床屋のおねーちゃんには悪いと思いつつ、今回も「あ、シャンプーなしね」とたのむ。おねーちゃんにしてみたら、1年9ヶ月もシャンプーリンスなしのお客の頭を触るのはイヤに決まっている。最初の頃はベトベトしていたので、気の毒だった。さすがにちょっと悪いと思ったので、半年後に切りにいく前の晩、洗面器にぴゆっとシャンプーひとしぼりしてそれをお湯で溶き、さらさらと髪だけ洗っていった。さすがにその日はおねーちゃんにイヤな思いはさせずにすんだ。
しかし今回は全くべたつきがないので、そのまま行ってみた。
「あ、全然さらさらしてるねえ〜。前よりずっとよくなったよ。やっぱ、これっていいのかなあ」と店長。
私の髪をお湯だけで洗うお姉ちゃんに聞いてみた。
「なんか私の髪の毛、他の人と違ったりする?」
するとおねえちゃんは、
「うん。すごくやわらかい」
「でもさあ、シャンプーなしにして、毛は前よりぶっとくなったよ」と私。
「でも、他の人の髪の毛は固いけど、あなたのはすごくやわらかいんだもん」
理屈で考えたら、変な話だ。シャンプーなしにしてコンブトになった私の髪。枝毛もない。びんびんに強いはずだ。なのにやわらかいという。おねーちゃんは何人もの人の毛を触っているはずだ。だから何か違うのかもしれん。シャンプーをしていると毛が細くなるから、ほんとはそっちの方が柔らかいとおもうもんだが。
キューティクルっちゅうやつが、しなかやになっているのかもしれん。ぐふふ。
などと勝手な憶測をする私。(いいように解釈しているだけかもな)
今も触ってみるとさらさらしている。
この快感は「わっかんねえだろ〜な〜(古い!)」
しかしひとつだけ面倒なことがある。それはいまだにブラッシングするとブラシにフケのようなものがつくことだ。これだけはいまだにある。だからといってフケが肩に落ちることはほとんどない。シャンプーで洗わない代わりに、ブラシを洗っているというへんなおまけつき。これもまた、わしらの知らない大自然の英知なのだろう。これは「髪の毛のうんこ」と、自分で命名している。
石けんなし生活の快感は、やってみないことには、
「わっかるかな〜、わっかんねえだろ〜な〜」
『ハーバードビジネスレビュー』のための似顔絵(クリス・アージリス)
2010年12月9日木曜日
いいことをするって?
やまんばはよくパンを焼いては近所の友だちのうちにもっていき、野菜がとれてはまたまた近所の友だちにもっていく。友だちは内心ありがた迷惑なのかもしれんが、その行為は一見いい人にみえる。そうはみえても要するに、やまんばはいい人に見られて、いい気分になりたいという勝手な欲望なだけなのだ。
いいことをすると、たいていほめられる。人は他人によろこばれたり、ほめてもらうとうれしくなる。これがけっこうヤミツキになる。だからなんか作っちゃあ、人の迷惑顧みず、今日も持っていってしまうのだ。
ところがもっていっても期待するほどに喜んでくれなかったりすることもある。向こうにだって事情がある。「げ。まずいもん、またくれやがった」と思うかもしれんし、虫の居所が悪くて愛想がふれなかったりするかもしれん。だがやまんばはそんな事情も顧みず、「反応がない!」などと怒ったりする。こっちが勝手にもっていっているだけのことなのに、相手の反応次第でムカついたりする。
よく考えてみりゃ、喜んでくれることを期待するあたりが、すでにやまんばの勝手な考えなのだ。
つまり、いーことをする=自分が喜ぶ。ということだけなのだ。
そのことをおもいっきり自覚しておいた方が、あとあと人間関係がうまくいく(と、ふんでいる)。
その自覚がないと、知らない間に「いいことしている」が、「してやっている」と変化する。すると、「こんだけやってあげているのに、その態度はなんだ?」となる。これはもう完全に上から目線である。自分で好き勝手に「いい気分になれること」しているだけなのに、いい気分になれることを自分で忘れてしまうと、その行為は「大きなお世話」になる。やってくれとは頼んでないのに、勝手に怒られるのだ。他人にとっちゃえらい迷惑だ。
いいことしている→いい気分→自分で楽しんでやっているんだなあという自覚がある。
は、そりゃそれで「まあ、すきでやっているからいいか」と他人様から勘弁してもらえる。
しかし、その行為の中に、自分「が」楽しんでいるんだという自覚がないと、やっかいである。
いいことしている→してやっている→反応がない→こんだけやってやっているのに、それはどういうことだ?→知らない間に相手の上に立っている→態度に表れる→そのうちこじれる。
こういう変なぎくしゃくは、日常茶飯事なんだろう。自分のダンナにもやっているし、子供にもやっている。ついでに近所の町内会でもやっているし、ボランティアでもやっている。政治家もやっているし、企業でもやっているし、国家間でもやっている(これは思いっきり打算が入るが。あれ?でもやっぱ、全部に言えることか)。
いい事する人はいい人。という単純な構造ではない。そこにはふくざつ~な、打算や虚栄心や自己満足や不安からの逃避や、その他諸々のおっそろしくからみあった心理が入り乱れておる。げげげ〜。
自分がやる行為は「あたしが好きでやっている」と、いつも意識していることにかぎるとおもうやまんばであった。だから近所のみんな、ゆるしてね。
絵:「小山ダンススタジオ」のための絵
2010年12月8日水曜日
虫のいないブロッコリー
畑もやることがなくなった。
草も冬支度で地面にへばりつき、大地を覆い尽くして冬の寒い風に地面がさらされないようにしているように見える。やまんばは畑を歩き回りながら、寒そうな野菜はいないか見回りをする。ブロッコリーやケールは足下にわらや枯れ草におおわれて、あったかそうに見える。
「とりあえず、こんな感じでいいや」やまんばはほっと一安心する。
コンビニのおばちゃんが、もらった無農薬ブロッコリーが、虫だらけで取り除くのがイヤになるといっていた。
「すると農家のおじさんが言うんだよ。『スーパーのブロッコリーは虫が一個もいないだろ?どんだけ農薬がかかっているかってことよ』ってさあ。でもさあ、どーにもこーにも洗っても洗っても出てくるもんで。ゆがいてもまだいるし。これも食えってことかあ?」
「ウチのブロッコリー、虫いないよ」と私。
「そりゃまたなんで?」
「どっちとるかだよなあ。肥料やって大きく太らせて虫も呼んじゃうか、肥料を入れずに時間かけて育てて虫呼ばないか」
「ふ〜ん。つまり、不毛の地に育った虫も食わないものを作るか、肥料をやっておいしくして虫も呼んじゃうかどっちかってことかあ〜。なるほどねえ〜。おっしゃ、今度そのことおじさんに言っとくよ」
と、おばちゃんは言った。
ほんとは、ちと意味が違うんだけどなあ。まあいいか。
『不毛の地に育って虫も食わない(まずい野菜)』じゃなくてえ〜、
『自然に近い状態の土で育った強い野菜は虫も食わない(うまい野菜)』
なんだけどなあ。
畑に行っても、ただうろうろするだけのやまんば。ナニしてるかと言うと、ひたすらながめている。なんつーか、そうしているあいだに、なんかしらを発見するのだ。それがおもしろいのだ。
一カ所に何粒か種をおろした白菜。間引いていきながら大きくしていく。中にはどれを間引いていいのかわからなくなるほど競り合って大きくなる苗たち。そんな時はそれをそのままにほっておくと、時間とともにどっちかが虫に食われたり、大きくならなくなる。それで「あ、こっちを間引けばいいんだな」とわかる。
そういう姿は、自然に強い種を残していこうとする力が働いているようにみえるのだ。それはどっちが競争に勝ったとか、負けたとか言う次元ではない。同じ白菜どおしが「あ、あんたが大きくなってね。私は自然に帰るから」と譲り合って生きているように見えるのだ。虫だって食べなきゃ生きていけない。譲った野菜さんは食われる運命を快く受け入れているように見える。その姿は野菜の苗一個一個が独立して存在しているのではなく、なんといおうか、すべてでひとつのような大きなうごきをしているようにみえてくるのだ。
だからその土地でその根を大きく広げ強く生きはじめたブロッコリーを虫さんは食べない。「あ、そのまま大きくなって下さい」と、育つブロッコリーさんを尊重する。
ところが肥料で甘やかされて育ったブロッコリーさんは、その生体そのものの生命力が弱いので、虫さんは「これ、食べていいもの」と判断するのかもしれない。ぶくぶくと甘く大きく育ったブロッコリーさんは虫にとっては淘汰されなければならないものなのかもしれない。それを見た人間は「あ〜〜〜〜っ!虫!こうしてやる〜〜っ」と、殺虫剤を農薬を死ぬほどかけて殺す。だから肥料には農薬がセットになっているのだ。それは化学肥料だけじゃなくて、有機肥料にも言える。どうしても野菜は肥料を入れなくては育たないもので、虫は駆除しなければいけない存在のようだ。これも最初に「これはこうするものだ」という教えから、頭がはなれられないからじゃないだろうか。
最近買った種の自家採種の本に書いてあった。道路のアスファルトを突き破って出てくる根性大根こそ、残していかなければならない大事な種だと。何の肥料も与えないで耕さないでそして固いアスファルトを突き破ってまでして出てくるそのど根性。その遺伝子はだれよりも強いものをもっている。大事に神棚にとっておく場合ではない。そのまま地面で花を咲かさせ、種をもらうのだ。
最近の野菜不足の背景は、こういう環境に強い野菜がめっきり減って来たことがあるのではないだろうか。ちょっと気候変動があるとすぐダメになる農作物。それはひとえに肥料付けのおぼっちゃま野菜しか作らなくなったからなのでは?中国ではリン酸が事実上の輸出禁止になったそうだ。リン酸は農業にとって大事な肥料。これからの日本はいろんな面でめんどうなことになりそうだ。
だからこそ、根性大根や根性ブロッコリーが必要になってくる。肥料なんか入れないでも十分に育つ野菜の種を!
一個やっと出来上がったブロッコリーをゆがいて食べる。甘いふくよかな味がした。
絵:「空想英語読本」表紙
2010年12月2日木曜日
高尾山異常
「もう、頂上なんか足の踏み場もないのよ!そこですわっておにぎりなんて食べられないんだから!」
これが今の高尾山の現状らしい。狭い頂上は人でごった返し、砂埃がすごいとの事。ハイキングコースになっている道は、人をかき分けかき分け進むのだそうだ。
「銀座より人が多いわよ。まったくもう。これじゃ山見にいってんだか、人見に行ってんだかわかんない」
山から下りて来たばかりの70すぎのおばちゃんは怒る。何でも高尾山に登り始めてかれこれ37年だそうな。ミシュランだか、ミッテランだかにお星さまをいただいてから一気にふえたそうだ。ほんでもって最近は山ガールなどのおっしゃれ〜な民族も乗り出し、すごいことになっている。
おばちゃんいわく、毎日平均3、4万人来ている(!)らしい。
そ、それって「年間250万人という世界一の利用者の高尾山」の記録を軽く超えてくれるではないか!計算機が手元にないが、軽く見積もっても年間1000万人?!
ホントの数字は知らないが、そんなふうに思えるほどの状況なのだろう。
長野は戸隠の近くのプチホテルの方から時々「戸隠だより」をいただく。そこにも最近うんざりするほど人がいると書いてある。そっちは「聖地巡りもの」らしい。戸隠は霊験あらたかな修験僧の山だ。ご利益目指してやってくるのだ。
そこまで霊験あらたかかどーかは知らんが、高尾山もいちおー、てっぺんにお寺がある。これまた修験僧の山だ。でもよく見ると、ありとあらゆる神様仏さまがまつってあって、節操がないと言うか、哲学がないと言うか、神様仏さま、ご利益ありゃ何でもござ入れ的な品のなさがある。おもわず、あのごちゃごちゃの神様軍団の中に、どこかにキリスト教もイスラム教の神様もまつってあんじゃないか?と勘ぐらせてくれる。そこがまたやまんば的には大好きなノリなんである。人間のえぐさ、欲深さは底知れないものがある。それをここまで見事に表に現してくれた高尾山にあっぱれ!なのだ。
高尾山歴37年のおばちゃんは、人に会いたくないから、朝7時に高尾山に登るんだそうな。いつものふじだな珈琲で、私とあったのが10時半頃。すでに山頂から降りて来ていた。
それでもおばちゃんは登る。なぜか。それは薬王院さんからもらう健康手帳にスタンプを押してもらうためだ。この手帳一冊600円、証印一回100円。21ページで満行となると、御護摩受付所の外壁に、自分の名前のお札が張り出される。その枚数が多くなればなるほど、お札は大きくなり、重要人物の名前の近くの高いところに張り出されていくのだそう。おばちゃんは、なん十冊ももっているそうだ。
でも「ダレソレさんはそんなに高尾山に来ていないのにあんな高いところにお札が貼られている!きっとズルしているのね」とおばちゃんはいう。中には一人5冊分もって来てスタンプを押してもらう人もいるそうだ。まあ、ちゃんと100円づつ払っているのだから、お寺側としてはへーきなんだろう。それで位が上がっていくのだから、寺側も登山客側もどっちもどっちの欲かき仲間だわな。
それにしてもうまい事考えつくなあ。「健康手帳」と銘打って、お山に来させる。おばちゃんの世代は「健康」という言葉に弱い。そしてお山に登れば登るほど、お札の位置が上がっていく。一冊満行するたびに2700円使っているのだ。あのお札の山を見ると、いかに人がそれを利用しているかがわかる。いやはや、すごい。丸儲けだあ。
今まで日本名山を90カ所めぐったおばちゃん。年がいってからは、せめて高尾山に登って身体をキープしなければ、死んでしまうくらいにおもっている。ほとんど強迫観念だ。別に人をかき分けてまでして高尾山に登らなくてもいいだろう。まわりにゃ、山ほど山がある。そっちをゆったりのんびり登りゃいいだけだ。
「高尾山は、私の山なのに。。。。」
と、おばちゃんは言った。
高尾のお山はそんな人々をかわいいやつよのお、とほほえましく見ておられるのだろうな。
ちなみに、近所のおねえさんに言わせると、
「人?そんなのコース変えりゃ、ぜーんぜん会わないよお〜」
とのこと。
視点を変えりゃ、とたんにこの世は違って見えてくるのだ。
絵:オリジナル絵本より
2010年11月27日土曜日
草は食われるのに野菜は食わん
そろそろ冬使用の草が生え始めた。
ロゼッタ状に横に広がった草(たぶんギシギシやハルジオン)は、虫に食われた穴がぽこぽこあいちょる。やはり冬になっても虫はいるのである。
しかしだなあ。なぜかあの虫がだ~いすきなキャベツ、ブロッコリー、ケール、芽キャベツ、スティックセニョ~ルなどなどが全く食われちょらん!
虫が大好きな白菜もほとんど食われちょらん。そのまわりの雑草にはぽこぽこ穴があいちょるにもかかわらずだよ。
ふーむ。こりゃ、どーいたことぜよ。やまんばは腕組みをする。
ということは、虫は野菜ばかりを好き好んで食う訳ではないという事か。思うに、その土地で強く育った植物には、虫は手を出さないという事ではないだろうか。その土地にしっかり根を張り、元気よく生きると、虫にとって食べる必要がないという事か。前、虫食いだらけのナスの葉っぱを切り取ったら、ナスが元気になったのと同じ理由なのかもしれない。
ナスさんが言う。
「虫さん、虫さん、私はチョットばかし元気がないナスです。今この葉っぱに栄養をやったら、他の私の体全体に栄養が行き渡らなくなるので、ちょっと食べてもらえませんか?」
「おっしゃ、まかせとけ!」
と、虫さんはむしゃむしゃと食う。
そこへやまんばがやって来て、
「ありゃ、虫食いだらけの葉っぱじゃのう。どれ、その葉っぱを切っておいてやるか」
そういって、やまんばは、虫食いだらけの葉っぱを切り取った。
「ああ、これで楽になったわ。やまんばさん、虫さん、ありがとう」
とナスが言ったのかもしれん。その後、ナスが苗に残された葉っぱを虫に食われる事はなかったのだ。
ところがそこに隣の欲ばりじいさんがやってきて、こう言ったとしよう。(なんだか昔話みたいじゃの)
「なんじゃあ?このナスは。実がひとつもつかねえじゃねえか!肥料が足りないにきまっちょる。肥料をやらんか、肥料を!」
欲ばりじいさんに怒られて肥料をやるやまんば。するとナスさんは、
「ああ~、せっかくバランスがとれはじめた土だったのに、そんなものやったら、全部吸い上げてしまう性質の私はメタボになってしまう~~~~」
ぶくぶくと太ってしまったナスさん。メタボでひ弱な身体になってしまったナスさんが、
「虫さん、虫さん、余分な部分の私を食べて下さいな」
「おっしゃ、まかせとけい!」
張り切って仕事に励む虫さんたち。
そこへ欲張りじいさんがやって来て、
「なんじゃあ?この虫は!殺虫剤撒いて殺してしまえ!」
「あああ~~~~」「ひいい~~~」
ナスさんと虫さんの雄叫びも届かず、せっかく自然の状態に戻ろうとするナスさんや虫さんのお仕事も虚しく、畑は完全にバランスを失ってしまいましたとさ。ちゃんちゃん。
というのがホントの話だったらだったらどーする?
