2009年12月31日木曜日
暮れのテイコー
今回くらい、「お正月」にテイコーした時はない。
もう、なにもかもがいやんなった。暮れの大掃除、年賀状作り、おせち作り!
あれを何日にしなければ、これをいつまでにおわらせなければ、あれができない。うんぬんかんぬん。。。もうたくさんだー!
その「しなければいけない症候群」はなぜ発病するのか。わしは考えた。なんで、単に年が入れ替わるだけなのに、そこまで「しなければいけない」のか?
この日(1月1日)が一年の始まりだとだれが言っているのだ?たかがグレゴリオさんがかってに決めたカレンダーじゃないか。地球が太陽の周りを回り始める出発点でもあるのか?
と、子供のようにだだをこねた。
それでストライキを起こす。もうやめた!
だがそんなだだをこねる心の後ろに潜んでいる、ある心理に気がつく。それは「恐怖」だ。一年の計は元旦にあり。元旦に行う行為、状況がその一年を左右する。すなわち「ちゃんとしていないと、いい事はやってこない」という教えだ。
掃除はくまなくやる。年賀状は25日までに出す。おせちは、豪華においしく、上手に作る。お重には美しく詰める。そして神様に出すお供えや、飾り物は美しく。ああ、そうそう、年越しそばもつくらないと。
というお仕事。ちょっとちょっと、おおすぎるじゃないの?!それをやるのは、わしだ!一人で背負うには重すぎる。
で、結局できないと、自己嫌悪に陥る。そしてそれをやらないから、仕事が来ないのだとか、悪いことが起こるのだとかネガティブな考えが渦巻き始める。
そしてとうとう、手も足も出なくなった。
そう、恐怖で押しつぶされそうになったのだ。すべては私の暮れの仕事次第。私の来年の結果は、その前の年の暮れの行為次第で決まってしまうという恐怖。。。
しかしアメリカ人はそうは考えなかった。「ハッピーニューイヤー!キャー!」と、飲んで大騒ぎして、ハイ次の日からお仕事、だ。この違いは何だ!
彼らは、ただそういう教育は受けてこなかっただけのことなのだ。そういう文化ではないだけの事だ。だから暮れに恐怖で押しつぶされそうになる事もない。
だが私は日本人で、暮れのプレッシャーの中にいる。恐怖の中で、私は自分がどうしたらいいのかわからなくなった。
おそるおそる玄関脇のバラの花の枝を切り始めた。おそるおそる駐車場の落ち葉を集め始めた。すると行為の中で言葉が浮かんだ。
「美を追求する」
そうだ。お正月は日本人にとって、もっとも「美」が表現されるときだ。床の間の掛け軸を美しく飾り、神棚を美しく飾り、料理も極めつけに美しい。そのためには玄関も、部屋の中もすべて掃き清める。きっとこの文化ができた頃は、みんな、それぞれに美を競い合っていたのではないだろうか。今のように、鏡餅はああしてこうして、お飾りはあれでなくてはいけない、などと決まり事はなかったに違いない。黒豆は一年まめまめしく。。。などの語呂合わせは、きっと遊びだったにちがいない。きっと豆しかなくて、それを煮たら
「あ、それって、一年をまめまめしく、なんちゃって」」というと、
「あっ!それや!それでいこう」などとげらげらウケアって、そうやって楽しんで、美を競い合っていたに違いない。それが今ではならわしになり、それをしないと。。。。という強迫観念になったのではないのか。
そして、冷蔵庫を磨き始めたとき、こう思った。
「これは感謝ではないのか?」
冷蔵庫さんが一年がんばってくれたおかげで、おいしい新鮮なものを食べる事ができた。その事への感謝をこめて、きれいにするのではないか?
それは「こうしなければいけない」というプレッシャーとは全く違う視点になる。そう思えば、トイレ掃除も何もかもが意味のある事になってくる。それはきっと自分ができる範囲の事でいいのだ。「一年、どうもありがとう」という気持ちさえあれば、それはきっと冷蔵庫さんにもおトイレさんにも通じるのだ。
つまりお正月のありかたは、ひょっとしたら「美」と「感謝」の表現なのではないだろうか。だとしたら、人それぞれでいいのだ。私はこうして飾る、俺はこうして感謝するのだと、ひとそれぞれがおもう日常への感謝、それがその日にあらわされる。
気がつけば、なーんだ、そんなことか、とおもえてくる。プレッシャーなんてどこにもいらないのだ。いつのまにか私の中からプレッシャーが消えていた。
遊んでしまおう。できる限り、お金をかけない私なりのやり方で。
で、山に行って、檜の枝をダンナに落としてもらう。裏白のシダがないから、別の種類のシダを使う。友達の庭から真っ赤なナンテンの実をもらい、ヒノキとシダとナンテンでお飾りをつくる。それだけで玄関がなんだか豪華に見える。感謝のきもちになると、どこをやってても楽しい。前はイヤイヤやっていたのに。おせちもあるモノだけを使う。あれ買わなきゃ、きゃーこれが足りない!などとスーパーに走り回らなくても良い。だから忙しくもない。やれることだけやる。年賀状ももうやめてしまった。それで仕事が来る来ないが決まる、なんて法律はない。
考えたら、あたりまえのことだった。でも一回ぜんぶテイコーしたから、気がつく事がある。
いつもはバタバタした暮れだが、なんだかのんびりしたお正月をすごせそうな気がする。
絵:けんぽ「冬景色」さぎりき〜ゆるみ〜なとへの〜、のうたです。おぼえてる?
2009年12月24日木曜日
見えるもの見えないもの
催眠術師が、ある男に催眠術をかけた。その男には娘がいた。術師は娘が見えないように術をかけた。すると、娘が数センチ前に立っているにもかかわらず、男には娘が見えなかった。
ここまではいつもの催眠術。さて、そこで術師は時計を手に持って、娘さんの後ろにまわした。当然、彼からはその手は娘さんの背に隠れて見えないはずである。
そこで術師は「さて、ここに時計があるのが見えますか?」と聞く。「ハイ見えます」と男。「では、今何時か教えてください」そういうと、男はその時計の針を正確に読んだのだ。
つまり、この男にとって娘は本当に透明になって見えなかったということだ。ここで疑問が生じる。大根を食べてリンゴの味がしたり、男が女に見えて、ちゅーしたりするのまではわかる。単なる「気のせい」で片付けられる。しかし、時計の文字盤が見えてしまったのだ。娘さんという物質はどこへ行ったのだ?
現代の量子力学ではすでに証明されている「物質はない」ということ。そうはいっても頭でわかっていても、現に物質があるから見えるじゃないかという。しかしこの催眠術は人が知覚するものが、いったいなんであるのか?という疑問を真正面からぶつけてくる。人はそこに、ある、と思うから存在する。そして、ない、と思えば存在しないのだ。
ペリー総督率いる黒船がやってきたときも、目の前の巨大な船が見える人もいれば、見えない人もいたのだという。つまり人それぞれによって知覚するものが違えば、見えないということだ。それはお化けが見える人もいれば、見えない人もいるように。
科学は、見えるものだけを徹底検証して証明に証明を繰り返して出来上がってきた。しかしここにきて科学が揺らいでいる。物質という万物共通のあるはずのものが、実は存在しないという矛盾につきあたったからだ。そして人によってそれは見えたり見えなかったりするという曖昧さに気がつき始めたからだ。
考えてほしい。すべて目に見えるものだけを追求してきたのだ。それは絶対的に存在するものとして。科学も医療も先端技術も。でも私たちが見えている世界は、0.5パーセントしかないという結論に達した論文もあるのだ。まあ、控えめに見て50パーセントだとしよう。それでもその残りの50パーセントは見えていないのだ。その50パーセント見えていないというおもいっきり欠落した状態で、何を科学するのだろうか。これは太陽が地球の周りを回っているという前提で宇宙に飛び出すようなもんだ。あぶなっかしいったら、ありゃしない。
ひょっとしたら、現代人は、巨大な催眠術にかけられているのではないか。テレビや新聞マスメディアによって。「きみきみ、目に見えないものは存在しないのだよ」そしてもっといえば「娘さんはあなたには見えないよ」と、本当は見えるものまで操作されているとしたら?
昔の人は言った。「見を弱く、観を強く」
目に見えるのもに惑わされるな、物事の本筋を内側から観ろという意味だ。それはまさに、目に見えるものはあいまいで惑わすもの、そういうことを日本の昔の人はわかっていたのではないだろうか。それが、戦後、物質主義の中で、その大事な言葉は忘れられ、ひたすら目に見えるものへの絶対的な信仰のようなものを植え付けられた。
私もそういう催眠術をかけられているにちがいない。それを一つ一つ取り除いていく作業が必要な時期に入っている気がする。
絵:コージーミステリー表紙
2009年12月18日金曜日
小松菜の独り言
近所の畑に生えている小松菜を見てほげーっと思う。
「やっぱ、そうなのかなあ…」
濃い緑色に光った小松菜さんたちは、穴ぼこだらけ。虫にしっかり食べられている。こういうのを、
「わしんとこの野菜は、虫が食うほどうまいんじゃ」というのだろう。
うちの小松菜は濃い緑色はしていない。むしろ若葉の色のようで、そこらの雑草とほとんど変わらない色をしている。しかし虫に食べられてはいない。常識で考えると、これはまずいはずだ。雑草に栄養を取られて、色も薄い。しかも虫も食べない小松菜。
ところが、とって湯がいてみると見事な濃い色になり、その甘さはすごい。
「ああっ…」うまさでおもわずよろけてしまう。えぐみもなく、なんともいえないこくのある味がする。そのまま食べてもいいくらい。
自然栽培をする人々は言う。
植物たちは大地に入った毒素を自ら吸い上げて大地を浄化しているのだ。そしてそれをまた虫が食べて浄化する。そうやって彼らは常に大地を正常に保とうとしているのだと。
普通は生えない雑草を畑に生やしていると、季節ごとに次々と植生が変化しているのに気がつく。庭の土もそうだ。毎年同じところに同じ草は生えてこない。常に変化している。
夏の草は上に上に伸びようとする。一見草に覆われて見えるが、足下は案外隙間だらけだったりする。それは大地をひんやりさせる効果があるのではないだろうか。冬の草は地面にべったりとへばりつくようにして身を低くする。それは大地を覆い、地面を冷えきらないように暖めているように見える。
草一本ない畑は、今はなんだか寒そうに見える。でも草ぼうぼうだと、地面は暖められているように感じるのは、わたしが素人だから?
でも本当はもっと複雑で、私たちが全く知らないことを彼らはひたひたともくもくともっと大事な仕事をとり行っているのかもしれない。だからこそ、すべては必要があってそこに存在するのではないだろうか。わたしたちニンゲンが、まったく推し量れない方法で、ゆっくりと確実に。
先日の母の小指の一件もそうだし、こうやって畑を触っていても思うのは、ニンゲンが見ているのは、本当にほんの一部で、その一部しか見てないで、すっかり知った気になっちゃって、よけいなことばっかりやっている。でも心の広い自然さんは黙ってそのおろかな私たちにすべてを与えてくれる。
野菜を育てたいと思うあまり、肥料を与える。しかしその肥料が大地にとって不自然なものになるから、それを野菜が必死で吸い上げ、そしてそれを虫たちが食べて浄化する。ところがそれを見たニンゲンは、この虫がいけない、この草がいけないと、とりのぞくために農薬をかける、草を抜く、虫を殺す。しかし、それが大地にとってまた不自然なものであるから、また草はその薬にまけないような新たな品種に代わり、虫も新たな形で出現する。そこでまたニンゲンたちは「こっ...この草が….」とはじまる。でもそんな状態の野菜さんを食べているのは誰?
石けんもそうだ。ここまでアレルギーが増えたのも、私たちが菌はいけないものと判断し、おなかの中まで悪玉菌、善玉菌と分類し、これはいいけどあれは悪いと始まったところから、何かのバランスが崩れ始めたんじゃないだろうか。
私は石けん使わなくなって8ヶ月たつけど、石けんいらないもんね〜。乾燥した部屋でも喉の痛みもなく、快適。
おなかが痛くなる。するとこれはなにか異常事態だ!と、病院にいってお薬をもらう。でもおなかが痛いのは、その体の中に入った異物を取り除くために体が働いている状態なのだとしたら、体は困ってしまわないだろうか。彼らはその痛みで、何かを動かしているのだとしたら、それを薬で止めてしまうことは、また新たなアンバランスを生んでいくのではないだろうか。
「だから、今治しているところなのにい〜」って。
今の時代はそれがぐちゃぐちゃになった状態なのではないだろうか。
もういっぺん最初に戻ってみる時なんじゃないかとおもう。すべてのものは、必要があって存在するんじゃないだろうか。あらゆる「常識」といわれている観念もふくめて。それになんか、あれしちゃいけない、これしちゃいけないと、めんどーじゃない?
自然農の川口さんの言葉がこういうときはしみる。
「困ったときは、そのままにしておけ」
それは単に受け身とか、なげやりという意味ではない。もっと勇気のいることなのだ。受け身どころか、能動的な行為ともおもえてくる。すべてをゆだねてしまえる強さ、明け渡す決断力。
はあ〜、わたしにゃ、ほど遠い石力だ。(あれ?意思力か。同じ意味かも)
絵:コージーミステリー表紙
2009年12月17日木曜日
肉体の神秘
母が1週間前、ドアに小指を挟んだ。重いドアを開けると、小指が外向きに曲がっていた。曲がったところは肉片が見え、血が噴き出している。
母は、
「こんなもん、お医者にいかんでも治らあね」
と、血が噴き出しているところを親指で押さえて止め、曲がった指をぐいっとまっすぐにした。しばらく押さえていると血は止まり、母は水仕事があるからとそこに絆創膏を貼って、すっかり忘れていた。
今日、なんだか小指が痛いことに気づき、小指に貼ってある絆創膏を開いた。肉片が見えていたところには傷跡一つ残っていなかった。かろうじて痛みがすることで、「ああ、この前ドアに指を挟んじょったねえ」と、思い出させるぐらいであった。
今日母は電話で「あの指は外向けに曲がっちょったけんど、ひょっとしたら折れちょったがかもしれんねえ」とけたけた笑った。
母はそういうことに関しては、お茶の子さいさいなようである。例の「背骨事件」といい。
人の体とは面白いもんだ。これが私だったら、おおさわぎして、病院にかけこんでしまう。そうすると、レントゲンを撮って、折れてるだの、ひびが入ってるだのとまた輪をかけて大騒ぎをし、やれ痛み止めの注射だの、お薬だの、通院だのといろんなことをするのだろう。ホータイをぐるぐる巻きにされた小指は、おでんの卵のようになり、家に帰れば痛い痛いと夜中に泣いてダンナを困らし、夕食の支度もちゃっかり休んじゃうんだろうな。
昨日の「ある男の話」じゃないけれど、人の思い方一つでこうも状況が変わるものなのか。
「そんなもん、治らあね」と軽く考える。
「大変だー!」と大仰に考える。
その結果はなんだか違いがありそうに見える。
今日もダンナがこういう。
「痛みがあると、こうやって今治してくれてんだなあ〜と思い、ジッと淡々と痛みを観察していると、そのうち痛みは消えていくんだ。前は大騒ぎしていた。痛い!どうしよう!って。こんな風に考え方一つで痛みも変わるんだ」
そのほんのちょっとの思いの違いが、状況を大きく変えていくのだとしたら、この世は不思議に満ちている。いや、本当はそこにヒントがあるのかもしれない。不思議でもなんでもなくて、この世は心次第でなんとでも変わるのではないのか。
絵:「COOPけんぽ」表紙/ワカサギ釣り
2009年12月16日水曜日
ある男の話
ある男が、アリゾナのサボテン広がる荒野を歩いていた。とつぜん足下にちくりと痛みを感じる。
男があわてて足を見ると、ふくらはぎのところに二つ穴があいている。
男はびっくりした。ここは毒蛇がうようよいる場所だった。
「こっ….これは毒蛇の牙のあとだ!お….俺は死んでしまう!!!」
男はパニックに陥り、必死で助けを求める。ちょうどとおりすがりの車に拾われて、病院に担ぎ込まれた。そのときすでに男の体は毒蛇の毒が全身に広がり、体中がふくれあがっていた。男は自分の死を感じて、息も絶え絶えに、医者の言葉を待った。
そしてその医者はこういった。
「これはサボテンのトゲのあとですね」
人というものはへんな生き物である。サボテンはうまいこと2つ穴をあけてくれた。だもんで男はてっきり「これはヘビの牙だ」と思い込んだ。すると心はありとあらゆることを妄想して、それを体にまでおよぼしていく。彼の体は思いで全身に毒を回らせたのだ。いや単に膨らませただけなのかもしれない。どっちにしろ、思いだけで体を変化させることができるのだ。
これは実際あったことらしい。
思いは、いかに体に影響を与えていくかということだ。たとえ思い違いであっても。
さて、その医者の言葉を聞いて、男の体の腫れが引いたのは言うまでもない。
絵:コージーミステリー表紙
2009年12月11日金曜日
不安〜〜〜〜っ!
はて、親にあやまってもらったものの、なんだかすっきりしない。
こんな性格になっちゃったのはあんたのせいだーっ!っていってみたけど、よく考えてみれば、もうその性格になっちゃんたんだから、あやまってもらっても、その性格が変わる訳じゃないんだ。アタシってばか。
こういう風に不安の固まりになっちゃった私は、この固まりを自分で取り除かない限り、不安は消えない。自分以外、ほかに誰がやってくれる?
