2012年8月27日月曜日
心をむなしくする
。。。なんか腹立ってきたなあ。
サルの視点に立ってみても役に立たねえなあ。。。
って、サルの視点には立ってない。はらわた煮えくり返るおもいでソーゾーしているだけだ。
自分のはらわたをおいといて、本気でサルの視点に立つと
「ああおいしかった、腹一杯だあ~、しゃあ~わせ~」だ。サルは満足したんだろう。
それをニンゲンが解釈すると、にくったらしい顔で、
「へっへっへ。ニンゲンの野菜を食っちゃったよ~ん。ざまーみろ」
という悪党になる。
だが単にサルが食った、という事実だけなのだ。
サルにほじくられたという過去を通して、きっとまたやられるだろうと未来を案じている。
ところが今、この畑に立っている瞬間は、サルはいない。ほじくられたり荒らされたりもしていない。今は全然オッケーなのだ。
でも未来を案じる。私たちは今を生きられない。
なんでかしらんが、わしらはつねに過去の経験を通して、未来を予測して案じるという手法を使っている。すると今は穏やかでオッケーな気分が、未来を想定することによって、今がいきなりオッケーじゃなくなるじゃあねえか!
これが思考のクセだ。
今にはちっとも生きてなくて、ニンゲンは過去と未来を行ったり来たりする、思考のお化けなのだ。
つまりね、わしらは安心が欲しいのじゃないだろうか。安心安定永遠に。安心さんに永遠に保証されたいのだ。地面が揺れては困るのだ。人生に波があっては困るのだ。平穏無事に人生を全うしたいのだ。
だがそんな人生はどこにある?そもそも安定とかあったっけ?いつだって揺れているし、いつだって変化を突き進んでいるじゃないか。カラダだって今この瞬間どんどん変わってる。胃も血液も心臓も一時も停まることを知らない。畑だって顔だって毎年変わる。今日のやまんばは、もう昨日のやまんばではないのだ。
なにかしなければいけないとつねに思うのは、そういうイヤな未来を想定して、それを回避しようという抵抗なのではないか?変化は変えられないのに、変化するものに抵抗してる。のれんに腕押し。馬の耳に念仏(ちょとちがう)。無駄なテーコーはやめろ!よく考えりゃ、心臓止めようとしても生きてる限りとまんないじゃないか!という事は、安定とはほんとうは死のことなんじゃないか。。。。?
生きている限り、つねに変化をしているのが、生というもんなんじゃないのか。
人は無駄な抵抗に思考を使っているフシがある。地面が揺れている最中に、仁王立ちして揺れないように両足でふんばっているようなもんだ。(そりゃ、あんただろ)
ああ、ダメなんだ。
おれの人生いっつもこうだ。
やっぱりこういうことか。
もういやだあ〜っ!
何かあったとき、イヤなことを思い出した時、頭の中はこういう種類の思考を使っている。だがそれは創造的とはいえない。
でも、
「それもやがて過ぎ去る」
「こまったときはそのままにしておけ」
They are changing.
すべてはそこにとどまるものではない。やがて過ぎ去る。
この思考は使える。
一種のあきらめのような、無抵抗の感覚。その後ろに広がる大きな空間。
思考を使って使って使いまくって疲れ果てた後にやってくる虚脱感からくる無抵抗のうしろの静かな空間。そこに今まで気がつかなかったものが、まるでずっとそばにいたかのように突然立っている。それがインスピレーション。
だけど使いまくって無気力になってでないと得られないものではないようだ。ここに思考を道具として使うヒントがある。
心をむなしくする。
どうもそれが創造的行為のようなのだ。
畑でぼーっと立つやまんばの中に、小さなインスピレーションが入ってきた。
絵:MF新書表紙「プロセスにこそ価値がある」
結果ばかり、数値ばかりを追い求めることによって人は生きづらくなる。でも人生はプロセスを楽しむことなのだ!
2012年8月25日土曜日
やる気をなくすこと山のごとし!
このところ、日々荒らされていく畑を見る。
ついにサルは(多分サルだろうと思う)サトイモにまで目を付けてきた。掘り起こされ、かじられ、なさけない姿に。熟れたトマトはすべてなくなる。種まきした白菜、ルッコラの畝もこっぱみじん。以前荒らされて、蒔き直したニンジンの畝もまた荒らされた。
ほんの希望のひとかけら残っていたサツマイモのツルも全て引っこ抜かれてひからびている。暴れまくった畝から、それを集めて捨てるなんともいえない情けない気持ち。
やるきをなくすこと山のごとし!