ほんの少しの視点の違いが、大きな方向のちがいになるとしたら、私たちニンゲンはなにをしているのか。ああするのがいい、こうするのがいいといわれて、あっちこっちとフンソウする。あげくになにも育たない土地になってしまった畑が隣にある。相変わらず、化学肥料や殺虫剤や有機肥料をたんまり入れている。細々と育った大根の葉っぱが寒そうに見えるのは、その土地が随分冷え込んでいるのだろう。なんだかこの姿は今の人間のあり方と基本的に同じなんだろうな。あれが身体に効くこれが身体にいいとフンソウするその姿に。
きのう八王子の市場に出かけた。ふと、即席のべったら漬けでも作ろうと酒粕を買った。するとレジのおじさんが言った。
「今日は、飛ぶように酒粕が売れるんだよ。」
「なんで?」と私。
「だって、きのうタメシテガッテンだかなんだかで、酒粕が身体にいいとかやってたんだよ。そしたら、来るお客みんなが酒粕買っていく」
半ば、ばかにしたような言い方のおじさんであった。バカにされてもしかたがない。それだけみんなテレビに踊らされている。
すべては条件づけの中で踊らされている。ああしなきゃいけない、こうしなきゃいけない、草に栄養とられる、肥料を入れないと野菜は育たない、虫が食べる野菜はうまい、薬じゃないと風邪は治らない、、、うんぬん。
ほんとにそうなのか?ホントにこの世の人々が言っている、ああしなきゃこうしなきゃとおおさわぎする事が真実なのか?
しかし石けんなし生活はそれとは反対の事を物語ってくれている。畑も虫が草は食うが、野菜は食わないというのを目の当たりにした。
すべては自然の摂理にそって生きると、すべてがたおやかにさら~っとスムーズに流れていくんかもしれない。石けんなし生活や自然農は、そんな仮説を立てさせてくれる。
何か事件が起こったとき、それを素直に受け取る。なんとかしようとか、なんとかしなきゃ!とあせらない。身体の具合が悪くなったとき、早くなんとかしなきゃ!とか薬のまなきゃ!と、あせらない。すべては何かをその人に伝えようとして起こる出来事なのではないか。その時、ふと立ち止まってじっとかんがえる時間が与えられているのではないのか。
山奥で道に迷った時、人はやみくもに動き回るだろうか。やみくもに動き回れば回るほど、どつぼにはまる。そんなときは、じっとその場で立ち尽くし、心静かにこれまでたどって来た道のりを思い起こすのではないか。それと同じじゃないだろうか。何かが起こったとき、やみくもに動き回ると、最初にいた位置までわからなくなる。
なぜそれが発生したのか、自分の心の奥に聞いてみる事が一番じゃないだろうか。だがひとはそんなとき必ず最悪感におちいってしまうものだ。それで感情的になり、自分がやった事を冷静に判断できなくなる。だがそんな事をしてもその出来事は消えない。
そんな時はすーっと静かな心になるのだ。そこには、ああした方がいい、こうした方がいいという他人の忠告や、テレビが言った事などとは無縁の、泉がわくようなアイディアが、ふと心の中にしずかに湧いてくるのだ。それが本当のことなんじゃないだろうか。そうすると「いやいや、そんなはずはない。人はこう言った、常識はああだった」と心が惑わされるものだ。しかし人のからだの中には百人の名医がいるとヒポクラテスは言った。すべては自分の中が知っている。ひたひたとうごいている大宇宙の摂理がある。人間はその中にちゃんと組み込まれて生きているのだ。その事にただ気がつくだけでいいんじゃないだろうか。
絵:コージーミステリー表紙
2010年11月25日木曜日
自然発酵種むずかしすぎ
「げ、すっぱい!」
チョコシートをパン生地に折り込んで出来上がったショコラブレッド。食ったら酸っぱいでやんの。うわー。やっちまった。乳酸菌、かつどーしまくり。おそるおそる冷蔵庫に保管してある中種、元種もちぎって食べてみる。げげげー!全部すっぱい!ああ~、乳酸菌ちゃんフル活動。
もうやだ。すごい。自然発酵種、ものすごーいてごわい。こんなもの、捨ててしまおう。ほとんどの種を捨てる。でもちょっぴり残しておいて、それにエサやりをしておいてみた。数日後、、、、、消えている。すっぱいのんが消えているではないか!実は捨てるつもりの中種もとっておいたので食ってみる。え?すっぱいのんが消えている!
もう、わけがわからんのだ。
すっぱくなったり消えたり。それはほれ、この発酵菌ちゃんが、自然のものだからなのだろう。このレイゾーコの中で、ひたひたと生きているのだ。変幻自在に変わりながら、生きているのだ。こーなったら、ハウツーもんなんてもなあねえ、この世に存在しないのだ。
イースト菌ちゃんは人工的に作られた発酵種。同じ菌ちゃんが三つ子ちゃん四つ子ちゃん1兆子ちゃんと、みんなおしとやかに整列しておとなしい。だからハウツーもんが存在できる。
しかーし!この空気中からその発酵の種を求め、作り上げられたわけのわからん天然の酵母菌に中には、わしも、おらも、おまんも、おんしも、あても、おいどんも、おばちゃんも、おんちゃんも、じっちゃんも、タゴサクも、み~んないっしょくたに住んでいるのだ。み~んな好き勝手に共存してレイゾーコの中に住んでいるのだあ~~~~。
なるほどね。だからイースト菌という優れものが発明されたのだな。パン屋さんにとっちゃ、ある時は、ばあちゃん菌が活動したり、またある時は、タゴサク菌がフル活動しちゃったりしたら、
「ちょっとちょっとちょっとおー!こないだのアンパンと味が違うじゃないのよー!なんだがじじむさいわよー」
とクレームをくらう。
「どーもすいませんねえ。今日はタゴサク菌ががんばっちゃって」
と言い訳する。。。。って、商売になるんかい!
なんだかね。これは自然農にまったくにてる。あーでもない、こーでもないと必死でいろいろやってみたが、結局ハウツーもんはないという結論に達する。その土地にあったその土地がかもし出すノリっちゅうのんがあって、それにそった作り方をしろ!と言われている気が最近するのだ。
つまるところは結局みんなそうなんかもしれない。あれが身体にキク、これが心にキクとあっちこっち探しまくって、そこまでいいものがあるんだったら、この世はさぞかししあわせに満ちた健康的な野菜に溢れた世界なはず。でもむしろ逆ムキになっている。それはハウツーもんにたよりすぎているからなんではないのか?すべてはその状況によってまったくちがうんじゃないかえ?
んで、2度目のチョコラブレッド挑戦。
「げ。すっぱい!」
また作っちまった。
見た目はプロみたい。ぷっくり美しーく出来上がったこの一斤半の固まり。すてるのかー?
イチゴジャムでも乗っけて食っちまおうか。すっぱいのんがごまかせるから。
絵:ラブロマンス表紙(なんだかどれ出したんかわからなくなって来た。重複したたらごめんねえ〜)
2010年11月18日木曜日
草ごえと歌ごえは野菜に効く。
秋に入り、あの激しかった草の勢いもウソのよう。今は広々と全体を見渡せる畑の中で一息つく。
近所の畑おじさんに
「ドオだあ?オタクの畑の調子は」
というご挨拶に(なかばからかい半分の)、
きっちり「はい。草、育ててマス」
と、毎度答えるぱぱさんのセリフどおり、今年はホントに草育てた。そのかいあって、秋には草肥は豊富。カラカラに乾いたメヒシバはサイコーの草肥。畝のベッドでお布団代わり。晩秋の寒い風の中で野菜さんたちはゆっくりあったかく育っている。
去年の秋と今年の春の種まきのような、虫の食欲おう盛さは、なぜか今年の秋の種まき頃にはぴたっと止まった。
春蒔きの新芽全滅の悲劇を繰り返すまいと、アホほど撒きちらしたアブラナ科の種。虫に食われずコオロギ食べず、そのまま発芽。畝の上、隙間も見えない新芽の嵐!土の肌はおろか、草の一本も生えてこれないくらいビッチリ埋まった。
ちょっと歌いすぎたかな。。。?
あるブログで発見した、歌いながら百姓するきもいオヤジ。畑のど真ん中で朗々と好き勝手な歌を歌う。その歌の内容は、私の聞きながら育ったものとぴったりマッチしていた。おのれ、私のジェネレーションだな。とチェック入れる。ドンピシャ。そうか。歌うのか。。。
んで、やまんばは、マネをした訳だ。
「撒きなさ~い。わらい~な~さあ~い。人として、野菜として、大きく育とうよ~」
そうやって歌いながら、秋に次々と種をまいた訳だ。
そして目の前に、草も生えないくらい密集した新芽の畝。こっこれじゃ、間引きできない。。。。ほっとこう。。。(オイ)
私の美声はそんなに野菜にキイいたのか。。。?やはり、肥かけは、声かけなのかもしれん。「菜っ葉の肥やし」とはこのことか(ちがーう!)
『注:菜っ葉の肥やし(なっぱのこやし) 野菜の肥料は下肥(しもごえ)であることから、掛け声(=肥の洒落)ばかりであること。言うだけで実際の行動を起こさない者を罵(ののし)って言う』
それにしても、初めてこの畑で種取りしたアブラナ科の野菜、タアサイ、水菜、壬生菜、小松菜、ノラボウ、コカブ。それぞれに種とったはずなのに、出てくる葉っぱは、みんなおんなじじゃないかー!若草色の若葉のベッドは、水菜のはずなのに、丸い葉っぱや、チンゲンサイみたいなものが混じっているし、タアサイの葉っぱは、水菜みたいにギザギザしたモノが混じっている。しかも根っこがカブのように太っているものまである。これが交配という奴なのだな。もうしらん。このまま育ててここの畑オリジナルの野菜を作ってしまおう。
聞く所によると、インディアンは野菜作りに肥やしは入れないと言う。ゆいいつ入れる肥やしは、笛。笛を吹いて野菜に聞かせるのだと言う。これだな。やはりこれにかぎるな。ひそかに歌って肥やしをやろう。。。
誰もうしろで聞くなよ。
絵:オリジナル絵本「やまごえ」より
2010年11月12日金曜日
安心な場所
夕焼けを見ながら畑から戻る。
いったい自分は、最終的にどこに落ち着くんだろう?そんなふうに考える。
ああ、そういや、ニューヨークでいた時も同じ事考えていたなあ。「私はいったい、どこに落ち着くんだろう?」「私の人生って、なんだろう。どこに向かって進んでいるんだろう?」「行くべき場所ってどこだろう?」
きっとニューヨークの私が、今のこの高尾山のふもとで、畑をしている姿をかいまみでもしたなら、これが「落ち着く場所」と思っただろうな。しかし今その場所にいる私は、ここを最終目的としていない。
それはたぶん、場所ではなく、生き方をさぐっているのだろうな。ではこの生き方はステキではないか。しかし私の心は「これではない」というのだ。
人はつねに安定を求める。安心な仕事、安全な場所、永遠のしあわせ。。。
今ある「ここ」は、つねに安心な場所ではないのだ。だからどこか別の場所。。。と、心がいう。
年老いた母の姿を見ても、彼女のいるところが最終目的地で安住しているようには見えない。彼女もまた、いつかどこかで自分は安心安全な場所。。。と求めているのだ。
という事は、人は永遠に求め続けているだけなのじゃないか?
人間の最終目的地は、「死」なのだ。人間は死という目標に向かって進んでいるのだ。本当は、それが本当の安心な場所なのかもしれない。
だとするなら、人生は、死ぬまでINGのままなのではないだろうか。現在進行形。死ぬまで安定のない、安心ひとつない、自分が描く理想なんて無視される現象が目の前でどんどん展開されて、どんどん進んでいく。今この瞬間もどんどん死に向かって進んでいる。なにひとつ、止まる事がない現在進行形。
安心や安定は止まる事を意味する。
どんどん押し流されていく自分の人生を不安におもい、
「ちょ、ちょ、ちょっとまってよー!ついてけないじゃないのー!」
とあせる。必死で止まろうとする。流されながら、
「ああ、止まりたい。どっか止まれる安心な場所おおおおおお。。。。」
かくして人間は安心な安定した場所を求める。しかしそれは死ぬことなのかもしれない。
おとぎ話は必ずこうしめくくられる。
「そうして二人はいつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ」
これが人が求める最終目的なのだろう。小さい時にこの思想は植え付けられる。
しかし人生の意味とは、この全く一瞬もとどまることのない生を、意識的に生きることなのではないだろうか。
つまり、私たちの最終目的は、逃げずに死ぬまで生きる、ということなんだろうな。
やまんばは、夕日を見ながらそうおもいましたとさ。
絵:オリジナル絵本「やまごえ」
2010年11月10日水曜日
テレビ菌がウツるんです
前から変だとは思っていたが、最近特に変だ。何の話?ニュースだ、ニュース!
報道とは、平等かつ公平に行われなくてはいけないとおもうのだ(わしだけか?)。なのに、最近のニュースキャスターは、北朝鮮並みの情感の入れかたをする。「あってはならないことです」とか「許すまじきことデス」とかいらん言葉を言う。昔のニュースキャスターはそんな情感なぞ入れなかったぞ。あくまでも人権を尊重した言い方をしていた。今はまるで容疑者は「チョー悪い奴」という前提で喋っている。ひょっとしたら、白かも知んないのに。
さらに変なのは、報道番組で、今のハヤリの特集をやったり、これからハヤルものを先取りしたコーナーもある。なんでや?ニュースだろ?
ほんでもって、必ず出てくるのが、食べ物。なんでやなんでや、なんでそんなもんやるんや?ニュース番組だろ?
まるでお昼のワイドショーネタがそのまま夜の番組になっている。ニュースキャスターは情感込めていうし、今ハヤリを先取りしろと言うし、お得なものをゲット!という。報道ってそんなもんだったんかいの。
今問題になっている尖閣諸島ビデオ流出問題も、誰が流したとか必死になって探しているが、もっと大事な事忘れてない?そもそもあのビデオ見た限り、どう見ても中国が突っ込んで来ているじゃないの。その確固たる証拠ビデオを、なぜに政府はかくしたの?さっさと公開してたらこんなに問題もこじれなかったかもしれないのに。そしてその流出されたビデオは、本当に全部なのだろうか。な〜んだか、なにもかもあやしーのに、その怪しさを突き止める事もしないで、だれがやった!?ということばっかり。それもなんだか、何かを隠すためにそっちにばっかりふっているよーな気がしちゃって、いろいろ疑っちゃうじゃないの。
秋葉の事件も、遺族が死刑にして欲しいなんて平気で言う。それをニュースで流すあたりが、わしゃ、ぞっとする。その根底に「悪はとことん悪!」という極端な思考が入り込んでいる。秋葉事件のお兄さんだって人権というものがある。どんな経路であそこまで追いつめられたか、彼なりの理由があるはずだ。お兄さんの家族が、苦しさのあまりに吐いてしまう言葉ならいい。でも他人がいえる言葉ではない気がする。そういう言葉はぐっと胸の奥にしまい込んで、あえていわないのが日本人の美学ではなかったのか。
そんな思いになるのも、最近の変なニュース番組が、極端に怒りをあおっているからそんなノリになっちゃうんじゃないの?え?