と、いうことは、不安の材料をメディアがくれようと、政府がくれようと、自分で取り除かなくてはいけない、というスンポウになってくる。ここで間違っちゃいけないのは、取り除くものを、親を取り除いたり、メディアを取り除いたり、政府を取り除く(どーやって?)ということではないのだ。ここでさらっとすり替えが行われるからご注意。ほら、よく気に入らないやつがいるから排除しちゃえって無視するでしょ?あのパターン。そんなことしても根本的なところを見ていないから、また新たな気に入らないやつが目の前をうろちょろする。
そのすり替えは薬に似ている。対処療法というもの。痛いところがあると、それを感じなくさせるペインキラー。それは痛みの原因と関係ない気がする。でも最近はもっと進化して、頭が痛くなるのは、血管が狭くなるから。で、その血管を広げましょうというお薬があったりする。でもそれも、じゃあなんで血管が狭くなったのか?という原因までいってない。単に広げるという役目をするだけだ。
そもそもなんで血管が狭くなるのか?という最初の発祥を見ていない。
だからものすごーく飛んだことを言うと、ムーア監督がいくら資本主義は悪だ、それを取り除けといってたくさん映画を作ってみたところで、彼の根本的な不安は解消されないと思うんだな。え?別にムーア監督は自分が不安だなんていってないって?そうです。でも自分で不安というものを知っていない限り、「人々の心に不安がある」と気がつかないと思う。
ムーア監督は子供の頃、GM全盛期の頃の町に生まれ育ち、豊かさを謳歌し、その後会社経営の破綻によって、町が見る見るうちに衰退していく様を見てきた監督だ。その自身の経験から社会のあやうさ、矛盾をずっと見つめ続けてきたのだ。だから彼は、その矛盾の行き着いた場所が資本主義で、それは悪だと断言する。だから資本主義を変えろと。
たしかに資本主義は、搾取する側、される側と2分割してしまい、悪い部分はたくさんある。しかしこれじゃ、対処療法と同じ発想だ。ペインキラーを飲むようなもんだ。彼の不安は多分消えないだろう。まあ、それが起爆剤になってたくさん映画を作ることになるとも言えるが、彼自身の人生はつらいもんじゃないだろうか。
不安とは反応なのだ。
人々のそれぞれの記憶の中にあるものが、目の前に展開する出来事をきっかけに、プチプチとそのとき味わった反応を繰り返しているだけなのだ。
誰かが机をバンッとたたく。すると条件反射のように、昔父親が机をたたいたことを思い出す。そしてそれは父が暴れることを意味し、その後の精神的、肉体的苦痛までも思い出す。それは一瞬にして反応として体がびくっとするという現象として起こる。朝起きたとき、ヤバい!と思ってがばっと飛び起きる。それは昔寝坊して遅刻して怒られたことを再現している。誰かがちょっと嫌な顔を見せる。すると、昔自分はいじめられっこで、みんなに総スカン食らわされたあのつらさを思い出している。
それはほんの一瞬にして起こる。映像が浮かぶ訳でもない。そしてそれは意識されない。ただ、似たようなことが起こるたびに、ずっと同じ反応を繰り返しているだけなのだ。
こんど何かで自分の感情が動いたとき、その反応を観察してみるとおもしろいことがわかる。どこかで似たようなことはなかったかい?ずっとずっと昔に最初に味わったあの頃のことを。
厄介なことに、その不安や恐怖などの感情は増幅する。そこに集中すればするほど巨大化する。誰かが自分の悪口を言っているんじゃないかと疑う。すると心はその疑えるだけの証拠を無意識に求める。
最近、近所のおばちゃんが、いつも愛想よくしているのに、その日に限ってちゃんと挨拶をしてくれなかった。いじめられっこの私は「私のこと嫌っているんじゃないかしら?きっとそうだ。そういえば、先週もそんな風につっけんどんな挨拶をした。やっぱりそうだ…..。ああっ!私はこの村から村八分にされる!!!!」と、頭を抱える。でも後日、また愛想のいいおばちゃんに出会う。そのとき単にその人はほかのこと考えていただけなのだ。
そういう風に、絶えず人は何かに「反応」をしている。おばちゃんは、愛想よくしてくれた。で、そのときホッとする。でもそれだけだ。また別の機会に、今度はおじちゃんにつっけんどんにされる。するとまた「あああ~~っ、あのおじちゃんに何か悪いことしたかしらあたし?」となって、また悶々とする(ヒマなんか)。
実は、ひっきりなしに外に反応している習慣があるだけなのだ。それは人によって違う反応になる。おじちゃん無愛想にされると、私の場合は「何か気に入らないことしたかしら?」と思い、また別の人の場合「あのやろ、俺に挨拶もしねえ、ふてえ野郎だ」となるかもしれない。この人の場合は、敵対心になる。
ムーア監督は、社会で低い立場の人を見ると、自分の子供時代のことを連想してしまうのかもしれない。そしていてもたってもいられなくなり、映画を作る。しかしその不安はぬぐえない。
まずその心のパターンに気がつくことだ。
外の出来事にいちいち反応をするから、心が不安になるという仕組みを知ることだ。心とは複雑なように見えて実はとても単純だったりする。自分がいつも反応しているものは何か?と探ってみるべきだ。
例えば会社で給料が減る。すると不安が押し寄せる。家のローンは払えるのか?子供の教育費はどうなる?その思いの奥には過去、お金に苦労して苦しい思いをした経験があるのかもしれないし、または親が苦しんでいるのを見たのかもしれないし、はたまた同僚が自殺したことを思い出すのかもしれない。その状況に置かれたとき、似たような過去を思い出し、未来を憂うのだ。心はいつも過去と未来を行ったり来たりしている。過去のつらいことを思い出し、未来を憂う。このパターンってよくあることじゃない?
しかしその考えている瞬間、自分は家の中にいて、ストーブがぬくぬくあって、子供たちが楽しそうに笑っているかもしれないじゃないか。その瞬間、今、本当に苦しいのだろうか?あなたはその瞬間、お金がないことで苦しんでいる?まさにその瞬間。
目の前に展開されている幸福なシーンを見ないで、心は不安をつのらせていく。その無意識に作られた苦しさは、やがて家族に八つ当たりの形であらわされ、家の雰囲気をだんだん暗いものにし、子供たちまで暗くさせていくのだ。そこに本当に苦しさがある。だが、それを作ったのは誰だ?会社じゃない。
私が危惧してしまうのは、無造作に無自覚に垂れ流しにされているその感情なのだ。
今の世の中に、こんなに不安が蔓延しているのは、無意識に勝手に増幅させていく心のクセなのだ。
なぜだか知らないが、この世の情報は、不安に駆り立てるようにもっていく。もっと警戒しろ、もっと心配しろ、もっと縮こまって暮らせ!と言っているように見える。そのオドシに乗ってはいけない。不安の感情を無造作に膨張させるな。
「私は無害です」というような顔を作って「地球にやさしく」と呪文をとなえて満足している場合じゃないのだ。それじゃ外の反応を気にして、いい子に見せておいて、自分で安心しようとしているにすぎない。一人一人が本当に自分の内面の状態を見つけることだ。怯えおののいている姿が見えないか?(自慢じゃないが、私もだ!)
不安になる材料を考え続けていてもそこに答えは見つからない。不安の始まりは心の中からだからだ。外の現象はたんなるきっかけにすぎない。ということは不安を解消するものは、ものではなく、自分自身の中にあるものなのだ。本当の答えは外にあるものではない。
不安なとき、心や頭はものすごい数の言葉で埋め尽くされている。それはたいていどこかで聞いたことのあるフレーズたちだ。あなたのオリジナルの考えではない。そんな時、頭の中は突貫工事の大音響が鳴り響いている。
その人に一番大事なヒントは、心の奥からそっとやってくる。本当に小さな小さな声。
工事現場の中ででホントに大事な答えは聞こえない。その言葉が聞こえるときは、ふとした瞬間に、何気なく、さらっとやってくる。あれっ?いまのは?って。
だから心を鎮めるのだ。静かにさせるのだ。そうすると聞こえてくるのだ。答えは自分の胸の奥深くからやってくる。
心、考え、想念、すべて頭のなかの脳みそがやっている。しかしもう一つの脳みそがある。それは胸の奥だ。それは宇宙とつながっている。そしてそれは英知への入り口なのだ。
不安になろうがなるまいが、人生は進んでいく。
だが不安になるほどに不幸な気分になる。それは家族も巻き込み、自分もつらく、果ては病気になってしまうかもしれない。いいことなし。
不安を解消しようと、あの手この手を考えるが、だいたいにおいて悲壮感漂うアイディアしか浮かばない。どんどん縮小型の生活になり、守りの体制が度を越えて、縮こまって生きることになる。いいことなし。
だから私は黙ることにした。心の中で一人歩きをする想念、考え、思い、習慣になっている感情、すべてのことを黙らせる訓練をしている。一分黙らせることができるだろうか?できない。じゃあ、30秒は?いんや。はっきりいって、1秒くらいしか心を黙らせられない。ということは、私たちはひっきりなしに絶えず考えているということなのだ。
インスピレーションはふっと舞い降りてくる。それは理屈を連ねた結果でてくるものだろうか。たいていは、突然ふってわいたようにやってこないか?会議中にうんうんいいながら、いいアイディアって出るのだろうか。絞り出すように出てきたものは、つまらない保守的などこにでもあるような案ぐらいだ。そんなものは後でどんどん変えられてしまう。ところが、唐突にぽっとやってきたものは、大胆不敵で、え〜〜〜っ!ていうくらいびっくりさせる。でも後で冷静になって考えると、すごく理にかなっていたりする。そのアイディアがいったいどこからくる?
そう、きっと想念と想念の間の、ほんの一瞬心が黙ったとき、その隙間から、しゅるしゅる〜っとやってくるのだ。私はその沈黙の時間を少しでも多く持とうと思っている。そうすると、体の奥から何かがわいて出てくるのを感じるのだ。
高知県人がよく使う言葉で「お日さん、西西(にしにし)」というのがある。つらいことがあっても、お日さんが西に沈んだら、すべてハイおしまい、というアホチンな思想。でもこれには深い意味があったのだなと最近思う。一日が終わればすべて過ぎ去ったこととして後を振り返らない。家族はアホなこと言ってバカ笑い。そんな家には病気神もやってこないだろう。
たしかに高知は台風が多くて、家なんかあっという間に吹っ飛んじゃう。そんな状況を悶々と考えていると神経がもたない。それはその地で住む人間の知恵なのだ。それは返して言えば、人間の心の厄介さを身をもって知っていたからなんじゃないだろうか。昔の人があまり多くを語らなかったのは、心が一人歩きして、爆走するということを知っていたからなんじゃないだろうか。
今の人は、爆走させっぱなしだ(笑)。
さて、あなたは1分心を黙らせることができる?
絵:「セクシイ古文」のための表紙イラスト/メディアファクトリーより来年発売
2009年12月9日水曜日
壬生菜のじゅんぐり収穫
不安について書こうとしていたら、自分がどんどん不安になっちゃった。
ぼーぜんとしちゃったので、ちょっと一息入れて、畑のことでも書くことにする。
うちは自然農もどき、ほったらかし農。
近所の農家のおばちゃんに言わせると「あれ、まあ〜」状態なんだけど、いいこともある。
壬生菜やチンゲンサイなど、夏の終わり頃種をおろして、その後双葉を片っ端からコオロギやヨトウムシに食べられた。なさけな〜い姿になっちゃった壬生菜やチンゲンサイ。普通の農家の人なら、きっと全部刈り捨ててしまうだろう。でも「これ、ほっておいたらどうなる?」という好奇心の方がうわまわってしまい、そっと育つままにしておいた。
んで、大きくなったものから摘み取っていると、その後ろに隠れていた2番めに育っていた壬生菜が次に大きくなり、それを収穫すると、またその後に残っていた種が芽を吹き大きくなってくる。いつのまにか、彼らは勝手に順繰りにどんどん大きく育ってくれて、おいしい壬生菜は途切れることなく我が家の食卓に並ぶ。チンゲンサイもいつの間にかどんどん領土をひろげていた。
これがきれいな草のない畑なら、一気に同時に出来上がり、一気に消費するということになるのだろう。でも草だらけの土はその場所場所によって土の栄養の条件が異なる。だから野菜の生長もいろいろ。白菜もなんだか育ち方がバラバラ。そういうわけで、白菜も一個食べてる間にまた別のが育っていくのだろう。
農家というプロのお仕事にこれは向かないが、この方法は家庭で食べるにはかえって好都合な気がする。
それにしても、何でも甘くなって、踊りたくなるくらいみんなおいしいのだな〜、これが。
ぼーぜんとしちゃったので、ちょっと一息入れて、畑のことでも書くことにする。
うちは自然農もどき、ほったらかし農。
近所の農家のおばちゃんに言わせると「あれ、まあ〜」状態なんだけど、いいこともある。
壬生菜やチンゲンサイなど、夏の終わり頃種をおろして、その後双葉を片っ端からコオロギやヨトウムシに食べられた。なさけな〜い姿になっちゃった壬生菜やチンゲンサイ。普通の農家の人なら、きっと全部刈り捨ててしまうだろう。でも「これ、ほっておいたらどうなる?」という好奇心の方がうわまわってしまい、そっと育つままにしておいた。
んで、大きくなったものから摘み取っていると、その後ろに隠れていた2番めに育っていた壬生菜が次に大きくなり、それを収穫すると、またその後に残っていた種が芽を吹き大きくなってくる。いつのまにか、彼らは勝手に順繰りにどんどん大きく育ってくれて、おいしい壬生菜は途切れることなく我が家の食卓に並ぶ。チンゲンサイもいつの間にかどんどん領土をひろげていた。
これがきれいな草のない畑なら、一気に同時に出来上がり、一気に消費するということになるのだろう。でも草だらけの土はその場所場所によって土の栄養の条件が異なる。だから野菜の生長もいろいろ。白菜もなんだか育ち方がバラバラ。そういうわけで、白菜も一個食べてる間にまた別のが育っていくのだろう。
農家というプロのお仕事にこれは向かないが、この方法は家庭で食べるにはかえって好都合な気がする。
それにしても、何でも甘くなって、踊りたくなるくらいみんなおいしいのだな〜、これが。
2009年12月5日土曜日
不安はどこから?
さっきNHKのクローズアップ現代でマイケルムーア監督のインタビューを見た。
彼はアメリカ社会の矛盾をついて次々に映画にしてきた監督だ。その彼が言うには、人々の心には不安がある。その不安は資本主義社会が作り上げたものだ。その不安を取り除くために、もうそろそろみんな立ち上がろうと。
おお、そりゃあいい考えだ。みんな立ち上がろうぜ!政府に向かって戦いを挑むんだ!
...で、どっから?
そりゃムーア監督はいいさ。映画というメディアを使って社会の矛盾をうったえることができるんだもん。でも私たちは、どこでその矛盾を訴えればいいんだ?国会議事堂の前にたって、ちょっくらメガフォンでうったえるか。
「われわれは、今不安を抱えている。その不安のもとは政府の仕組みだ。だからその政府の仕組みを変えろ!」と。
でもどうやって?
そんな方法は今までさんざん反対運動の人がやってくれている。裁判にもかけた。でも何年も何十年もそのことを繰り返しているのに、世の中はいっこうに変わらないどころか、なおのこと不安に陥っている。
ムーア監督は言う。
「メディアが不安に陥れたのだ」
そう、あなたは正しい。
しかし、だからといって、
「メディアさん、あなたが不安をあおったんだから、あやまりなさい。生き方をただしなさい」といってみたところで、生き方ただせるのか。
私の偉大なる屁理屈によると、不安はガキの頃から始まっている。
犬のうんこをつんつんしていて、親に怒られる。ヘビをなでなでしていて、母親にきぜつされる。玄関先の下駄がそろってないといって、なぐられる。
あれしちゃいけない、これしちゃいけない、ああしろ、こうしろ、こんなことしたから、こうなるんだ、もううちの子じゃありません、などなど。自由奔放に生きてみたら、親に殴られ、だんだん萎縮していく。この世は厳しい。何気なくやった行為が、とんでもない間違いを起こし、どこかで怒られるんじゃないか、なぐられるんじゃないかと不安になってくる。いつもなんとなくつきまとう不安な気持ちは、ガキのときから芽生え始めていたんじゃないか?
じゃあ、おかあさん、あなたが私に不安をあおったんだから、あやまりなさいと、いってみる。
そこでおかあさんはいう。
「あなたに不安を作ったのは、このわたしよ。ごめんなさい」と。
さあ、これで不安は解消だ〜〜〜っ!ばんざーい!
実はこの論法で母に詰め寄ったのは、この私。母はしっかり謝ってくれた。
しかし、その不安は解消はされなかったのだ。
なぜ?
つづく。。。。
絵:ミステリー「マモ•マーダース」の表紙のためのイラスト/東京創元社より来年発売予定
2009年11月28日土曜日
見せる洗脳
人はビジュアルに弱い。
いったん、絵で見せられたら、それはそーゆーもんだ、と思い込む。ましてその映像が動いていようもんなら、まるでその世界が実際あるように思う。これが洗脳。
この洗脳は日々行われている。
あまりテレビを見なくなったが、たまに見ると、その洗脳の嵐にいやけがさす。コマーシャルのこれまた押し付けがましいこと。余計なお世話じゃわい!ってくらいタタミカケルように洗脳する。
「歯周病をカット!」とか
「ヨゴレを根こそぎ!」
「お口の中は、こ~んなにヨゴレています。モンダミンでさあ~っと除菌しましょう!」
などというチャッチコピーといっしょにリアルな映像が展開される。
俳優さんは巨大な歯の中に入り、歯に「こびりついた汚いもの」を指し、これをささ~~~っととりのぞきます。ほらっ、こんなにきれいになりましたあー。と、懇切丁寧に説明する。
ニキビもナントカという薬を塗るとニキビがこんなにきれいになくなりました、とアニメで見せる。でも根絶はしない。少しだけニキビを残す。これがコツ。完全になくなる映像にしたら、クレーマーが何を言い出すかわからない。そこでクライアントのいい訳のために少しだけ残しておくのだ。
わかっちゃいるけど、見せられると、何となく効くような気がしない?単なるアニメなのに、それが本当のことのように思えてくる。ましてや何度も何度も同じ映像を見せられ続けると、無意識の中に入り込んでくる。そして「お口の中はいつもばい菌でいっぱい」「あのコマーシャルのやつで洗い流さないと歯周病になってしまうわ」と信じ始めるのだ。
私は歯磨き粉を使っていた頃は、よく歯茎から血が出たり、歯茎がはれたりした。分けもなく歯が痛くなって悩んだりもした。でも歯磨き粉をやめてから、いっさい血もでない、はれない、ほんでもって、歯も痛くなくなったのだ。いったいこれってなに?
ふんとに、ふんとにお口の中はいつもばい菌にまみれているの?歯磨き粉で磨いていないと、歯周病になるの?
ほんとは逆じゃないのか?歯磨き粉で磨くから、歯周病になったり、歯がはれたり、血が出たりするんだったら?
実は知り合いの何人かが、歯医者からこういわれているのを聞いた。
「歯磨き粉に虫歯を防ぐ効果はないし、研磨剤が入っていて歯を削るだけ」と。私も歯医者さんから言われたことがある。「使っても意味ないよ」と。
にもかかわらず、歯磨き粉を使っていたのは、ひとえにコマーシャルの宣伝文句が無意識に人を動かしているからではないのか?
それって、こわくね?
知らない間に洗脳されて、知らない間にわざわざ体を壊していたら。。。?
こうした方が健康のためだとか、こうした方があなたのためだとか(ホントにそういっているCMもある)、一見親切に教えてくれているように思えるけど、そのクライアントの根本的なところは、お金儲けだ。
昔、テレビを見たら馬鹿になると言われていたのに、いつの間にかテレビの言うことは間違いないと思うようになってしまった。理性が洗脳に負けてしまった。
絵:むか〜しむかしのカット
2009年11月27日金曜日
ビックリキクイモ
キクイモを収穫。
キクイモって聞いたことなかったんだけど、北海道で自然栽培を営んでおられる方からいただいたのだ。形は...なんかこんぺい糖のお化けみたいな感じ。食べてみると、レンコンのシャキシャキ感とかすかにゴボウのようなアジがする。形に似合わず癖もなかった。イヤシイ私は「ゆっくりあとで食べよう〜」
と、冷蔵庫に保管。そのまま忘れる(よくやる)。
で、ある日野菜室に見かけない袋を見つける。
「何だっけ?これ」と開けてみるとキクイモ。(なに忘れてんだ?)
するとキクイモから芽らしきものがでているではないか。
「さすが、北海道産は違うなあ〜。冷蔵庫にいても芽が出てくるゼエ〜」
と、キクイモを小さく分け、無造作に畑のすみにつっこんだ。
それから春に小さな芽が地上に顔を現わし、どんどん成長した。夏本番頃は私の身長を軽く超えていった。2メートルを超えようとするころ、かわいい黄色い花が咲いた。それがちょうど菊の花に似ているので菊芋なのだそうだ。近所のおばちゃんにもお花のおすそわけをする。なかなかいい花だ。花も楽しみ終えて、枯れはじめた。そろそろ収穫時。
そして先日、友達と掘ってみた。
枯れ枯れになった枝を切って、根元を持ち上げる。
それらしいものは見当たらない。根っこのまわりにはこんもり土がついていた。穴が開いた畝を覗いたが、何も見当たらない。
「おっかしいなあ...。まだできていないのかな....?」と、手を突っ込んでガザゴソやった瞬間、ごつごつしたものに触った。もちあげてみると、土にまみれたこんぺい糖が....。
それからどこに手を突っ込んでもこんぺい糖に触る。根元のまわりについた土のかたまりは全部こんぺい糖だった。それからそのまわりを探るとデルワデルワこんぺい糖の嵐、嵐、嵐〜〜〜〜〜っ!(キクイモです)2株ちょっと掘っただけでバケツ2杯になった。恐ろしくなった私たちは、まだ残っているこんぺい糖をそっと土の中に隠した....。
何でも聞くところによると、キクイモは「天然のインシュリン」と言われるほどイヌリンがぶっちぎり豊富なのだそうだ。
イヌリンは血糖値を上昇させない。インシュリンの分泌を抑えるから、糖尿病予防や肥満予防に効果がある。また腸内のビフィズス菌のエサになって、整腸作用や便秘解消になるそうな。
なんだかわからんが、現代人にはよさそうじゃないか。相当栄養価の高い野菜らしい。野菜というよりは野草に近いそうだが。
きんぴら、サラダ、煮物、揚げ物、お漬け物。なんでもござれ。キクイモ、バンザイ!
