2008年9月30日火曜日
不思議な母
「県展入選したよ」
今朝早く、高知の母からうれしそうな電話があった。
日本画をはじめて30年近くになる。県展に出品し始めてから、連続9回目の入選。
そろそろ1等賞をとってもらいたいもんだが、謙虚(?)な母は「やめてよ〜」という。
私はいろいろコンプレックスがあるが(歯並びだけはのぞく)、この母にはぜったい勝てない。彼女の感覚の鋭さ、センスの良さ、料理のうまさ、そして彼女の体全体からただよってくる気品。自分の親をそこまで持ち上げてどーする!とも思うが、しょうがない。客観的に見てもそう思う。
しかも妙な能力ももっているからたちが悪い。
同じ日本画仲間が、絵の制作に行き詰まると彼女に電話をする。
「ねえ〜、絵が描けないの...。どこをどーやったらいいのか...」
「ああ、あんた今コスモスの絵を描いてるね。右の方は力入れているけど、左が弱い。空の色はこうやって...」と、指示する。彼女は友達がコスモスの絵を描いていることは聞いていない。
「ほーらやっぱり!ちゃんと見えちゅうやいか!」と、友達。
また、べつの日本画仲間から。
「ねえ、聞きたいことがあるから、描きかけの絵お宅にもっていっていい?」
「ああ、いいから、もってこないで。今電話で言うから。
手前に大きな木があるね。まだ描ききれていない。それがメインじゃないの。それは緑青を入れてこうやりなさい。....それから、プラスチックの机があるね。それは白じゃなくて、いろんな植物の色が写り込んだようにしたほうがいい。赤や黄色やピンクを入れなさい...」
もちろん、彼女の絵も見ていない。どんな絵かも聞いていない。
母が言うには「別に見えているわけじゃない。ただ、わかる」と、しらっという。
結局、その2人も今回入選した。1人は15年ぶりの入選だという。
そんなに絵を教えるのうまいんだから、教室でも開けば?と思う。現に日本画仲間からは、「おしえて〜おしえて〜」とおねだりされている。「私、第一期生になる!」と言う人たちもいる。
私としても日本画の材料は高いので、少しでも足しになればとも思う。
でも...こーやって電話で教えてたら......
お月謝、取れませんから〜〜〜〜〜っ。
不思議な母である。
2008年9月29日月曜日
のんべえのオヤジ
前世の記憶なんてちっともないが、一度だけ変な感覚になったことがある。
あれはイタリアのミラノでのこと。街のシンボルであるドゥオーモの中に入った時のことだ。
最上階に上がったのち、石作りの狭いらせん階段を下りてくる。その薄暗い階段をとんとんと下りている間に、めまいがして来た。足元がおぼつかなくなった時、ふいに頭の中に映像が飛び込んで来た。
それは、雨上がりの北イタリアの夜だった。私の視点は石畳の上にあった。あたりは真っ暗で、飲み屋の入り口の灯りだけが、しっとりとぬれた石畳を浮き上がらせている。
つまり、私は北イタリアに住むのんべえで、つい今しがたさんざん飲んだ酒代を支払う金がなく、飲み屋のオヤジに蹴っ飛ばされて放り出され、地べたにスッ転んだ、という状況だった。
はっと我に帰った時、私はここにいた!という実感が、ぐわとよみがえったのだ。
おいおい。これは前世の記憶なのか?
ふつー、前世の記憶って言ったら、クレオパトラかナポレオンか、はたまたどっかのヨーロッパのお姫さんじゃないといけないんだぞ。それをただの酔っぱらいのオヤジとはどういうこっちゃ。あまりにリアル過ぎるじゃないか。しかも私はお酒好きときている。に...にすぎている...。しかもそのオヤジがどういう性格で、どういう職業を持っていたかまで、何となくわかっているのも気持ち悪い。
ということは、今回ニッポン人の女の子に生まれ変わって、酒は飲み過ぎたらいかんぜよ、と戒められていたということなのか。小さい時からいつもお酒は近くにあって、酒を飲むということはどういうことかということも客観的に教えられもした。おかげさまで、酒代を払えなくて、酒屋のオヤジに蹴っ飛ばされることもない。
でも、客観的に考えると、たまたまそこにいた飲んべえのお化けが、飲んべえの私にとりついて、自分の姿を見せた、ともいえる。つまり、また飲みたくなったお化けが、「ふんふん。こいつにとりついて、酒をかっくらおうぜー!」と、計画たてていたのかもしれない。その計画はあえなく失敗に終わったが。
この世は不思議だ。
目に見える世界だけがすべてじゃないような気がする。あっちの世界=お化け、という単純な構造ではない、とてつもなく広い世界が待ち受けているように思う。
この頭のまん中に二つくっついている『目』という道具で見えている世界は、ホントは豆粒みたいにちっこい世界なのかもしれないね。
2008年9月28日日曜日
高尾山事件
先日、家の前を救急車がたくさん走っていった。