テレビ菌がウツるから、よいこのみんなはあまり見ないようにしましょう。
絵:「すごい駅」メディアファクトリー新書表紙
2010年11月5日金曜日
なんとかなる
ごしょごしょと、健康に関する本を読んでいる。
「健康のためなら死んでもいい!」と言っていたタモリがやっているタモリ流入浴法。なんじゃ、石けんなし生活とおんなじじゃねえか。石けんなし生活もそのうちポピュラーになるんだろうな。ほんでもって、この世のやまんばがうじゃうじゃじゃあ〜。
三好基晴さんの「病気の迷信」と「ウソが9割健康TV」というのを図書館で借りて来て読む。それによると、わしらが日頃口にする言葉「風邪は万病の元」とか「怪我したら冷やす」など当たり前に思っている事が「風邪は万病の予防」とか「怪我したら冷やさない」とか、じぇんじぇん違う事が書いてある。おまけにアレルギーになる人はがんにかかりにくいとか。トンデモ本であーる。こんなもん信じたら、お医者さんがおまんま食い上げじゃないか!いけませんねえ。そしてテレビで言っている健康ハウツー番組は、9割がウソだと申しておられる。これまたいけませんねえ〜。そんなこと信じたら、この世はやまんばがうじゃうじゃじゃあ〜。
よいこの皆さんは、風邪は万病の元であり、怪我したら冷やして下さいね。そうでないと、病院経営が成り立ちませんよ。
でもさ、あれしちゃダメ、これしちゃダメ、ああしなさい、こうしなさいといわれるより「ほっておきなさい。自然になおるから」といわれるほうが、おもしろい。人間の可能性をかいま見る事ができる。ヒポクラテスは我々は身体に100人の名医がいるといったじゃないの。
人間の身体は何か起こったら、自然に治ろうと全身全霊で治そうとする。それを人間のいらない知恵で、冷やしたり、クスリ飲んだり、ステロイド塗ったりして、治るのを邪魔しているかもしれないのだ。
その先生がいうには「薬」という漢字は草に楽と書く。草を使って楽にすると書く。治るとは書いてないのだ。単に楽になるだけの事なのだという。ホントに治るんなら、草かんむりに治ると書くはずだ。気分的に楽にするだけのことかもしれない。漢字はすごいなあ。律儀にホントの事が書いてあるのかもしれない。
ちなみに「クスリ」を逆から読むと「リスク」だそうな。
私たちは痛みが来ると「やばい!どうにかしなきゃ!」とあせる。それをとりのぞかなくてはいけない!とおもう。ところが痛みは身体が治療している最中なのだとしたら、また、そのように私たちが教わって来ていたなら、「やばい!」と思わないのではないだろうか。
小さい頃、ケガをして、母にヨードチンキを塗ってもらった瞬間、痛みが来て泣いたら、
「このお薬は悪いところを治してくれているのよ。今ばい菌さんとお薬さんが戦っているところだからね」といわれた。
「そーか。今戦って、治してくれてんだなあ」
となんだかうれしくなり、痛みが遠のいた記憶がある。そういう言葉ひとつで感覚は変わるのだ。その時から「薬は治してくれる」とインプットされた。教育ひとつで考えは変わるのだ。
ところが、ここにひとつの教えがある。洗脳といっていいのかもしれない。薬信仰だ。母は、その母から病気は薬で治る、と教えられたのだ。それを信じているから、それを子にも伝える。その心の根底には、痛みはいけないこと、それを取り除かなくてはいけないもの、というアイディアがある。
もし、痛みは治ろうとする自然の摂理として教えられていたら、子供の感覚は一変する。ケガして泣いていたら、
「痛みは治ろうとする大事な身体のお仕事なのよ。さ、水で洗ってそっとしておきましょう」
といったらどうなるのか。私たちはその時から、痛みを恐怖する事がなくなるのではないか。風邪は万病の元ではなく、あらゆる病気を阻止するための予防の役目をすると教えられたらどうなるのか。大掃除のために熱を出し、バランスを保つ役割をしていると教えられたら、はたして解熱剤であがる熱を下げようとするだろうか。
先日、急におなかが痛くなった。そこでどのように痛みがくるのか観察する。左が痛くなり奥に引っ込み右に移動する。背中のあたりに何かの感覚が起こり、いきなりモヨオして来た。トイレに駆け込む。それから痛みはひいては現れひいては現れしながら、その度に排泄し、じょじょに消えていった。
人は痛みや身体がだるくなると、必ず感情が動く。
「イヤだ。この症状なんとかして外したい」とおもう。
その心はその痛みに抵抗をしている。だが観察するとは、抵抗をしない事なのだ。痛みを痛みとして淡々と見る行為。痛いと自分の感情が動くのをあえて外すのだ。抵抗するとは身体が自然に治癒しようとする事を妨げるのではないだろうか。抵抗=拒絶=身体が固くなる。だが、その抵抗を外すと、その痛みを受け取る事になるが、それを会えて真正面から見る事によって、その痛さは抽象的になってくるのだ。痛い痛いとおなかを抑えるとその痛さはがぜん強さを増す。ところが力を抜き、抵抗せず、痛みがどのようにあるのかを観察するうちに、モノの2秒もしないうちにその痛みは漠然としてくる。こうなるとシメタものだ。そのまま観察を続ける。おもしろい事にその痛みは移動するのがわかる。からだの中に何かが起こっているのがわかる。なんというか、自分の知らないところで大きなうごきが勝手に起こっているのを、そのとき感じる事ができる。その偉大さは畏敬といってもいいくらいだ。偉大なからだの摂理。健康な時はからだの中の事など忘れている。こんな時こそ、ナマでその大自然を感じる事ができる。
鍵を握っているのは、抵抗なのではないか。何かが起こったとき人は抵抗する。そしてなんとかしなきゃと思う。そのなんとかしなきゃが、事の収束を遅くしているのかもしれない。
お世話になっている編集者の人から昔聞いた話だ。
知人がとてつもない事件にあって、自分ではどうしようもなく、とことん落ち込んだとき、満員電車に乗っていたそうだ。込み合った車内で、「どうしよう、どうしよう」と心が動揺していたとき、突然大きな声が聞こえたそうだ。
「なんとかなる」
あまりに大きな声が車内にひびいてびっくりしてまわりを見渡したが、誰も気がついていないようす。ただ、目の前に座っていた人だけが、自分を見てにやっと笑ったそうだ。
それからぱたぱたとその問題は解決したのだと言う。
すべてはなんとかなるのかもしれない。いや、自然の摂理がなんとかしてくれているのかもしれないではないか。
そう思えば、何も抵抗する必要はないのかもしれない。
絵:「あがり」は味方にできる」表紙イラスト
2010年10月31日日曜日
やさしさの押し売り
いじのわるいやまんばは、さいきんおもうのだ。
このペットボトル一個買うと、どこそこの貧民国に住む人々に物資が与えられるとか、このケーキひとつ買うと、恵まれない子供たちに愛が供給されるとか、車一個買うと、もれなく砂漠化した大地に木が一本植林される、なんて言う商品のCM。
なんだかねえ。やまんばは、そーゆーコマーシャルを見るときもちがわるくなるのだ。
「まあ、このペットボトルをあたしが買えば、貧しい人々が喜ぶのね!ああ、さっそく買ってあげましょ。私って、ホントにやさしいわあ」
となるのかねえ。
ちまたではなんとな~く、やさしくしなければイケナイ傾向がただよっている。人にやさしく、弱いものにやさしく、地球にやさしく、ついでにアメリカにやさしく思いやり予算。
災害にあったどこそこの国のことが心配です。お知り合いになった農家の方の地方の天候が心配です。ああ、心配心配、そんな心を寄せる私ってやさしい。。。
その一方で、子供の先生に腹を立てて許せない。ついでにダンナも許せない。
遠くの人を心配してやさしい気持ちになり、近くの人間に牙を剥く。やさしい心は距離が必要なのか。自分の身に関係ないものには愛をたんまり捧げられる。だが自分の身に危険が及ぶと攻撃する。
コマーシャルは、人の良心に訴えて来る。これを出来るあなたは「やさしい人」。と引き込んで来る。人間の良心をくすぐるのだ。地球温暖化の話もそうだ。人間が出すCO2が原因だから、あなた、なんとかしなさいと。桁違いに排出される工場は優遇されて、一般市民にC02を出すなという。市民は「地球のためだから」と思い込まされて、電気を消す、節約する、息を止める。無茶だ〜。
「やさしく。。。やさしく。。。」と洗脳されると、無意識にやさしくしなければと思う。そうすると表にはっきりあらわれたやさしさの行為がしたくなる。冒頭のコマーシャルの商品を買いたくなる。エコキャンペーンで省エネの冷蔵庫も買いたくなる。(洗脳、成功)
「地球にやさしくすること」はエコキャンペーンに乗ることだから、冷蔵庫を買う。本音は、冷蔵庫は新しい方がいいし、今買えばお得だから。
でも頭では「いいことしている」と納得しようとしている。だから子供にも「地球にやさしくしているのよ」という。するとまにウケた子供が、「きのう、ママは冷蔵庫を買って、地球にやさしいことしたんだよ」と、学校で発表する。先生は「それはいいことをした」とみんなでほめる。その子は、そう思い込んだまま大人になる。こわくね?
本当に自然にやさしくと思うなら、そんなもん買わないがほうがいい。冷蔵庫一個作るために排出されるCO2はどれだけ莫大か。だがC02を出さないことが地球にホントにやさしいことなのか?
そういうへんちくりんな「やさしさのカタチ」が今の世の中ひろがっている。
今買えばお得だから買うという、単に欲のある行為を「地球にやさしい行為をしている」と置き換えてしまっているのだ。「私って欲深いわよね〜。ははは〜」と認めちゃばいいのに。
そしてなお悪いことに、子供にまでその行為を「いいことをしている」と教えている。
それは遠くの人には愛を与えられるが、近くの人とは憎しみあう行為とあまり変わらない精神構造ではないか?憎しみ会う心がある分、他に愛を注いでバランスをとっているのか?それはほんとのやさしさなのか?
道で手かざしをして愛をくれる人がいる。本人は本気で愛をくれているのだろう。けれどもそれを素直に受け取ることができないのは、そこに何か別の意識を感じるからではないだろうか。
やさしさは表に「どうだ!これがやさしさなのだ!」と現すものではなく、そこはかとなく、相手に気付かぬように行うものだ。それはほんわかとあったかく、意識にも登らさぬ行為なのだ。あ〜そんなやさしい人間になりたいもんだなあ。やまんばはまだやさしさの押し売りばあさんなのだ。
絵:「M−1戦国史」表紙イラスト
2010年10月27日水曜日
どっちでもいーのだ!
「原始人も焼き畑やっていたのだよ。きみのやっていることは、原始人以下だ」
妖怪はコーヒーを飲みながら言った。
原始人が焼き畑をやっていたかどうかは知らない。しかし草木灰の肥料さえも入れないで野菜を作ることは、原始人以下だと言っている。きついお言葉。だがお顔が緩やかなので、ちっとも怒られている気がしないのは、妖怪ゆえか。そんな妖怪が、やまんばは大好きなのだ。
「ぼくはね、十数年前から本を読んで勉強したんだ。畑をやるにはまず土作りだ。」
妖怪は最初うんと完熟した、非常に質のいい牛の糞を300キロ畑に投入された。それからたえず追加の牛糞や鶏糞やナントカ石灰や腐葉土やおからや、とにかくいろんなものを入れて土作りに励まれたようだ。お知り合いに農大の方がいて、彼に土の成分を調べてもらい、絶えず土チェックはおこたらない。畑にリトマス試験紙も用意してある。土の成分表もあると言う。
「すると、ナントカの成分が過剰だってわかるんだ。だからそれを減らして調節する」
すばらしい。これぞ文明を生きるお方だ。どうりでいつも大きな野菜が豊富なのだ。
「しかも無農薬だよ」
妖怪は身を乗り出した。ここまで完璧な野菜作りはないだろ?と、お顔が言っていた。
やまんばは、妖怪にいただいたジャガイモが、腐って牛糞のにおいがしていたのを思い出していた。やはり野菜は土の中のモノをすべて吸い上げるんだなあ。。。
スーパーで買った野菜がクスリの味がしたのも、土の中のものを吸い上げる性質を持っているからなのだと確信した。
ブロッコリーの苗に虫がつく話が出た。
「葉っぱはみんなレースだよ」
「え?レースって?」
「百匹は下らないね、3、4個の株に。それをとるのが大変なんだよ」
「ウチのブロッコリーには虫そんなにいないよ。見つけてもせいぜい3、4株に1匹。捕まえてフェンスの外にポイッ」
「そんなはずはない。虫もつかない野菜なんて。きみ、どんな野菜なんだ。。。」
「そう!虫もつかないいい女!」
と、ウケ狙おうとしたのだが、そこんとこは無視されて、ブロッコリーやキャベツ系の株に虫がつかないことをケーベツされた。
虫がつかないのには理由がある。山の草に虫が大量に発生して葉っぱがレース状になることはない。土の中に過剰なものが入ると、自然はそれを取り除こうと躍起になるのではないだろうか。やまんばの畑は自然の状態に近い土をしているようだ。だから虫もそこまで来ない。
ここに二つの選択がある。野菜を大きくするために牛糞や石灰を入れるかわりに、虫も大量にふえその始末に負われる。もしくは何も入れないで自然が調節してくれるにまかせ、その摂理に合わせた大きさの野菜にして、虫も食わない野菜にするか。。。
だが、ホントはどっちでもいいんだ。なんだかめんどーくさくなってきた。
農薬を使って野菜を作ろうと、有機農法で野菜を作ろうと、自然農で野菜を作ろうと!
正直いうと、だんだん自分でいやんなって来たのだ。
白状しちゃうと、自然農やっていることが正しいと思っている自分がいると、他のやり方をしている人々をどこかケーベツしたり、排除したりしてしまう心があるのだ。そんな自分がいやんなっちゃうのだ。「あたしのほうが正しい」と思った瞬間、閉じた心をもつ。勝手に自分で他人と線引きをしている。それで優越感を持つ。
これってやらしくない?
そりゃ、農薬は自然にやさしくないかもしれない。けどそれがあるからみんなスーパーで買えるのよ。
エコな人たちが「地球にやさしくしている自分」をかわいがっている姿を見ててイヤな気分になるのも、根底に同じものが流れているからではないか。どっちにしたって、悦にいっちゃっている訳さ。やまんばは、そんな気分でたゆたよっている自分に気がついた。
妖怪は妖怪がいいとおもうことをやり、やまんばはやまんばで好きだなあとおもうことをやる。それでいいんだとおもう。地球さんのことは知ったこっちゃない。どっちみち、人間が好き勝手やっても、地球さんのくしゃみひとつで、全部ぶっとんじゃうんだもん。
逆に地球さんの物質的な面のことばかりを考えて、人間どおしがいがみ合ったり批判しあったりケーベツしあったりしていることの方が、はるかに害がある。
地球さんは、ホントはそっちの方を心配しているんじゃないかなあ。
絵:「お金持ちのお金はなぜなくならないの?」表紙イラスト/メディアファクトリーから今日発売でえ〜す!
2010年10月25日月曜日
ブームってなに?
ニッポンに帰って来て、はじめて聞いた言葉が「デトックス」。
なんじゃそりゃ?