翌日、恐る恐る土の中にそっとしておいたキクイモを探す。あったあった。またどんどんでてくる。おいおい、畝の外にまで広がっているではないか。わしに断りもなく、一体どこまでイモ作っとんねん!
どうも高尾の土地がこのキクイモさんには合っていたようだ。近所に糖尿病で悩む人々がたくさんおられる。まわりでキクイモを植えているの農家はみあたらない....。ぐふふ...。ここ高尾をキクイモの産地にしてしまって、糖尿病の一気解決だー!
夢は広がるどこまでも(単なる妄想か?)。
絵:「ハーバードビジネスレビュー」掲載
2009年11月24日火曜日
2009年11月22日日曜日
権兵衛オヤジ
むかーし、あるところに権兵衛というオヤジがおった。オヤジは朝起きた瞬間から、ため息をついた。
「あ~、きょうもつらいなあ」
窓から曇り空を見て、
「あ~、寒いだろうなあ。野良仕事はつらいなあ」とぼやく。
おっかあに握り飯を作ってもらって、リヤカーで仕事場に連れて行ってもらって、そこで一日働く。日当はわずかなもんだ。そこでぼやく。
「なんでオラはこんなに働いて、こんだけの駄賃しかもらえねえんだ?」
昼時に道ばたで握り飯を食いながら、お侍さんたちの姿を見る。でっかい刀を腰からぶら下げて堂々と歩いている。村の衆はみんなペコペコ頭を下げる。
「オラ、こんな仕事やるために生まれてきたんじゃねえだ。あんなふうに人様からうらやましがられる仕事をするために生まれてきただ。ああ、いつんなったら、こんな仕事から抜けられるんだ。こんなのオラの仕事じゃねえ!オラの人生はなんてつらいんだ!」
権兵衛の顔は苦悩で歪んだ。
権兵衛には特技があった。権兵衛にわらじを作らせたら、天下一品だった。そのわらじをぜひうちで商売にしたいというあきんどがいた。それで商売したらいい銭になる。なのに権兵衛は「あのあきんどのやり方が気に入らない」とか「おらの大事なわらじを置く棚が気に入らない」などといって、いちゃもんをつける。そして決まって「だからオラの人生はつらいんだ!」と叫ぶ。
ある日、権兵衛は、道ばたで牛車にはねられた。野次馬がやってきて、おおさわぎ。「大丈夫か。おい。」と口々に声をかけた。すると権兵衛オヤジはすっくと立ち上がって、「おら、なんてことねえだ」といった。
家に戻っておっかあに「オラ、今日牛車にはねられただ」というと、おっかあは、
「日頃、人といつもぶつかっているから、牛にぶつけられたのよ」といった。
ーーー
解説(長いのでよろぴく):
このオヤジにはある種の特徴がある。
彼はどうも「人生はつらい」という方程式をもっているようだ。日常的な些細なことから仕事からすべてを「人生はつらい」という方程式につぎつぎと当てはめては、納得をするというクセを持っている。多分人生の最初の頃に何かとてもつらいことがあり、そのときから「人生はつらいものだ」という結論に達したのだろう。その持論を証明するために(無意識に行われる)、起こるできごとをその方程式に当てはめては、「やっぱり人生はつらいものなのだ」と次々と立証していくのだ。
だが、その方程式の行き着く先は「人生はつらいのだ」という結論しか待っていない。その結論を死ぬまで持ち続けて生きるのはつらいだろう。
では、なぜそんな持論を持ち続けているのか。実はそう思うことによって「この世を生きている」という実感が持てるからなのではないだろうか。これが心の厄介な部分なのである。
じゃあ反対に「この世は幸せに満ちている」という方程式を持つことだってできるじゃないか。しかし人はたいてい幸せな気分に浸る時間よりも、不幸なこととを考えることに時間が費やされる。
じっさい体が元気なときは、人は体のことなんか忘れている。「ああ、私って健康!」と四六時中思う人はあまりいない。反対に体がきついときほど、じーっとその体のきつさに意識が集中しているものだ。
心はいつも何か考えることを探している。それが心というものだ。
そしてそれはたいていネガティブなことに費やされる。このオヤジの場合は、人生はつらいという方程式に当てはめた。それを立証するために物事は展開している。。。。のように見えるが、じつはそうではない。その視点に立てば、いつもそのように見える。しかし、別の視点に立てば、物事はがらりと変わる。
よく考えたら権兵衛オヤジはとてもラッキーなオヤジなのである。
ラッキーその1:オヤジには寒さをしのげる家がある。
ラッキーその2:オヤジには握り飯を作ってくれるおっかあがいる。
ラッキーその3:おっかあにリヤカーで仕事場まで運んでもらえる。
ラッキーその4:オヤジには働くところがある。
ラッキーその5:オヤジにはわらじ作らせたら天下一品という特技がある。
ラッキーその6:そのわらじを売りたいというあきんどがいる。
ラッキーその7:牛車にぶつけられてもへっちゃらだった。
不幸はその人のものの考え方が呼ぶ。はたから見たらとても幸せな状況に置かれているように見えるにもかかわらず、その人の考え方次第で心の中は嵐が吹きすさぶ。ということは、すべては心の向け方に関わってくるということだ。
「心」はいつも何か考えることを探しているとしたら、そしてそれはネガティブなことに心がいきやすいのだとしたら、人間というものはなんて不幸な存在なのだ。そしてその不幸は、思いが先行しているだけで、単純にそれがこの世の不幸を呼び込んでいるとしたら。。。?
権兵衛オヤジはそのことに気がついた。自分の心がいつも不平と不満でいっぱいだったことに気がついた。
「おっかあ、オラなんてとんちんかんだったんだろ」
それからというもの、権兵衛は自分の心のクセを日々見つめるようになった。気がつけば、息を吸うように常にその法則に向かおうとする心がいる。そのクセはそう簡単には外れなかった。しかしそれを意識した瞬間から何かが変わり始める。薄紙をはがすように少しずつ少しずつ権兵衛は変わっていった。
それは漆黒の闇から、ゆっくりと空が染まり始めるように。。。
おあとがよろしいようで。
絵:絵本「The Drums of Noto Hanto」より一部抜粋
2009年11月17日火曜日
石けんなし生活8ヶ月め
「勝手に石けんなし生活」をはじめてから、まるまる8ヶ月がすぎた。歯磨き粉、洗顔石けん、体を洗う石けん、シャンプーリンス、なんも使わなくなると、なくってもなーんも支障がない。
石けんっていったいなんだったのだろう?何のために私は必死で洗ってきたのだろう?
今はお湯でじゃばじゃばやるだけのシャンプーなしシャンプー。最近、髪の毛が、カップラーメンの宣伝文句じゃないけど、コンブトになってきた。抜け毛も少ない。洗うときに10本以内、タオルで拭くとき15本くらい。抜け毛にお困りの方には、ぜひシャンプーなしをおすすめしたいくらいだ。洗面器にお湯を張り、頭をそこにつっこんで、指の腹で頭皮をごしごし。髪の毛はわかめを洗うがごとく、もみもみ。それだけ。3、4回洗面器を使えばおしまい。仕上げにお水で頭を流す。(リンスの代わり)それも2日に1回だけ。これで、かゆみもなければ、ふけも出ない。さらさらヘヤーのできあがり〜。一回これをやり始めちゃうともうシャンプーなんて恐ろしくて使えないのだ。ただ、ここまでさらさらになるのに半年は我慢しなくてはいけない。それが女の人にはちょっときついだろうな。男の人は意外と簡単にできるよ。
使わなくなると、石けんを使っていていろんなトラブルがあったことに気がつく。シャンプーリンスでは、髪の毛は細く、抜け毛多く、枝毛多く、ギシギシした手触りに、フケ多く、かゆみもあった。石けん使うと、体が臭くなる(これ、ホント)。夏はべたべたした肌になっていたし、冬は逆に乾燥お肌になった。
体もシャワーを出しながら、手でさすって洗い流すだけ。歯磨きは単にブラシだけで洗っている。顔もじゃばじゃばお湯と水で洗うだけ。あとは湯船につかって「あ~、極楽極楽」とつぶやく仕事があるだけだ(これが一番大事な仕事)。
いつもならちょっと寒くなったり、乾燥したりすると、のどがやられていたのに、それもない。ちょっとのどがいがらっぽいかなあ~とおもうと、自然に口の中に唾液が出てくる。以前気功をやっていたとき、中国人の先生から「唾液は宝石」といわれたことがある。松の木の前で気功をしていると、唾液が出てくる。それは宝石の液体だから、大事に飲み込みなさいといわれたことを思い出す。飲み込んでいるうちに、のどのいがらっぽいものもなおってくる。
人間の体っちゅうもんは、なんちゅー英知に満ちてんだあ。ああでもない、こうでもないと、いらん心配する前に、「困ったときはそのままにしておけ」なのかもしれんなあ。
実は畑にもまったくこれと同じことが当てはまる。化学肥料も、堆肥も、腐葉土も、有機肥料も何も入れていないのに、そこにある草と一緒に野菜は大きくなってくる。草をちょっと刈って横においておくだけで、それが栄養となって、大根を育ててくれる。虫も幼虫もいっぱいいるが、穴空きだらけの野菜にはならない。ちょこんちょこんと穴はあく。それでもレースのようにはならない。ゆっくりと、でもたくましく育ってくる。大根の葉っぱをちぎって大麦の畝の上にのせておいてあるが、一週間たっても腐らないどころか、枯れもしないで、そのまま元気な青い姿のままでいる。
ここん所イノシシの被害がすごい。周りの畑はみんな地面をひっくり返されている。うちの畑にもおとつい昨日と二日続けてイノシシがフェンスを突き破って入ってきたようだ。でもどこも荒らされていない。どうもうちの畑には彼らが好きなミミズはいないようだ。ほかの畑は栄養がいっぱいで、ミミズも多いのだろう。うちは山の自然とほとんど一緒なので、ミミズもあまりいない。だからイノシシにそっぽをむかれたのだろう。
でもそれでいいのだ。自然の姿を見習うのだ。人間という自然の姿そのままをそのままに扱うのがいいのだ。口から出る液体にはばい菌がいっぱいとか思っちゃうと、唾液さんに失礼なのだ。すべてはちょうど良い感じに、自然さんが整えてくれているのだ。
人間の体は大自然のたかまり。英知の結集だ。調子が悪いと自然と何かが変化して悪いところを直してくれている。「困ったら、そのままにしておけ」は偉大な言葉なのだ。焦って、石けんや、消毒や、ワクチンを打つ必要はないのかもしれないではないか。風邪は万病の元ではあるが、それは無理をすれば体がバランスを崩すからそれを調節をするために必要な時間をくれているのではないか?人間の知恵では推し量れない自然の英知が、じつは気がつかないだけで、そこかしこに散らばっているのではないのだろうか。
「勝手に石けんなし生活」は、日々偉大なことを気づかせてくれる。
絵:オリジナル絵本「あめがくる」より
2009年11月16日月曜日
切った貼ったの人生
知り合いにAさんというおばさまがいる。友達と呼ぶにはずいぶん年が離れているから「友達」というのもなんだから、お知り合いということにしよう。彼女はちょっとおしゃれな喫茶店やお店や場所を見つけてくると、私のところに電話をかけてきてくれて、「いっしょにいこう!」と誘ってくれる。
いつも元気で、歩き回ってはそこらへんの人たちとすぐ知り合いになってしまう。街で「機関銃のようにしゃべるおばさん」といえば「ああ、あの人ね」とすぐわかるくらい有名。
そんな彼女は若い頃から病気がちで、入退院をくりかえしていたらしい。彼女流に言うと「あたしなんて、切った貼ったの身体なのよ!」だそうな。とてもそんなふうには見えない。健康そのもので、毎日どこかしらを歩いている。で、どこまでも歩いていく。先日は八王子に誘われて、「これから高尾まで歩いて帰りましょう」と言われた。ちょっとびびって「ど、どのくらいかかる?」と聞くと「そんなのすぐよ。2、3時間でついちゃうわよ」と簡単に言ってくれた。
彼女に聞いてみる。
「薬飲んでる?」
なんでそんなことを聞いたかと言うと、先日町内会の人たちから聞いたことが、頭からはなれなかったからだ。町内会の「老人会」に出席された60才から80才までの高齢者の方々で、薬を飲んでいない人がいなかったからだ。ある人など、朝8錠、昼5錠、夜6錠(ということは1日19錠!!)毎日飲んでいる。よく薬を飲み間違えて大変なことになった話を聞くが、これでは間違えない方がおかしいくらいだ。
そこまで薬をのまないと健康になれないのか?というより、そんなに薬をのんで、よく平気でいられるなあ...と。むしろニンゲンの強靭さを感心せずにはいられない。しかし一方で、これは製薬会社の陰謀じゃねえか..?と、勘ぐってしまうのだ。
で、彼女いわく。
「薬?薬なんか飲んでないわよ。これっぽっちもね」
「へえ、なんで?」
「だってあなた、これだけ手術や薬に頼ってきたあたしが、やっとわかったことは、薬では病気は治らないって事よ」
「じゃあ、何で治すの?」と私。
「食事よ!食事!それとストレスためないことね。言いたい事は、はっきり全部言う!」
そんなAさんだが、ちゃんとTPOはわきまえている。言ってはいけない事もちゃんと知っている。そしてぐだぐだ考えない。考えを引きずらない。完全に自己完結している人だ。
近頃は高齢者の方と話をしても「年がいくとねえ〜....になるのよ」とか「年取ったから....になっちゃった」などとよく聞く。どうも口癖になっているようだ。そういうことによって、自分の老いを受け入れようとしているのか、いいわけをしているのか。そのあとに続く言葉は「あんたもなるんだから、気をつけなさい」だ。そんな言葉は私を元気づけてはくれない。ますます縮こまってくる。
Aさんの言葉には説得力があった。心の奥底にポンとひびいた。やっぱそっかー、そうだよな。
いちいちの言葉が、この人は何かを知っている人だな、と感じさせてくれる。そこらのありきたりのテレビでよく使う言葉なんか使わない。私を縮こまらせてはくれない。反対にもっと大きくなりなさい、と言われているような気がする。
こういうおばさまは、この地球のどこかしらに密かに存在しているのだ。そういう人たちがこの世を根底から支えてくれているのかもしれないなあ。
追伸:先日うちの畑にはじめて連れて行った。彼女は草ぼうぼうの畑のまん中に立って、
「ほーっ、ほっほっ!畑はこうでなくっちゃあねー!」
と、雄叫びをあげてくれた。
絵:ラブロマンスペーパーバック表紙
2009年11月14日土曜日
美しい宗教家はええのう
ここだけの話(どこだけや)、最近マイブームがある。仕事の合間に一人で覗いているネットがある。
何年か前に、ある男の子が「わしゃ、ジャングルにこもる」といって、飲まず食わずで何ヶ月も瞑想を始めちゃった15才のネパールに住む男の子の話を聞いた事がある?菩提樹の木の根っこの間に入って瞑想をしているシーンを見たことない?ブッダの生まれ変わり とか言われている少年。わしゃ、はっきり言ってブッダが生まれ変わるわけがないと思っているので(涅槃の境地に達したのだから)、その子はニンゲンの可能性を表現した子、とおもっている。
あの子が今は19歳くらいになってジャングルから出てきて人々に説法をおっぱじめちゃったんだ。その顔がこれまたイケメンなこと!(やっぱ、そこかい)
何でも今でも飲まず食わずで生きているらしい。そのわりには筋肉隆々でちょっとウェブがかかった長い髪をなびかせて美しい。(近所の友達に似ているのでビックリした。でもその子をもっと美形にしたかんじ〜)にこりとも愛想をふらない。そこがまたいい。ネパール語でとうとうとしゃべっていて、何言ってるかさっぱりわからん。英語に訳したものが出ているが、これがまた翻訳ソフトにかけると、ますます何言っているのかわからん。3年間ジャングルにこもるといいつつ、途中で出てくる。飲まず食わずであそこまで美しい身体でいられるはずはないし、果物を食べたり、水を飲んだりしているシーンを見たという人もいる。であるから、今んところ現代人には眉唾扱いをされている。
でもわしゃ、そんなもんどーでもいいのだ。80時間近くビデオで撮って証明されたのだ。それだけでもすごいではないか。80時間も飲まず食わず、トイレにも行かず、眠らずでいられるもんか?
じゃあちょっと我慢大会やってみるかってなもんで、おいそれと出来ることじゃない。日頃普通にやっているから出来ることなんじゃないか?証明証明って、現代人は何でも科学的に分析したがる。それが何だというのだ?彼はそんなことを証明したがっているのではなく、ただ瞑想しているのだ。自分の中の宇宙を体現しようとしているのだ。
ほんな固いこと言わずに、たまにはバナナ食べてもいいじゃあないの。水飲んだっていいじゃあないの。おばさんはゆるす。
そのホームページにはその子が火の中に座っているシーンもある。途中、熱くなって立ち上がってそこで必死で耐えて、自分の雑念の中で苦悩しているシーンも写っている。がんばっているじゃあないか。おばさんはゆるす。
どうもサイババさんじゃ、もりあがれないのだ。バブーティをくれるからいいのかもしれんが、あの顔では見ほれられない。同じサイババ系のパパイヤ鈴木は(同じ系?)、何とも言えないいい顔をしている。テレビに出てくると、マジマジと見ほれてしまう。私の友達でパパイヤ鈴木に似ているおねえちゃんがいる。最初にあった時、びっくりした。あまりに美しいから「パパイヤ鈴木に似ている」と言ったらおこられた。私は褒めたつもりだったのにい。
そういえば、宗教家で美しい人は結構いる。イエスキリストもそうだし(見たことあるんか?)、シュタイナーだって美しい。ガンジーもいい顔しているし、クリシュナムルティも美しい。出口王仁三郎は、別な意味でおもしろがらせてくれる(コスプレおじさん)。
どうも美形にヨワイ私。仕事でも人物を描きながら、ああ〜あなたのそのおめめがステキ!とか、このあごのラインが美しいワ〜ン、と一人ぶつぶつ考えながらやっている。ようはその人物に(男でも女でも)ほれてまいながら描いているらしい。だから自分と正反対の人物像になってしまうのか。
そのネパールのお兄ちゃんは、その後またジャングルに引きこもったらしい。そのうちまた飽きて出てくると思うが、またその時の変容ぶりを楽しみにしていよう。ぐふふ...。
ダンナに言わせると「どうせまた、あきるんだろ」と、つめたい。
絵:「アラビアのロレンス」ハーバードビジネスレビュー掲載
2009年11月11日水曜日
よげんのショ
ちまたでうわさになっちゅう(?)マヤカレンダーっちゅうもんをちっくとかんがえてみるきに(何でいきなり高知弁?)。
それによると、なんでも2012年の12月21日あたりに人類が滅亡するとか、いやいや、そんな悲劇的なものではなく、その日を境に今の人類のものの考え方ががらりと変わり、戦争やいかがわしいものがなくなり、パラダイスがやって来るとかいわれている。
わたしも退屈な日々を、このような楽しげな話で、気を紛らわせちゃったりなんかしていたが、それもあきてきてしまった。
どうも黙示録や終末説は、人類始まって以来、何十個何百個とあったらしいのだ。わたしもノストラダムスの予言にもハマってしまったタイプなので、このマヤカレンダーは、あの中学生だった頃のコーフンを思い出させてくれはした。で、結局大王は空からふってこなかった。
今回がちょっと違うのは、いつも滅亡だの終わりだのと言って人々を恐怖におとしいれる「予言の書」が、今度は新しく生まれ変わるのだとか、パラダイスの始まりなのだという、ポジティブな予言の書にすり替わっていることなのだ。
でも結局のところ、今の生活を何かしら劇的に変えてしまいたいという精神構造から来ているようにおもえる。つまり退屈な日常からの脱出願望だ。
よく考えたら、人類の考え方が一辺にがらりと変わるくらいの簡単なもんだったら、一人一人がこんなに人生に苦悩しているのは、どういう意味があるのだ?そんなふうにころっと全員の意識のスイッチが切り替わっちゃうんなら、さっさとやってくれってなもんだ。
ある日突然、まわりの空気が変化して、光が見え、すべてが美しく、まわりの人々の心が綺麗になり、自分の心も澄んでいく....んなら、今までの苦労はなんなのよ。
そういうと、いやいやウチューのサイクルが変わるのだよ、つくしちゃん、なんて言われても説得力がないっちゅんじゃ。そもそも「宇宙のサイクル」という一本の線上に置かれた時間概念、過去、現代、未来...などという時間という概念は、宇宙にはないはずだ。だからサイクルが変わるという考えこそが、地球に住んでいる人類が勝手に作り上げた概念にすぎない。だからカレンダーという考え方も、この人類のものだけのことだ。いや、この人類というよりは、今この次元に住んでいる私たちだけのものだ。(畳2畳分くらいしかないかも....)