山火事でもあったのかと思っていたら、自殺者が出ていた。山の中でテントを張ってその中で化学薬品を使っての早い死だった。30代の若者3人だそうだ。
高尾はそんな話をよく聞く。そりゃ、年間250万人も登りにくるお山だもの。死も確率的には多いのかもしれない。行方不明のチラシも時々電柱に貼ってある。
「山の上でヘリが飛ぶときゃ、そういうこった。今年はもう7回は飛んだぞ」地元の人たちはそんな現実を、淡々と受け止めている。
近所のじいちゃんは、私をいつもこう言ってからかう。
「おう。こないだ、あそこの沢で見つけたぞ。今からいっしょに見に行こうや」
彼によると、服毒自殺は、苦しいから、水を飲みに沢にやって来ると言う。そこで水を飲むと、それがあだになって、即死するのだそうだ。ほんとかどうかはわからない。
それで「やっこさんは、いつも沢にいる」んだそうな。
でもそんなひんしゅくを買うような彼の話を聞くと、なぜかほっとする。
生も死も、明るく受け止めているように見える。少なくとも、死が拒絶するほど忌み嫌うものではなくなる。それはこの高尾山のふもとで生きる人たちの、心の知恵なのかもしれない。
そんな彼がうちの犬が死んだ時、どんなに悲しがっていたのか私は知っている。何も言わずに背を向けた、あのときの彼を今でも覚えている。生を大切に思う人は、おいそれとは感情を口にしないものなのだ。
今日も朝からヘリが上空を待っている。
高尾のお山は、生も死もすべてをおおらかに包み込んでいる.....
と、ここで現実的な話をひとつ。
高尾山で死んだり、ケガしたりした人が出ると、お一人様につき、20人以上の救助隊が必要だそうだ。
人は倒れるとそうとう重い。仏さんならなおさらのこと。6〜8人がかりで運ぶのだそうだが、起伏の激しい山の中のこと、体力をいちじるしく消耗する。それで担ぐ人は交代しながら下山する。それについて医療チームも加わって異動するから、総勢22人は必要だと高尾のボランティアの人から聞いた。
死にロマンを求める気持ちはわからんでもない。しかしあとの人のことを考えてやってくださいまし。このボランティアさんの話しを聞いたら、とてもじゃないが、私は山で死ねません。
絵:ミステリーブックカバー/むきむきゲイのミステリーシリーズ
2008年9月27日土曜日
「ちゃんとしなきゃ病」
あれから、「私もちゃんとしなきゃって思ってる」という感想をいっぱいもらった。
みんな同じこと考えてるのね。
『ちゃんとしなきゃ病』は、返して言えば、『アリにならなきゃ病』ともいえないだろうか。
汗水たらして働くこと。それがニッポン人の美徳の一つかも。世間に後ろ指さされるようなことはしてはいけない。はずかしくない生き方とは、汗水たらして一所懸命働くこと、みたいな。
たぶん、ニッポン人には「アリにならなければいけない」という強迫観念が他の国よりも強いんじゃないかな。少なくとも、私の知っているアメリカ人には、「アリにならなければいけない」という切羽詰まったモノはなかった。そういうアイディアはない、ともいうべきか。
一所懸命働くことはとても大事なことで、いいことなのだけれど、問題は、どこかで「私、一所懸命じゃないんじゃないか?」と思ってしまうことなんじゃないだろうか。
後ろ指さされないようにしなきゃ、
ちゃんとお天道様の下で暮らせるような生き方をしなきゃ、
人に迷惑をかけないようにしなきゃ....と。
それがかえって強迫観念のようになって、私じゃないけれど、「勝手に監視人」を作っちゃう人もいるかも。
そういう人はきっとまじめな人(私以外)だから、人のやり方も気になったりする。自分にきびしいし、人にもきびしい。ましてやこんな物騒な世の中。「他人は何しでかすかわからない」という思いが膨らむ。行き着くところは、お互いが監視しあうことになりかねない。何となく窮屈なかんじがする。
とくに最近「ゆるせない」という言葉を耳にする。
その言葉は、言った本人も他人も窮屈にするんではないだろうか。
「じゃあ、ゆるせっていうのか?あいつがあんなことをしたことをゆるせと?」と言うかもしれない。人は人それぞれの思わくがあって行動する。極悪人のあいつだって、人の子。いろんな考えがあってやっちまったこと。そのやっちまったことのおとしまえは、その人がテンツバ(因果応報)でどうしようもなく帰ってくることだと思う。カルマや見返りはその分野の専門科、お天道様にまかせておくのが一番。そんな分野にニンゲンの私たちがかかわってしまったら、ミイラ取りがミイラになってしまうかもしれない。
大事なのは、自分がその気持ちに取り巻かれないことだとおもう。「ちゃんとしなきゃ病」も「監視人」も「ゆるせない」も、その気持ちの中に取り巻かれてしまっていることなのかもしれない。
まずは自分でつけた鎖や呪縛を取り払うことじゃないかな。ひとつ、ひとつ。
2008年9月25日木曜日
ユタを思う