毒抜きなのだそうな。帰って来た2004年の頃は、デトックスブーム。ニッポンのセラピー取材のお仕事をさせてもらった時も、デトックス体験をさせてもらった。足を特殊な溶液につけ、何かの電流を流す。すると見る見るうちに足の入った液体がまっ茶色になる。リトマス試験紙みたいな色見本があって、私の液体の色をあわせてみる。
「これはすごい毒が出ましたねえ〜」と言われる。私にはそーとー毒がたまっていたらしい。
「でもだいぶ毒が出たから、大丈夫ですよ」
あれから5年経つ。デトックスにいっていない。これはそーとー毒が体内にたまっているにちがいない。
って、ほんとだろうか。
テレビで、つねに食べ物と健康に気を使いデトックスをいつもしている奥さんと、付き合いで酒とタバコ漬けのダンナの身体の毒素を調べていた。結果は奥さんの毒の方が多かった。毒抜きばかりをしている自分の方が、身体に悪いコトしているダンナよりも多いことに、奥さんはショックを受ける。番組はそこで何の解釈もなかった。ただ笑いを取っただけだった。
これは何か大事なことを現している。そもそも毒抜きというものは必要なものなのだろうか。からだの中に排除しなければいけないものがあれば、からだは勝手に排泄物として出すのではないのか?無理矢理汗をかいたり、マッサージで油を搾ったり、溶液に足をつけて毒素を抜く必要があるのだろうか。あれから5年たつが、毒抜きをしなければいけないという切迫感は、私にはない。
これもまた、人を恐怖に陥れる戦略のひとつではないか?健康ブームには必ず恐怖がセットになっている。「これをしないと、えらいことになりますよ」「あなたそれでいいんですかあ〜?」「ほ〜ら、今すぐ!お電話を!」
健康番組は、ひどい症状の人をまず紹介。番組のゲストたちは、
「わあ〜、ひど〜い」という、一貫したリアクションをみせる。視聴者もいっしょに「わあ〜、ひど〜い」同じようなリアクション。
番組の司会者が「もうこうなったら、たいへんです!」
ゲストは「うわ〜、私もそうなったらどーしましょー!」という心配リアクション。すると司会者はすかざすこういう。
「ところがここにとっておきの、いいものがあるんです!」
「え〜っ」とゲストたち。
視聴者も「え〜〜〜っ!何か解決法があるのね!どれどれ?」(すでに番組の一員)
「これを使えば、一気に何もかもが解決!さあ、あなたも今から!」
そー言って、翌日スーパーで売り切れた納豆、バナナ、黒豆、きのこ、ヨーグルト、餃子、チャーシュー、チャーハン数知れず(そんなのあったかいな)。
遥か昔にあった健康サンダルや健康グッズや健康食品はいまどこに?どんだけそれにお金をつぎ込んだ?さて、今、さぞかし健康になったことだろう。。。
え?昔はよかったのよ、今はほら、もうトシだから。。。(結局健康になってない?)
そこには意図的に仕組まれた何かがある。解決方法は最初からあるのだ。何かを売り出したいのだ。納豆でも化粧水でもなんでも。それを売るためにまず問題提議をする。メタボになります、シミになりますと。
テレビを見ると阿呆になるから見るなと言われたのが、私が子供の頃。それを言った本人が今は「テレビがいうことだから間違いない」と信じ切っている。完全に阿呆になっている(笑)。
あれがいいこれがいいと視聴者を振り回し、日本中を世界中をフンソウさせる。解決法で、ガッチリもうける仕組み。番組のスポンサーは、製薬会社、保険会社、化粧品会社、金融関係、食品会社。何か意図を感じない?
しかし、もっと大きく仕組まれたことは、庶民をいつも心配させておくことだ。恐怖をつねにもたせ続けることなのだ。それが一番いい問題提議。常に心配だから常に情報が欲しい。だから常にテレビに釘付けにさせることができる。するとタイミングよく、解決法が用意されているのだ。
現代人は必要以上に心を振り回されている。いらないものまで買い込まされている。いつも心はおろおろと、ああでもないこうでもないと揺れ動く。
私たちは、心がどのように反応して動いているのかを学んだことがない。学校で教わっていない、親も知らない。ただいつも目の前に現れて来る現象にだけ解決法を見出す。あらわれているからそれにだけ振り回されている。しかしその現れているものが、意図的に作られているとしたら、私たちは一体意味のあることで、振り回されているのだろうか。私たちが、これはいいもの、これはいけないもの、と判断しているものは、果たしてどこから来たのか。ただ、そう思い込まされているだけなのではないか。自分で決めたことのように思うことが、実は誰かの例であったり、アイディアであったりしないだろうか。
ばい菌がつくから、虫歯になるから、ウイルスがつくから、と恐怖をあおり、石けんやシャンプーや、歯磨きを買わせる。そして出来上がった新たな病気でもうける。そんなシステムがこの世にあるとしたら、どーする?
さてその結果は、何もしなくてもいいことが私の身体は教えてくれた。それは単に石けんだけの世界でとどまらないのではないだろうか。あらゆるプラス思考(あれもしなくてはいけない、これもしなくてはいけないという思考)が、あらゆる問題をひき起こしているのだとしたら、現代人はなんておばかな生き方をしているのだろうか。
物質面からの摂取と、心配して恐怖するという心の両面が、ふくざつに入り乱れて、今の日本人の心と身体を蝕んでいるんではないだろうか。このままいったら、きっとわたしたちは、極まってしまう。これはもう、政治家を変えるとか、システムを変えるとかで変わる問題ではない。心の中に完全に入り込んだ、作られた価値観の毒素に気がつくことしかないとおもうのだ。
それって、心のデトックス?
絵:coopけんぽ11月号表紙「キクの妖精」
2010年10月21日木曜日
ノンアルコールで酔っぱらう
「これ、いただいたから飲んでみてよ」
「やだ。ビール嫌いだもん」
「だいじょーぶ。これはノンアルコールのビールなのよ。飲んだってヘーキだってば」
ダンナは酒が飲めない。飲めないというよりは、飲みたくないらしい。若い頃はジンをよく飲んだと豪語するがウソかもしれない。だってビール一口飲んだだけで酔っぱらって、すぐ寝ちまうのだ。本人いわく、「あの、酔った状態のもわ~とした頭がクリアでない感覚が許せない」のだそう。のんべにとっちゃ、あの「もわ~」とした感覚が忘れられなくて常習しちゃうのに。
でも知り合いからあえて「ダンナに」とプレゼントされちゃったのだ。飲まさないわけにはいかない。ホント言うと、「これ、ビールだから」とダマシて飲ませて、ノンアルコールで酔っちゃうかどーか、確かめたかったのだ。しかし、ビールと分って飲むダンナではない。そんなウソはどっちみち通用しない。実験できなくておもしろくねえなあ~と思いながら、「ノンアルコールのビールだよ」と渡すことにした。食事前、何回か「飲んでみてよ~」とトライして、やっと「じゃあ、飲んでやるよ」といった。
一口飲んで、いや~な顔をする。「ビールの味がする」と。あたりまえじゃ。
それからそのあと一口も飲まなかった。なのに、食事をしながらこういう。
「おれ、顔赤くないか?なんか、目のまわりが熱い」
ダンナの顔をみてびっくり。完全に酔っぱらっている。目が充血して、顔はもちろん、耳まで赤い。
「ノンアルコールって。。入ってるじゃないかー」
缶ビールを見る。
「だって、0.00%って書いてあるよお?」
「ホントは0.009%かもしれないじゃないか!」
その下の数字は切り捨てられていると言いたいらしい。あのねえ。いくらその下が9でも、その量たるや微量すぎてハラの足しにもならんわい(意味不明)。
これはどーゆーことか。かぎりなくゼロに近いアルコールにも、こやつの身体は敏感に反応するというのか?じゃあ、今車に乗ると、飲酒運転で捕まっちゃうんだろうか。アルコールが検出されちゃったりするんだろーか。もしそーなら、恐るべし!自分でアルコールを作りだす男!と三面記事に載っちゃう。
まさにこれこそが、頭が身体を作っていくメカニズムの典型なのではないか?病いは気から、というのが「病気」という言葉を作ったように、頭で反応したものが、身体に表れて来る。。。いや、まてよ。頭は「ノンアルコールだ」と思っている。。。
そーか。舌が覚えているのだ!
ノンアルコールのビールを一口飲む。口の中にビールの味が広がる。そうすると以前、町内会で飲んべえのオヤジどもにムリヤリビールをたらふく飲まされて、べろんべろんになったことを思い出す。その時の感覚がふたたびよみがえって、かあ~っと顔が熱くなるのだ。そしてその熱さに今度は心が反応する。
「おれって、酔っぱらっちゃってる。。。。。」
そーして身体まで完全に酔っぱらいの状態に入るのだ。これはほとんどパブロフの犬じゃねえか?
「これビールだから」と、ダマして飲ますより、もっとおもしろい結果が出ちゃった〜、うほほ〜い。
ということは、逆に、私らが「わ~い、ビールだ~」と飲んでいるうちに酔っぱらうのは、飲んだら酔う、と信じているからかもしれない。
恐るべし!人の心と身体の直結度は、ジョーシキをつくがえす!
絵:オリジナル
2010年10月16日土曜日
虫天国
わたしゃ、畑で虫は殺さない。だって、たまに鎌で間違ってミミズをばっさりやっちゃった時の、あのつらさがいやなんだもん。まっぷたつになったミミズちゃんが二つになってのたうち回るあの姿は直視できない。だからできるだけ殺さない。でも「蚊」だけはゆるしてちょ。まわりをうろうろしているとおもわずバチン!とやっちまう。。。
なぜかしらんが、ウチの家の中で蚊以外の虫を殺さず、いちいちつかまえては家の外に出しているうちに、家の中に虫が入って来なくなった。同じ並びの家々では、ムカデもでるというではないか。と、いうことは虫さんが「あ、ここは、やまんばのうちなのね。で、僕んちはこのうちの外なのね」と、いいように解釈してくれて、棲み分けが行われているからかもしれん。(そーなんかやー?)
んだもんだから、畑でも誤ってと蚊以外は殺さず、フェンスの外に出す。または無視するのだ。そーすると、畑は虫だらけ。クモ、ミミズ、コオロギ、バッタ、カマキリ、カメムシ、てんとう虫、アブラムシ、毛虫、ヨトウムシ、アリ、その他いろんな訳の分からない虫、幼虫の天国。空中にはひらひらとチョウチョとトンボとミツバチが飛び交う。
野良仕事の合間にお茶を飲んでいるとき、そんな畑の光景がたのもしくうれしくなる。なんだかここは生命がいっぱいだあ~と、思わず叫んでしまうのだ。
隣近所の畑は違う。しーんと押し黙った土の上に、さくさくと野菜だけが育つ。うちみたいに、トマトの隣にキュウリがあったり、ナスの隣にニンジンがあったり、わけの分らん野菜のミックスの畝、なんて節操のないことはしない。キュウリはキュウリだけ!ニンジンはニンジンだけ!と、禁欲的な畑さんたちなのだ。
おとつい、道を歩いていると近所の農業兄ちゃんが、地下足袋はいてちゃりんこ大股で漕ぎながらやってきて、
「おうおう、今年の草はすごかったなあ~。近所のじじいなんぞ、みんな目を三角にして草ぬいてるぜい」と、いきがった。(いきがっているのか?)
そこでさっそく最近知った農薬の名前を披露してみる。
「みんなオルトラン撒いてるの?」
一瞬顔が曇った。しばらく沈黙があった。これはなにを意味するのか。オルトラン撒いていることを知られてしまったのか!とおもったのか、はたまた、「オ、オルトランってなんや?」とおもったのか。農業兄ちゃんはいつも私に農業のアレコレ知っていることをイキガって教えてくれるタイプだから、知らないことを知られては困るのか。。。?
しばらくの間ののち、
「ラウンドアップなら撒いてるぜ」といった。
ラウンドアップは除草剤じゃ。話がなんとなくずれている。し。。知らない横文字だったのか。。。?
さて、ラウンドアップなる名を聞いてしまった私は、さっそくネットで確認する。
でた。草を根こそぎ枯らしてくれる強烈な除草剤だった。私の母親であるスギナなど、土の下深く潜っている根っこまで速やかに、文字通り根こそぎ枯らしてくれる優れものなのだ。説明の中に「自然にやさしい除草剤」と書いてあった。おもしろい事を言うじゃないか。植物を根こそぎ枯らすのが自然にやさしいのであろうか。それをいうなら、「虫にやさしい殺虫剤」もありえる。ついでにいっちゃえば「人にやさしい原爆」というキャッチコピーもありえるのだろうか。
ということは、オルトランはまいとらんとしても(シャレのつもり)、ラウンドアップはここら辺では撒いているということか。ホームページでは環境にやさしいと畳み掛けるように言う。いかにも怪しい。調べりゃ、危なっかしいことだらけじゃないか。そういう液体が、この地に撒かれて川に流れ、やがて海に行き着くんだな。そーいや、近所で大豆と麦を交互に植えている畑がある。その畑の持ち主にはめったに会わない。草取りをしている様子も見かけないのに、この夏の強烈な草の威力にもかかわらず、その畑からは、一切草が生えていない。ああ、なんだかふくざつよねえ。。。
聞く所によると、そのラウンドアップとセットになっているのが、遺伝子組み換え作物。GM作物というやつだ。日本には特に菜種油のもとの、ナタネが入って来ているそうだ。キャノーラ油だ。そのGM作物が日本に種子の形で輸入されている間に、こぼれ種が芽を出し、花を咲かせ、いろんな雑草と交配を始めているらしい。アブラナ科の植物は交配しやすい。ウチの畑で採れた種もやっぱり交配しちゃっていた。アブラナ科の植物は1年草なのに、そのGMナタネは、日本で多年草に変わってしまい、樹のように大きくなったナタネも出てきたのだそうだ。
たぶんこれから日本の植生も大きく変わっていくのだろう。この勢いは誰にも止められないのかもしれない。
農業兄ちゃんにまたあった。あいかわらず草取りをしている。
兄ちゃんに、も一回オルトランの話をふる。
「んで、オルトランは撒いてるの?」
「いんや。だって、虫が食って死ぬようなもの、食いたかねえだろ」
ちゃんと知っていた。
兄ちゃんは、ワケギについたアブラムシをぬるま湯につけたぞうきんで一本一本拭いているのだそうだ(!)ワケギは彼の収入源だ。かるく畝10本分は、拭くんだそうだ。なんともご苦労様なことだ。
「繁殖期に拭き取りゃあよお、もう虫はつかねえんだ」
こういう人がまだいるから、日本はまだまだ底力があるんだろうな。
絵:オリジナル「高尾天狗の孫」
2010年10月14日木曜日
虫除けと言う名の虫殺し
「芽がでないのよ~」
近所で畑をやっているおばちゃんがなげく。秋からまき始めた野菜の芽がでないのだと言う。よくみたら、出るにはでているが、双葉が虫に完全に食われてしまっている。出ても出ても食い尽くされるようだ。大根の葉っぱも食い荒らされて頼りなげだ。連日の雨で土の跳ね返りで土だらけになり、より悲劇的に見える。
先日、そのおばちゃんが彼女の畑でこう言った。
「やっぱり虫除けしなきゃね」
手には白いプラスティックのボトル。
「あたしはこのにおいがいやなのよ~」
畑の畝に大根の新芽。その横に白い顆粒状のものが撒いてある。
私は「ああ、そのにおいに刺激されて虫が逃げるんですね」
と、いった。
家に帰って晩ご飯を食べながら、ふと虫除けってなに?と思った。アホな私は何時間もたって気がついた。虫除けって、農薬?
オ。。。、オ、なんとかっていってたよなあ。
ネットで農薬の種類と検索してみる。すぐに出た。オルトラン。なんだあ、農薬っていってよね、おばちゃん。
ネットによると、オルトランは、浸透移行性の優れた殺虫剤。その養分を野菜に吸わせ、それを食べた虫が死ぬと書いてある。へ?それって虫除け、じゃなくて、虫殺しじゃねえか。しかもそれを撒いた何日間かは、野菜自体を食べてはいけないとも書いてある。食べちゃいけないってえのは、つまり何かしら人体に影響があるということだ。なんだかおっかないものをつかっているんだなあ。
わたしゃ、農薬は、散布して葉についた何かを虫がなめて死んじゃうのか、もしくはその土の上に撒かれたものを虫が食べて死んじゃうのかと思っていた。だから洗えばすむものかと。そうではないらしい。野菜そのものに吸収させてそれを食べた虫が死ぬ。えらいこっちゃ。そんなもん食っているのかおばちゃんは。
そのオルトランは人畜無害でかれこれ30年近くも使われているんだそうだ。しかし注意書きには手で直接触るなとか、散布する時はマスクしろだの、撒くのは年に何回だの、撒いたあとしばらくは収穫するなだの、なんやかやと注意しろとたたみかける。人畜無害なんだから何も心配するこたあねえんじゃないのか。人畜無害なんでしょ?