時間と空間があって、物質が存在し、自分と他人が別れていて、それぞれの心のうちは、他人には聞こえない...などという次元。
それは5感というちっこい5つの穴から世界を見ているだけのわしらの世界。ホントは後ろを振り返れば、そこが大宇宙そのもので、すべてがわかっている世界なのかもしれないのに。「よげんのショ」と書かれた小さな小さなナノレベルの穴の中に目を突っ込んで、そこから「未来はどこだ?どんな未来が待っている?」と覗いているだけなのかもしれん。
私は何かが劇的に全員を連れてどこかに運んでくれるとは思えない。自分のおとしまえは自分でつけなきゃいけないのだ。この退屈な世界から脱出することは、予言のショがやってくれるのでも、ある日ウチュー人がやってきて、額に指を当ててビビーンときて、人生が変わっちゃうわけでもないのだ(つまんないことに)。パラダイスは自分で持ってくるしかないのだ。
でもそれは必死になって生きることでも努力することでもないようだ。ただその5つの穴しかないと思い込んでいることからスッと離れることなのだ。5つの穴が開いたお面から覗くことをやめることなのだ。
それはこれが自分だと思い込んでいる仮面をはずすことなのかもね。
それは、すんごく簡単なことなのかもしれない。ただ外すのがこわいだけだ。
なんか21世紀少年みたいになってきたなあ....。
絵:「ジュリアスシーザー」ハーバードビジネスレビュー掲載
2009年11月5日木曜日
冬支度
壬生菜、タアサイ、チンゲンサイ、大根...。
我が家の冷蔵庫の野菜室はいつのまにか秋冬野菜に変わっていた。それまでピーマンとなすとキュウリにあふれていたのに。季節は巡り、野菜も変わっていく。私の身体も冬支度を始めている。山のふもとに住んで目に季節を感じるようになっていたが、土に触れるようになってから、口でも季節を感じている。
ぜっ.....贅沢だあーーーーーーっ。
物質的には健康を害するものは何もない。こんな環境の中でいたら、さぞかし人は健康そのものだと思うが、近所の人はそうでもなかったりする。みんなどこかしらわずらっている。ということは、やはり心の問題がニンゲンに影響を与えるのだろうな。
私もマックちゃんがストライキを起こして色々考えた。結局そのとき思い煩っても、流れていく方向に変わりはないのだと思う。何かが起こったとき、「ひえええ〜〜っ」ってドタバタしても、「あ、そ」と平静でいてドタバタしなくても、結局同じところに行き着くかんじがする。人は自分でなんとかできるような気がしている性分だが、ほんとはなんとかするんではなくて、なんとかなっていくんではないだろうか。自分でやっている気になっているが、勝手に流れて行っているだけなんじゃないか?
そうおもうと、ドタバタして、あせって、必死で物事を解決する方向よりも、「なんとかなるだろう」と、心を静かにしていることの方がうんと楽な気がする。
野菜を作っていても、草を見ながら、だんだん自然が変化をしているのを感じる。きっと大地も冬支度をしているのだ。草が「ひええええ〜っ、大変だ!冬がやってくるぞ!」といって、バタバタしているようにはみえない。淡々と移行しているように見える。
すべては流転している。一瞬でもとどまっていることはない。私たちのからだのなかもすごい勢いで変化をしている。ただ気がつかないだけだ。その変化に身をまかせることが理にかなっているのかもしれない。何かが起こっても、それも変化の一つにすぎない。目先のことばかりに目を奪われると、人は変化を怖れる。けれども遠くから見ると、その方向性が見えるはずだ。ところがその視点を持てないニンゲンは、起こったことにいちいちに反応してしまうのだ。
それが人の心や身体を衰えさせていくのかもしれない。たとえどんないい環境に置かれていても、病いが消えない理由なのかもしれない。
ひたひたとやってくる冬の気配を感じながらおもう。
すべてに完全に身をゆだねられる強い心を作っていきたいなあと。
絵:けんぽ表紙「境内の秋」
2009年11月4日水曜日
いきなりマックが2台
「ぜんぜん動きません...。立ち上がらないんです...。これではデータの救出もできないかもしれません....」
パソコン修理のドクターは、電話のたびに悲観的な言葉をくれた。
ああ、やっぱだめなんだな。もう寿命だったのかー。しかしデータがおしい....。ああ、あの作品気に入ってたのになあ...。あふれてくるネガティブな気分を打ち払い、なぎ倒し、心の平静を保とうとする私。今は修理代も苦しい私。ましてや買い替えるなんて...。マックは高い。げげー、どないしょー。現実的にはけっこうきつい。心はぐるぐるする。でもこうなることにはなんか意味がある。日頃の精神統一がここでモノを言う(そんなのやってたっけ?)
で、ついに、もうえっかーってな気分になる。よしっ!あしたピッカピカの最新式を買いにいこう!と決めた。
ヨドバシでピッカピカのたっかいマックちゃんを買う。景気づけにワインも2本買う(意味が分からん)。ふんふんと鼻いき荒くうちに帰ると留守電が...。
「マック、治りました」
ええ〜〜〜〜〜っ!よっ....、よかったーーーっ!
でっ....でも、これ、どーするの...?
いきなり修理代と新しいマック代がどどーんとおおいかぶさってきた。し....しかしこれにも意味があるはず....。
新しいマックちゃんはものすごくきれいだった。しかもものすごく速い。中のソフトもものすごい。クラクラする。ところがあまりに最新式すぎて、まわりの仕事関係がおいつかないらしい。こいつ一人で先走ってるかんじなのだ。
いやいや、きっとこの新旧取り混ぜた環境が、これからの私を育ててくれるのだ。
これからがんがんかせぎまっせ〜。
という事で、前置きが長くなりましたが(いつものことや)、
一時的メルアドではなく、いつものメルアドに無事戻りました。
いつものところにお送りください。
バージョンアップして、みなさまのメールをお待ちしております。
お手数をおかけいたしました。
そしてマックドクターさま、ありがとうございました。
絵:coopけんぽ表紙「大漁!」
2009年11月2日月曜日
マックちゃん入院中
愛しのマックちゃんが、ずーっと入院したままだ。かかりつけのお医者さんが言うには、「相当ダメージが来ています」だそうで....。
なんでもおなかを開けるのも苦労したらしく、いざ開けてみると、ほこりだらけ。一体私はマックちゃんに何を食わせていたんだか。中の中まで入り込んでいたらしく、それがショートしちゃったかも、とのこと。つまり私が埃ばっかり食わせたもんだから、消化不良を起こしちゃったわけだ。そりゃ、ストライキ起こすわな。「おまえ、ええかげんにせーよ!」と。
だんなも仕事中に車にはねられちゃったし(信じられんけど、無傷)、なんか私たちの中に今揺さぶりをかけられているかんじがする。
マックちゃんが無事に帰ってくるもこないも、すべて天にゆだねられているのだ。今ここで焦ってばたばたしても始まらない。どう転んでも、すべてはおおいなる善に向かって進んでいるのだ。
なんでもおなかを開けるのも苦労したらしく、いざ開けてみると、ほこりだらけ。一体私はマックちゃんに何を食わせていたんだか。中の中まで入り込んでいたらしく、それがショートしちゃったかも、とのこと。つまり私が埃ばっかり食わせたもんだから、消化不良を起こしちゃったわけだ。そりゃ、ストライキ起こすわな。「おまえ、ええかげんにせーよ!」と。
だんなも仕事中に車にはねられちゃったし(信じられんけど、無傷)、なんか私たちの中に今揺さぶりをかけられているかんじがする。
マックちゃんが無事に帰ってくるもこないも、すべて天にゆだねられているのだ。今ここで焦ってばたばたしても始まらない。どう転んでも、すべてはおおいなる善に向かって進んでいるのだ。
2009年10月27日火曜日
いきなりマックが.....
マクドナルドではありません。
私の相棒のマックちゃんがいきなり仕事中にだんまりを決め込みました。
私は頭がまっちろ!
寿命というものはあるんでしょうか。
人に寿命があるように、コンピーターちゃんにも寿命?
周りに聞きまくると、みんな口をそろえて言う。
「何年使った?ああ、5年?そりゃ、寿命だわい」と。
ふしぎなことに、みんな5,6年だという。
これはひょっとして誰かの陰謀か?コンピューターの中に、密かに「寿命」と書いたコーナーがあって、それは「5年」とインプットされている?
なんだかこんな話を聞くと、あの名作映画「ブレードランナー」を思い出す。
レプリカントの寿命は4年しかなく、それに悩んだレプリカントは、タイレル社(だったとおもうが)を訪れる。そこは、レプリカントというニンゲンそっくりのロボットを作り出した会社。その創造主の元にやってきて、4年という寿命を何とか延ばしてくれと頼む。しかし、それをすると、あそこがいかれるだの、ここがこわれるだのといって、無残にも断られる。そして、思い余ったレプリカントは創造主を殺してしまう....。
するとなにか?ここで妄想が膨らむ私。
コンピューターが勝手に寿命を延ばすと、ナニカ別のものに変化を起こすという秘密があるのかもしれない。だからタイレル社の創造主はなんやかんやといちゃもんをつけて、寿命を4年に設定した。
と、言うことは、私のマックちゃんが、今回の修理を終えて、これから何年間も生きながらえたなら、さながら20歳を越えると猫が化け猫になるように(それは決まっているのか?)、ナニカ別のものにメタモルフォーゼをするにちがいない!!!
私のマックちゃんよ、よみがえれ!
と言うことで、前置きが長くなりましたが、いつもメールを下さる方々に、メールアドレスの一時的変更をお願いします。
ただいま、だんなのウインドウズで生まれて初めて制作しています。最初マックとぜんぜん違うもんで戸惑いましたが、慣れると問題ないもんですなあ(あたりまえじゃ、みんなやってる)。
直り次第、またご連絡いたします。それまで、下記のところにご連絡おねがいします。
一時的メルアド:tsukushikainuma@yahoo.co.jp
私の相棒のマックちゃんがいきなり仕事中にだんまりを決め込みました。
私は頭がまっちろ!
寿命というものはあるんでしょうか。
人に寿命があるように、コンピーターちゃんにも寿命?
周りに聞きまくると、みんな口をそろえて言う。
「何年使った?ああ、5年?そりゃ、寿命だわい」と。
ふしぎなことに、みんな5,6年だという。
これはひょっとして誰かの陰謀か?コンピューターの中に、密かに「寿命」と書いたコーナーがあって、それは「5年」とインプットされている?
なんだかこんな話を聞くと、あの名作映画「ブレードランナー」を思い出す。
レプリカントの寿命は4年しかなく、それに悩んだレプリカントは、タイレル社(だったとおもうが)を訪れる。そこは、レプリカントというニンゲンそっくりのロボットを作り出した会社。その創造主の元にやってきて、4年という寿命を何とか延ばしてくれと頼む。しかし、それをすると、あそこがいかれるだの、ここがこわれるだのといって、無残にも断られる。そして、思い余ったレプリカントは創造主を殺してしまう....。
するとなにか?ここで妄想が膨らむ私。
コンピューターが勝手に寿命を延ばすと、ナニカ別のものに変化を起こすという秘密があるのかもしれない。だからタイレル社の創造主はなんやかんやといちゃもんをつけて、寿命を4年に設定した。
と、言うことは、私のマックちゃんが、今回の修理を終えて、これから何年間も生きながらえたなら、さながら20歳を越えると猫が化け猫になるように(それは決まっているのか?)、ナニカ別のものにメタモルフォーゼをするにちがいない!!!
私のマックちゃんよ、よみがえれ!
と言うことで、前置きが長くなりましたが、いつもメールを下さる方々に、メールアドレスの一時的変更をお願いします。
ただいま、だんなのウインドウズで生まれて初めて制作しています。最初マックとぜんぜん違うもんで戸惑いましたが、慣れると問題ないもんですなあ(あたりまえじゃ、みんなやってる)。
直り次第、またご連絡いたします。それまで、下記のところにご連絡おねがいします。
一時的メルアド:tsukushikainuma@yahoo.co.jp
2009年10月24日土曜日
マンハッタン畑
だれも知らないが、ウチの畑には、畝道に名前がついている。
畑のまん中に南北に走る大通りがある。これをブロードウエイと呼ぶ。(おまえが勝手につけたんじゃろが)このブロードウエイは、まっすぐではない。なんとな〜く曲がっている。これはまさにマンハッタンのブロードウエイとそっくりなのだ。その道をつけたのは、よくコメントくれる、まいううぱぱさんの義理のお母さん。なんだか知らないが、まっすぐついていない。そこがまさに、ブロードウエイなのだ。じつはマンハッタン島にオランダ人がはじめてやってきたとき、その島に一本だけ道がついていた。それがこのブロードウエイ。正真正銘オリジナルの道。マンハッタンの碁盤の目のストリートに一個だけ不自然にひょろひょろとうねうねとなが〜い道がついている。つまりここにインディアン(たぶん、イロコイ族)が、何かの目的のためにつけた道なのだろう。(この何かの目的のためについては、道フェチである私の崇高なる論が炸裂してしまうので、今日はこの辺で留めておくことにする)
何でもコントロールしたがる西洋人にしては、この道をそのままに生かしてくれたことに感謝する次第である。そう、そのまさにおばあちゃんというインディアンが、何かしらの深い意味を持って、なんとな〜く右に曲がりながら、道を開いてくださったのだ。これを生かさないわけにはいかない。だから、これがブロードウエイ。そうすると必然的に(どこが必然的や)、すべての畝道が命名されることになる。
まず、入り口近くの今蕎麦が植わっている広い畑は、まさにセントラルパーク。その先ははじめて本格的な畝ストリートが展開する。そこは59street。横の小屋はさながらティファニーってとこか。そのままブロードウエイ沿いに南に下ると、最初の大通りに出る。これがミュージカルでにぎわう42street、タイムズスクエア。それから下に降りると、週に3回出店でにぎわう、ユニオンスクエアへとつながるのだ。私はそこを憩いの場所としたい。美味しいパンや地野菜をふんだんに買えるマンハッタン島の台所なのだ。そこにござを敷いて、うまい昼飯でもいただくスペースとしよう。さて、その下はソーホーへと続く。そしてその先はJRの線路となる。畑と線路の間には、開墾当時の竹や草や樹々の枝で作られた壁がある。これをウオール(壁)街と呼ぶ事にしよう。畑の東には川が流れている。これがイーストリバーだ。
奇しくもここは離れ小島のような畑と先日いったが、まさにここはインディアンの聖地マンハタン島。(オリジナルがマンハタン。それがなまってマンハッタンとなったらしい。そしてその意味は「マニトーの神の島」という)
これからここをマンハタン畑と呼んでおくれ。
絵:T&Rカットイラスト
2009年10月23日金曜日
あ〜極楽極楽
お風呂につかると「あ〜いいきもち〜」と人は言う。
温泉につかると「あ〜極楽極楽〜」という。
この瞬間、人はと〜ってもリラックスする。
私は日本人がフロ好きなのは、何かそこにとてつもない重大な秘密があるように思えてきた。(またまた〜)
自慢じゃないが、私は風呂につかると、いいアイディアや、おもろいことや、真理をついたことなど、いろいろぽっと浮かんでしまうのである。かのアインシュタインもいっていたそうな。
「なんでいいアイディアが浮かぶのは、決ってシャワー中なんだ!」と。
私はここにニンゲンの思考に関する何かがひそんでいる気がする!(なんとな〜く、また長くなりそーやろ?ダイジョブ。短くするから)
つまりだ、そんとき私はな〜ンも考えてないのだ。このな〜んも考えてないところに、ほいっと上からの飲酒ピレーションが入ってくる。いや、ほんとは絶えず飲酒ピレーションは降りてきているのだが、ほら、絶えず頭ん中が「ああじゃない、こうじゃない」とめまぐるしく考えているやろ?つまり頭ん中がドンカンドンカン工事現場のまん中にいるようなもんなんだが、そこにいてもささやき声は聞こえない。あれといっしょ。飲酒ピレーションは(しつこい)、心が静かになった時にそよっと聞こえるものなのだ。
アメリカに住んでいて、そういった「あ〜極楽極楽」という気分になったことがない。風呂につかれないからだ。
ひょっとして日本人がこんなにモノ作りにたけていたり、世界に対してあまり攻撃的でない性質は、こんなふうに心が静かになれる時間を自然と持っているからなんではないんか?と、ふとお風呂の中で思ったのだ。
いや、ひょっとしたら、この時間が大事であることを深いところで知っていたからだ。その瞬間に「宇宙と一つにつながっている感」(なんじゃそりゃ)があるからなんじゃないのか?自分と他人はいっしょとか、この世は幻であるとか、なんだか目先の問題なんてどうでもよくなって、遠いところに視点が置かれるような、そんなかんじ。だから一日のおわりに、ゆったりと風呂につかるのだ。その日一日の身体の疲れ、そして心の疲れまでも落としてくれるひととき。
禅の修業でも「無心になれ」というではないか。シチめんどくさいことをやらせるもんだなあと思っちゃうが、じつはこの無心という状況がどれだけエネルギッシュで飲酒ピレーションを運んで来て、ちょーお得なことなのかを、ほんとはしってたんちゃうかー?