「もう、ワンちゃんは飼わないの?」
1日のうちに、2度聞かれた。
あの、あっという間の出来事から2年たつ。
犬のオーナーには、だいたい2種類がいる。死んでは新しい犬を飼い、死んではまた飼い続ける人。そして一度死んでしまったら、あの思いは二度としたくないと飼わない人。
私はどちらかと言うと、後者の方にあたるのか。いや、二度と飼わないとは思わないが、まだ飼えないというべきか。
私にとって犬のユタ(ホワイトシェパードの雑種)は、宇宙一の名犬だった。賢くて、間抜けで、静かでにぎやかで。静と動をくっきりと合わせ持つ、面白い犬だった。それは、ニューヨーク生まれのニューヨーク育ち、そして人生の後半、日本の空気をも知ったせいなのか。複雑ではっきりとした性格の持ち主だった。
そんな犬を知ってしまったら、今度新しく飼う犬は、何でもかんでもユタとくらべてしまうのではないか?そんな気さえする。そんなの新しい犬に失礼じゃないか。
それに犬は大きな場所で大いに走らせて遊ばせてやりたい。思う存分走り回って、遊び抜いて、お腹いっぱいご飯を食べて、ふかふかのベッドでぐっすり眠らせてやりたい。
ブロンクスの大きな公園で育った彼は幸せだったに違いない。毎日犬同士が遊んで、ケンカして、走り回って過ごしていた。日本にやってきてからは、彼はずっと鎖につながれる日々だった。
こう言う考えだから、私としては日本で犬を飼うなら、人っ子一人いない山の中で、放し飼いにして犬を飼うしかないのだ。
だからもう飼わないの?って聞かれると、「はい。飼うなら山ん中で」と言いそうになる。はたして山ん中に住む日はくるのだろうか?
もうすぐユタの命日がやって来る。
あいつはきっと今ごろ鎖も首輪もない自由になった体で、あっちこっちの山を飛び回り、はてはニューヨークまで飛んでいって、しょっちゅうガールフレンドのゴダイバ(チョコレートラブ)やボスのダグア(ピットブル)に会いにいってるんだろうな。
2008年9月23日火曜日
Grace & Favor mystery
いつも仕事をくれるジルチャーチルのブックカバー。
ニューヨークから戻って久しぶりの紙を切っての作品。コンピューターになれると、細かい絵の部分的な作業は、紙なら目を絵に近づけて拡大する作業を、コンピューターがやってくれるから楽だ。でもそうすると、目はある一定の距離だけで固定されてしまう。こうやってコンピューターにあぐらをかいていると、ついに目が退化してしまった。細かい紙を切る作業が、今は虫眼鏡がないと出来ない!
ニューヨークを発つ時、長いことお世話になった英会話のおばちゃんが、最後のお別れに
「これ、プレゼント」と言ってくれたものが、虫眼鏡だった。
内心「これがお別れのプレゼントお〜?」って引いた。
でもおばちゃんは、わかっていたのだ。「つくし、これからはこれが役に立つのよ」
今はコレが手放せない。
2008年9月20日土曜日
宅急便のプロ
いつも荷物を持って来てくれる宅急便のお兄さんはプロだ。
「あの人は、ぜったい荷物の持ち帰りがないんですよ。ぼくなんかいつも荷物を持ち帰ってしまう..。」と、土日配達の若いお兄ちゃんは、彼のことを尊敬する。
お届け時間に、受取人がいるとは限らないからだ。荷物を配達しきって手ぶらで帰るのはそうとう技術がいるらしい。
「ちわーっす。生もののお届けでーす。お届け時間が午後2時だったけど、お宅に車があったんで、持って来ちゃいました」と、午前中に持って来てくれる。いつもたむろしているコーヒー屋さんにも「やっぱりここにいた」と、届けてくれる。
この臨機応変さに頭が下がる。こういう人が荷物を配達してくれるのは心強い。
彼は、この田舎で住む人々のすべてのパターンを、まるで全部知りつくしているかのようだ。都会ではとても考えられないパターンを。
チャイムを鳴らしたら怒る人がいる。
チャイムを鳴らしても聞こえない人もいる。
そんなときは玄関を開けて、本人の耳元で「お荷物でーす」という。
家の中よりも、いつも畑にいる人もわかっている。裏口に回り、畑の向こう側に大声で呼びかける。
彼は、ウチが午前中車がないと、山の中に水を汲みに行ってることまで知っている。最近、彼は私たちがよくいくその山の入り口で車を止めて、お昼をとっている。ここならまわりに気兼ねすることもなく、休憩が取れる。
彼はいつもニコニコしている。この間孫の話しをうれしそうにしてくれた。おじいちゃんだったとは。若く見えてわからない。
ニューヨークのアパートに配達に来ていたお兄さんが、いつもぶっちょうづらしていたことを思い出す。彼は自分の仕事に誇りを感じてはいなかったのだろう。
彼は自分の与えられた仕事を大事に思っているのを感じる。そういう人がいつまでもこの町に荷物といっしょに、元気や明るさを配達してくれることを願う。
2008年9月18日木曜日
植物に感情?