もっと読むと、中毒を起こすとも書いてある。あれ、無害じゃなかったっけ。
虫除けと称して虫を殺し、無害と称して中毒に気をつけろという。なんだか建前と本音がありそうだなあ。
でも「虫除けするのよ」って言った方が「農薬撒いているのよ」と言うより、使っている側もどこかで安心する。ようするに自分の心を納得させているんだな。「オルトランは無害よ」というのも、一種の呪文のようなもんかもしれん。「大丈夫、大丈夫」といっているようなもんだ。そういいながら心の中で「気をつけなくちゃ」と思っている。安全とは使い方次第なのだ。この使い方次第(さじ加減)ってのが、人によるわけで。。。。
近頃はネオニコチノイドという「減農薬」と称されるものがでてきているらしい。そいつは、無臭で透明で存在が確認できない。しかも散布するとキロ範囲で広がるらしい。それは昆虫の神経をおかし、狂い死にさせると言う。その威力は持続するらしい。最近のミツバチがいなくなる現象もこれが原因ではないかと危ぶむ説もある。散布された菜の花にみつをとりに来たミツバチが脳を冒され、自分の方向を見失い、太陽の光に向かってひたすら飛ぶと言う。そして燃え尽きる。まるで「蜂のムサシ」が太陽に試合を挑んで負けたあの唄そっくりではないか。
最近は何でもモノはいいようなんだな〜。言い方次第で勝手にイメージできる。エコっていえば、車でも洗濯機でも買い替える。その車や洗濯機作るのにどんだけ石油使っているか。エコって言えば、誰でもやさしい人な気分になれる。「減農薬」っていえば、農薬少ないんだ〜って、得した気分になれる。「虫除け」っていえば、虫さんがどっかに行ってくれるって気分になれる。
しかしその「虫除け」さえ効かない虫が出てきたようなのだ。
「黒っぽくってみたこともないような虫」が、おばちゃんの畑で次々に新芽を食べているそうなのだ。これは虫の逆襲?そしてちまたでは除草剤も効かないスーパー雑草もでて来ているらしい。
これは自然の摂理が動いているだけなのかもしれない。逆襲ではなく、何かを教えてくれているような気がする。目先の見栄や利潤のために自然のバランスを崩しておいて、それに順応する存在がでて来ると大騒ぎする。その前に自分がなにやったか思い出すのが一番の早道なんじゃないだろうか。でてきた気に入らない存在をまた殺そうとするのは、身体に出た病の症状を消すのと何ら変わりがない。その病がでたのは身体が何かを教えてくれているからなんじゃないだろうか。
自然はいつも美しいこの地球のバランスを保とうと、人知れずひたひたとその任務を押し進めているのではないだろうか。
絵:ボージョレーヌーボーのボトルラベルデザイン案
2010年10月12日火曜日
自然発酵種の完成
えらい長いことかかりました。ついに自然発酵種の完成かあ~~~?
畑でとれた小麦をコーヒーミルでキコキコひき、それに水をくわえただけで発酵させるというパンの発酵種です。一番最初は大失敗。パン種を元に小麦粉をくわえ、フライパンで焼いてはみたものの、とても食える代物ではなかった。口の中で、すっぱいの、にがいの、えぐいのの3拍子が踊りまくり、のどを通らず吐き出した。人の身体は正直です。動物的に反応するようです。
げんなりするのもつかの間。また再度挑戦。試行錯誤の末、ついにパンらしきもの完成!
3ヶ月かかった。われながら、しぶとい。
どうも発酵するためには、空気中のいろんなモノたちとの共同作業があるようなのだ。
私しゃ怠慢なもんで、ぬか漬けなどない(何度も失敗してくさらしているから)。しかし発酵食品や空気中の微生物たちが、パンの発酵もうながしてくれるようなのだ。
発酵と言えば、ダンナの大好物の納豆がある。んで、そのパンの種の上に、納豆を置いてみた。近づけるとなんか感染(?)しそーな気がしたのだ。
ほんでもって、今度は声かけ。
おしだまった種に口を寄せて
「おっきく膨らめよ~!」と、大声をかける。
はたまた種の入った容器のふたを開けて、ふたでパカパカしながら
「発酵菌よ~入れ~」
と空気中に漂っているであろう何かしらの発酵するもとを入れてみたり。
ついでに種に「発酵踊り」も披露する。。。
あの手この手を使って発酵を促したのだ。(そ、そんなもんででうながされるのか。。?)
すると冷蔵庫の中で小麦粉はぷすぷすとおならをし始めたのだ。(発酵してるってこと!)気を良くした私は、小麦粉というエサを気長にやりつづけた。だがそれでもまだ「ふくらむ」というところまではいかない。
ある時、小麦こねてみようか。と思い立ち、パンをこねるようにこねてみた。するとそれがきっかけになったようで、納豆の下でゆっくりと膨らみはじめた。1週間くらいで2倍になった。まだまだ膨らみそうな気配。そのままエサをやらずに、飢餓感を感じるまでほっておく。そしてエサ投入。なんだかオッケーなきぶんに。
いっちょ作ってみるか。
だが、これがパン生地になるわけではない。これを元に、一部をとって強力粉とちょっとのお塩とちょっとのお砂糖と水でこねこねする。これが林弘子さん流にいえば、「中種」になる。まだまだこれではパン生地ではない。
それを元に、本格的なパン生地を作るのだ。なんと手間のかかることよ。
おそるおそる作ったリーンな生地は、なんとも味わい深いフランスパンになった。うおー!ついにできたどー!というのもつかの間、二度目の中種作りに失敗。む、むずかしすぎる。。。ううう。。。。
失敗は成功の元。失敗を繰り返しながら、なにかを学んでいる予感がする。今日もカンパーニュの生地であんぱんとアップルパンを作る。もちろん固い生地。しかしイースト菌にはない、甘さとこくがある。なにより発酵菌のにおいがしない。やはり小麦粉から作った発酵菌だからだろうか。
最近、微生物づいている。石けんなし生活を続ける中に、身体にすむ微生物を感じ、畑で土の中で働く微生物たちを感じ、そしてまたパンの中に微生物たちの働きを感じている。目には見えない無数の存在たちが私たちの生活をとりまいている。その恩恵を受けながら、私たちは生かされているんじゃないだろうか。
あああああ〜、ありがとう、微生物たちよ!
絵:食品会社のロゴマーク
2010年10月9日土曜日
欠点の快感
町中にキンモクセイのにおいがあふれている。わたしゃ、キンモクセイフェチ。このにおいが、くわ~たまらんのじゃ。鼻をおっぴろげて勢いよくずーずー空気を吸いこむ。ほとんど過呼吸になって、うしろにぶったおれそーだ。
しかし今年のキンモクセイは、ちと濃厚な気がするが、気のせいだろうか。自分ちの庭にキンモクセイがある近所の友だちも「においすぎてムカムカする」といっていた。確かに息するたびにこのにおいが入って来るときついかも。
今日の日めくりカレンダーに「他人の欠点より、長所を見よう」と書いてあった。
長所を見る方が人間関係しあわせにちがいない。しかしこれにはちと意志力がいる。なぜか知らんが、人は他人の欠点は眼につきやすい。なんで?
人は人の欠点を見る事になれているんじゃないだろうか。自分も含めて。テレビつけたって、悪いことした人のニュースばっかり。だれがどーしたの、こーしたのと人の揚げ足ばっかりとって話題にする。
「こんないいことする人がいました」とニュースになるのはめったにない。
つまり無意識に人は他人の欠点を見るくせがついているもよう。学校から帰ると、お母さんが、近所の人の悪口を言っている。晩酌をするお父さんがテレビに出ている政治家にむかって、「こんな奴はダメだ」といったりする。学校では朝礼で校長先生が「昨日ダレソレが補導された」という。
その批判的な眼は自分にも注がれる。おかあさんに、「ちゃんとしなさい!」といわれるし、おやじに「おまえ、そんなことで将来どうする気だ?」と脅されるし、先生には「こんな成績でどーする!」と小突かれる。
え~ん、世の中人の欠点みることだらけだあ~!
と、そんなこんなで、他人の欠点は見えやすいのだ。
もっと突っ込むと、そこには意地悪な気持ちも入っている。
「あの人、あんなことするのよ。や~ねえ~」
という瞬間、自分は高みに位置づけられる。高みにたつことで、自分を実感できる。ふんふん。私ってあいつより上。。。
そしてまた、自分の欠点も見えやすいのだ。
「あ~っ!またおバカなことしちゃった!ど~しよ~!」
この場合、やったことをみるわけではなく、やって動揺している自分を感じている。
ここでこの二つの行為はいいとか悪いとかという判断はしないで聞いておくれ。この二つの他人と自分の欠点をみるという行為は、なんというか「自分を実感できる」行為なのだ。自分がここにいる。確実にここに存在していると思える行為なのだ。
反対に、「あの人いい人よねえ」とか「ああ、わたしってえらいなあ」と思う瞬間には、あまり生身の実感がない。はい。イメージしてみてくらさい。
悪口を言っている時間って、けっこう長くない?
逆に肯定している時間はあっさりとほのぼのと、そしてさらっと一瞬の出来事じゃない?
じと~っと、「あたしって、えらいなあ~~~~~~~~~~~~~。ああ、あたしって、えらいなあ~~~~~~~~~~~~~~~~」
と、延々と長くはつづかないでしょ?え?つづく?そりゃ、ナルシストだな。
でも人の悪口は延々と長くもたせることが出来る。「あのやろ、このやろ、おぼえてろよ、そういやむかしこうだった、ああだった、もぞもぞもぞ。。。。。。。。。」と心の中でマイブームできるのだ。悪口はついでに人にも話せる。「あの子って、こんなことしたのよ~」「え~~~~~っ、それってひどくない?」「そーなのよ、そうそう」「だいたいあの子ったらねえ~。。。。。。」と、人と楽しむことも出来ちゃう。人の欠点というのはおもしろおかしく遊べるのだ。政治家も、タレントも、ダンナも。
そして自分の欠点も延々と悩み続けることが出来る。あたしってダメだわ~。と。特に私のように自己嫌悪病の人間はそれにいそしむことが出来る。「ゲ、編集長にあんなこと言っちゃった。やべ~、もう仕事来ないかも。。」「お天気なのにふとん干してない。カビ来るかも。。。」「高知にしばらく帰ってない、どーしよー」などと、勝手に自分遊びが出来ちゃうのだ。
人は自分の中で何かを考えている時間が好きなのだ。それは人によって全く違う。自己嫌悪するのが好きな人、人の悪口言うのが好きな人、そして心配することが好きな人。。。無意識に考えている内容はたいていネガティブなことじゃないだろうか。そしてそれは何よりも自分を実感できる行為なんじゃないか。自分という存在、名前のある一個の、他人とは独立した存在。その心の内は誰にも侵されない自分だけの世界。。。。自分自分自分私私私。。。
ところが、他を肯定する考えはあまり自分を実感できない。「○○さんて、いい人よね~」と独り言言っている瞬間、そこには自分という実感が希薄だ。試してみて欲しい。何かを肯定している瞬間、自分を感じられるだろうか。山がきれいだと思う瞬間、ここにいる自分が希薄に感じないだろうか。○○さん、いいなあ~と思う瞬間、自分が希薄にならないだろうか。なんというか、とろけていくような、自分と他人が境界線がなくなるような穏やかな曖昧な感覚にならないだろうか。
つまり、欠点をみればみるほど、他人と自分に大きな境界線が出来、自分の欠点をみればみるほど自分というものが肥大化していき、自分というものの存在をがつんと感じることが出来る。反対に長所を見れば、他人も自分も曖昧になって来る。そこにはおおらかなあったかさがあるだけである。だが自分というものを実感できにくいのだ。
だから人は無意識に他人や自分の欠点をみようとするのだ。それは自分がここにいる!という感覚をもち続けていたいからかもしれないのだ。
そう、じつはそれによって自分を実感するという「快感」を味わってしまったからなのかも。。。。
絵:雑誌表紙
2010年10月7日木曜日
雑草のような大根
大根が自生するとはしらなんだ。
今年の春、源の助大根の種がいっぱい出来た。5月頃のことだ。大根のさやの形はちょうど東京の汐留辺りにある有名な「うんこビル」を思い出してもらうといい。金色ではなく緑色だが、あれをちょっと長くした形にそっくりだ。そのさやの中に、3個から5個の大根の種が入っている。やまんばは、冗談でそのさやごと、花咲か爺さんみたく、畑中に「種まきばあさん」をやった。
それからうんともすんとも芽は出なかった。
ところが10月に入って、今日気がついた。あっちゃこっちゃにまるで雑草のように大根の葉っぱがはえてきているではないか。中にはすでに20センチにまでのびている、本気で大根になる気の奴もいる。しかもなぜかみんな畝道。畝の上は私が草とったり土をかき回したりするから落ち着いて根が張れないらしい。畝道なら、土をかき回されることもない。がっちりと踏みしめられた固い土の上から、にょっきりとりっぱな大根の葉っぱが出ている。気がつかずに何度踏んでしまったことか。ごめんちゃい。
「大根を作る時は、うんと畝を耕して柔らかくするんだよ」
近所の畑のおじさんに何度もおしえてもらった。大根は柔らかい畝にしか生えないと思っていた。なのにこの大根たちはなんだ?しかも近所の畑の大根の葉っぱよりも大きく育っているし。そして元大根があった畝にも出始めた。
耕さないって、こんなにおもろいことがやってくるんだな。
自然は、わしら人間の知らないところでひとひたと自分たちの生を生きているんだな。ちょうどいい時期にちょうどいいタイミングでひょっこりうごき出す。そこには人間の知恵では思い浮かばないことがいっぱいあるのだ。ただ人間はそれをみて、喜んでさえいれば、そしてそれをありがたくちょうだいするだけでいいのかもしれない。
絵:食品会社のためのシンボルマーク案
2010年10月5日火曜日
阿寒湖の虹
重大な任務により、北海道は阿寒湖のほとりにいってきましたです。なにぶん、隠密なので、その目的にかんしては、しみつ(秘密)であります。ですが、生まれて初めておりたった北海道の地、空気、緑、風、雨、光、そして虹までも味わわせていただきました。しかしそれにもまして、言葉で言い表せないほどの人の温かさとおおらかさを満喫。もう腹一杯でございます。阿寒の皆様、ほんとうにごちそうさまでした。
女満別空港に降り立ったのが、3時前。友人のお母さんの車をお借りして、網走に入り、オホーツク海に向かう。わたしゃ、高知県の海しか知らない。あったかい太平洋の波しか知らない。ぜひ北の海をみてみたいと思ったのであった。途中、サンゴ草という真っ赤な草を見に行く。ここら辺にしか生えない貴重な草。湖畔の湿地帯に群生していた。しかし今年の暑さで思うように赤くなっていないもよう。その湖を回るように、車で海に向かう。湖のわきを抜けた瞬間、ごお~、どど~ん、という地の底から溢れてくる音とともに目の前に海が広がった。すごい。車を道路のわきに止めて、海を体感する。これぞ地球のエネルギー。よせてはかえす地球の呼吸。溢れる潮のにおい。地を揺るがす波。水平線の向こうからやってくる異国の潮。ここに流氷が流れ着くのかあ。
基本的に私は海には興味がない。湘南の海も、フロリダの海も興味がない。
「海がみたいの。ドライブしましょ」なんてそこらのおねーちゃんがいうようなセリフははかない。そんなもんはわたしにとっちゃ、海じゃない。しかし今回は
「海がみたいぜよ。ドライブするぜよ」
生まれて初めてはいたセリフだった(注:こんな高知弁はないちや)。
高知の海とはまるでちがう。おそろしー強さとさびしさときびしさと、なんだかわけのわからない感情がおしよせてくる。頭で理解しきれない感覚をただ立ち尽くして全身で味わっていた。
阿寒湖のほとりに降り立ったのは、夜。アイヌコタンは、しっとりとぬれておりました。初めて見る「アイヌの村」という名の街。入り口には巨大な木彫りのミミズクが、羽を広げて訪れるよそ者を見定めるような、威嚇するような、それでいておおらかに、見下ろすようなカタチで私を迎え入れてくれました。おとぎの国に入り込んだような不思議な感覚。ディズニーワールドを100分の一にギュ~っと凝縮したような、ちょっとめまいがしそーな現実の世界ではないような感覚になる。
入り口にミミズクが鎮座ましましている。これはまさに鳥居だ。その鳥居をくぐると、奥に向かってぐっと急激な坂道になっている。坂道の両脇にはお土産物や食堂がずらっと並んでいる。そして一番奥には建物が。その建物で、アイヌの伝統古式舞踊が粛々ととりおこなわれるのだ。
これはまさにひとつの神社の形ではないか!神社フェチだった私は、一人勝手に妄想してくらくらした。ミミズクの鳥居をくぐって参道の両脇に出店。その一番奥は社。その社でお神楽が舞い踊り、神に捧げられるのだ。
いや、アイヌ人を倭人に見立てているんじゃない。そもそも神社の形そのものが何かの真理をついた姿なのかもしれない。それを倭人が神社という形にし、アイヌ人はそれをコタンと呼ぶ。
コタンは他の阿寒湖町の道とは少し方向が違う。変だなと思いながら地図を見ると、コタンはちゃんと東西に向いていた。
そのコタンの一角で、アイヌ人と倭人がひそひそとしみつの会議を開いた。(しみつだから状況ははしょるのである)
ホテルに戻ると、夜中の3時を回っていた。やまんばはだれひとりいない湯船にぽちゃんとひたる。なんとゆうすべらかな温泉なのだ。身も心もとろけそーになりながら、そのままそこに寝るわけにもいかず、意志力で部屋にもどり、ふとんにもぐりこんだ。
翌朝、窓を開けると目の前に虹が広がっていた。阿寒湖を渡る虹の橋。ありえない。絵に描いたようだ。いや、まちがってもこんな絵は、恥ずかしくて描けない。そんな風景をもらった。