これからは、風呂につかって、
「あ〜極楽極楽」とつぶやくことが禅の修業になるのだ。
いやそれは、日常でも使える。仕事しながらでもフロに入った気分になることが無心になることなのだ。
絵:けんぽ表紙「温泉宿」
2009年10月17日土曜日
めんどくさいニンゲン
ニンゲンという生き物は厄介なものである。
最近になって判明したのだが、ウチの母は、いつも心の中で「早くしゃべらなきゃ、速く歩かなきゃ」と思いつづけているらしい。それは物心ついた時からずっと。なぜそうなったかと言うと、「遅いわねえ」と言われ続けてきたからだそうな。だからいつも心は「早くしなきゃ、早くしなきゃ」と言っているもよう。
先日、足腰が痛くて歩けないから、病院に行った。外科に行って、色々調べてもらったが、どこも悪くない。そんなはずはないと訴えるが、医者にしてみたら「あんた、そのしゃべり方がどうもとろいから、脳梗塞の疑いがある。内科に行きなさい」と回された。
内科にいくと血圧から何から調べたあとで、「はい、今日は何日〜?ここの病院はなんて名前〜?ハイあなたのお名前は〜?」と聞かれた。全部答えると「おかしいわねえ。どこも悪くないわよ。なんでここに連れてこられたの?」という。外科でそのしゃべり方がおかしいから脳梗塞の疑いがあるって....」というと、じゃあ頭調べてみましょ、と、調べられた。すると70歳代にしてはまったくどこにも萎縮がみられなくて、若い脳みそそのものだったそうな。
「まあ!驚いた!こんな脳の人70歳代でいないわよ」と先生からお墨付きをもらう。
「先生、お薬ください」
「どこも悪くないのにお薬出せるわけないじゃないの」
彼女は一日がかりで病院に行って、薬一つもらえず「健康」のハンコをもらって帰ってきた。
早い話が、運動不足なだけだ。それは前から知っている。そうやって具合が悪いと病院にいっては、何もない事を確認して帰ってくる。もらってくる言葉はいつも「歩きなさい」だ。
「あたしはねえ〜、毎日15分間歩くだけでいいんだって〜」と、嬉しそうに私に言う。もう聞き飽きた。そうやって何十回何百回も「あたしはねえ〜、歩くだけでいいんだって〜」といってきた。
で、歩いた試しがない。
彼女は歩きたくないのだ。ゴミ一つ出しに出るのさえいやなのだ。要するに表に出たくないのだ。なぜか。それは人と口をきかなくてはいけないからだ。そして歩かなければいけないからだ。ここで冒頭の彼女の思いとつながる。いつも早くしゃべらなきゃと思っているということは、早くしゃべられないと思っているからだ。お医者さんにも「とろい」と言われた。確かに普通の人から比べたらとろい。でもこれが彼女のパターンだとおもえば、なんてことはない。私は生まれた時からこのリズムを聴いているからか、それがとろいとも思わない。
電話しながら私は母に、
「おかあさん、じゃあ試しに早くしゃべってみて」というと、母はいつもと同じペースでしゃべる。
「じゃあ、今度はあなたのペースでしゃべってみて」
というと、これまたさっきとまったく同じじゃないか!
「.....あのねえ。さっきとまったく変わんないよ。それってがんばっても、がんばらなくてもいっしょってことじゃないの?」と私。
「.......」沈黙の母。
たぶんこの様子だと、
「早く歩いて」と言って歩かせても
「遅く歩いて」と歩かせても同じだと思う(笑)。
要するにだ。人は勝手にこうしなきゃ、ああしなきゃと思いこんであせっているだけで、外から見たらちっとも変わっていないということなのかもしれない。思いはちっとも報われていないのだ。なのに気持ちばっかりがあせる。それで思いが頭いっぱいになっちゃってパンパンになり、一歩も前に進めなくなっちゃうのだ。
現に母は、買い物に行くとき、歩くコースをシュミレーションするらしい。だいたい3パターン考えるのだそうな。
「ここのコースを行くと、横断歩道がここにあって、行き着くまでに信号が変わりそうだったら、まずここでいったん止まる。いや、もしここでつまずいたらいけないから、別のルートにするか。いや今は何時だから交通量が多い。いやいやこっちだと信号がないからよけい危ない....」そうやってあーだこーだとシュミレーションするうちに疲れ果てて「今日はやめるか」となる。
医者に「歩きなさい」といわれても歩かないワケがここにあった。なんだかんだといいわけをつけて動かないだけだ。
つまりはかっこしいなのだ。つまずいたらかっこ悪い、遅かったらかっこ悪い、そんな姿は見せたくない。だから外に出ない。「早くしなきゃ」というアイディアは、そうあれたらかっこいいと思い込んでいるからだけのことなのだ。でも早くしゃべろうとしても早く歩こうとしても同じ。だったら、その思いは必要ないんじゃないの?
これは私のちゃんとしなきゃ病とまったく同じ心の動きである。ちゃんと出来たら人に迷惑はかけない。でもこれだってかっこしいだ。人にこう見られたいという思いは同じ。ああ、蛙の子は蛙だ...。
ところがこの焦る気持ちがあろうとなかろうと、じつは外から見たら同じ動作をしているのかもしれないのだ。それは母の姿を見てドキッとした。そして最近私のブログにアップした「わしらの畑」の中で私の動く姿を外から見た。はじめてのことだ。恥ずかしさをこらえながらジッと自分の姿を観察する。とてもいつも動揺しまくってあせっているニンゲンには見えなかった。どこか淡々としてどこ吹く風〜ッてな感じの私が写っていた。
そうか。人の心はその思いとは裏腹に、その人自身の内面をそのまま表に現しているだけなのかもしれない。自分で思うほど、みっともない姿をさらしているわけじゃあないんだ。母の言動を見て自分を笑う。母は自分が思うほど、人に迷惑をかけてはいないのだ。ただ、自分がそうなんだと思い込んでいるだけなのだ。そして「早くしなきゃ、早くしなきゃ」と自分に言い続ける。その結果、何も出来ない自分に腹を立てる。そしてまた「早くしなきゃ、早くしなきゃ」と心であせる。早い話が、そうやって人は思いの癖の中で堂々巡りをしているだけなんじゃないのか?
私は自己嫌悪することによって「自己嫌悪している間は人間的にダイジョーブ」と思っているふしがある。ちゃんとしなきゃと思う心にじつは二つの意識がある。
1:自分を見はっていないと何しでかすかわからないから、ちゃんと管理をしている。
2:そう思っている間は、人間的に自分を戒めるえらい私なのだ。
そしてその結果、そうすると、ちゃんとしているように見えるから、人間社会で生きていけるんだ。(ようは、かっこしい)
はあ...長くなった。この続きはまた今度。
え?聞きたくない?まあ、そうだろうなあ...。
絵:coopけんぽ表紙「ハローウィン」
2009年10月16日金曜日
子供をなめたらいかんぜよ
おとつい、線路わきの道を歩いていると、前におばあちゃんと孫の姿があった。4、5才くらいのかわいい女の子は、おばあちゃんが手を引っぱる方向にガンとしていこうとしない。
「いやだ。こわい。電車、こわい。いやだ。こわい」
そういって、反対方向におばあちゃんを引っぱっていた。おばあちゃんは困り果てていた。
私が近づくと
「この子、行ってくれないんですよ〜」となぜか私に助けを求める。
「どうしたの?何がこわいの?電車?だいじょうぶだよ。電車が通っていないところを、歩くんだから」
私がそういうと、彼女は一瞬考えた。そしてすんなりとおばあちゃんのいく方向にすたすたと歩きはじめた。私たちは同じ方向にいっしょに歩きはじめた。
「すいません〜、たすかりました。ありがとうございました〜」ホッとした顔のおばあちゃん。その先には踏切がある。おそらくそこを彼女は怖がっていたのだ。踏切を渡りきったとたん、前を歩いていた女の子は私を振り返った。
「よくできたね。こわくなかったね」
そういうと、女の子はこくんとうなずいた。
ただ説明が足りなかっただけだ。なぜそこを通るのか、どうしてこわくないのか、大人はちゃんと説明をしなければいけない。子供はその理由を待っている。ただやみくもに、いかなきゃいけないから、行くのよ、とか、ダメなものはダメと力で押し込んでも無駄なのだ。そのムリヤリがこれからのその子供の性格を作っていくのだ。「世の中、わけもわからずやらなきゃいけないことがある」と。ほんとうは子供は言えばちゃんと理解できるのだ。
最近の絵本を見て悲しくなるのは、大人は子供をなめている。大人のように理解できないという前提に立って絵本を作る。いないいないばあ〜と絵本でやってみたりする。自分で手でやれよ!とおもう。その本がうれるとバカみたいに同じ手の本ばかりを出す。ようは、子供向けに作ってはいない。お母さんに向けて作っているのだ。(そりゃそうだ。買ってくれるのはお母さんだからなあ〜)だが、そのお母さんは、子供がどこまで感受性が強いか理解しているのだろうか。
私の母は、天然ボケだけど、そこのところがわかっていたようだ。とにかく何でも説明をしてくれた。風邪を引いてにがい薬を飲まなきゃいけない時でも
「このお薬がお腹の中で悪いバイ菌をやっつけてくれるのよ」という。あとなんだっけ?なんだか忘れたけど、うるさいくらい説明をしてくれた。だからただわけもわからずどこかに連れて行かれたり、やりたくもないことをやらされたりしても、これはこう言う理由だからやるべきことなんだなと我慢もしたし、努力もした。
私は1才半のころから、母の相談役になっていたらしい。おぼえていないが、母が「こんなことあってねえ、どうしたらいい?」ときくと、1才半の私は「お母さん、それはこうした方がいいよ」と、即答してくれたそうな。母はいつも私が言うアドバイスのままに行動をしたと言う。そんな年でしゃべられるのか?と思うが、ちゃんとしゃべっていたらしい。だからことあるごとに母は他人に「子供は1才半から相談役!」といっていたそうだ。
子供は最初っから何かをすでに知っている。しかしそれを大人が子供は何もしらないからと思って対応すればするほどアホになっていくのではないか?冒頭のおばあちゃんは、「いいから早く来なさい!」と言っていただけなのだろう。だがそのまま引きずられて線路を越えさせたら、その子はもっと大きなトラウマを抱えてしまうことになる。この世には「こわい線路」があるだけでなく「こわい線路をムリヤリ渡らせられる」という恐怖がくっついてくるのだ。そうすれば、これからどんな感覚を持ちそなえていくのか、考えただけでちょっと切なくなる。
私の3冊の絵本「ロードムービー」「センチメンタルジャーニー」「鈴木さんの場合」はそんな子供の感覚を発露させたい思いで作られた。この絵本には言葉がない。物語は語られない。これはあなたの好きなようにこの絵本を「読んで」くださいという主旨からきている。これは相当の挑戦的で実験的な絵本の企画だった。当時、担当の編集者の人が、よくオッケーを出版社にもらったものだと感謝している。今の保守的な時代、こんな本はもう出ないだろう。
この3冊は意図的に3つの物語が交差する形をとっている。しかしそれは私自身の考えのものだ。その絵本を手に取った人が、その人自身の物語を作ってほしいのだ。主役は本を手に取った人。だからあえて説明は入れなかった。
こんな実験的な絵本だったが、じっさい、孫が自分でお話を考えて私に読んでくれましたという読者からのはがきももらった。そういう話を聞くとがぜんうれしくなる。
子供は脅威に満ちている。何でも理解する。大人が見ていない世界を感じて見ている。
そんな子供時代の感覚をそのまま生かして大きくひろげていくと、きっとこれからの世の中、すべて変わってくんじゃないかと思う。そう思うと、自分がやっている仕事の重さを感じる。そしてワクワクする。
子供をなめたらいかんぜよ〜。
絵:言葉のない絵本シリーズ「ロードムービー」表紙
2009年10月13日火曜日
上納金
白菜、タアサイ、壬生菜、チンゲンサイ、聖護院大根...。
畑初心者マークのわたしは、わけもわからず種を買ってそこらにばらまいた。
ある日、畑で壊滅的に葉っぱを食われた苗たちを発見する。その後、次々に葉っぱが食われていく。葉っぱを裏返してみるが、犯人は見つからない。一体誰なんだー!
ヨトウムシ....。ふとその名前が頭をよぎる。
確か以前知り合いの農家の人が「ヨトウムシはすごいのよ〜。見つけたらすぐに殺さないと、ねこそぎやられちゃうから。」と言っていたのを思い出す。
さっそくネットで調べる。やっぱりそうだ。ヨトウムシ/夜盗虫。夜盗む虫(そのままやがな)だ!こやつらは夜のそのそと畑にやって来て、葉っぱの柔らか〜いおいし〜い部分を根こそぎ食べちゃってくれるのだ。ひどい時になると、一晩で野菜が全滅することもあるらしい。ひえ〜、こいつかあ〜。どないしょー。
退治方法はやはり薬を使うのがいいらしい。しかし使いたくない。殺したくない。
新たな問題がやって来た。こういう時は、じとーっと観察するに限る。
恐る恐る畑を見ていると、食われた畝と食われていない畝がある。その二つの違いにあるものを発見する。大豆だ。大豆を植えてあった畝には、あまり被害がない。そして大豆といっしょに植えてある畝も。大豆は土の窒素を固定化するといわれているけれど、「窒素を固定化する」の意味は、葉っぱの栄養をつけるというくらいしか私には知識がないので、それと夜盗虫との関係がわからん。でもなにかあるんだろうか。
そしてやられたところは、草が生い茂りすぎているところが多いようだ。しかしそれと同時にそこに野菜も生い茂っている。おもしろいことに、草が元気だと野菜も元気なのだ。しかしそんなところにあえて奴らはやって来ているようだ。ひょっとしたら密集しすぎるていのかもしれない。そこでまわりを刈って、風通しをよくする。
その後ほおっておいたが、あまり夜盗虫は暴れていないようだ。
たぶん、夜盗虫は夜畑に出てくると、
「ハラ減ったなあ〜、なんか食いもんねえか?お、ここに葉っぱがあった。イッタダッキマ〜ス」
と葉っぱを食っているだけなんだが、それが単に野菜の葉っぱだっただけなのじゃないか?と思われるふしがある。しかも柔らかくってうまい。大地の上に野菜の葉っぱしかなかったらそれを食べるだけなんじゃないだろうか。別に野菜だけ狙って食べているわけじゃない。ウチの畑は草だらけだから、他に食べるものがある。だから野菜の葉っぱだけに集中しないんではないだろうか....?
「つまりは上納金みたいなもんだな」
いっしょに畑をやっている、まいううーぱぱさんはうまいことを言った。
よく考えてみると、被害に遭うというのは、ある種のパターンがあるようだ。最初にサル、イノシシ、鳥、など野生動物に枝豆やらキュウリやらカボチャなど、みごとに食べられた。その後、コオロギちゃんたちに食べられた。そして今、夜盗虫ちゃんに食べられている。しかしそれは枝豆事件をのぞいて、決して壊滅的ではない。冷静に考えると全体の1割か2割でとどまっている。
つまりぱぱさんの言うように、親分さんに最初に捧げものをして、あとをわしらがいただく。とまあ、こういう仕組みになっているんではなかろうか。もともと自然は動物や虫や植物たちのものだ。その場所をお借りしているのはニンゲンの方だ。だからショバ代(?)として、1、2割あらかじめお支払いする。すると、親分さんは満足してくれて、
「よっしゃ、よっしゃ」と、あとの取り分をわしらがもらい受けることができるのだ。
最初の枝豆壊滅の儀式は、ある種の警告や戒めだったのではないだろうか。今になるとそう思えてくる。それから熟れているのにほっておいても食べられる。これもある種の戒めのような気がする。み....みられているのだ...。
このごろ枝豆三昧だ。みんなでふかふかにふかした枝豆をほおばって
「しゃ〜わせ〜」と満足している。
あれから結局、サルは新たに出来た枝豆を食べにこなかった。いや、実はちょこちょこ来ているのを私は知っている。ちょこちょこ来ては、何かしらおき土産を置いていく。だけど壊滅的な被害をもたらさない...。
自然は偉大だ。知れば知るほど自然の懐の大きさを感じる。容赦するところとしないところ、ちゃんとわけてある。浅はかな知恵しかない私に「今度、これはどうだ?おおクリアしたか。じゃあ、今度はこの問題は解けるか?」と何かを学べと次々に宿題をくれるのだ。
絵:オリジナル絵本「はなたれさきち」より
2009年10月10日土曜日
わしらの畑
2009年10月8日
台風18号がすぎさった。
台風のあとの畑はエネルギーに満ちていた。台風はぐるぐるまわって、地上のお洗濯をし、その後カラッと晴れ渡らせて、太陽の恵みをくれるのだ。
今日はめずらしく動画をアップ。うちのダンナがつくりました。バックの歌は、床絵美さんのアイヌのウポポです。
この草ぼうぼうの畑がわしらの畑。なにがうわっているのかわからんやろ?そこがまたいいのだ。
わたしゃ、うろうろ歩くだけの人、ひたすら自然を観察しているだけ。ちょちょっと草を刈って、また様子を見る。そこにはニンゲンおおよびもしない叡智がうごめいている。私はそこに種を入れさせてもらうだけなのだ。なにもできない。なのに勝手に何かが動き出す。
そんな畑のまん中にたってじっとしていると、何とも言えない幸福感に満ちてくる。「ああ....」という言葉しか出ない。
そのよろこびをくれた自然農法のじっちゃん福岡正信さんにありがとうをいいたい。愛媛に連れて行ったユタを美しい犬だと褒めてくれた。自然農法には、まだまだおよびもつかないけれど、その空気はかがせてもらっている。これからどうなるか。
去年、この世を去ったじっちゃんは、今ごろどこで何をしているんだろう。きっとどこかの星でもっと大きな人となって、大自然の本当の真理を学んでいるに違いない。いやいや、見たこともないような次の時代の植物を創造しているのかもしれない。
いつかその植物に出会うことを楽しみにしていよう。
この世に重要なものはない
「この世には何一つ重要なものはない」
今朝おきがけにこの言葉がやってきた。
それまで夢を見ていた。
あるお金持ちのアメリカ人が財布から札束を出した。確かコーヒーかなにかを買おうとしていた。2、3枚重なっていっしょに出てきたそのお札には、「$880」と書かれてあった。
「なんですか。これ?」と私が聞くと、
「ああ、これね。これはオリンピックにかかわった人たちだけが使えるお金なのよ」といった。
その言葉には、特権階級の人たちが、好きなように作れて、好きなように使える、そういう意味が含まれていた。
私はネットサーフィンするうちに、テレビや新聞には書かれていないことが山のようにあるのを知る。そして表立って言われていることが、真実かどうかもあやしいかもしれないことに気づく。人々はやれ事件だ、やれ経済だとメディアが流す情報に一喜一憂するが、それは偶然に起こったことかどうかも疑わしい。今回の経済破綻もサブプライムローン問題が原因だとか言われているが、あれは所得の低い人に低金利で貸し付け、その後ドーンと金利を上げるのだ。アメリカに住んでりゃ、低所得者が、どれだけ苦しい生活をしているかわかる。その人々が5、6年後に給料がどどーんと上がるわけがない事など、誰が考えてもわかる。破綻がくることは目に見えているシステムが動いたのだ。ウラに何かないわけがない。
今朝の夢はそんなものを象徴しているように見える。ある一部の特権階級の人たちが、この世を好きなようにしている。そんな風に見える。そしてその好きなように作られたお金や法律やシステムで、下の人々を振り回す。昨日善だった価値観が、次の日に悪に変わる。
私が日本に戻ってまもなくのころ、市のリサイクル法が変わった。そのとき近所のおじさんとおばさんがケンカしているのを見る。
タバコのまわりについたビニールが燃えないゴミに出すべきなのか、燃えるゴミに入れていいのかでもめていたのだ。そのうちお互い険悪な雰囲気になってくる。
私はそれを見てなんだかおかしくなった。それまでいたニューヨークで、最近ガラスのビンやプラスティック製の自転車が、リサイクルから燃えるゴミになってしまったというのに、ここではタバコのまわりのビニールが燃えるゴミだの違うだのと言い争って、お互い険悪になる。
結局、上にいるある人が決めたことなのだ。
国によってすべての価値が違って、それに下の人々は振り回される。隣の国では善が、ウチでは悪になる。このリサイクルと言う(エコといってもいいが)アイディアには、絶対的な結論はたぶん永遠に出ないだろう。つまるところ、こんなきりのない論争で大事な人間関係まであやしくなるのだ。
バカバカしいと思わない?