「どこまでやったら気がすむんじゃい、このぼけえ、かすう!おんどりゃあ〜〜っ!」
裏の山に向かって叫ぶ。ツクツクボウシの声が、やまんばのむなしい雄叫びを呑み込んでいく。
これから冬野菜の秋蒔きがはじまる。
このまま蒔いちゃあ荒らされ、蒔いちゃあ荒らされを繰り返すのだろうか。ただでさえ、自然農からたんじゅん農法に切り替え、それもなんだか「?」になってきて、どうしていいか分らない迷い農法に突入している最中に、一匹オオカミならぬ一匹ザルの登場。これは畑やめちまえってゆーメッセージか?
この世は全て完璧だと言う。
という事は、これも完璧なのか。ということはどーゆーことだ?
自分の視点から見るから悲しいんであって、ちょっと視点を変えてみよう。
サルの視点。
「おー、今日もはら減ったなあ〜。さあ、めしにするか」
畑に入る。
「なにくおうっかなあ〜。赤いトマトがあるぞ。うへーうめえ。なんだあ?この妙なモノは。うっとおしいから取っ払っちまえ」
と、トマトのまわりに張り巡らしておいた網をぶっちぎる。全部食い終わって、
「さあ、あとはなにくおう。そーだ。まだサツマイモが残ってるかもしれんぞ。あー、だいぶ食っちまったなあ。もうほとんど残ってねえ。しょうがないから種芋も食っちまうおう。おや?あっちに畝がある。あ、あそこにゃ、まえにジャガイモがあった所だ。そうだ。まずかったけど、まだ食い残しがあったはず。。。」
そういって、やまんばが新たに白菜の種を植えた畝にやってきた。
「ありゃ?じゃがいもがねえぞ。ここか?いんやここでもねえ。ああ、あった。げ、やっぱりまずいなあ。」
半分食ってぽいっとすてる。さんざん荒らしてまだ食い足りない。
「あれ?あのはっぱはなんだあ?」
と、サトイモをみつける。サツマイモと違って引っこ抜けない。そして根っこを掘り起こし始める。
「どこまでほるんでい。イモがでて来ねえ。めんどくさいから、この茎食っちまおう」
そういってサトイモの根っこを食い荒らす。。。
。。。なんか腹立ってきたなあ。
サルの視点に立ってみても役に立たねえなあ。
2012年8月22日水曜日
思考万能主義でいいのかい?
最近、近所に頭のおかしい人々が増えた。いや前からいたんだけど、ますます症状が悪化してきた。
そういう彼らを見ると、自分という殻の中にかんぜんに入り込んでいるのがわかる。彼らが考える彼らの思考の中で世界が回っている。
あれはいけない。
こうしなければいけない。
そうでなければゆるせない。
だから断固抗議する。
それは誰かに向かっていることもあるだろうし、自分自身に向けていることもある。そうしてその自分が作った牢獄の中でがんじがらめになってもがいている。
昔シュタイナーの本を読んでいた頃、未来には頭のおかしなやつが増えると予言していたのを読んだが(1990年頃かなあ)、まさにそうなっている。読んだ時はまさかねえ〜とおもっていたが、まさにそうなってきた。
その元になるのは思考だ。思考なくして、普通の人が頭がおかしくはならない。
昨日も書いたけど、思考が人をがんじがらめにする、そう書くと
「ほんなら、思考したらいかんがかえ、なんちゃあ考えんと、あほになれってゆうがかよ」
と、おこられそーであるが、そうではない。
思考は万能ではないのだ。思考さえすれば世の中がよくなっていくわけじゃないんじゃないか?
思考は言葉だ。言葉はコンビニエンスでいい面もあるが、反面分裂や批判や葛藤を呼び起こす。あなたとわたしというふうに、わけることをする。いいこととわるいことというふうに二元論化する。
思考はそれさえ使えば解決する道具ではないようだ。だってやまんばにとって、石けんいらなかったじゃん。たぶん石けんなし生活している人は、それに気がついてるじゃん。
人々は、あらゆることに思考を使っている。しかしその思考万能主義が、あらゆる矛盾を作っている。それが今の世の中じゃないか?