その日は一日中だあだあぶりの雨と、横殴り(?)の風。台風かあ〜?阿寒湖はマッチロ。なんにもみえない。しかし霧に浮かぶ美しい島を見つける。しばし美しさにひたる。
その夜もしみつの会議が粛々と無事とりおこなわれる。ああなんという美しいコタンの人々よ。こんな濃厚な時間をもらってしまっていいのだろうか。「いやいや、ほんとうにすみません〜」恐縮しながらもしっかりと、すべてを味わわせていただくどん欲なやまんばであった。
出発の朝はドン晴れ。
そーとー日頃の行いが悪いと見える。コタンの人々に見送られ、後ろ髪を引かれながら、コタンを去る。釧路空港から見えたのは、雌阿寒岳だったのだろうか。手を振ってくれているように見えたのは気のせいか。
みんなの顔がその山にかさなった。
絵:この絵を見て、アイヌの歌い手床絵美さんが「摩周湖みたい」と言ってくれた。摩周湖は阿寒湖の近くにある。
2010年10月1日金曜日
今日から原画展で〜す
今日10月1日から31日まで、高尾のふもと「ふじだな珈琲」で展覧会を開催しま〜す。
最近シリーズ展開させてもらっているメディアファクトリー新書の表紙のお仕事です。本と原画を同時に展示します。お気に召した方は、ぜひ本もご購入ください。
新書といえば、じみ〜な色合いに、文字だけ!というお固いイメージなんですが、メディアファクトリーさんはちょっとばかし違いました。大胆にも「イラストでいきましょう!」と。
編集長と額をくっつけあわせて「あ〜でもない、こ〜でもない」とアイディアを練り上げ、制作しました。
私が制作したものと、じっさい本として出来上がったものが、微妙に違います。そこがまた原画展の面白いところ。その辺りを楽しんでもらえたらうれしいです。
まだお山の木々は秋めいていませんが、空気はすっかり秋です。コーヒー飲みながら、高尾山の空気感と虫の声を楽しんでいって下さい。おっと、ついでに私の絵もお忘れなきよう。
おまちしていま〜す。
2010年9月25日土曜日
理想はおねだり
自分を否定するということは、今の自分がイヤだということだ(あたりまえだろ)。だがそれを否定するということは、今の自分がイヤだをイヤだすることで、要するに今の自分でいい、ということだ。(ややこしーのー)
そーやって一つづつ否定を否定していった。
まず最初に感ついたことは、どんだけ自分をいじめていたかということだ。あれもダメ、これもダメ、あれしちゃいけないこれしちゃいけない。細胞の隅々までチェック機能がほどこされ、完璧に作動。足を一歩踏み出すごとに「あ、それダメ」「ああ、それもダメ」とチェックおばさんがいう。そうやってやること成すことをいちいちさまたげられ、だんだんストレスがたまって来る。そしてあげくの果てに爆発し、いきなりぶっ飛んだことしてしまうのだ。それを繰り返していた自分に気がつく。
人は自分や他人に理想の姿を描いて、それに向かって人間を改造していく。それはそれで人に迷惑かけない生き方を教えてはくれる。しかしそれも行き過ぎると自分はダメなんだ、人間としてサイテーなんだと、ふさぎ込む方向にももっていってくれる。「理想による改革」は、諸刃の剣でもある。「理想」と言うと美しく聞こえるが、よく考えたら、今置かれた状況がイヤだから、こーあるべきだといいつつ、実はおねだりしていることだ。
理想は国家の改革から、自分のダンナの改革まで、ピンからキリまで使われる。
だけどその心理の根底に流れるものは、「こんなのいやよ」と不満を持っていることなのだ。
つまり今ある状況が気に入らないのだ。自分も他人も世間も政府も。じゃあなんで気に入らないかと言うと、「こうあるべき」という理想があるからだ。はて、そのこうあるべきは、どっからきたのだ?
最初に親にもらい、せんせーにもらい、マンガでもらい、本でもらい、テレビでもらい、きんじょのおばさんにもらう。そのおばさんは、その親にもらい、その親はそのまた親にもらう。
そんなに長いこともらい続けていたら、さぞかしニンゲンにとってすばらしー理想なんだろう。しかしそんなに長いこと受け継いで来ている理想があるのに、しあわせそーな人々はあまりみあたらない。なんでや?
そこにどっかに無理があるんとちがうんか?
そこで「こうあるべき理想」をポイって、ほっぽってみることにする。今ある自分をそのまんま受け取ることをしてみるのだ。アホな自分、失敗こく自分、怒られる自分、だらしない自分、みっともない自分、KYな自分、才能ねえなあ〜と感じる自分、へたくそな絵やなあ〜と思う自分を、みんな笑って受け入れてしまうのだ。
そうすると、何一つ自分にジャッジしていないのに気がついた。
朝起きた瞬間に喋っていた心、例えば、
「いかん!寝すぎた!やばい!」
という思考が、いつのまにか消えている。寝坊は、単に寝坊しただけのことだ。今まではそれに対して「まずい!」というジャッジが入り込んでいた。しかし、否定を否定し始めたら、「あ、寝坊した」と思うだけなのだ。そこには、まずい!怒られる!仕事にさしさわる!おまんま食い上げだ!という思考はない。
いままでだと、たったひとつ、「まずい!」と思うだけで、「おまんま食い上げだ!」というネガティブな結論にまで達する。
しかし、ジャッジがないと、「あ、起きよ〜」とおもうだけなのだ。
この違いはすごいのだ!
アホなことしてダンナにぷりっと怒られたとする。
すると瞬時に「なによ!あんただって!」とおもう。その心の裏には悪いことした、という後悔の念が混ざり込んでいる。つまり、そこに自分に対するジャッジが入り込むのだ。ところが罪悪感が起こると、同時に自己防衛に入る。それは自己正当化という方法をとって。
「あんただってあんときこうやったじゃないの、それならあたしだって悪かあないわよ!」
そんなものもろの思考を、私は瞬時に自動的にやっているのだ。
だが、ぷりっと怒られても、その瞬時の自動的な反応に自分自身が気がつくと、「あ、またやっちゃった?ごめん」と素直にいえちゃうのだ。
これはやっちゃった自分を真正面から見ている。
前の状態だと、やっちゃった自分を真正面から見ようとはしなかった。なぜなら、罪悪感が先に立つからだ。その罪悪感に押しつぶされそうになって、その苦しさから逃れるために自分を正当化する。その正当化に忙しくて、自分のやったことをみようとしなくなる。そしてまた同じことを繰り返していく。
人は、まず自分自身を肯定することから始まるんじゃないだろうか。なんでもいい、それでいい、とオッケーすることではなく、まず自分にジャッジしないことだ。いいとか、悪いとか考えないことだ。真実をそのまんまみるという行為。ただみるという行為。
しかしたぶん、この世の人々のほとんどが、瞬時にジャッジしている。そのジャッジは裏を返せば自己防衛によるものだ。
人をジャッジすると、自分を高みに置くことが出来る。それは自分と他人をちがう存在なのだと線を引いてしまうことにもなる。
また、自分をジャッジすることは、本来の自分と理想の自分に線を引いてしまうことになる。
ホントは理想の自分なんていないんじゃないか?その今ある自分そのものがホントの自分なんじゃないか?ただ人はそのホントの自分を見るのが怖い。理想というフェルターを通して自分の姿を見てしまうから、ちらっと自分の姿を見ては「ああイヤだ」と思ってしまうのだ。
だが理想なんて勝手に作られたものだ。それがホントに自分に当てはまるなんて思える?世の中に、理想どおりの人間がもしいたら、なんて個性のない面白みのない人間だとおもわない?外にある型の中にはまったって、苦しいばっかりだ。そりゃ、型にはまっておきさえすれば、人に後ろ指さされないもん。それだって自己防衛だ。
わしゃ、自分を否定するのが趣味だったことに気がついた。これは自分をいたぶって、生きている実感を得ると言うちょっとマゾヒスティックで、あほらしー趣味だった。まったく自分自身を生きていない行為だったのだ。これから自分を生きるために、この趣味から脱却することを宣言する!
絵:コージーミステリー表紙のためのイラスト
2010年9月19日日曜日
自己否定の否定
鳥が鳴いている。たぶん外来種のガビチョウだ。近所のおじさんにはうるさがられるが、声高らかに歌うその存在は実に楽しそうだ。川の音がする。虫の声がする。遠くで犬の声もする。山の麓はにぎやかだ。だがこれももう1ヶ月の間だけだろう。冬にはいると自然の音は、ふっと突然静かになる。厳しい冬のあいだ、自然はじっと押し黙って次の春に向けてひそかに準備をするのだ。
私は選定もしない伸び放題の草と木でジャングルと化した庭を眺めながら座る。高尾のお山とまったく区別がつかない。ウチの庭は高尾山だ。野鳥たちはウチの庭も高尾山だと思ってやってくるにちがいない。
先日知人からいただいたあんぱんをオーブンで温めて、お茶と一緒に至福の時間をもらう。焼きたての風味が戻ったあんぱんに、パン屋のオヤジさんの顔がかさなる。きっとあのオヤジさんは、いつも焼きたてのパンをうれしげにながめているのだろうな。
自分の思考を観察し始めてしばらくたつ。
そしてあきれるほどに自己嫌悪の中にひたっている自分を発見する。
つくし海という感情の海の中から一個、自己嫌悪をつりあげたかとおもったら、次の瞬間また別のバージョンの自己嫌悪をつりあげる。自分でつった魚をながめていると、海から他の自己嫌悪魚が呼んでいる。
「おーい、ここにもいるぞー」
んで、またつり上げるとまた別の魚が。んで、またつり上げるとまた別の魚が。。。。
気がつくとつくし海は、ほとんど自己嫌悪で出来ていたのだ。
あまりの莫大な量にあぜんとする。私の生きる動機はほとんど自己嫌悪なのだ。ガソリンは自己嫌悪だった!
頭をかくという動作ひとつにも自己嫌悪がさっと走る。
「みっともない?」「におう?」「髪のカタチおかしくない?」
庭に眼がいくと
「どうしよう。草刈っていない。みっともない。近所の人になんとおもわれるか。」「竹林になっちゃったらどーするの。あんたのずぼらなせいでしょ」「へびがいたらどーするの。あんたのずぼらのせいでしょ」
言葉にもならないほどの瞬時に心がそういっている。一歩足を踏み出すたびに自己嫌悪する。
つまり、自己嫌悪する材料を探しているのだ。なぜか。それが今まで生きて来た方法だからだ。
「あたしのこんなとこいやだわ」というおもいが、
「だからこうしなくちゃ」という行動を起こさせる動機になっていたのだ。
題して『あたしのこんなとこイヤだわ』モチベーション。
別になにをモチベーションにしてもいーではないか。今までそれで生きて来たのだから。
しかしそこには恐怖がある。
こうなったらどーしよー、もしそうなっちゃったら、ぜんぶあたしのせいよ。つくしちゃん、それであんた、ぜんぶ責任とれるの?
とれないとれない。
じゃあさっさといまからやりはじめなさい。
はいはい、やりますやります。
という、いつも恐怖に後押しされて生きるこのやりかたでいーのだろうか?
そんな心の状態ですべてを見渡したり、理解したりできるだろうか。いつも自分の恐怖に震えてびくびくしていて、冷静に判断できるのだろうか。
あたしのこんなとこイヤだわは、自分のありのままを否定している。自己嫌悪は自己否定なのだ。その自己否定の中で49年間生きて来ている。そんな生き方でいいのか?そこまで自己否定を徹底するのなら、そのパターンさえも否定してしまおうではないか!
んで、自己否定を否定し始めたのだ。
絵:アジアを旅するガイドブック表紙/スリランカ
2010年9月15日水曜日
裏高尾カラカラ砂漠
近所の畑の入り口に、おじさんがひとり座り込んでいた。
「ダイジョブですか?」と声をかけると、
「そろそろブロッコリーの苗を植えないとともって来たんだが、この暑さで身体がまいっちゃって、これからやろうかどうしようかと迷っているんだ。」
おじさんは、畑の入り口に生えている雑草の影に身を小さくしてうんこすわりしている。
「この畑にはどこにも日影がないから、ここですわっているしかない」
先日もそのおじさんを見かけた。一輪車に大きなポリタンクに水を入れて運んで来た。畑の入り口で一輪車の取っ手にすがりついたまま肩を落とし、ぜーぜー言っているのに気がついた。
「だ。。。だいじょぶですか。。。?」
おじさんは、
「もう。。もう。。。。こんなの。。。。買って食った方がましだあー!」
と、雄叫びをあげた。
空前の雨なし現象のおかげで、近所のどこの畑もカラカラ。一面赤い砂漠のようになっている。この「カラカラ砂漠」にいくら潅水してもあっという間に蒸発。野菜を育てるにはしばらくは延々と潅水し続けないといけない。
「とにかく芽出しだ。まず芽を出させないとはなしにならないんだ!」
近所の別の畑のおばちゃんが言うには、大根の新芽はこの暑さで芽がでてもあっという間に枯れていくそうだ。だがおじさんのいう通り、芽がでないことには大根はできん。
今年の夏は本当にきつかった。私はやり始めて2年目だから比べようもないんだが、みんな相当ばてている。知り合いの有機農法のおじさんは、ついに心筋梗塞で倒れてしまった。幸いにも一命を取り留めた。あーほっとした。しかししばらく畑には戻れない様子。きれいに整理してある畑が今は草ぼうぼうだそうだ。
その草ぼうぼうが、今年は生きて来る。
おじさんにはいえないが、じつはウチの畑は大根も葉ものも順調に育ってくれている。土の表面は草が影を作り、土の中は草の根っこが保湿する。この日照りにもかかわらず、水を含み、新芽は枯れることがない。
心筋梗塞を患ったおじさんも、その草ぼうぼうのまま畑をやればいいのに、なんて思う。だが、まちがってもそうはならないだろう。あくまで草は野菜の栄養を取ってしまうと信じているから。私はといえば、草がその土を自然な状態に変えてくれていると信じている。本当のことは誰にも分らない。人間には分りきれるものではないのかもしれない。ただ、みんなそれぞれが信じる方法で進んでいくだけなのだ。
おじさんを残して私も畑にいく。さっぱり育たなかったモロッコインゲンの支柱を外し、まわりの草も刈って、その畝の上に置いた。これから冬野菜を育ててくれるまでのしばしのお休み。どうして育たなかったのかなあ〜?外しながら、やっぱり理由は分らなかった。なにはともあれ、インゲンさんお疲れさま。
帰り道、おじさんにまたあった。
「あれ?ウチに帰らなかったんですか。」
「ああ、あれから結局全部苗を植えたよ」
ホッとした顔のおじさんがいた。
絵:アジアを旅行するガイドブック/香港
2010年9月13日月曜日
いらんことする人間
ニンゲンは、心を空っぽにすることをおそれているんじゃないだろうか。
延々と思考が動きまくっているのは、何か考えてないと死んじゃう!と、サメみたいなところがあるんじゃないだろーか。
何も考えないことを5秒でもやってみたことある?なんだか自分が漠然とし、誰でもなくなり、自分が消えてしまうような心細さって感じたことない?足下に大地がなくて宙ぶらりんな感じ。一瞬でもそれを味わったら、次の瞬間あわてて頭の中に言葉がでてくる。すると何かに捕まっている実感が得られるのだ。「私」という実感。それでまた思考がはじまる。
「おっと危ない。今のみた?私じゃなくなっちゃう感じ。ああいやだ。おもわず自分を忘れるところだった。くわばらくわばら」
思考は「私」と言うこの個人を意識させてくれる。
ところが、その無心の状態が少しつづくと、自分でなくなることがどうでもいいことになって来る。モノと自分との境界線がなくなり、自分は木でもあり山でもあり、そして空でもある。世界がただひとつの存在のように感じ、日常の生活がたいしたことではなくなる。その時のなんとも言いようのない感覚は私たちがまだ知らない、いや、忘れてしまっているなにかをかいま見せてくれるのだ。
だが突然思考がはじまり、一瞬のうちに「自分」に日常にかえってくる。
私はそのなにかを知りたいのだ。
きっとこの私たちがみている世界はほんの一部だけのことで、そのまわりにはとてつもない世界が広がっている。それを思い出すには、この厄介な思考が何かヒントを握っている気がするのだ。それは滝に打たれて修行することでも、瞑想することでも、世界に人々を救いに走ることでもない。ただここに今いる自分自身の中にその入り口がある。
やまんばは実験するのが好きになった。
石けんなし生活で自分の身体を使って実験した。そしたら身体は、それひとつで完成されたものであることを知った。畑も今、実験を繰り返している。
だから自分のこの考えも実験するのはおもしろいじゃないか。自分がなにを考え、なにに反応しているのか観察するのだ。この世のすべての不幸はこの心というか頭の中からはじまるのだ。人が死ぬことはいけないこと、病気になるのはいけないこと、会社をクビになるのはいけないこと、お金がないことはいけないこと。と言う基準は外からもらったものだ。その基準を元にして人々は、自分で幸不幸を作り上げている。その基準は遥か昔からもって来たことかもしれない。おじいちゃんのそのまたおじいちゃんから。それが人間本来のものなのか。どうして昔から延々と不幸なのか。歴史はどうしてこうも悲惨なのか。人間生活自身が不幸そのものなのか。
地球を見渡しても、地球の環境を邪魔しているのは人間しかない。人間以外はみんな見事に巡回して調和を保っている。地球にいわせたら、人間そのものがガンだ。
そんな煩わしい種族は、くしゃみでもしてのけちゃえばいいのに、地球さんは黙って我慢してくれている。きっとそこにもヒントがある。
いらんことするのが人間以外いないのだ。そのいらんことは、思考からはじまる。だからその思考から実験を始めるのだ。
絵:ペーパーバックミステリー扉イラスト
2010年9月11日土曜日
不安がないと不安?