何も真実ではないのだ。単にその時代時代の価値観がうろうろ変わるだけ。人や政治が動いて、コロコロ変わるだけ。そこにはなんの大自然の摂理も宇宙の法則も働いていない。所詮ニンゲンの浅はかな考えがちょろちょろしているだけなのだ。
ビニール一つでケンカすることは、その人が学んで大きくなるための必要なものではない。たぶん元を辿っていけば、今価値とされていることやシステムは、すべてが一時的な、いい加減な曖昧なものなのだろうな。でも悲しいことにそれが原因で鬱病になったりもする人々もいる。じつはそんな風になる必要もないのだ。なっているだけもったいないのだ。その程度の常識なのだ。なんの重要性もない、真理でもない、うろちょろ変わるだけの世の中の常識なのだ。
もう、そんなに必死でこの世の常識を守っていることはないんじゃないか。
善や悪や、ソンやトクや、勝ち組や負け組や、失敗や成功など、もうそろそろこの世の二元論から解放されたいものだ。
絵:ミステリーマガジン扉掲載
2009年10月5日月曜日
秋の花粉症その後
鼻はだあだあ、くしゃみは出るし、おまけに咳まで出る。
あ”ーーーー、ついにやられたー。はじめての秋の花粉症...。くっそお、勝手に石けん生活、効き目ないじゃないかよ〜......。
と、なっていたのは2日ぐらい。
鼻水もくしゃみもあっけなくおさまった。よく考えたら、花粉症特有の目のかゆみや喉のかゆみが最初っからない。これは歯磨き粉を使わないので喉の粘膜が保護されていると見ていいんだろう。喉とは関係ないが、目もかゆくない。やっぱり外部からの刺激に対してあまり粘膜はやられないらしい。ただまだ痰が若干絡んでいる。でもこれもすぐ消えるだろう。
まったく人の免疫とは偉大なもんだ。おかれた状況に対して臨機応変に対応しているのだ。それは人工的な「菌を汚れを除去する」物体を使わないことだけで発揮される。
それにしても春と秋の季節の境目はなにかあるのかもしれない。畑をやっていると、種を大地におろすのが、春と秋に集中する。それだけそのとき植物と大地の関係が大きく動くことなのだろう。そしてそれは、たんに植物と大地の関係だけではなく、動物やニンゲンそのものにも影響を及ばしているんではないだろうか。爆発的な生命の変化。
たぶん、私はその変化に敏感な身体になってしまったのだろう。
鼻水をじゅるじゅるさせつつ、
「ああ、今この地球上に偉大な変化がおこりつつあるのだ」
と、身体で感じ取れるナイスな受信機を持ちはじめたのだー!
と、言うことにしておこう。
絵:「ドイツ語講座」表紙『眠り姫』
2009年10月2日金曜日
畑の自覚
大地は「畑」であることを自覚して野菜を育てる...?
うちの草ぼうぼう畑はおおまかにいうと、逆L字型をしているが、その場所場所にそれぞれ特徴がある。入り口に近い北の畑は、東西を木にかこまれて、あまり日がささない。とりあえず蕎麦を蒔いたがこれからどうやっていくのかまだ検討中。南に下って東側は、おばあちゃんが耕しているエリア。ここは一日中よく日が当たって野菜作りにいい場所。まん中もこれ最高。だが、西の端っこはなんだかよくわからない。どうも、土地がまだ「おれは山の土地だ」と思い込んでいるフシがある。
私は推測する。かつてあった畑は、まん中から東の方。逆L字型に出っ張った西の方の畑は、一度も畑になったことがないんではないだろうか。だって夏の間はえていた草が、なんかこう、かわいくなかったのだ。背丈も高いし、強いし、だいいち土ががっちがちに固い。その固い大地にこれでもかというくらいずうたいのでかい木みたいな草が根をはる。その横綱級の草を刈るにも力が入る。うおりゃあ〜〜〜っ!てないきおいで切らないと切れない。
一方、まん中より東の方に向けていくと、生えてくる草が、なんとなくかわいいのだ。ちょんちょん、なんて切れちゃう。
フシンに思った私は、以前そこを耕していた人に聞く。やはりそうだった。私たちは「広げすぎた」のだ。
つまり、土地は「おら、畑だよ〜ん」という自覚がある土地と、
「おらは、山だ」と思っている土地があるんではないかと。
だから大根植えても、壬生菜植えても、なんだかちぐはぐな出方をする。ここは芽が出るけど、ここは出ない、とか、出る時期を気分で変えてみたり。一方かつて畑だったところは、ちゃんとみんな仲よくいっせいに芽を出すのだ。
たぶん土地は記憶するのだ。いくら何年も放置されていても、いざそこをきれいにし、新たな野菜の種が入ると「あっ、これね」と、記憶の中から思い出し、ちゃんと育ててくれる。しかし大自然の中で弱肉強食の世界で成り立っている土地は、
「あん?何だこれ。このやわい種は?」とつめたく反応する。
びびった種さんが、
「すいません。ちょっとヒヨッコですけど、ひとつこれからよろしくお願いします...」なんて言っても、
「ここはなあ、オレ様の縄張りなんだ。おまえのようなもやしみたいなやつは鍛えてやる!」ってなかんじに土の中でなっちゃっているんでしょうなあ...。
だからこれからこの「おら山だ」と思っている場所を、
「あんたは、これから畑!」と洗脳していかなければいけないのだ。
(どーやって?口で言うのか?うちのかあちゃんのように)
絵:ハーバードビジネスレビュー掲載「シーザー」
2009年10月1日木曜日
ベアマウンテン
秋になると思い出す。ユタと不思議な仲間たちといっしょに行ったニューヨーク郊外のキャンプ場。日本のそれとは違ってとってもワイルドなのだ。
先月東京書籍のネットで掲載された文章をのっけてみます。
『ベアマウンテン』
いつのまにか、天高く馬肥ゆる秋になった。こんな日には、いつか友達とキャンプに行った事を思い出す。
ニューヨークシティを北に1時間半くらい車で上がると、ベアマウンテンという山にたどり着く。その名の通り、よく熊が出る。それもグリズリーというでっかい凶暴なやつ。出かけた時も、数日前にベアマウンテンの住人が襲われていた。それでもニューヨーカーはキャンプに出かける。これはマンハッタンの日常的な犯罪になれているからなのか否か。なにはともあれ犬仲間のフェルナンドに誘われ、最高のキャンプ日和、犬2匹に大人4人、みんな小さな車に詰め込んで北に向った。
アメリカのキャンプ場は日本のそれと違って、キャンプする場所が一つ一つはなれている。ゆったり車を置いて、ゆったりテントが張れる。お隣さんとは3、40メートルは離れているし、樹々におおわれていてお互いが見えない。プライベートが保てていい感じだ。さっそくテントを張ってから山登りする。
ホワイトシェパードにビシュラ。でっかい犬たちのリードを離すと、2匹は全速力で山を駆け巡った。ここはワイルドアメリカ。リードをつけなさいなどと野暮な事は言わない。山道もあるようなないような。樹々のところどころにペンキで赤や青色の丸い印がつけてあるところを目指して歩く。それぞれのコースによって色分けされているだけなのだ。だから道を人とすれ違う事なく歩いていける。岩をのぼり、谷水にぬれ、犬とたわむれながら頂上を目指す。頂上に立つと少しづつ色づきはじめた広葉樹の森が360度眼下に広がっていた。
夜はキャンプファイヤーを囲んでキチンを丸ごと焼く。犬たちが火のそばで気がきじゃない。火の中からなんとかチキンを奪い取ろうとやっきになった。夕食のあとはろうそくの灯りの下で花札。スペイン系ベネズエラ人とやる花札は盛り上がったなあ。
さてその夜。テントの中で、うちの犬はいつのまにかいつもの「犬」ではなくなっていた。
昼間に山を駆け巡り、夜チキンの匂いをかいだ。そしてここは大自然のど真ん中。今、彼は完全に野性の気分になっていた。
テントのすぐ近くでけものが移動する音がする。カサカサ、サラサラ、ミシッミシッ、ギーッ、ホウホウ....。ひょっとしたらすぐ近くにグリズリーがいるのかもしれない。狭いテントの中でホワイトシェパードは全身の毛を逆立てて仁王立ちし、ぴくりとも動かない。全神経で闇夜のけものたちの気配を感じているのだ。
「ユタ、もう寝ろ。いいから、寝ろ。」
そんなことを言ってみても無駄だった。ユタは完全にけものの血がよみがえってしまっていた。もし、ここでテントのジッパーを開けでもしたら、彼は一瞬のうちにベアマウンテンに分け入り、二度とペットとして戻ってこなかっただろう。そんな熱気をただよわせていた。
その晩、彼は一睡もせずに夜を明かしたもよう。帰りの車の中でひたすら爆睡していた。しかし家に着いた頃には、彼はいつものペットに戻っていた。きっと夢の中でペットと野性の折り合いがついたのだろう。
もしかしたらベアマウンテンは、犬をオオカミに変えてしまう山だったのかもしれない。
写真:ユタの顔がすでにイッている。
文:東京書籍e-net掲載
2009年9月29日火曜日
秋の花粉症!
なんとまあ、わしゃ花粉症にかかってしまったのだ。
春の花粉症ならわかる。秋の花粉症になるなんて生まれてはじめてのことだ。勝手に石けんなし生活をはじめて「花粉症ついに克服だー!」ともろ手を上げてよろこんだのもつかの間、まさか秋にそのおとしまえをつけることに....?
あれは先日、例の「奇跡の畑」おばちゃんがやってきた時のことだ。
な、、、なんか鼻がむずむずする..。ヘーックション!ヘーックション!とでかいくしゃみ2発。ついでにだあだあと鼻水が滝のように流れはじめたのだ。かぜ...?おばちゃんが風邪持って来た...?いやそんなはずはない。おばちゃんとは10メートルは、離れている。それからは私は鼻水をすすりながらの会話だったのだ。
家に戻って一気に爆発。鼻水が止まらなくなった。心なしか身体がだるい。額に手を当てると微熱が...。かっ...風邪だあー!いやひょっとしたら恐怖のインフルエンザか?気持ちがドタバタしている間に、ふと畑のことを思い出す。
そーいやあ、おばちゃんが来る前にわたしゃ何をしていた?確かフェンスに陣取ったイガイガしたツタをかき取っていた。そんときぷわ〜っと粉みたいなもんが飛んでいたなあ....。その粉をわたしゃ、思いっきりかぶりながら作業していたのだ。
ネットで検索「花粉症 秋」
出た。こいつだ。カナムグラ!!!その名も憎たらしい「鉄(カナ)のつる(ムグラ)」!こいつは夏の間からみんなに嫌われていたツル科の植物。ちょっと油断している隙にばんばん大きくなって、草も野菜もなんのその、エンリョのカケラもなくどんどんその上におおいかぶさって自分の陣地を広げてくる。たぶんみんなどこかで見たことがあるはずだ。ちょっと朽ちはじめた家の庭先にはこいつがかならずいる。何がいやかって、あのトゲトゲイガイガした手触り。素手で触ると全身にビッチリハエそろっているするどいトゲにさされる。ところがそのトゲはちっこいもんだからバラの刺のように抜こうったって、どこにあるのかわからないくらいちっこい。抜けないもんだからいつまでたってもチクチクイガイガしたいやーな気分が残る。
神様は何をお考えになってこのような植物を作られたのか。おまけにその花粉まで人にイガイガさせるのかー!おそるべし、カナムグラ!
そんな嫌われもんのカナムグラですが、百人一首の有名な歌に出てくるそうな。
八重むぐら(カナムグラのことらしい) しげれる宿の さびしさに 人こそ見みえね 秋は来にけり
恵慶法師
歌になるとなんかしみじみとしちゃうなあ〜。形もかわいいし。
とは言うものの、知らない間に草を敵としている私。いかんなあ。まだまだ修業がたりんのだ。
ところで花粉症はどーなるのか。その後の経過を見ることにする。
絵:「ハーバードビジネスレビュー」掲載「ヘンリーミンツバーグ」
2009年9月27日日曜日
奇跡の畑と呼んでください
「こんなんなっちゃって...。
ここまできたらどうしようもないわねえ....」
近所で畑をやっているおばちゃんが、久しぶりにうちの畑にやってきてつぶやいた。
おばちゃんの目に映る目の前の世界は、草がぼうぼうのどうしようも手のつけられなくなった最悪の畑に見えるらしい。
「草に栄養取られちゃうわよ」
「へえ、すんません。忙しいもんで...。まあこんなだらしない私ですが、ひとつ大目に見てやっておくんなまし」
と、わけのわからない江戸弁を使う私。
こんなんなっちゃって...じゃなくて、わざとこんなふうにしちゃったわけですが、おばちゃんは何年も何十年も野菜を育ててきた人。そのおばちゃんに「草、はやかしてマス」なんてじぇったい言えない。そうか、これが自然農や自然栽培をする人たちの苦悩なんだな。とりあえず、その場をごまかしてやりすごすしかない。だって、草を敵とする発想と、草を見方にする発想には決定的な違いがあるのだもん、その違いをそんじょそこらのガキの私がおばちゃんを説得させられるわけがない。離れ小島のようなところにある畑ですくわれた。これがみんなでいっしょに区画をわけてやる畑だと、とてもじゃないがまわりの軋轢に負けてしまうだろう。
「あら、ニンジンが出来てるじゃないの」
とおばちゃんはニンジンを草の中から見つけてくれた。
「ええ、ここにもキュウリ出来てます」と、すかさず私。
「あら!ちょうどいい大きさねえ」
「『(草の中でも野菜が育つ)奇跡の畑』とでも呼んでやってください」
というと、おばちゃんは笑ってくれた。
絵:coopけんぽ表紙「稲刈り」
2009年9月20日日曜日
すべては完璧
私は最近こう思う。まあ、私の勝手な思い込みですんで聞き流しておくんなまし。
この肉体というものは、本来完璧なものなのじゃないんだろーか。ほっておいたら、すべてが滞りなく循環しているものすごい叡智の塊で、すごいバランスでもって動いている完璧なコンピューター、いやコンピューターなんて言ってしまったら、どこかに欠陥がありそうに思えるので、「生き物」とでも言おうか。これは私たちがまったく関与できる次元のものではない、私たちの心や頭が動かしているものじゃないなにかのような気がする。だって、寝ている間でも心臓さんは動き、血液は循環して、消化も行う。細胞は生まれては死に生まれては死にをくり返す。これは私がまったくもってやっていることじゃない。
ところがここに私たちが関与できることがある。それは「壊す」ことだ。その完璧なバランスを崩したり、壊したりして、果ては病気というものにまで持っていくことが出来る。それはなにか。心だ。心と言う考えでもって身体を崩すことが出来るのだ。(あんまり名誉な関与じゃない。つーか、なさけない?)
インドのヨギがいう。
「ニンゲンが老いて死ぬのは、まわりに老いて死ぬものたちを見ているからだ」と。
つまり、人は自分のおばあちゃんやおじいちゃんが老いて死んでいくのを見ているものだから、単純に「ああ、人は老いて死ぬもんなんだな」と思っているだけだと。だからそのように自分もするだけのことなのだと思い込んでいるだけなのだといっている。
それは心と言う存在がそういうものだと思い込むことによって、その身体をそのように持っていくということだ、というのだ。それはそのおじいちゃんおばあちゃんもまたそのおじちゃんおばあちゃんの死を見てきたからなのだ。だから延々とその連鎖は続いているだけのことなのだ。
もしそれが本当なら、ニンゲンはすげー回り道をしている。
でもその言葉は畑をやっていても感じるんだな...。自然はそのままで完璧で、そこに種をまくのはニンゲン。そこで虫が葉っぱ食べたり、草でおおわれたりして「こりゃあたいへんじゃあ」と刈ったり薬蒔いたりする。するとそれまで完璧なバランスをとっていたその場所がだんだん崩れてくる。その崩れてくる様子を見て、またあわてて何らかの処置をする。そしてドミノ式に崩れていく。
野菜は肥料で育つと考えている。ほんとだろうか。
人は薬で治すと考えている。ほんとだろうか。
大きな視点に立ったら、野菜を虫に食われるのはその場所に馴染むための過程なのかもしれない。その種が持つ性質を、その場所に馴染ませるために必要なことなのかもしれない。自然は人間が作ったアンバランスを、その種がその地におろされた時点で、それがそこでいっしょに共存できるように調節してくれているのではないか。
最初にニンゲンが種をまく。そこに自然のバランスの崩れが始まる。
それは完璧であるニンゲンの肉体という大地に「心」という種がまかれることによって肉体のバランスが崩れはじめることに似ていないか。ニンゲンは老いて死ぬという考えの種が蒔かれることに。
その種を今もう一度考え直す時期が来ているように思うんだな。
じつは心だけがそのハーモニーを壊しているだけなんじゃないのだろうか。最近本当にそのことを考える。一体その種というアイディアはどこから来た?それは自分のウチ側からわいてきたアイディアではなく、どこかで聞きかじったアイディアじゃないのだろうか。
ニンゲンはそんなに小さなものじゃない。そんなに弱いものじゃない。もっと大きな存在だ。ただ誰かのアイディアで、お母さんに言われたことで、先生から習ったことで、もっと努力をしろとか、必死で働けとか、ニンゲンは弱いものなのだから守に守ってガードをして生きるのがいいのだとか、自分を小さくしろと思い込まされているだけだ。
だが自然と同じようにニンゲンの身体も臨機応変に変化するのだ。ニンゲンのおよびもしない叡智によって淡々とそしてダイナミックに生かされているのだ。
たとえ心の種によって身体のバランスが崩れても、また再生されるではないか。今そこにあなたも私も生きているように。なんちゃってねー。
絵;教科書「走れメロス」より
2009年9月19日土曜日
怒りのエネルギー
夜、私は何やらハラが立っていた。
私がハラがたつのはだいたいダンナとのことだ。相変わらず私の弱点にするどいツッコミいれてくれる。触れてほしくない部分なのに、そこをほじくられて、クローズアップされてイライラしていた。
そのままふとんに入ろうとするが落ち着かない。そこで、こりゃ感情のエネルギーを「観察」してみるいい機会だと実験に入った。
怒りの感情がそこにある。それでもっと膨らましてみようと
「もっと怒れ。ほれ、もっと怒りよ、大きくなれ!」と怒りをあおった。
するとどんどん小さくなっていく。
「おいおい、小さくなっている場合じゃないぜ。怒っていいって言ってんだから、怒れよー」
と、いううちにヒュルヒュルと怒りはいなくなってしまう。あれ?あっというまにいなくなってしまった。ついでにダンナへの感情もどこかに消えてしまった。何だ、それほどのものだったのか、とどこかでがっかりしながら眠りについた。
夜中....、突然のお腹の痛みに目がさめた。すごい痛さだ。瞬間にこれは寝る前の怒りの痛さだと感じた。ほら、怒ると「ハラがたつ」というではないか。ハラがたって痛みになったのか?あの時の怒りはお腹に来たのだ。なぜか頭に4、5個の痛みの渦がイメージにわいた。黄色と緑のぎざぎざした渦だった。
さて、ここからはおバカな妄想族がやっていることと思いお聞きください。
私はまず、その一つめの渦の痛みを感情を交えず、どこがどのように痛いのか観察をした。ぎゅるぎゅると音がする。エネルギーの渦だ。ジッと観察をしていると、一つ目の渦は消えていった。第二弾の痛みが襲ってきた。また観察を始める。すると今度は観察だけではおさまらない気がしたので、トイレに駆け込んだ。エネルギーが下に降りた瞬間ジャーッと○◯が出た。だいぶ痛みが治まったのでふとんに潜る。ところが今度は痛みではなく胸の奥にムカムカがはじまった。怒りもムカムカと言うではないか。吐いてしまおうかと思ったが、吐くのはきらい。しばらく抵抗する。でもおさまらない。意を決してまたトイレに。指を突っ込んで吐く。2回、3回...。もう胃液だけに変わってきたのでやめにする。ムカムカもおさまったし、痛みも消えていた。しかし完全に体力を消耗している。こりゃまずいとおもったので、最近編み出した手法を使う。題して回転数をあげる術〜。(バカでしょ?ほっといて〜)頭の上から足の下まで一本の直線を頭に描き、それを軸にした卵形の光をイメージする。その卵は三つ重なっていて、一つへ右回りにもう一つは左回りに、そしてもう一つは固定した状態で回転をさせるのだ。どんどん回転を速くしていく。光速よりも早く(の、つもり)回転させる。するとウチ側からエネルギーがわいてくるのがわかった。どこかでこれでよしと思える私がいていつのまにか眠ってしまっていた。
朝起きたら、どこも痛くなかった。ダンナにお腹いたくなかった?ときいたが、「別に」と言っていたので、食あたりではなさそうだ。
つまり私的感情のエネルギー論でいくとだ。
怒りはエネルギーの一種であるから、どこかで噴出しなくてはいけない。ところがそれが出るところがないと、どこかでたまる。それがお腹の消化の妨げになった。で、痛みとなってあらわれる。怒りのエネルギーをどこかで出してしまわないといけないからだ。たとえばそれを薬で痛み止めや下痢止めなどでおさえてしまうと、いつのまにかそれが蓄積して大きな病気となるのではないんだろうか。ガンは抑圧された感情がたまるとなるともいうではないか。
たぶん、夜ダンナに言われたことは、私のこと線に触れる何か重大なことだったに違いない。自分でも自覚しない深いところにあるわだかまり。そこにつんつんと針で突っつかれた気がしたのだろう。何とも言えない重たい怒りだったのだ。
んで、一体ダンナに何を言われたのか?
