2010年9月19日日曜日

自己否定の否定





鳥が鳴いている。たぶん外来種のガビチョウだ。近所のおじさんにはうるさがられるが、声高らかに歌うその存在は実に楽しそうだ。川の音がする。虫の声がする。遠くで犬の声もする。山の麓はにぎやかだ。だがこれももう1ヶ月の間だけだろう。冬にはいると自然の音は、ふっと突然静かになる。厳しい冬のあいだ、自然はじっと押し黙って次の春に向けてひそかに準備をするのだ。

私は選定もしない伸び放題の草と木でジャングルと化した庭を眺めながら座る。高尾のお山とまったく区別がつかない。ウチの庭は高尾山だ。野鳥たちはウチの庭も高尾山だと思ってやってくるにちがいない。
先日知人からいただいたあんぱんをオーブンで温めて、お茶と一緒に至福の時間をもらう。焼きたての風味が戻ったあんぱんに、パン屋のオヤジさんの顔がかさなる。きっとあのオヤジさんは、いつも焼きたてのパンをうれしげにながめているのだろうな。


自分の思考を観察し始めてしばらくたつ。
そしてあきれるほどに自己嫌悪の中にひたっている自分を発見する。

つくし海という感情の海の中から一個、自己嫌悪をつりあげたかとおもったら、次の瞬間また別のバージョンの自己嫌悪をつりあげる。自分でつった魚をながめていると、海から他の自己嫌悪魚が呼んでいる。
「おーい、ここにもいるぞー」
んで、またつり上げるとまた別の魚が。んで、またつり上げるとまた別の魚が。。。。
気がつくとつくし海は、ほとんど自己嫌悪で出来ていたのだ。
あまりの莫大な量にあぜんとする。私の生きる動機はほとんど自己嫌悪なのだ。ガソリンは自己嫌悪だった!

頭をかくという動作ひとつにも自己嫌悪がさっと走る。
「みっともない?」「におう?」「髪のカタチおかしくない?」
庭に眼がいくと
「どうしよう。草刈っていない。みっともない。近所の人になんとおもわれるか。」「竹林になっちゃったらどーするの。あんたのずぼらなせいでしょ」「へびがいたらどーするの。あんたのずぼらのせいでしょ」
言葉にもならないほどの瞬時に心がそういっている。一歩足を踏み出すたびに自己嫌悪する。

つまり、自己嫌悪する材料を探しているのだ。なぜか。それが今まで生きて来た方法だからだ。
「あたしのこんなとこいやだわ」というおもいが、
「だからこうしなくちゃ」という行動を起こさせる動機になっていたのだ。
題して『あたしのこんなとこイヤだわ』モチベーション。

別になにをモチベーションにしてもいーではないか。今までそれで生きて来たのだから。
しかしそこには恐怖がある。
こうなったらどーしよー、もしそうなっちゃったら、ぜんぶあたしのせいよ。つくしちゃん、それであんた、ぜんぶ責任とれるの?
とれないとれない。
じゃあさっさといまからやりはじめなさい。
はいはい、やりますやります。
という、いつも恐怖に後押しされて生きるこのやりかたでいーのだろうか?
そんな心の状態ですべてを見渡したり、理解したりできるだろうか。いつも自分の恐怖に震えてびくびくしていて、冷静に判断できるのだろうか。

あたしのこんなとこイヤだわは、自分のありのままを否定している。自己嫌悪は自己否定なのだ。その自己否定の中で49年間生きて来ている。そんな生き方でいいのか?そこまで自己否定を徹底するのなら、そのパターンさえも否定してしまおうではないか!

んで、自己否定を否定し始めたのだ。


絵:アジアを旅するガイドブック表紙/スリランカ

6 件のコメント:

  1. まいうぅーぱぱ2010年9月19日 10:37

    自分のうちにある悩みは、人からいくら「そんなことないって!」と言われても、解決しないんだよね。
    仮に周りの人から見たら、慰めで無くって、マジにそう言われても、どうしても信じられない。それは自分がそう信じてるから・・。
    わかっちゃぁいるけどね・・。

    さて、竹林になる可能性だけは、私がいる限りないですよ、目の敵にしているから。畑の中に一本でもあったら教えて下され!

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  2. 自分で自分を認めらんないのよね。
    そーなのよ、そーなのよ。はたでいっくら言われてもね。


    あのー、竹林になりそーなのは、ウチの庭!ジャングルのような!
    ぱぱさん、竹ひっこぬいてくれる?

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  3. まいうぅーぱぱ2010年9月19日 21:37

    そっちかい!!
    やってもいいけど、筍とかとれないの?
    基本地盤固まっていい。って話もありま
    すがね・・。

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  4. はじめまして……でしたか?

    アリス・ミラーの本に、厳しくしつけられた子供は、肯定的なセルフ・イメージを形成できない、というようなことが書いてあったように記憶しています。「親に人格を吸い取られる」という表現があって、ドキッとしたのを覚えています。

    わたしは、子供のころ、カトリック系の幼稚園に通っていました。「いつでもわたしを見ていて、悪いことをしていないか見張っている神様」というイメージが、わたしの代わりにわたしの中にできていて、それを作り話だと見破るまで、ずいぶんと苦しめられていたことを思い出します。

    どんなものであれ、セルフ・イメージはすべて幻想なのですが(仏教では「諸法無我」といいます)、人間、空虚には堪えられないので、できるだけお気楽な、健康的なセルフ・イメージが持てるように、評価基準のほうを作り替えてしまうように、わたしはしています。

    とりあえず、自然の音のことか、おいしいあんパンのこととか、もろもろの自分の外のすてきなことたちで心を充たしていけば、不安は消えていくのではないでしょうか。

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  5. タケノコかあ、とれるかな?いや、たぶん、畑の竹と同じだと思うから篠竹だね。いや篠竹でもとれるかあ?
    っちゅうか、その前に竹林になっちまうぜい!

    ん?地盤かたまる?んだなあ。ほっとくか。
    (てきとーなやつ)

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  6. やっほ〜い。田中さん、いらっしゃ〜い。
    いつもお世話になっております。

    「親に人格を吸い取られる」
    ドキッとしました。まさに、そーです。私も親にぶん殴られて育ったんで、自己嫌悪、自己否定は、それが理由で出来上がった思考パターンだと思います。

    神様がみているから、悪いこたあできない、は、ある意味オドシですよね。オドシによってしつけが行われるのは、果たしていい教育なのでしょうか。昔はしつけってそういうもんだと思っていましたが、最近はホントにそうなのかなあ?とギモンを感じるようになってきました。
    田中さんは意識してそこの罠から外れましたが、ほとんどの人はその呪縛からなかなか抜けられないのではないでしょうか。それを意識さえも出来ない。

    わたしなんか、わかっちゃいいるけどやめられない。勝手に心がそのモードにはいっちゃうんです。むずかしーです。

    とりあえず、まずあんパン食べることにします(笑)。

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