その矛盾への葛藤が、まるでコップ一杯にたまった水がコップのフチから溢れ出てくるように、葛藤が爆発的に溢れ出ているのが、まさに今の状態なんじゃないだろうか。
思考を使って使って使いまくって、ますます葛藤を大きくする。あれじゃない、これでもないと、四苦八苦する。毒を取らないといけないのだ、毒さえとれれば自分は元気になるのだ、あれさえなければ自分は幸せになるのだ、なのに全然とれない。とっても取ってもまたでて来る。。。。んで、自分の身は自分で守らないといけないという切迫感も極度に達したりする。
それは自分の思考に絡まれているだけなのだ。こうでなければいけないと思い込んでいるだけなのだ。本当は毒なんかないかもしれないじゃないか。自分にわるいことするやつは本当はいないかもしれないじゃないか。自分で思い込んでいるだけなのかもしれないじゃないか。全ては思考じゃないか。
このまま思い込みが深くなると、自分で自分の牢獄からぬけだせなくなる人がもっと増えるんじゃないだろうか。
やまんばは、思考っちゅうやつはどうも限界があるように思えるよ。思考って言葉だろ?言葉ってすでに過去のもんだろ?過去のものを使って未来を解決できるんだろうか?今まで2000年もの間、ものすごーいたくさんのあったまいいー人たちが、思考を使ってこの世を作ってきたんだぜ。んで、その結果がこれよ。これからウーーーーンと思考を使ってさあ、(2000年間考え続けた以上にだよ)輝ける未来って作れるんかいな。んーなわけねえだろ?っておもうわけさ。
今、頭がおかしい人が増えているのは、そういう思考の限界を知って「思考という道具をうまく使いこなせ」というどっかからのメッセージなのかもしれんなあ、とふとどきもののやまんばは思うわけよ。
そういう彼らを見ると、自分という殻の中にかんぜんに入り込んでいるのがわかる。彼らが考える彼らの思考の中で世界が回っている。
あれはいけない。
こうしなければいけない。
そうでなければゆるせない。
だから断固抗議する。
それは誰かに向かっていることもあるだろうし、自分自身に向けていることもある。そうしてその自分が作った牢獄の中でがんじがらめになってもがいている。
昔シュタイナーの本を読んでいた頃、未来には頭のおかしなやつが増えると予言していたのを読んだが(1990年頃かなあ)、まさにそうなっている。読んだ時はまさかねえ〜とおもっていたが、まさにそうなってきた。
その元になるのは思考だ。思考なくして、普通の人が頭がおかしくはならない。
昨日も書いたけど、思考が人をがんじがらめにする、そう書くと
「ほんなら、思考したらいかんがかえ、なんちゃあ考えんと、あほになれってゆうがかよ」
と、おこられそーであるが、そうではない。
思考は万能ではないのだ。思考さえすれば世の中がよくなっていくわけじゃないんじゃないか?
思考は言葉だ。言葉はコンビニエンスでいい面もあるが、反面分裂や批判や葛藤を呼び起こす。あなたとわたしというふうに、わけることをする。いいこととわるいことというふうに二元論化する。
思考はそれさえ使えば解決する道具ではないようだ。だってやまんばにとって、石けんいらなかったじゃん。たぶん石けんなし生活している人は、それに気がついてるじゃん。
人々は、あらゆることに思考を使っている。しかしその思考万能主義が、あらゆる矛盾を作っている。それが今の世の中じゃないか?
その矛盾への葛藤が、まるでコップ一杯にたまった水がコップのフチから溢れ出てくるように、葛藤が爆発的に溢れ出ているのが、まさに今の状態なんじゃないだろうか。
思考を使って使って使いまくって、ますます葛藤を大きくする。あれじゃない、これでもないと、四苦八苦する。毒を取らないといけないのだ、毒さえとれれば自分は元気になるのだ、あれさえなければ自分は幸せになるのだ、なのに全然とれない。とっても取ってもまたでて来る。。。。んで、自分の身は自分で守らないといけないという切迫感も極度に達したりする。