植物には感情がないと一般的には言われている。でもホントに?
人参を切る時、人参さんは「ひえ〜ッ」て言ってるかもしれないのに、単にニンゲンの耳に聞こえないだけかもしれない。ものすごーい性能のいいマイクを使って、彼らの声を聞いてみると、大根が「お助け〜」とか、「後生でございますだ、おでえこん様」って叫んでいるかもしれないじゃない。いや、まてよ。コレって殺生なんじゃないの?とすると、精進料理はどーなる?大根に殺生していることになると、ふろふき大根が食べられなくなる(そういう問題か)。
私には、植物には感情があるんじゃないか?と思うようなことが度々ある。
ニューヨークでいる時、よく近所の公園で木に触れていた。
しばらく彼らの木肌に触れていると、手の甲のまわりに、ぽわ〜んと暖かい空気が絡み付いてくる。何とも言えないその気持ちよさに、「きっと、この木が私に答えてくれているんだな...」なんて、都合のいいように解釈していた。
ある時突然、その木が大きくブルブルッと震えたのだ。その大きな変化にビックリして手を離した。一体何事?
まわりを見渡して気がついた。うちの犬が、その木におしっこをかけたのだ。
ああ、木はおしっこかけられるの、あんまり好きじゃないんだな。そりゃそーだ。おしっこって、結構塩分があるし、なにより汚い。と、いうか、かけられてうれしいやつなんか誰もいない。でもこんなに反応するとは思いもしなかった。これじゃ動物みたい。
けど木だから動けない。おしっこから逃げられない悲しさがある。
日本に戻って、はじめての春、うちの庭に大きな木が2本あった。5月になって、まわりの樹々が若葉で溢れているのに、その木2本だけがいつまでたっても芽吹かない。前の人が庭の木をいっぱい枯らしちゃったと聞いていたから、すっかりその木たちは、枯れているものと思い込んでいた。
「ねえ、あの木たちどうする?」と私。「ああ、枯れているなら、切るしかないね。倒れられたら大変だもん」とダンナ。「そうね。近々切りましょうか」という話しでまとまった。
次の日。
朝、庭を見て目を疑った。その大きな2本の木いっぱいに、若葉が芽吹いていた。「枯れていなかったんだ!」二人で大合唱。
前の日まで茶色い木肌しか見せていなかった彼ら。たった一晩で、木全部が緑の若葉におおわれていた。
..そうとうがんばったんだな。
わしら、生きてるよ!切らないでよ!って、必死で訴えたんだな。
ちゃんと聞いてるじゃん!
やっぱ、植物もニンゲンや動物と同じように、耳を持っていたり、感情を持っていたりするんだと思う。
聞こえないや感じないのは、単にこっちのニンゲンの感覚や、都合の問題じゃないだろうか。
きっと昔の人はこのことを感覚的に知っていたに違いない。
2008年9月16日火曜日
北条政子
「あの橋を越えると、急に空気が変わって寒くなるよ」
八王子にあるワイン屋さんが、高尾に配達に来るたびに、そう感じる場所がある。車と違ってバイクは外の温度変化に敏感だ。だから彼の言葉にはどこか説得力がある。
その橋の名は『両界橋』。
その名の通り、あちらとこちらの境の橋。一体誰がつけたのか。甲州街道沿いにあるその橋の先には、小仏関所がある。関所とは今の税関のようなもんだ。関所越えに命を張った者たちはたくさんいる。そのあげくに処刑された者たちもいると聞く。
両界橋は、そういう意味ありげな場所にあるのだ。そこが境になって温度差があるとは、あまりに出来すぎ。つまり、こちら側が東京方面で、あちら側が相模湖方面、ということになるのか?
私の家は、その橋を越えたあちら側にある。これはもう、居ながらにして非日常空間にいるということなのか?