.....忘れちまった.....。
(あかんわ)
絵:ミステリーブックカバー
2009年9月18日金曜日
なんで生まれてきたんや?
「自然農なんて出来ん!」
そう豪語したのはみどりさん。彼女は、川口さんの元で2年間自然農を勉強された人だ。その人が言い放つ。自然農はむずかしい、と。
「あんなものはねえ、川口さんや福岡さんやから出来ることや。彼らはそれを広めるために生まれてきたんや。私ら自然農するために生まれてきたんちゃうやろ。あたしは古事記をする人なんや。つくしさんはなんで生まれてきたんや?自然農するために生まれてきたんちゃうやろ!」
彼女の言葉にはっとした。
畑はおもしろくっておもしろくって、毎日通っている。頭の中はいつも畑の映像が満載。「今度何植えよう。来月はああしよう」いつのまにか仕事のことは頭のスミに追いやられていた。そんな矢先、友達が大事にしていたスイカが全部見事になくなった。はたしてこれはサルが持っていったのか、イノシシが持っていったのか?心は動揺する。そのとき、これは私へのメッセージなんじゃなかろうか?...こりゃ畑ばっかりやっている場合じゃない。と、その思った一瞬のち、みどりさんからの電話。たたみかけるような冒頭の言葉。ヤバイ。本業に集中しないと!
みどりさんとはひょんなことで知り合った。沖縄で知り合った人が見せてくれた一冊の本「古事記のものがたり」。表紙がかわいいアメノウズメノミコトのダンスするイラストで飾られている。その本はむずかしい古事記の世界をわかりやすく楽しく書き綴った本だった。興味を引かれた私は彼女に会いにいく。よく笑う面白いことばっかり言う、しかし非常に頭のいいするどい直感を持った人だった。彼女は不思議ないきさつでこの古事記に取り組むようになったという。以来、古事記を広める人となった。今は日本中で講演会を開いている。彼女が言う。
「自然農はねえ、自分のやっていることに取り入れればいいんよ。あたしが畑で学んだことは一つやな。イザナギノミコトにイザナミノミコトが「あら、あなたいい男」と言って誘いをかけたら、ヒルコが生まれた。で、やり直しをする。今度は男の方から声をかけた。「あら、いい女」そうして生まれたのが、日本の国を始めとして、八百万の神々や、天照大神やツキヨミノミコトやスサノオたち。
ところが自然の世界もまるで同じ。最初に雌花が咲いても実がつかない。雄花が咲いて咲いて準備ができたところではじめて雌花がやって来る。そこではじめて実を結ぶんや。これはまるで古事記の神さんの話といっしょやろ?これがあたしが自然農やって勉強したことや。それだけでええんや」
古事記ってすごいね。ありがたい神々のお話ですよ〜と見せつつ、もひとつその後ろに宇宙の神髄まで解き明かしている。
彼女にははっきりと自分のみすえる場所が分かっている。「ぶれたらあかんで」そういって切った彼女の電話にきびしさと重さとあったかさを感じた。
は〜、ひさびさにヤラレちまったぜい。
その彼女が久しぶりに東京で講演会を開く。きっと面白い実になる時間をくれるはず。お時間のある方はぜひお越し下さい。
10月18日(日)
『古事記の物語』
みどりさんのホームページ
表の本:「古事記のものがたり」小林晴明・宮崎みどり著/サン・グリーン出版
2009年9月17日木曜日
キュウリは見つけるのが大変
「私は畑でキュウリを見つけるのが得意だ」
なんて自慢するやつはいない。
だが、草ぼうぼう畑ではこれが自慢の一つになる。トマトやナスならいざしらず、他の野菜たちはなぜか保護色。とくに地を這わしたままのキュウリなんか、草にまぎれてどこにいるのかわからない。「ここにいるよ〜」なんて声でもかけてくれればいいが、彼らはじーっとおし黙ったまま勝手に大きくなる。
かくして葉っぱの中で巨大化したキュウリが「げ!」という言葉とともに見つかってしまうのだ。
彼らも私があまりにも見つけるのが下手なせいか、「しょうがないなあ」と色をつけてみせてくれる。キュウリは熟すと黄色くなる。おとなり中国では、キュウリは「黄瓜」と書く。まさに黄色い瓜なのだ。やはり黄色くなるまで熟させて煮たり焼いたりして食べるらしい。きっと黄瓜/きうりが、なまってキュウリになったに違いない。勝手にそう信じている私。日本じゃまだ青ーいうちから食べるからなんで黄瓜なのかわからないだろうが、こうやってほったらかしにしてずぼらな私だから、この真実を知ることが出来る(自慢してどーする)。
それでもその葉っぱの間からちらっと顔をのぞかせているキュウリを発見すると、なんともいえないよろこびがわいてくる。このよろこびを写真に撮っても伝わらないだろう。ぜひ絵にしてみたいもんだが、私の絵の才能でどこまでこのよろこびが伝わるか。しょせん色の構成でしかないのだ。緑色の葉っぱの下に同じ緑色のキュウリ。「なんじゃそりゃ」ってかんじ。
でも実際目で見るとあきらかに何かが違う。それは触覚の違いを感じているのだろうか?いやたぶん、人は葉っぱが出す音と、キュウリの実が出す音の違いを感じているのだ。葉っぱが「ぱっぱらぱっぱっぱ〜」という音を出しているのにたいして、キュウリは「とっくん、とっくん、とっくん...」という音を出している(ホントか?)。
今、そのキュウリは、落花生とアンデスというジャガイモと一緒に育っている。
ナスもピーマンもこのところ急に寒くなったがますます日々大きくなる。肥料など一切あげていないのになんでこんなに育つのか。大自然はすごい。思わず一人感謝の踊りを畑に披露する。
天高く馬も私もこゆる秋であります。
絵:黄瓜ではありません、レモンです
2009年9月12日土曜日
「困ったらそのままにしておけ」
畑に植えた種の芽がでたはいいけど、その元気な双葉ちゃんを片っ端からコオロギが食べてくれる。壬生菜は8割がた食われた。白菜も大根のはっぱも食われた。先日有機農法の知り合いからもらった白菜の苗もこのまま畑に植え替えると、まず100%食われるな。
コオロギは庭で夜聞いている分には「いい声だなあ〜」なんてのんきなこといってられっけど、農家の人にしたらものすごくにくったらしいらしい。私も今そんな気分。どうも土の下にひそんでいて、夜になると出てきて柔らかい野菜の葉っぱをむしゃむしゃと。
「やっぱ、薬使うしかないよ」
と、白菜をくれた人はコオロギ退治の薬を教えてくれる。
でも私は虫も草も敵にしない(ほんとはにくったらしいけど)主義なので、じっとがまんする。
畑でジッと観察していると、たくさん食われたところと、そうでもないところがある。違いを見ると、草を多めにかけてあるところがなんとか保っている。つまりコオロギちゃんは野菜ばっかり狙っているんではなくて、そこらへんの柔らかい草なら何でも食べている模様。そこで恐る恐る草ぼうぼうの中に、あらたに白菜の種を入れてみる。または食われたあとの大根の畝に、新たに蒔き直しをしてその上にも草をぼうぼうとかけてみる。すべては実験だ。
自然農のおもしろいところは、ほとんど方法論がないところ。窒素を何%、カリを何%、堆肥をこのくらい混ぜて、その後何日にこれをやって....というメソッドがないのだ。その場所場所によって、環境によってすべて変わる、という前提に立っている。だからひたすらその場所を観察するしかないのだ。
そういうわけで、私は畑に行くと作業をするよりもぐるぐると歩いて観察している時間の方が長い。はたから見てたら「草ぼうぼうの中をぐるぐる歩く人」にしか見えないだろう。
自然農の川口さんはその著書の中で「困った時はそのままにしておけ」といっていた。ホントにそうだとこのごろ思う。
以前サルが来て食い荒らしたが、退治もせずそのままにしておいたらその後こなくなった。モロッコインゲンにヘソホリカメムシ(ホントはホソヘリカメムシ)が群がった時も「こりゃお手上げだ」と思ってほっといた。そしたら、今はほとんどいない。すごい量のインゲンが取れる。きっとインゲンとカメムシさんの間で何かの取引が行われたのだろう。ニンゲンの及びもしない所で何かが行われているに違いない。川口さんのいう言葉は深い。そのままにしておくのがいいのだ。
たぶん、何かが起こったとき、ニンゲンは「大変だー!」とパニクッちゃって、どうにかしなきゃいけないと思うんだろうな。だからあれを取り除き、これを取り除きする。だけど、それがくるのは何かしら理由があってくるのだ。もしそれをとりのぞいちゃったら、どっかで自然のバランスが狂うんじゃないかな。だからそれを補うために、また虫やら草やらがでてくる。そうするとまたニンゲンは「たっ...たいへんだー!」って、またそれを排除しようとする。
先日NHKで除草剤にびくともしないスーパー雑草がでてきたという番組があったらしい。私は見ていないけど、そういうこともあるんだろうなと思う。排除しようとした結果、「ほんならこうなっちゃうぞー」と草さんが本領を発揮した。この地球上で何十億年も君臨していた植物さん。私は彼らがこの地球上のトップに位置するんではないかと思う(あ、大地の方がトップか)。その何十億年という間に計り知れないくらいの環境の変化があったに違いない。その間をかいくぐって、そのときその場所に応じてどんどん適応してきた彼ら。たかだか最近でてきたあまちゃんのニンゲン種の浅知恵にそう簡単にやられるわけがない。
「植物、なめんなよー」と言われている気がする。
そのままにしておくという行為は、うけみでありながら、じつはおかれた状況を受け入れるというとても勇気のいる能動的な行為なのだと思う。
でもさ、そんなのんきなこと言ってられるのは、これを生業としてないからだと思う。お百姓さんたちは大変だ。
だもんで、今回もそっとしておくことにする。コオロギちゃんが納得いくまで。
絵「はなたれさきち」より
2009年9月10日木曜日
考えてどーする!その2
たぶん日本人はまじめすぎるんだろーな。(きのうの続き)
人に迷惑かけないようにとか、後ろ指さされないように生きなさいとかいう美徳というか美学がある。でもこれがかえって強迫観念のように自分を押しつぶしているのかもしれない。
アメリカ人なんかそーんなこと考えもしていない(ように見えるぞ)。
今、今度出版されるジャネット・イヴァノヴィッチ(今「あたしの手元は10000ボルト/集英社」が出版されています)の新作のゲラを読んでいるんだけど、ノリが私がいたブロンクスの住人たちそのままでおかしい。なんつーか、単純で、あっけらかんとしてて、ウラがなくて、いつもドタバタしている。ほんでもって深く考えている風でもなく、わたしが言った言葉のウラを読むでもなく、言われたまんまに受け取る彼ら。その彼らがとっても微笑ましかったりする。そんなあの時をなまなましく思い出させてくれるのだ。考えてみれば、あの時は人がどう考えているかなどと気をもんでみたりする必要もなかったなあ。言った通りに受け取れば良かったし。
「つくし!君はサイコーだよ!」なんて言われたままに受け取る快感。
逆に今日本の中でいると、「ちゃんとしなきゃ病」が発病してしまう。あの人は私のことをどう思っているのだろうとか、ああ言ってたけど本当のところはどう思っているのだろうとか、いらん詮索が始まってしまうのだ。すると言った言葉を素直に受け取れなくなってくる。だいたい、君はサイコーだよ!とは言ってくれんし...(なんじゃそりゃ)。
だから今読んでいるゲラが、アメリカ人のノリと日本人のノリのはっきりした違いを際立たせてくれ、また日本に戻ってきた時の、あのういういしかった頃を思い出させてくれる。
やっぱ、ちょっと考えすぎだよ、日本人。
いつのまにかそのノリに私も引きずられている。ぶちぶちぼにょぼにょと四六時中考えている。ちっとは、アメリカ人に見習おう。「Don't think! Feeeeeel!」
昨日ダンナがおもしろいことを言った。
「考えることは抵抗である。すべてを受け入れたら、無心になる」
深いやろ?(こりゃ、考えすぎる大魔王みたいなやつが言うから説得力があるってもんだ)
つまり、考えている(たとえばだれかのことを)という行為は、今その場、その人のおかれた状況や居場所にどこか文句があるのである。あんとき、ああ言った、こう言った、またはああでもない、こうでもないとぐるぐる考えてない?そこのあなた。(そりゃ、わしか)
もし、その状況に文句がなかったら、何も考えないのではないだろうか。満足していることをねほりはほり考えたりするだろうか。ねほりはほり(へんな言葉だな)考えてしまうのは、どっかが気に食わんから、ぶつぶつ考えるんじゃなかろうか。
じつは、気に食わんのはその相手が問題なのではなく、自分自身に何かしらの問題を抱えているからそれを見せてくれているらしいのだ。
「だれが?」
「えーっと、たぶん後ろにいる巨大な本当の自分...」
自分自身の問題は、自分自身ではなかなか気がつかない。だから、あるときぱ〜っと誰かが目の前に現われて、(本人の自覚なしに)あなたの問題を
「ほれ。このようにあなたには問題があるんですよ〜。どれ、今私がそれを演じてみせませう」と、やってくれているのだそうな。
だからその演じているやつが悪いわけではなくて、じつはその人はとっても親切で(本人の自覚なしに)やってくれているのだ。
ということは、考える→文句があるから→文句がある問題児→本当は問題児はあなた→自分の問題に文句を言っている→自分でその問題に気がつかないから解決のしようがない→延々と考える。という堂々巡りになってしまうのだ。
どうも、今ある状況に不服があると心が自動的に動いちゃうんだな。それは考えたらなんとかなるんじゃないか?とおもっているからだ。でもたいていは考えても泥沼に入るばかりだ。とくにこのご時世、あらゆる情報がつまっていてどれが良くてどれが悪いのかどれが真実なのかてんでわからない。探せば探すほど方向を見失うのが今なんじゃなかろうか。
だからこのさい、考えない。ゆだねる。うけいれる。必要があってこの状況がある。どんな状況であろうと、やがてこれは大いなる善に向かって進んでいる途中なのだ。誰一人にとって悪い話ではないのだ。後ろ指さされたっていいじゃないか。人様に迷惑かけたっていいじゃないか。自分の人生を信じる。自分の後ろのでっかい存在にまかせる。やって来たものを淡々と受け止めてやるはめになったことを淡々とやる。頭の中はいつでも上からふってくるアイディアのためにスキマを作っておく。
そうすりゃ、やがて芽が出る、花が咲くっとくりゃあ。
絵:「やる気がモリモリわいてくる本」表紙
2009年9月8日火曜日
考えてどーする!
「感情」というものは人の心を相当に振り回すもんのようである。
ついでに「考え」というものは感情とくっついているもののようである。
ダンナとケンカする。ハラ立てる。ソンでそこからいろんな考えが浮かぶ。
「あのやろう。こんなこと言いやがった。今度ああ言われたらこう言ってやろう」とか「あんなやつは、ぞうきんのようにしぼりきって、ふんずけて、そんでもって、ゴミ箱にポイだ」とか考えている。(え?あたしだけ?)