やまんばは暇なもんだから、自分の心の動きを観察した。
すると、、、でてくるでてくるネガティブなアイディア。。。まるで何か考えていないと不安になるかのように。そしてその不安の材料を見つけては、また不安になる。おかしーではないか。不安を解消するために、不安の材料を探す心。
「どっかにない?ネガティブな材料。。?どっかに。。。あっ、あったーっ!そうそう、あたしのこれからの人生のことよ。いったいどーなっちゃうの?」
と、ほら、すぐまた不安になる。マゾか。
わしゃ、この心というか頭の(?)からくりを見つけちゃったのだ。
どうも脳みそか心か知らんが、それはこのように常に動き回って、考えるものをさがしているようなのだ。そしてそれはほとんどネガティブなもの。暇な人はやってみてください。自分が次々に頭に生み出してくる考え。そのほとんどがポジティブなものじゃなくって、ネガティブなものじゃない?
そしてその思考はほっておいたらどこまでも突き進んでいく。日常的に具体的にやることがないと、そのドツボにはまりやすい。仕事があれば、「あ、仕事」と、意識は別のところに飛ぶ。しかし仕事も慣れてしまって決まった動きのものなら、頭は暇になるので、また勝手に頭がネガティブなことを考え始める。ほとんど自動的に。
「仕事早く終わらねえかなあ〜」
「つまんねえ仕事だなあ」
「きょうはぶちょーがきげんわるいぞお〜。」
ここに「楽しいなあ、仕事!」と考えている人がどのくらいいる?
ネガティブな考えはいつまでも持続して考えることが出来るが、楽しいなあ〜人生!と考える時間は一瞬だけなのだ。なんで?やっぱり人はネガティブなものに引っ張られる?
ひょっとしてその原因は、日本人の気質のようなものもかかわっている?
ちっちゃい時から、のんびりかまえていてはいけない。常になにかしていないといけないとせかされて育って来たではないか。そういう教えが心底身に付いて意識もされない。そのありがた~い教えにのっとって、常になにか考えていないといけないと思い込んでしまっているのが現代人なんじゃなかろうか。
そう思うと、どんなにお金があってもどんなに健康でも、どんなに地位が高かろうと、心は常に不安を探して考え続けていることになる。ということは、人はいっこうにしあわせになれないじゃないのよー!
しかもその考え方はしあわせになれないどころか、心を不安定にし、自分自身にも他人に対してもこの世に対しても不信感がつのり不調和を生み、人間関係がぎくしゃくし、身体が変調を来たす。
みんなが不幸なのは、この右往左往動きまくる頭の動きに気がついてないからなんじゃないか?電車に乗ってもネガティブなシーンに気がとられ、道を歩いてもネガティブなものに心を奪われる。すると決まってこういうのだ。「ああ、だからこの世はきついのよ」そういって首を横に振り、眉間にしわを寄せてこれからの仕事の打ち合わせを考え、今晩の晩ご飯のことでうんざりする。
そのパターンに気がつくことじゃないだろうか。頭は常にそのように動いてしまう性質を持っているということを。
絵:コージーミステリー扉イラスト
2010年9月10日金曜日
しあわせ感
人が一番求めるもんは、つまるところしあわせなんではないだろうか。お金がどんだけあっても、どんだけ健康であっても、どんだけ権力握れようと、どんだけ子だくさんであっても、どんだけ仕事がいっぱいあっても、どんだけ畑で野菜がとれようとも、つまるところは、その人が感じる「しあわせ感」なんじゃないだろうか。
んで、そのしあわせ感は、どこにもころがっていないし、どんな高い山の上にもないし、銀行の中にもないし、デパートでも売ってないし、つまるところ(しつこいなあ)、自分のこの、ちっこい胸(貧乳の意味じゃない)の中だけにあるもんではないだろうか。
人は何かと「もっとお金があったら、、、」「もっと健康になったら、、、」「ダンナがもっと家のことしてくれたら、、、」「もっと友だちが出来たら、、、」「あいつさえいなけりゃ、、、」。。。
「なんだかしらないが、そーなってくれると、あたしは幸せになれるんだよお、このばかやろー!」っておもってる。しあわせになれる方法は、外の何かが変化をしてくれたら、あたしは幸せになれるんだと思っているふしがある。
でも世の中には、腐るほどお金を持っている人もいれば、天まで届くくらい地位の高い人もいる。死ぬほど子だくさんの人もいるのに、それほどしあわせそーなひとはこの世に見当たらないのはなぜ?
たとえば、お金が一銭もないとき、ここに100円があったら、コロッケ買えるのになあ~とおもう。んで目の前に100円が落っこちてたとする。すかざずコロッケを買う。(交番に届けるあんたはえらい)コロッケ食ってしまうと、パン食いたいなあ。とおもう。パンが落ちてたとする(食うなよ~)。すかざず食う(食っちまうんかい!)。パン食っちまうと、コーラが飲みたいなあ~とおもう。コーラが落ちている。(落ちてるわけないだろ)コーラも飲む(飲んじまうんかい!)。
と、このように人はあったらいいながどんどんひろがっちまうわけだ(え?やまんばだけか?)。その心理は、これでない、あれ。
つまりいつも心は満足しないのだ。いつも不安を抱えている。100万円あったらいいなと思っていた人は、その100万円をもった瞬間、そのしあわせはどっかにふっとんでしまい、次の不安が始まる。もしこれがなくなったら、、、と。
人って不安の材料をつねに探してないか?
ひとつの心配事がおさまると、別の心配事を探している。その心理はここでないどこかであり、これじゃないなにか。未来のことを案じて今何か策を練らなければとんでもないことになると、心の深いところでその恐怖におびえている。だからとりあえず、100万円手に入ったら、「さ、次の心配どこ?今のうちに手を打っておかないととんでもないことになるからね~」と心が言う。すると、テレビで「今の保険で大丈夫ですか~?今ならこれだけの金額で一生涯保険!」と聞こえて来る。万が一のために、何かあった時のために、とさそわれる。んで、その不安を解消するためにその100万円をほいっと渡してしまうのだ。CMはそういうニンゲンの心理をうまく利用することを知っている。私たちはその不安をネタにおどらされている。
さて安心が買えた100万円がなくなってしまうと、心はまた
「100万円あったらいいなあ~」とはじまるのだ。
しあわせ求めてネバーエンディングストーリーだ。
絵:アジアを旅するガイドブック/台湾
2010年9月9日木曜日
みんな正しい
人はみんなそれぞれに正しいんじゃないだろうか。
それぞれの立場でそれぞれの理由によって行動する。しかしそれははたの人から見たら、
「ありえね〜」とか「しんじらんない〜」と解釈される。かくしてその行動した人は影で
「あいつばかじゃねえの?」と揶揄される事になる。
そういう事がこの日常の中でいくつも繰り返されている事じゃないだろうか。
先日も母が知り合いのとった行動がおかしい、ばかばかしいと怒ったり嘆いたりした。
長年日本画の生徒であった人が、先生クラスの画家しかやれない画廊で大掛かりに展覧会を開くと言う。母に言わせれば、彼女はまだ展覧会を開けるようなレべルの絵ではない。しかも申し込んだ画廊から、「生徒さんが申し込むようなところじゃないわよ」と言われたらしい。それでも彼女はがんばった。最近同じ教室の生徒さんが東京で個展を開いた。(それは子供が東京にいるからという事でもあるが)それを聞いて、がぜん闘争心が湧いたようだ。大々的に宣伝をして、わざわざ図録まで印刷する。相当お金が飛ぶ。それでもやりたい。しかし彼女ひとりの絵では空間がもたないらしく、同じ日本画教室の仲間を呼んでの展覧会になる。ところが母はそこに呼ばれなかった。彼女いわく、
「あなたは絵が私よりうまいから出さないでくれる?」
ここまであっけらかんと言われると気持ちがいい。私は笑ってしまった。
しかし
「アタシもそっちの方が楽ぞね。なんちゃあ手伝わんでえいし」
という母の言葉に怒りがあった。そりゃ常識からしたら、見えはりの勝手な人である。母の美意識からしたら、もってのほか。ニンゲンの風上にも置けないひどいやつ。
でもそうなのかなあ。
彼女にとったら、それが「正しい行為」なのだ。見えはるのも、彼女の存在理由を求めるためなのだ。私はここにいていいのだと、外から確かめたいのだ。それは彼女の小さい時の生い立ちも影響しているにちがいない。彼女のひとつひとつの行動がそういう今まで生きて来た間に身につけて来た考えなのだ。
人は自分の中に基準というものを作る。それがいわゆる「常識」というやつだ。ウチのダンナがいつも「フツーこうだろ!」と怒る、その「フツー」とは彼の中にある常識なのだ。それは誰とも同じではない。みんなそれぞれの立場、生い立ち、経験その他、無数の出来事によってその場その場で対応して出来上がって来た考えであり、行為なのだ。
母も同じように彼女の生い立ち、おばあちゃんの考えをもらって基準を作り、その基準でもって行為している。私にはそれは美しい行為にみえる。(時々おバカだけど)しかしそれも私が母の基準をみて育ったからなのだ。
だから先方のおばちゃんの行為はその母からの基準でみれば醜く映る。が、それは一視点から見ただけの事だ。他の視点から見れば、自分の欲望をそのまま表現する素直な人、となる。
「かわいいじゃあないか〜、そのおばちゃん」
とダンナは言う。
「そこまで素直に言えないぜ。あんたの方がうまいから出すななんて」
つまりそれは母の絵を認めている事でもある。
いわれた当事者はそんな事言われたら頭にくる。でもそこでジャッジしてばかりいると、その人がもつ基準の中だけでいる事になる。それでは人はいつまでたっても相交わらない。そんな出来事があったという事は、そこで何かを考えろと言われている。
「あなたの基準だけで生きていてもくるしくなるわよ」と。
人は自分の基準でもって、人や世の中をはかっている。いや外ばかりではない。自分自身の事だって「こうあるべき姿」を基準にして自分を常にジャッジしているのだ。そのおばちゃんだって、「あたしはこうあるべき!」という強迫観念的な基準でもって、自分を今押し進めているのだ。
じゃあ、そんな基準捨ててしまえばいいのか?
いんや。基準は自分ももっているし、人ももっているという事にまず気がつく事なんじゃないかな。そしてその基準でもってみんな行為をしている。そしてその行為はちゃんとそれぞれの心の中で正当化されている。そこを理解すると、ジャッジは必要だろうか。
ほんとうは、みんな正しいのだ。それぞれの立場でものを考えると言うではないか。それはとてつもなく大事な事なんではないだろうか。それは認めあう事でもある。そうなってくると、批判もジャッジもなくなる。自分自身へのジャッジもだんだん意識化するうちに消えはじめる。すると楽になっていく自分に気がつくのだ。
みんな正しい。みんなえらいのだ。
絵:アジアを旅行するガイドブック表紙/ベトナム
2010年9月3日金曜日
汗は天然の化粧水?