たしかに、我が家のまわりを見渡せば「今は21世紀か?」と疑いたくなる。お祭りや年中行事、あちこちにあるお地蔵さまやほこら。300年以上前から代々続いている家々。大勢の人々が通ったであろう旧甲州街道...。なんとなく、そこかしこに、都会では決して味わえない、昔懐かしい空気がただよっている。その中で私はニューヨークの仕事をする。このギャップがおもしろい。ご神事に出席しながら、アメリカの絵を描く。両極は同時に存在する。
特に夏が終わって秋の気配が漂うこんな季節は、飛びかう赤トンボを眺めながら「300年前も同じ風景だった?」と思ってしまう。
ぬらりひょんが、ひょうひょうと道を歩いていても、誰も気がつかなかったりする...。
父じゃないが、私もこれから電話に出るときは「もしーっ?」と言わなければならないのかもしれない..。
(んなわけないだろ)
絵:オリジナル『北条政子』強さと母性と残酷さを合わせ持つ。
2008年9月14日日曜日
インスタント焼きそば
体にいいか悪いかは、横に置いといてもらって、インスタント焼きそばを食べる。
トップのふたを3分の一まではがして、中の袋を取り出す。お湯を入れて3分間待つ。お湯を注いだ反対っかわにある小さな小窓を開けると、格子状の湯切り口が出てくる。そこからさらさらとお湯をこぼして、ふたを開け、ソースやふりかけやマヨネーズを入れ、グチャグチャと混ぜて、あ〜ら簡単。即席焼きそばが出来上がる。
私はこの肯定をやるたび感心する。この面白さとおいしさを、ぜひカップヌードル好きのフェルナンドに送ってやりたい。だがこの複雑な工程を、お湯を注いでちょいちょいしかできないフェルナンドに、はたして伝わるのか。これを全部英語にして説明しなきゃなんない。それを考えると、今はフロリダに住む彼の家に行って、手取り足取りして教えた方が早そうだ。
一度まちがって、ふりかけをお湯をそそぐ前に入れてしまった。あわてて入れ物をお皿にかたむけて、ふりかけをとりだすと、何やら別の物がでてきた。ドライキャベツだ。どっから出て来たのだ?なんと乾燥麺の下に隠されていたのだ。湯が麺に回るバランス、キャベツを柔らかくする微妙な位置など、計算されつくしているのだ。
もし、この手順を間違えると、とんでもない代物が出来上がるに違いない。やっぱりフェルナンドには、フロリダまで教えにいくしかない。
まったく日本人は発明家だ。どこでどうやったら、あんな発想が出来るのか。きっと食に関する深い造詣があるにちがいない。いやいや食だけに限ったことではない。あらゆることに関して突出している。
そんなことを言うと、決って「ああ。それは、日本人はモノ作りがうまいから」なんていう。さも当たり前みたいな口調で言って欲しくない。これって、すごいことなのよ。
それにまた、日本人はどこぞのお国と違って、イバらない。
コレやった、アレしてやったといちいち恩着せがましく言わない。(言わなすぎるきらいはあるけど)
その、ぐっと内に秘めて、
「そんなことは自らが言い出すことではない」
という言わぬが花という美学。これを円熟した文化と言わずして何と言おう。
テレビ観ていると、そういう部分には目を向けず、なんでもかんでもニッポンはまだまだとか、遅れているとか、文句を言う。そんな言葉は、もう聞き飽きたのだ。一方方向からばっかりモノを見るんじゃない。
目の前に足元に、当たり前のようにある美しい文化。私はそれを一つ一つ「これこれっ!」って持ち上げて、見つけていきたいと思うのだ。
ちなみに、メーカーさん。そろそろインスタント焼きそばにも英語の説明文入れてください。
2008年9月12日金曜日
雪女
たそがれ時は、おそろしい。
それは、夜と昼のあいだの真空状態ともいえるような時間だ。一切の影がなくなって、自分の足元がおぼつかない。
すべてがぼんやりとしてまるで夢の中にいるようだ。
私はそんな一瞬のひとときが、とても好きだ。
こんな時間はあちらの世界がふいに顔をのぞかせる。神かくしにあうのは、たいていこの時間帯だ。
幼い頃、私はそんな時間を好んでふらふらと出かけていた。家のまわりの墓場とか、ばばあちゃんの家の近くのお地蔵さま。だけど、誰もどこへも連れて行ってはくれなかった。(期待してどーする)
「おまえ、もののけと、ニンゲンの違いって、どうやって分かるか知ってるか?」と、父が真顔で聞く。
「え?おとーさん、知ってるの!?」
彼は、声をひそめてこう言う。
「後ろから、『もしもし?』って声をかけて来たら、そりゃ、ニンゲンだ。でも『もし....?』って、声かけられたら.....」
「きゃーっ!」と私。
「ええか。だから電話で最初の言葉は『もしもし』なんだ。電話なんて、どこの誰からかかってくるかわからないだろ?ひょっとしたら、あっちの世界からかけているのかもしれない。だからそれは『私はニンゲンですよ』っていうニンゲン同士の無言の合図なのだ。
おまえ『もし...?』って、たそがれ時にでも誰かに声かけられたら、逃げろよ」と、父はしらっと言った。
そのせいかどうかはわからない。
父は今でも私に電話をかけてくる時、
「もしーっ?」という。
ひょっとしたら、父は自分がもののけであることを、あのときなにげに私に告白したのかもしれない。
絵:ECC英語教材に使用『雪女』
2008年9月11日木曜日
witch
私にもトラウマがある。
それはニューヨークで生活し始めてから、より強調されるようになった。
ずいぶん治安はよくなったとはいっても、日本の治安の良さとはダントツに違う。いつも財布をとられないかとびくびくしていたし、夜歩くときはまわりを気にしていた。家の中では突然大音響パーティが始まらないかと、耳を尖らせる。それもこれもいろんないやな思い何度も味わったからだ。
人は一度いやな経験をすると、ご丁寧に似たような状況に出くわすと、その一番辛かった感情を呼び起こすようだ。だからちょっとでもアパートの上の住人が靴音をさせるとびくっとする。いつのまにか意識は上の住人が出す音に集中する。からだ中の全神経が総立ちになって、ゲゲゲの鬼太郎の髪の毛アンテナじゃないけれど、体毛が全部逆立って、上の住人の音を聞いている。
そうすると、通常の耳よりもだんぜん聞こえがいい。上の住人の生活している様子まで伝わってくる。
人の感覚というモノはそらおそろしいもんだ。そのうち、自動盗聴まで出来ちゃうんじゃないか?