それは自分の思考に絡まれているだけなのだ。こうでなければいけないと思い込んでいるだけなのだ。本当は毒なんかないかもしれないじゃないか。自分にわるいことするやつは本当はいないかもしれないじゃないか。自分で思い込んでいるだけなのかもしれないじゃないか。全ては思考じゃないか。
このまま思い込みが深くなると、自分で自分の牢獄からぬけだせなくなる人がもっと増えるんじゃないだろうか。
やまんばは、思考っちゅうやつはどうも限界があるように思えるよ。思考って言葉だろ?言葉ってすでに過去のもんだろ?過去のものを使って未来を解決できるんだろうか?今まで2000年もの間、ものすごーいたくさんのあったまいいー人たちが、思考を使ってこの世を作ってきたんだぜ。んで、その結果がこれよ。これからウーーーーンと思考を使ってさあ、(2000年間考え続けた以上にだよ)輝ける未来って作れるんかいな。んーなわけねえだろ?っておもうわけさ。
今、頭がおかしい人が増えているのは、そういう思考の限界を知って「思考という道具をうまく使いこなせ」というどっかからのメッセージなのかもしれんなあ、とふとどきもののやまんばは思うわけよ。
2012年8月21日火曜日
石けんなし生活で思うこと
石けんなし生活でなにを感じたかと言うと、石けんはそれほどニンゲンにとって必要なかったってことだ。
むしろそれをたんと使うことによって、いろんな弊害が起きる。その不快な弊害をなくすためにまた何かをする。その何かをしたことによって、また別の弊害を生む。なんかそんなことの繰り返しのように思えてきたのだ。
つまるところ、ニンゲンは、そこまでアレコレしなきゃいけない生き物ではなく、なんにもしないで、そのまんまで即完璧なんじゃなかろうか。
石けんなんてつい最近できたものだ。原始人も平安人も鎌倉人も江戸人も石けんなし生活だったじゃないか。それでも北斎なんか89歳まで生きられたんだ。石けんなくてどうしようもないカラダなら、人類なんてとっくにこの地球上から消えている。
いい香りとか、さっぱりすることの楽しさだけ味わえばよかったんだ。だけどそれがだんだんもっときれいに、もっと清潔に、もっとゴージャスにとエスカレートする。すると今度は、菌が、ウイルスが、といいだす始末。
今度は恐怖によって石けんを使うことを迫って来る。するとあれもだめ、これもだめ、ああしなさい、こうしなさい、といいだして、いつのまにか弊害の中で恐怖にあおられてあれで除菌、これで防御をしはじめるのだ。
だが、いっぺんそれを取っ払うと、一体なにが弊害をもたらしていたのか分る。バランスを崩させていたのは何かが分る。
ニンゲンは今までも、これからも、いつだって完璧な存在なのじゃないだろうか。現代人は弱いとか、昔とは違うとおもうのは、それだって思い込みかもしれないじゃないか。
全ての混乱の元は、このそういうあーでもないこーでもないという思考からきている。最初に石けんをほしがったのは思考だ。もっともっとと言いだしたのも思考だ。恐ろしいからこうしなさいと言ってきたのも思考だ。それに「そうだそうだ」と同意したのも思考だ。足りない足りないと思うのも思考だ。足りないから何かで埋めようとするのも思考だ。
だけどやまんばはおもったんだ。
石けんなしでもニンゲンは生きられる。これはすごい発見じゃないか?アレコレすることもなく、ただそのカラダそのものが完璧で、そのからだに何か起こっても粛々とカラダが治癒を施すすごい英知がすでにここにはあるんじゃないかと。
畑に草が生えるのも、自然が傷口を癒すように粛々と大地のバランスを取り戻すためにおこなっているのじゃないか?
肥料でメタボになった病んだ野菜に虫がつき、粛々と大地に返していくんではないか?
ただニンゲンの思考が勝手に動揺してあっちゃこっちゃして物事の真実を見えなくさせ、混乱させているだけで、自然界は黙ってそれを完璧な姿に戻していくだけなんじゃないかと。
ほんとはすごくシンプルなんじゃないかと。
絵:MF新書表紙「快感のスイッチ」きゃー!これはええでえ〜〜〜〜〜。
2012年8月20日月曜日
敵とかに依存する?