ヒマだとそんなことを考えて妄想にふけられるが、忙しいと考えてられない。いつのまにか忘れていたりする。しかしいつまでも忙しかったらいいが(なんでやねん)、忙しい合間にも、人の心は暇を持て余すようである。作業をしながら、また「あのやろう」と考えていたりする。しかし、その考えの果てにはあまりいいアイディアは浮かばない。たいていはネガティブの雲に包まれたままになっている。
身体の調子が悪いときもそうだ。「ああ、頭が痛い。どうしよう。これがガンだったら....」などと、妄想が膨らむ。この妄想はどうも決していい方向に進まない気がする。
まちがっても「ああ、頭が痛い...。どうしよう...。ガンだったら...。あっそうだ!これはきっとこれからいいことが起こる前兆に違いない!」などとポジティブに考える人なんかほとんどいない(と、おもう)。
たいていは、どこかで聞きかじった「知識」というものを押し入れから引っぱりだしてきて、ひょっとしたらこれは血液がどろどろになっていて、脳にたまり、ある日プチンと...!なんて思いついちゃって、その後の自分の姿などをイメージしてどんどん泥沼に入る。もんもんとしたまま、気がつけば夕方になり、夕飯はとーっても気の抜けたヘルシーな(あたりまえだ。気がちっているので)ご飯になっちゃったりする。んで、ダンナに「なんだこりゃ」なんていわれて、またムカついて.......。
ようするにだ。
ニンゲン考えるとろくなことに行きつかない、という結論に達する私であった。
仕事でアイディアが浮かばずもんもんとする。それこそ必死で考える。あれやこれや引っぱりだしてきて机の上は資料の山。で、もう頭がいっぱいになっちゃって、ぼーっとお山を見る。と、そのとき突然にそのアイディアが横に幽霊のように立っていたりするのだ。今までずっとそこにいたかのように。「びびび...びっくりするなあ。おどかすなよ。ずっとそこにいたの。なんで気がつかなかったのかしら。そうそう、これこれ!」みたいな。
そうすると、いままで力こぶ作って必死(「必ず死ぬ」と書く)で考えていたことがなんだったのーと力がゆけるほどになるのだ。
だいたい考えるときは、人は無意識に左の脳で考える。右の脳で考える人はいないかも。右の脳は直感とか本能をつかさどるからあたりまえなんだけど。だから「考える」という行為は、ロジックで、科学的で、よく人が考える、ついでに言うとテレビで脅かすところの内容の、わたしにいわせりゃ、「つまんない」アイディアの方向にしかいかないのだ。ところがぽっと浮かぶアイディアはトンでもなくハッピーだったりする。「えええ〜、なんでそんなことおもいついちゃうわけ?」と。
昔アリゾナを旅行してガイドしてくれたインディアンのデービットに言われた。西の空から雨雲がざーっとやって来たとき、「あ、雨がくる」と私が言うと、彼はさっと私に言った。
「考えるな!」と。
毒蛇がいっぱいいる河原に来た時も言った。
「考えるな。考えるとヘビがくるぞ」
デービッドはニンゲンの想念は、悪いものを呼び込む性質があるのを知っていたのだろう。
さて最近私はあまりにもつねに「考え」ている自分に気がついた。その考えは感情もくっついているものだ。なぜかというとその考えにはたいてい「解釈」がくっついているからだ。頭が痛い→悪いこと→いやだ。頭が痛いという考えに、「これは悪いことなんだ」という解釈がついたとたん「いやだ」という感情が動く。
じつは頭が痛いというものは、たんに現象があるだけなのだ。ところがそれに人は良い悪い、ソンするトクする、などと解釈をつけるのだ。これが人をネガティブにするはじまり。
もし、この世が「頭が痛いことは、これからいいことが起こる前兆なのよ」などと教えていたらどうなるだろうか。人は頭が痛くなる度に「ヤッホーッ!」っておおよろこびだ。そうであれば今の世はどんなにハッピーだったことか。
でもいかんせん、骨の髄まで頭が痛い=悪いこと、とつながってしまっているこの世のジョーシキだからおいそれとこの「解釈」をはずすことは出来ない。けれどもそれを「観察」することはできるのだ。
先日、私は猛烈にお腹が痛くなった。トイレでおもいっきりナニをだした。しかしまったくおさまる様子もない。七転八倒の苦しみだったが、そこではたと気がついた。これは痛い=悪いことという思いがよけい恐怖心をあおっているのだと。そこで私は痛みから感情を出来るだけ排除する。排除する手っ取り早い方法は、「観察」するのだ。私は強烈なお腹の痛みを観察した。
すると猛烈なエネルギーが、お腹の中で内臓がねじれるんではないか?と言うぐらいのたうちまわっていたのだ。そのエネルギーは音を立てんばかりの大きさで、小腸から大腸をゆっくりと回転しながら移動し、まっすぐ下に降りた。と、そのとたんビチャーッ(失礼)。
あとはまったく痛みが消えていた。
昨日耳かきするお店で働くお姉ちゃんが、お客に殺された事件をみた。かんちがいしたお客が耳かきのお姉ちゃんに無視されたのを恨んで、それを解決するには殺すしかないと思って殺したのだそうな。これなんかも考えが極端に行った事件なんだろうな。
最近よく耳にする言葉で「許せない」というのがある。その考えの果てには決してポジティブな結論は出ないだろう。
私も含めてほとんどの人が自分の「考え」の渦の中でもんもんとしているのではないだろうか。たぶん日本人が歴史始まって以来ぐらい一人一人がここまで考えている時代はなかったんじゃなかろうか。そういう意味では時代の犠牲者だ。たぶんどこかで、考えていないと不安なんだろうな。でも考えたってへみたいなアイディアしかでてこない。自分の人生、どこかでゆだねることかもしんない。
とりあえずニンゲン、やるはめになったことを淡々とやる。
どーしても人は考えちゃうけど、その考えと考えのスキマには、宇宙の真我に通じる道があると言う。私が考えすぎてお山をぼーっとみたとき、スキマが出来たのかもしれない。そのスキマからぽろっとアイディアがふってきた。
スキマスイッチというバンド名は最初ふざけた名前だと思っていたが、どうもすごーい深ーい名前かもしんない。
絵:coopけんぽ表紙「栗拾い」
2009年9月5日土曜日
「野菜の達人」を買う
きのう珍しく雑誌を買った。「野菜の達人」というムックだ。その特集が「自然農を始めませんか」というやつだったからだ。思わず購入。すると昔一度行ったことのある農家が出ていた。
メインになるのは、いつも覗き見している自然農の農園。表紙も中身も全面的に草だらけのシーンが(笑)。その草だらけの中で若者たちがこれまた満面の笑顔で写っている。
時代も変わったのー。その昔、農家と言えば、口を真一文字に結んで黙して語らない寡黙な人々というイメージだった。野菜作り=苦しい、大変、忍耐のはずだった。ところが、この人たちはたのしそーにやっている。おっしゃれーなデッキで、とりたての野菜をおっしゃれーな料理でいただく。子供たちが畑であそぶ。昔は神聖な場所だったから入っちゃ行けなかったはず。そんなタブーはここにはない。すべてがゆるゆるとあったかくって、何でも許されるような空気が流れている。
今までの農家=苦しさというイメージを、彼らは変えていくのかもしれない。ものは考えようだ。すべてはこうでなければいけないとの思い込みが生き方を苦しくさせていく。自給率40%以下の日本の農作物の時代、いっぺん、こうでなければいけないはずのものを解体する作業に入っているのかもしれない。ニコニコした彼らは、これから農業をやろうとする若者への間口を広げてくれるのかもしれない。
福岡さんや川口さんが何十年もやり続けてきたことが、今地道に広がっているということか。これが一過性のものでないことを祈ろう。
しかしこの雑誌、おもしろいのは、自然農の特集で「耕さない、草と虫は敵としない。」といいつつ、後ろの方では「虫をはねる」し、肥料もでてくる。おまけにホンダや三菱の耕耘機の広告が(笑)。
自然農のあり方は、化学農法や有機農法とははっきり一線を引く。とくに草を取らない農法は、有機とも化学からも絶対認められない方法だ。それが一つの雑誌で共存している。
大きな矛盾を抱えつつ、なんとなーくおっしゃれーな野菜作りの雑誌でした。
絵:「へるすあっぷ21」
2009年9月4日金曜日
ふすまの絵の恐怖
うちの母はみょうな能力をもっているから、私にとってお化けやオカルトにはなんの抵抗もなく過ごしてきた。私にもその能力があるかというとさだかではなく、ただ母がへんなことを言うのを「はあ、そういうこともあるか」と淡々と受け止めてきた。
そうはいっても子供というものは何かしら感じるものである。あれは私が幼稚園の頃だった。私は夜になると大泣きをする。ふとんのまん中に座って、「こわい〜」と泣くのだ。すると母は、
「どれどれ。どれがこわい?」とふすまを指して聞く。
「うんとね...。あれがこわいーっ」
「そう、この花瓶ちゃんがこわいのね。じゃあ、なくしましょう」
そういって、母は10センチ四方の白い和紙をもってきて、お米のノリで指差されたふすまに描かれている花瓶の絵の上に貼付けた。
「つぎはどれ?」
「これーっ」
私はひとしきり花瓶が消えると、落ち着くらしい。そのままコテンと寝てしまう。
そうやって、一晩に2、3個の花瓶の絵がふすまから消えていった。
それにしてもなんで花瓶の絵がこわかったのか。昔は何かしら絵柄はある程度限りがあった。花瓶の絵もどこかでいつも使われていた。昔のアルバムにも花瓶の絵があったようにおもう。昔の絵は色も今のように極彩色ではなく、どこか泥臭い。その泥臭い絵が、空間をぴょんぴょん飛び跳ねているのだ。それが不気味だったのか。それとも、そこの家に何かを感じていたのか。
あの家は私の子供時代の一番の拠点となる家だった。私が不思議大好きな少女になった原点はあそこにある。見えないのに何かしら存在を感じる原点となったところ...。
父に頼んで何十年かぶりにその地を踏んだ。
あの家は今はどうなっているのだろう。心おどらせながらむかう。そこは家一つないただの原っぱになっていた。
「ここにあったのか....」ぽつねんとその場にたつ。
何もない原っぱの一カ所に四角いコンクリートを見つける。井戸のあとだ。私は毎日その水で歯を磨いていたことを思い出した。
そのとき、からからと風が吹いて私の頭から何かが消えていった。
私は小学校だけで3回転校をした。引っ越した数は数えきれない。不思議なことに子供の頃私が住んでいた家はことごとく消えている。思い出に浸ろうとしてもその場所はもうない。ただ私の心の中にだけにあの頃の出来事がはっきりと残されているだけなのだ。
今は物理的にないからこそ、あの日々は心の中で永遠に生き続けるのかもしれない。
絵:coopけんぽ表紙
今はなきあの家。そしてまだ親子3人仲良しだった頃のシーン
2009年9月1日火曜日
日本人の顔
ニューヨークには世界中の顔がある。私のように似顔絵を描いていると、いやでも人の顔を見る。すると不思議なことがわかってくる。意外なことに日本人の顔がバラエティにとんでいるのかわかってくるのだ。ひさしぶりに他で掲載された文章をのっける。これは東京書籍eネットに掲載されたものだ。
『日本人の顔』
人種の標本箱みたいなニューヨーク。
街を歩けば世界中の顔がそこにある。人の似顔絵を描く私にとって、この標本箱は非常に興味深かった。
ユニオンスクエアにあるバーンズアンドノーブルという本屋の二階のスターバックスで窓際に座る。フリーマーケットの日は人通りも多い。窓から道ゆく人々を観察する。
「あれはロシア人だな。美しい黒人だあ。あれはたぶんベトナム人。頭に丸い布をかぶせてるからユダヤ人。あの人は韓国人で、あ、あれはまちがいなく日本人...」
カプチーノをすすりながら、あの人はどういう人生を生きてきたのか、この人はどういう民族背景があるのか、などと一人妄想して楽しんだ。
「あれ?たっちゃんがいる....」
その人は地下鉄のホームに立っていた。カラフルなポンチョを羽織って「コンドルは飛んでいく」を演奏している。いや、そんなはずはない。たっちゃんは、築地でマグロの卸をやっている。こんな所でポンチョを着て演奏しているはずがない。まったくの別人。でもあまりにそっくりなので、近づいてマジマジと顔を見てしまった。眉毛が濃くてまん中でつながりそうなところ、目の色、鼻の形、肌の色、髪の毛の色、髪の長さまでそっくり。彼に出刃包丁を持たせたら、絶対たっちゃんだとおもいこむ。じつはよく見ると他のミュージシャンたちもたっちゃん顔をしてた。
「そうか、たっちゃんはインカの顔してるんだ」
それから「川崎さんだ」と思うとアラブ人だったり、「谷本さんだ」と思うとフランス人だったりと、どんどん友達顔の人種を見つけ始めてしまった。日本人の顔っておもしろい。
ニューヨークでいろんな顔を見慣れると、どの国の人かだいたい分かる。アジアの中でも中国人の顔、韓国人の顔、タイ人の顔、ベトナム人の顔と、それぞれ特徴がある。その国々で、みな同じ系統の顔をしている。ところがなぜか日本人の顔だけ、バリエーションが豊富なのだ。ひとくくりにアジアの顔、とは言い切れないところがあるのだ。
なぜ誰もそれに触れないのだろう。不思議でならない。なので、これは私一人の独断と偏見であるということを前提としていただきたい。ただ仕事上いろんな顔を見ているので、あたらずといえども遠からず、かも?
この高尾にもユダヤ人顔の日本人がいる。目は大きくてくぼみ、彫りが深い。鼻は鷲鼻。彼が高尾でなくてニューヨークにいたら、まちがいなくユダヤ人だ。一体どこからそんな遺伝子を持ってくるのだろう?
私は勝手に推測する。いろんな民族がシルクロードをはるばるやって来て、たどり着いてしまった日本。そこから先は太平洋。旅の終着点は、きっと心地よい安住の地になったのだろう。そこで民族は子孫を残し、ひと知れず歴史の中に埋もれていく。しかし世界中からやって来た人々の記憶は、日本人の血の中に深く浸透し、思わぬ所でちょこちょこと現われ出る。その顔のバリエーションも、忘れられた先祖からのメッセージなのかもしれない。世界の文化をアジアでいち早く取り入れて発展してきたのも、そんな先祖の記憶がなせるわざなのかもしれない。
などと、大それたことを妄想しては楽しんでいる私。そしてそんな私の顔はというと、どうみても中国は雲南省の顔だそうな。
エッセイ:東京書籍eネット掲載
絵:起業人モンスター列伝シリーズ掲載「岩崎弥太郎」
2009年8月28日金曜日
シャンプーなしでさーらさら
ついに髪の毛がシャンプーなしでもさらさらになった。ここまでくるのに5ヶ月以上かかったが、この嬉しさはなんだかどこか解放されたような気分だ。
40数年間、ずっと使い続けていたシャンプーリンス。髪の毛さんは「シャンプーで油分がとられるから油出さなきゃ」と、一生懸命出し続けてくれていたに違いない。ところがここ5ヶ月で「あれ?別に出さなくてもいいみたいね...」と気がついてくれたのか。「必死こいて油出すの、やーめたっ」となったらしい。ブラシについていたフケのようなものもほとんど出なくなった。抜け毛もない、かゆみもない、ニオイもない。
これまでバイ菌が、ヨゴレが、ニオイが、かゆみが....とあれこれ心配してあれで洗い、これで洗いし、そうすると今度はぱりぱりお肌やがさがさ髪の毛になって、あれもつけてこれもつけてしなくてはいけなかった。最初っから何もしなくてよかったのだった。人は心配すると、そこから別の心配事が芋づる式に見つかって心配山のごとし、となる。
その心配ごとは、自然を味わうことがさえできなくなってくるのか。
最近、山にハイキングにくるおばさんたちも、大きなひさしのついた真っ黒い帽子をかぶっているし、腕には腕抜きみたいなものをつけている。せっかく山に来たのに、まわりを見渡す事も、空気を肌で触れる事も拒絶しているみたいに見える。じっと下をむいて黙々と歩く。これも紫外線や得体の知れない空気を怖れているのか。
私は毎日畑に出る。昔はちょっとお日様の下に出るだけで、あっという間にまっくろくろすけになった。でも石けん使わなくなってから、お日様にさらされても黒く焦げない。真っ黒な私はなんだかカッコ良く見えて好きだったので、焦げなくなったのはちょっと寂しい気もする。シミもふえるどころか消えつつある。たぶん肌の上の何億と言う微生物がいろんなものから皮膚を保護したり、働いてくれているんじゃなかろうか。
私は化粧をしないのでよくわからないが、すっぴんもいいよ。そのうちお化粧は口紅と目のまわりだけですます人が増えてくるんじゃないかとおもう。だって、石けんをやめるだけでその肌は静かにきれいになっていくし、ファンデーションや化粧水をつける必要がなくなってくるんだもの。
前に友達が会社に行くのに化粧をしなければいけないんだっていうのを聞いたけど、それってセクハラじゃないの?「化粧をしなければ見れないとでもいうのか?」って上司に言ってやりなさい。じゃあ、男も化粧をしろよ!と。
最近は特にあれが怖いこれが怖いと恐怖をかき立てる情報が増えすぎている。私はもうテレビを見るのをやめてしまった。あれは心を動揺させるばかりだ。それよりテレビを止めて静かな時間を作ろう。するといろんな恐怖の発信元がほとんどテレビからの情報である事に気がつくはずだ。「地球温暖化」も「紫外線」も「新型インフルエンザ」も「ヨゴレ」も「ニオイ」もみんなテレビから入ってくる。インターネットは見るも見ないも選択が出来るが、テレビはあたまに勝手に入ってくる。
これらがもし、本当はまやかしだったら、私たちはなんてバカげた事で右往左往させられているのか。
テレビを止めると、四季が変化している事に気がつく。夏の音はいつのまにか秋の音に変わっている。空気も光も風のざわめきも夏が終わっていく事を教えてくれている。自分のまわりの心配事を手から離すと、自然の変化に身を委ねられる。地球がまわっている事や、太陽がまわっている事や、星の位置が変わっていく事に視点を合わせられる。するとこの地球上のもろもろの事がちっぽけな事におもえてくる。そんな視点もあっていいんじゃないだろうか。
勝手に石けんなし生活は、結局、知らない間に植え付けられていた恐怖や情報から自分を解放することなのだと言うことに気づかされる。
絵:けんぽ表紙「里山の秋」
2009年8月22日土曜日
大根は回転する
この世のものは、回転しながら運動しているようだ。
このあいだ「奇跡のリンゴ」を作られる木村さんの本を読んだ。その中に、大根は回転しながら育つ。というのがあった。何でも大根は地面の中で右回りに回転しながら根っこを大きくすると言う。だからまんべんなくお日様に葉っぱがあたるというわけだ。そういえば、二股に分かれた大根を収穫すると、たいていねじれている。二つの大きなおみ足が、恥ずかしそうに交差しているのだ。三つ股の大根もそうだった。みんなねじれていた。回転しながら大きくならないと、ねじれるわけがない。だから、引き抜く時は左回りに回転させながら引き抜くといいというわけだ。
インゲンやキュウリやカボチャのツルもらせんを描いているし、朝顔のつぼみも回転しながら大きく花を開く。テレビで見るハイスピードで見る植物の成長はみんなねじれながら大きくなる。台風は回転しているし、水は回転しながら排水溝に落ちていく。南半球は逆回りだと言うから、南半球に育つ大根は左回りなのだろうか。
そういえば、私の頭のつむじも回転している。指紋も渦を描いている。地球もまわっているし、太陽もまわっている。銀河もまわっている。原子は原子核の周りを電子が高速で回っている。
太古の遺跡には必ず渦巻き模様が描かれている。インディアンの聖地にも彫られてあった。きっと太古の人々は渦巻きがエネルギーの象徴である事を知っていたのだ。
私の大好きな絵本に「ちびくろさんぼ」というのがあった。トラがバナナの木(だったっけ?)の周りをぐるぐる回って溶けてバターになるのだ(!)それを使ってホットケーキを焼いてみんなで食べるという、常識を覆すぶっ飛んだ絵本だった。
そこにも回転が象徴的に出てくる。回転すると何かにメタモルフォーゼするのだ。回転すると螺旋状に上がっていき、同じ場所であるのに一段階上の違う次元に上昇するのかもしれない。(このばあい、ニンゲンにとっての都合のいいメタモルフォーゼだが...)
どれ、私も一つ回転してみますか。
絵:にんじんです。
2009年8月19日水曜日
お肌さらさら
肌の事でふと気がついた。
わたくしごとでもうしわけないが(いつもわたくしごとだらけのくせに)、私の肌の夏はなんだかいつもべたべたしていた。(聞きたかねーよ)
今年夏に入って、いつものようにべたべたした感じが始まっていたが、いつのまにかそれがなくなっていたのだ。気がつくと、肌はさらさらした心地よい感じ。これも石けんを使わなくなってからのご利益に間違いない。たしかに暑い季節になって若干の体臭があった。いつもの事だから気にしていなかった。でもいつになく、なんだか甘い香りがしていた。(こっ....これがフェロモンというやつかーっ?)
だがそれも何日かたつと、嘘のように消えている。そしてあの肌のべたべた感がまったく消えていたのだ。前は汗の水分が蒸発して塩分だけが残って、べたべたしていたのだろう。ところが今は汗が引いても塩分がないのか、さらさらしているから、夏の蒸し暑さを肌に感じない。どこかひんやりとした薄い膜のような薄い層の空気が肌の上に存在しているみたいなかんじだ。冷たい水をあびたあとのようなひんやり感。おかげで蒸し暑い夜もさらさらお肌でぐっすりなのだ〜。
いやー、まったく人の身体ってものすごく精巧に出来てんだなあ。
絵:へるすあっぷ21エッセイ「アイセラピー」