ニンゲン、恐怖と隣り合わせになると、どんな感覚が開きはじめるかわかったもんじゃない。だって、こんなに大きな脳みその10分の1も使ってないそうじゃない。(どーやって調べるんだかわからないが...)
残りはどこへいったのだ?
たぶん、いつもはそういう感覚にふたをしているんだろうな。だって、上の住人や下の住人や外を歩く人々の出す音が、全部聞こえたらどうなる?その人たちの生活の様子まで手に取るように感じたら?
きっと頭の中がぐちゃぐちゃになっちゃって、神経がおかしくなってくるんだろう。だからあとの10分の9は、いざというときのために、とっておいてあるのかもしれない。おばあさんが、火事場でタンスを運べるように。
トラウマの話しから、いらんところにいってしまった....。
今はそんな音の恐怖からは解放されているが、似たような状況がくるとどう反応してしまうかわからない。そのくらい人の反応とは、悲しいくらいパブロフの犬みたいなところがある。
人が怒ったり、哀しんだりしている感情のウラには、ある種のパターンがひそんでいるかもしれない。その元になる過去の出来事を外から分析してみると、その辛かったことは、今起こっているわけではないことに気がつく。その最悪の事態は今は何もない事に気がつく。
「ほら、何もないじゃない。だいじょーぶよ、つくしちゃん」といいつつ、一人カウンセラーをやっているこのごろである(苦笑)。
絵:昨日出来立てほやほやのオリジナル『witch』
2008年9月10日水曜日
里山の秋
ニューヨークからこの地に移り住んで、はじめて町内会の総会に出た時、会長さんが、
「出かける時や夜寝る時は、みなさん鍵をかけましょう」
といったのを聞いて、私は後ろにのけぞりそうになったことを覚えている。
あの悪名高き麻薬密売人の宝庫、ニューヨーク、ブロンクスに住んでいた私。鍵は少なくても3つはかけないと何が起こるかわからない。パンパンと銃声のなる音は日常的。地下鉄でのポリスの捕り物劇。3軒隣で銃で撃たれたおじさんの死体。アパートの下で大音響とともにいきなり燃え上がる車.....。そんなものを見て来た私にとって、この地は天国のように見えた。なんという極端から極端へのお引っ越し!
あれから4年。近所の人々は最近の日本の変化ゆえに今は鍵をかけている。しかしこの土地のおだやかで暖かい空気は、こんな時代になっても変わらない。いや、私はますます美しいと感じている。
近所のおいしいお豆腐を買いに出る。すると道の途中途中で地元のいろんな人々と会う。道ばたで、このあいだの盆踊りについて話し込んだり、野菜をおすそわけしてもらったり、コーヒー屋さんに連れて行かれたり。ちょっと買い物のつもりが、軽く2時間コースになる。山の緑がいつのまにかシルエットになって、たそがれ時になっていた。買ったお豆腐をふりふり、ゆっくり我が家にたどりついてお豆腐を取り出すと、今度は思わぬおまけが入っていた、なんてことも。そんな心遣いがうれしい。
悪いことに注目し見張ることは、知的な行為かもしれない。けれどもいつのまにかミイラ取りがミイラになって、良いものを見失う可能性だってある。こんな時代だから、ここはひとつ、あほうのようになって、よきもの、美しいものに注目する時間があってもいいかもしれない。
今日の空は、また一段と美しいじゃあないですか。
2008年9月9日火曜日
チェリーパイ
私がこの世に誕生して、一番最初に呼ばれた名前は『おいやしさん』。
産婦人科の看護士さんたちは、親が付けた名前よりも、あだ名で私を呼んだ。なんでも母の母乳の出が悪かったらしく、勢い余って、両方の乳首を噛み切ってしまったのだという。彼らはそんな私を見て、「そうとうイヤシイやつだな、こいつ」と思ったらしい。
彼らの直感は正しかった。私の『記憶』と呼ばれるものの9割は、食とつながっている。どこそこのあのときの、あのラーメンがうまかったとか、あの公園はあのだんごのモッチリ感が良かったとか、あのお寺のあの時食った和菓子がこう、うまかったとか、逆に、あそこの鯛は、天然のふりして養殖、しかも冷凍だったとか、良かろうが悪かろうが、全部が食べたときのこととくっついて、私の記憶箱の中におさまっている。