汗びっしょりになって畑からかえってくる。
べっとりぬれたTシャツは着替えるけど、シャワーは浴びない。なんでかしらんけど、汗をかいたまま汗を皮膚の上で乾かすと、なんだかお肌にいいような気がするのだ。この大事な汗をシャワーで落としちゃったら、もったいない気がするのだ。その汗が乾くと、今度はさらさらのすべすべな肌感覚になるから不思議なのだ。
きのう、いつも行くコンビニでビールを買った。畑帰りのこの一杯がたまらんのだ〜。コンビニのレジのおばちゃんにほめられる。
「農作業やってるわりに、腕にもシミひとつないわねえ」
「え?腕にシミなんかできるの?」
と、おばちゃんの腕を見たら、おばちゃんは恥ずかしそうに後ろにかくれた。
「まだ、若いからないのよねえ〜。私と違って」
「そーそー、わたしゃ、まだ18だもん」(うそつけ。そこに30足すんだろ)
などとアホな事言ってその場をもりあげる。
シミが出来んのは、腕にシミができるとは、考えた事がなかったからか?それとも石けん使わんからか?わからん。
顔洗うのも最近は石けんひとつ使わない。お湯かお水でじゃばじゃば。おわり。これやりだしてから、なぜか日にあたってもこげない。シミはあるけど、それ以上ふえる様子もない。右ほおにでっかいシミがあるが、これはNYで出来た。あの頃は石けん使っていた。
やまんばは、身体から出てくる液体(おしっこもか?)はステキなものにおもえる。だから汗は天然の化粧水なのだ。その天然の化粧水をシャワーで落としてしまってはもったいないとおもうのだ。潤いっちゅうもんが失われる。失われるとフォローしないと行けないので、化粧水をつける。でもそれが人工のものだから、いろいろ問題がでてくるっちゅうわけかもしれん。
そーゆーことで、腕にもシミが出来んのかもしれん。わからん。
ドシロートは大胆なのだ。なんという事を仮定するかわからんど。
ところで今、家の前の川でイノシシちゃんが沢ガニを食べている音がする。まだ明るいのに大胆だ。二階のベランダからのぞく。いた。母ちゃんイノシシとウリボウ5匹!なんだかかわいい。今日も暑かったからなあ。涼しく夕食を食っているわけだ。
高尾はまだまだ野生の王国じゃの〜。
絵:アジアを旅するガイドブック/タイ
2010年9月2日木曜日
玄米の炊き方
私が玄米を本格的に食べ始めたのは、ニューヨークで近所に住む日本人の絵描きさんから教えてもらったことからだった。それまで玄米と言えば、圧力釜でぷしゅぷしゅ言わせながら炊き上げる、ちょっとメンドーなやり方しか知らなかった。しかも玄米と言えば、かんでかんでかみまくって食べないと消化に悪いというふれこみも、身体にいいとは知りながら何となく敬遠させていた。
しかしニューヨークの乾燥した空気の悪い、しかもジャンクなフードにかこまれた食生活は、わしら夫婦の身体をじょじょに蝕んでいた。そんな矢先にお気軽にできる玄米の炊き方を教わったのだ。
なんのことはない。炊飯器で炊くのだ。こつは水の量の調節だけなのだ。炊飯器によってくせがあるので、それはやりながら調節してもらう事になる。でもだいたい普通の白米の水の量の1、5倍〜1、7倍くらいだろうか。そこらあたりまで水を張ってフツーに炊く。2時間ぐらいそのまま水に浸しておくと、なおいいかもしれん。私はそうやって7年間アメリカの玄米を食べ続けた。
今は日本に戻って玄米も炊ける炊飯器にたよっているが、それでもお釜にある水の量よりも多めに入れる。2合炊くのに、水の量の目盛の8ミリから1センチ上まで入れるのだ。最近は古代米といわれる黒米を大さじ一杯入れる。炊くとお赤飯より少し濃い色の紫飯ができる。これが玄米をより柔らかくしてくれるようだ。もちもちとした触感がとっても味わい深いし、やわらかい。この紫色は肝臓に非常によろしいようだ。目にもいい。こんだけコンピューターにかじりついているけど目が痛くならないのはこれのおかげかもしれない。もっとも老眼までは治してくれぬが。。。
その玄米を白米食べるのと同じように食べる。玄米はよくかんで。。。というのをスッカリコン忘れている。しかし最近読んだ本に、かめばかむほど胃腸が弱くなるという説もあった(笑)。口でかみすぎて小さくなるので、胃が働かなくなるという。だからあまりかまずに飲み込んだ方が胃ががんばるから強くなる!とも。
モノはいいようだ。好きなように解釈してくれ。わしゃ、わしのやり方で食べる。
玄米食べると野菜中心の食事、肉は御法度、魚は時に食べても良い。。。てのが鉄則らしい。しかしあのきついニューヨーク生活の中で、好きなもん食えんかったら死んでしまう!ってなことで、鉄則無視してがんがん食べた。で、イノチに別状はない今に至る。あのとき玄米がなかったら、あそこで元気ではいられなかった。玄米さまさまなのだ。
あのかむほどに味わいが広がる玄米独特の味わいに、スッカリコンほれてしまったやまんばであった。
絵:アジアを旅行するガイドブック表紙/中国
2010年9月1日水曜日
やまんばの食事
私は基本いやしーので、あまり食べ物に規制はつけたくない。
だけどこのやまんばにも歴史があって、昔っから自分は身体は弱い(とおもいこんでいた)ので、色々食事療法をやった。いつも身体がだるく、その原因も分らず、ひたすら「なにかしなきゃ」とおもって、漢方薬にも手を染めた(なんだか恐ろしーもんでも触るような言い方だな)。糖分を控えたり、塩分を控えたり、添加物をとらないようにしたり、マクロビオテックもちょっとかじったし、丸元淑生さんの本にもスッカリコンのめり込んだ。あげくに小食を知り、ほとんど食べない方向にまで行ったこともある。
数々の食事療法大作戦を繰り広げて、その結果こういう考えに至る。
何でも食べてやろ。
酒も飲むし、肉も食べるし、お菓子もジャンクフードも食べるし、カップヌードルもインスタントラーメンも食う。タバコは好きじゃないから吸わないけど。身体にいいことしているとしたら、玄米ぐらいか?けど、玄米食べる人は基本的に肉は食べてはいけないといわれている。だからそこで肉食べたらマイナスに転じて、なお身体に悪い事している事になる。しかし肉と一緒に玄米食べ始めてかれこれ15年ほどになるが、別に大病するわけでもなく、風邪もほとんどひかない。なので、玄米と肉の関係は、かんけーないのかもしれない。やまんばとダンナの身体だけがおかしーのかもしれんが。
ネットを見ると、いやというほど、身体に悪いものを教えてくれる。アステルパームやフッ素や添加物や電磁波やワクチンや。。。あれは食べてはいけないコレも食べてはいけないと畳み掛ける。そしてコレから飢餓がやって来るから自分でじこじこ食料を備蓄しましょうなんて。
なんだかねえ。テレビ見ても嫌気がさすほど脅されるけど、ネット見てももっと脅される。
こーゆーのはうんざりするのだ。
ヒステリーになって野菜ばかり食いたくないのだ。ヒステリーになって備蓄したくないのだ。備蓄する人はいざというとき、他人にその備蓄を分け与えられるのかい?わしゃできん。絶対自分の分だけ黙って確保しちゃうもん。こんな精神のわしだったら、備蓄しないがましだ。そんな自分を見るのはイヤだもん。
人は食べないでも生きていけるという説がある。水もいらないという説も。こういうのを聞くとホントかどうか知らないが、なんだか心のどこかがうきうきする。食べなきゃいけない、飲まなきゃいけないと、イケナイコトづくしに縛り付けられない開放感がある。この世に完全食なんてモノがいまだにないのは、ニンゲンが考える範疇でニンゲンは生きていないという事ではないかな。全く未知のもので生きているのかもしれない。
最先端の科学の説の中に、物質というものはないという説がある。それをもとに考えるなら、食べている食べ物も本来は存在しない事になる。おなかの中にたまった気になっているだけなのかもしれないし、それが栄養になって身体を作っている、という気になっているだけなのかもしれないではないか。どっかのウチュー人の話の本に、食べ物は単なる愉しみだから、からだの中に入ると食べ物は消えていくというのがあった。そんな考えがあるとしたら、砂糖をとったら太る、という気になって地球人は太るのかもしれないし、お肉を食べたら血液がドロドロになる、と思っているからどろどろになるのかもしれないではないか。そもそもその私たちの身体という物質はなかったらどーなる?私はこの物質的身体と思い込んでいるものも単に思い込みだけだったら?
お化けが見えるという人がいるけど、あれはラジオのようなものにチューナーの周波数をお化けが見える周波数に合わせているからみえるのだと言われる。だったら、ニンゲンの身体が見えるのも、その見えるという周波数に合わせて見ているだけなのかも。じゅーじゅー焼けるステーキがある、とみえるのは単に立体的なテレビの周波数に合わせてみていて、そこには匂いも味もあるから、そんな気になっているだけで、そのチューナーを変えればいきなりなにもなくなったりするかもしれないわけだ。
そのくらい曖昧なものだとしたら、食事をどうしたら健康になるなんて、どっかのテレビ番組を見ているのと同じレベルなのかもしれない。
なあんて考えると面白くなって、そんなら何食ってもいいや、という考えに至ったのであーる。そう思えるようになったのも、石けんなし生活が見る見るうちに私を元気にさせてくれているからかもしれない。そしてほんの少し野草などの自然のままの植物を口にする。これも大自然のエネルギーを受け取る大事な感覚じゃないかと思ったりする。
あれこれ心配しながら食べたり除菌するより、何でも食って「おーしあわせ〜」といいながら夜空を見上げ、布団に潜り、すっかり寝ちまうのが一番の健康法じゃないか?などと単純なやまんばは思うのであった。
絵:メディアファクトリー新書表紙
2010年8月29日日曜日
こわくね?
風邪薬、シャンプーリンス、石けん、除菌、歯磨き粉、化粧水、ニキビのクスリ、UVカット、胃薬、頭痛薬、生理痛、医療保険、自動車保険、生命保険。。。
久しぶりにテレビをつけると、こんな種類のコマーシャルで満たされているのが分る。たいてい、菌の絵を見せられ、こんなにたまった汚いもの、コレで一気に除菌しましょ、とか、痛いのとりましょ、とか、もしもの時のために、という言葉が飛び交う。
なんだかこわくねえか?テレビつけただけでその種類のコマーシャルのオンパレードなのだ。単におもろい漫才見たいだけなのに、その合間合間に「こうなったらど〜します〜?そうならないためにこうしましょ〜」と脅され続けているのだ。クスリも保険も石けんも表向きは「親切」で行われている。しかしその裏は、常に人を不安にさせておいて、何か行動しなきゃいけないと思い込ませる。60や70のおばちゃんまで「シミが出来たらいけないから、UVカットしましょ」と顔や腕に塗りたくる。心はいつもあれしなきゃ、これしなきゃという強迫観念のなかにいる。その価値観は全く知らない間に頭に入り込んで、人々の心を操っているのだ。
私たちは今まったくの2元論の中に暮らしている。
コレはいい事、コレは悪い事、コレは正しい事、コレは正しくない事、得な事、損な事、やってもいいこと、やってはいけないこと。。。
菌はとらなきゃいけないし、UVカットはしなきゃいけない。保険に入らなきゃいけないし、ビタミン剤は飲まなきゃいけない。
人はあまりポジティブな事に心は集中しない。どっちかっちゅーと、ネガティブな事に心は集中する。
その思いは人にも向けられる。「アライヤだ、あの人あんなことへーきでしている」とケーベツする。
一人ジャッジ状態なのだ。自分の中に検事がいて、「あれは悪い事」「コレはイケナイこと」といちいち反応してこの世を見ているのだ。それはコマーシャルや健康番組やニュースを基準にしてモノを考えさせられていたりしないだろうか。
それは自分にも向けられる。「わたしったら、こんなことして。。。」「ああ、いやだ、だらしない」「こんなはずではない。私の人生はこんなはずではなかったのだ!」などなど。
単に頭の中でかんがえているだけのことだ。とるにたらない独り言だ。勝手に言わせておけ。
しかしコレが人の人生に重要な意味を持つ。こういう言葉は常に頭の中で言い続けているものだ。
そのジャッジが他人に向けられる事が多い人。
「あいつめ、あんなこといいやがって」
「おれにその態度はねえだろ」
「いやあねえ、あのおばさんったら、みっともない」
「おうおう、だから政治家は汚いんだよ」
そのジャッジが自分に向けられる人。
「げげ〜、わたしってだらしね〜」
「イヤだ、シミが増えている!だめだめ、UVカットしかったからだわ!」
「鼻水が出る。。。ひょっとしてガンじゃないかしら!?」
そうやって四六時中あれやコレやと心が自分や他人の世話をやいている。その根本的なところにどっかりと存在しているのは恐怖だ。自分でなんとかしなきゃ、とんでもないことになったら。。。ダンナを監視していないと、とんでもない事仕出かすかもしれない。。。と。
恐怖は今そこにはない。ただ未来の事を心配して恐怖しているだけなのだ。今そこに恐怖するものはないのに、いちいちそれを思い出しては恐怖を再現する。心はいつもゆさゆさと恐怖と不安の中で揺れている。こんな状態がずっとつづいていて、人は健康でいられるだろうか。幸せでいられるだろうか。
その状態とは、あるがままの状態ではなく、あるべき姿を思い描いている状態なのだ。つまり今のこの状態をそのまま受け取る事が出来ないのだ。あああってほしい、こうあってほしいと願うばかり。だがその価値観はたいていどこからかもらって来たものだ。テレビもコマーシャルもそういう価値観をあおっている。恐怖しろ、不安になれと。
きれいな肌の女優さんを見せられて「こんなふうになりましょう」と畳み掛ける。しかしその化粧水を塗ったらそうなるなんて保証はどこにもない。きれいな髪の女優さんを見てこのシャンプーを使ったらこうなります、という。しかしシャンプーなくてもきれいでいられる。歯磨き粉使わない方が健康でいられる。
人々は恐れている。ニンゲンはもろいものだと信じている。菌はマスクでおおって遮断しなきゃいけないと思っている。しかしニンゲンってそんなにやわじゃない。現になにもしない方が健康でいられる。身体は大自然そのものなのだ。石けんなし生活でそれを直に肌で感じている私がいる。
しかしもっと大事な事がある。私たちは、本当に心の習慣がいかに人々を病気にし、不幸にさせているのか、気がつく必要があるように思えてならない。
作られた価値観が私をおびえさせる。ほんの些細な事でさえも自分自身をジャッジする。目に飛び込んでくるものに、無意識にいい悪いと判断を下し、あるがままでいられないのだ。今私がやっている事は、意識的にいちいちを判断しないようにしている。判断がはじまった瞬間にそれをやめる。いい事だとか、悪い事だとか、正しいとか、間違っているとか。だらしないとか、きたないとか。悪い事していると思うから、心が乱れるのだ。ただそのままの状況を見るだけ。
そのとき、何となく、心が静かな自分に気がつくのだ。
絵:メディアファクトリー新書:おもしろかったよ〜
2010年8月28日土曜日
海と台風
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」はおもしろいんだか、おもしろくないんだか、だんだん分らなくなって来たが、主題歌(?)の中で胸にキュ~んと来るシーンがある。それは最後の方の、海のシーンだ。カメラが白く泡立った海の上をなぞっていく。そのとき私の心はぞぞ~っとする。これだ。これなんだ。私がずっと見続けていた海のイメージ。岩にぶつかる波、荒れ狂う波。アレが私の海のイメージ。間に福山龍馬が走っている間抜けなシーンがあるが、それは見ない事にして、海をなめるようにカメラが飛んでいくシーンが好きダーーー!アレを見るだけのために毎週見ている気がする。。。
小学生のとき、図画工作の時間で、岩に砕ける白い波の絵を描いた。我ながらすごい絵を描いたとほくそ笑んだ。するとせんせーが横にやって来て、
「そんなもの描くんじゃない」
と言った。そしてせんセーは、友だちが描いた絵を高々と持ち上げてこう言った。
「この絵を見なさい。とてもすばらしいです。こうやって良く見て丁寧に描きなさい」
その絵は、ビッチリと瓦屋根が描かれていた。ビッチリ詰まった家々の瓦の一枚一枚をていねいに描き込んだ空間恐怖症の人が描いたような絵だった。
アレで、せんセーに対する私の態度が決まったようなもんだ。教育とは恐ろしいもんだ。たった一言で人が人生に対する考え方が決まっていく。
自然にやさしくとか地球にやさしくというのは、自然の驚異を身近に感じた人は言うだろうか。自然はなにをされようと、全く自分たちのペースで、自分たちの調和を保つために、淡々と時には大胆に変化をする。
私は幼い頃目の前海、後ろ即山!という環境に住んでいた。台風は毎年影響を与える。静かだった波が突然変化する。ずっと沖の方にあった波打ち際が、あっという間に国道のすぐわきの堤防の下までやって来る。轟音と殴りつけるような雨風、山のざわめき、家の中の雨漏り、どこからやって来るか分らない地響き。停電で真っ暗な家の中、家族で身を寄せあって自然の猛威が過ぎ去るのを待つあの時間。「どかんどかん!」何かが飛んで来てそこら中にあたる音。得体の知れない怪物が台風の中を暴れ回っているように思える。死がすぐそこにあるという恐怖感に満たされる。ニンゲンは大自然を前にして何も出来ない小さな生き物でしかない。そして突然やって来る静けさ。外に出ると月が出ている。さっきまでの轟音はどこかに消えている。台風の目だ。あの脅威の中心はなんとも言えない静けさがあるのだ。そしてまたやって来る風。轟音は一晩中鳴り続け、そしてまぶしい朝がやって来る。
家のまわりはきのうと全く違った風景で満たされている。バラバラになった小屋、倒れた木や大きな枝が足の踏み場もないほどにあふれている。浜に出れば、巨大な流木でいっぱいだ。
室戸岬のとんがった先には、ときどき鬼火が見えるといわれていた。台風でなくなった人々の哀しみや怒りが鬼火になって現れるという。
あの「龍馬伝」の海のシーンは、そんな私の海の思いを触発する。とてつもない大自然の猛威、脅威、畏怖の念、抑えきれないなにが胸の奥から溢れ出してくるのだ。
今年は台風が少ない。そしてこの暑さ!何かがこの地球で起こっているんだろうか。考えたら、ニンゲンにちょうどいい気候なんて地球さんは考えてくれるのだろうか。ニンゲンが勝手に「ニンゲンにとっていい気候の地球という天体」と思い込んでいるだけだ。もっと暑くなってもおかしくないし、もっと寒さが増してもおかしくない。地球さんがうっとおしいニンゲン種族を滅ぼすのなんか、お茶の子さいさいなのだ。
そういう意味では、今んところ文句を言いつつも、とりあえずまだ生きていける温度であってくれている事に感謝する。
絵:「メディアファクトリー新書」またあらたなシリーズ発売中です!