母はいつもこの話しをして笑う。
私がまだ1才半のよちよち歩きの頃、うちに小さなちゃぶ台があった。それは私の食事専用の幅30センチほどの小さなもの。たしか上に花の絵がついていた気がする。家の壁には時計があって、私はいつもその時計を気にしていた。3時に少し前くらいからそわそわしはじめる。私は、おもむろにゴザをずるずるひきずって、その時計がま正面に見える部屋のど真ん中に敷く。それは母が、私が畳の上に食べくずをまき散らさないように敷くもの。それからちゃぶ台も持って来て、その上に置く。準備万端整ったところで、私はその時計と向かい合って正座をして待つ。チックタック、時計の秒針が時間を刻む。私の心は高鳴り、絶頂期を迎える。
誰が教えたわけでもないのに、そうやって私は毎日午後3時になると、そこでちゃぶ台に向って、3時のおやつを待っていた。母はそんな私のけなげな行動に、なけなしの材料で、毎日おやつを作ってくれていた。
私は今でも3時という時計の針の位置が好きだ。遠い記憶は今でも無意識の中に活動している。
ところでこの絵に出てくるチェリーパイには、美味しかったという記憶がない。私の記憶箱の中から消去されている。
2008年9月7日日曜日
海の底の壷
イソップ物語の中に、『アリとキリギリス』というお話がある。
私はこの話しに妙にこだわっていた。
アリさんは働き者。キリギリスは働きもしないで、アリさんがせっせせっせと食べ物を運んでいる横で、優雅にヴァイオリンを弾いている。その結果、アリさんは巣に大量の食料を運び、キリギリスは遊びすぎてたくわえをしなかったから、飢えて死んでしまった(結果は色々あるらしいが、基本的にはこんな感じ)、というお話。
この話を聞いて、子供ながら「世の中、せっせせっせと働かなきゃいけないんだ」と思っていた。必然的にキリギリスよりも、アリさんの方がえらい!と信じていた。だからお百姓さんや漁師さんや汗水たらして働いている人を見ると、なんだかキラキラと輝いて見えたもんだ。私は「大きくなったら、アリさんみたいになるんだ!」と希望に胸を膨らましていた。
その私があろうことか、どこでどう間違ったのか、どっちかというと、キリギリスさん的な職業をえらんでしまった。汗水たらしてキラキラと輝いている人々とは裏腹に、一日中机に向って、絵を描いている。お百姓さんは食べられる食料を大地から作ってくれるが、私の作るモノは、食べられない。
単純な考え方しか出来ない私は、絵を描くことしか出来ない自分が恥ずかしかった。だからといって、この職業を選んだ人を同じように思っているわけではない。誤解しないで欲しい。みんなは私がのほほんと仕事をしている間に、汗水たらして頑張っていることを知っている。まわりに頑張っている友人がたくさんいる。私は徹底的に「ちゃんとしなきゃ病」の重病人なのだ。あくまでも自分ばかりを責める。いや、責める材料を探してばかりいるともいえるのだが...。
だが、ある日、ホントに単純な理由でこの呪縛がとけた。
ある夜、私が寝ていると枕元に誰かがやってきた。それは私の左の耳元に口を近づけて、はっきりとこう言った。
「美よ!美!」「あなたは美!」
そのとてつもなく大きな声にビックリして飛び起きた。もちろん誰もいない。
その存在の顔を私ははっきりと覚えている。長い黄色の髪をカチューシャでとめたゲバゲバしい化粧と服をきたおっさんだった。
「なんで美輪明宏が....?」夢か現か幻か。いったい人は、なんでこういうものを突然見るのだ。
美?何で美?
あの美輪さんは、いったい何が言いたかったのだ?
そのとき私の頭の中でキリギリスがヴァイオリンを弾いている姿が浮かんだ。そしてその後ろを重たい食料を運ぶ働きアリたち....。
その汗にまみれた彼らの顔を見たとき、私ははっとした。
アリたちは楽しんでいたのだ....!そうだ!あの重労働の中で、その苦しみを癒してくれていたのは、他でもない、あのキリギリスが奏でる美しいヴァイオリンの調べだったのだ!
なんてことだ。アリたちにとって必要だったのは、キリギリスだったのだ。アリにとって生きるとは、食料も音楽もどちらも必要なのだ。それはキリギリスも然り。すべての職業は必要なのだ。その中で私は知らず知らずキリギリスの職業を選んでいたのだ。
そう理解した時、なんてこの世は不思議なのだとおもった。すべてが意味があってそこにある。あのイソップの物語はなんて深い意味を含んでいたのだ。私が無意識にずっとこの話しにこだわっていたのは、その深いところをみろ!と言われていたからなのだ。
それから美というものが人々の生活にどんなふうに影響を当てていくのかをじっくり考えていくうちに
「キリギリスってすごいじゃないか...」そう思うようになった。
たった一瞬のへんてこなビジョンのおかげで、自分の呪縛がとけた。
自分の職業が恥ずかしいと思ったことが、恥ずかしかった....。
あのイソップ物語は最後はこう締めくくるのだろう。
アリさんはキリギリスさんにこういった。
「キリギリスさん、私たちの労働の疲れを癒してくれて本当にありがとう。お礼に冬の間の食料をさしあげます」
こうしてみんなは幸せに暮らしましたとさ。
2008年9月5日金曜日
かむい語り2008
アイヌにユカラという神様の物語がある。
大自然や動物の神様たちが語る壮大な物語。アイヌの人々にずーっと昔から火を囲んで唄い語り続けられた聖なる時間。
そんな神聖な物語のイラストを、フツーの和人である私が、今回怖れながら描かせてもらった。
そんな私にもばばあちゃん(母方の祖母に私がつけた呼び名)との時間があった。今は県道になってしまった本家には、囲炉裏があった。そこで幼い私は、ばばあちゃんにタヌキにバカされた話しや、不思議な話しを聞いた記憶がある。火を囲むと、その物語はまるで映画のように目の前に展開した。案の定、夜中におしっこに行きたくなる。でも昔のトイレは、薄暗く、タヌキの話しやおばけの話しがまとわりつき、底知れない恐ろしさを持って私を待っていた。そんな夜は、きまってばばあちゃんに泣きつき、庭が即席のトイレになった。
アイヌは、今の私たちが忘れてしまったようないろんな儀式を日常的に行っている。ユカラは今でも昔のままの姿に違いない。そんな空間の中で聞く神様の物語は、いったいどんな景色を展開させてくれるのだろう。このライブは、人工的な光を出来るだけ排除したやさしい光の中でおはなしをするのだという。そんな空間は私たちが日頃忘れかけている大事な時間をきっと作ってくれるに違いない。
高尾近くにお住まいの方で興味のある方は、ぜひお越し下さい。
絵:フクロウの神様 「かむい語り2008」
2008年9月4日木曜日
ホッキョクジリス
昨日キャンプから帰って来た。
久しぶりのキャンプはご老体にはキツい。でも、いつもは家の中でゴロゴロするだけの私をひっぱりだしてくれた若夫婦に感謝したい。
彼らの誘いがなかったら、一歩たりとも野宿(キャンプだろ)などしようとも思いもつかない。思わぬ非日常に、いつもと違う感覚が呼び起こされた時間だった。
火一個つけるにも時間がかかる。鍋忘れたり、フライ返し忘れたり、いつもはあたりまえのようにそこにある道具たちがいない。おもえばいつのまにか私たちは道具だらけの中で生活しているんだなあ。ちょっと何か足りないと、「あ、不自由だな」と思ってしまう。おいおい。キャンプってえのは、その不自由を楽しむためもあるんじゃないのか?と自問自答する。
彼ら夫婦は何度かキャンプ経験があるので、その時間をゆっくりと楽しむことが出来るらしい。文明をちょっと離れたところで、不自由を楽しむ。
「火をおこせさえすれば、あとは何にもいらないんだ」と嬉しそうに彼はいう。
たらふく肉料理を食べたあとで、焚き火を囲みながら、ワインを飲む。頭上は満天の星。樺太アイヌにある『トンコリ』という楽器も持って来ていた。富士山のふもとの湖畔で聞く、アイヌの音楽。ちょっとちょっと、これ、出来過ぎじゃないの?
ピント外れの私たちも、いっしょになってアイヌのウポポ(唄)を口ずさむ。火はすべてのものをオッケーにしてくれるのかもしれない。
夜中、テントから外に出てみると、夜空一面に星が輝いてた。ああ、狭いテントの中で狭い寝袋に入って寝るより、このまま大の字になって大地に直接寝そべりたい!そう強く思った。
うちの近所にフツーに野宿する友達がいる。彼らはテントはおろか、寝袋さえ持たない。気の向くまま山に入って、好きな場所で好きに夜を明かす。まさに太古のニンゲンがやってきたことだ。その文明から逆行するような彼らの行動の原点を、今、ちょっとだけわかった気がした。私の遠い昔の記憶が、呼び起こされたような瞬間だった。
絵:アラスカのホッキョクジリス けんぽ表紙掲載
野性の彼らも、今ごろ満天の星を眺めているのだろうな。
オーロラも。