敵を作るって、ある意味、敵に依存してるんじゃないだろうか。
自分がどこに立っているのか不安になると、目標を立てる。その目標が、成功への道のりだったりするんだが、中にはあれさえなくなれば私の不安がなくなると思っちゃって、自分にとっての敵であるその何かに向かって突き進むのだ。
「目標!敵を倒すこと!」ってね。
だからみんなが同意する敵なんか見つけちゃった日にゃ、
「いけーっ、あいつをたおせーっ!えいえいおーっ!」ってなる。
みんなで敵に向かって行くから大義名分があるし、だれでも
「そうそうあいつがわるいのよ!」
って共感してくれるから盛り上がれる。みんなで一体にもなれる。その高揚感は、問題をいっぱい抱えた憂鬱な日々を、その時だけ打ち消してくれる。
その高揚感をもってウチに帰ると、ブッチョウズラの配偶者が待っている。
げっ。
その自分自身の現実から逃げるように敵に向かう。
「あの敵さえいなければ、幸せになれる!」ってのが、いつのまにか
「あのダンナ(女房)さえいなければ。。。」とか
「あのクラスメートさえいなければ。。」
なんちゃって、いつのまにかすり替わっていたりして。
敵をつくるってことは、自分の正当性を持つことができる。自分は正しいんだと主張できる。かっこいいじゃん、おれ!って。
だけどほんとは、とりあえず敵とか作っておかないと、自分の立ち位置がおぼつかないからかもしれないし、敵とか作って、自分の日々の現実を見ないようにしてるんかもしれん。あんがいチョー個人的なうっぷんはらしだったりして。。。
どっかの国は仮想敵国を作って盛り上がる。どっかの国は敵に依存している。国民はそれに踊らされて利用されていく。
スケールがおっきいもちっちゃいもない。
どっちにしたってそんな子供じみた気にもとめないような行為が、いじめから戦争にまでもひろがっていくんだろうな。
絵:MF新書表紙「山手線に新駅ができる本当の理由」
2012年8月19日日曜日
トウモロコシ全滅
ふっふっふ。。。きょうはあのプリップリになったトウモロコシを思う存分食うんだぜえ〜〜〜。
畑4年目にして、ついに虫にもほとんどくわれず、畑でまともに育ったトウモロコシを食べる日がやってきた。ほくほくしながら畑にいく。
あれ?なんかようすが。。。。
見事に食い荒らされたトウモロコシたち。種取り用にしよお〜っとと目をつけてあったりっぱな奴まで跡形もなく。
サツマイモの畝も完全に荒らされている。もうほとんどまともな苗はなくなっていた。
ふえ〜ん。。。。
イノちゃんだ!と思って、畑中のフェンスをチェック。だがどこにも侵入した跡がない。やばいなあ。侵入箇所が分らないと、防御のしようがないじゃないか。そのうちサトイモがやられるし。。。。あれ?そういやサトイモがやられていない。
イノシシがきてサトイモが無事なわけがない。。。
ああ、サルだ。
よくみりゃ、トウモロコシはじょうずにカキとってある。
あああ、サルだ。あいつだ。一匹で神出鬼没のあのオスザルだ。サルかあ〜〜〜。
サルは防御のしようがないのだ。だって、手も足も使える。アミかけたってはぐられる。石おいたってどかされる。電流流したってとびこえる。なにやってもだめなのだ。せいぜい、鉄砲でパンパンやって音で脅かすぐらいなようだ。それだって、しばらくすりゃ戻って来る。
無惨な姿になったトウモロコシを引っこ抜いて捨てにいく。全体の1割は食えたかなあ。あれ全部食えてたらサイコーだったなあ。。。ぶつぶつぶつ。。。
このごろ畑に行くのが楽しくないやまんばだった。
草は激しく伸びる。刈っても刈ってもどんどんのびる。草の勢いについていけなくなる。野菜たちは草の中で息をひそめている。ちょっとしかとれないキュウリ。ちっこいピーマン。全くとれないナス。
これからの自分の作業を考えて、ぼーぜんと立ち尽くして畑を眺めるやまんば。いったいどーすりゃいーのよ。。。。
人は手を入れると、つまり人は行動すると、そこに期待が動く。
草を刈る=野菜を育てる、というふうに。
私の行動のひとつひとつに「結果を求める欲」が動いているのだ。するとその欲がサルや草たちの状況によってはばまれると、意欲がなくなる。過去を振り返って未来を予測してやる気をなくす。
人は何でも欲というモチベーションに突き動かされているのだ。
ただ草を刈る事が楽しい。ただ土に触れる事が楽しい。ただ虫を眺めているのが楽しい。という欲のない境地になってみたいもんだなあ。。。
絵:MF新書表紙「40代から細マッチョになる!」
女側から見ても、この細マッチョはいいなあ〜っておもうのだ。
2012年8月18日土曜日
常識ってなに?
そっかあ〜。石けんなし生活で水虫治った人がいるんかあ〜。
まいうう〜ぱぱさんいわく、3人中3人治ったんだそうな。
それって、100%の確率、ともいえるし、単なる偶然、ともいえる。
どっちをとったっていいじゃないか。それをどう思うか、ってことじゃない?
たとえば、100人が水虫治しに石けんなし生活を挑戦してみて、100人とも治ったとする。それだって、単なる偶然じゃないかっていわれればそうなのだ。
ということは、世の中のあらゆる実験が、単なる偶然ってこともいえるんだよなあ〜。
ということはだよ、ちまたでいわれている常識と言われるものは、単なる偶然なんかもしれんなあ〜。ははは〜。
その単なる偶然を、みんな必死になって守ってる。こうじゃなきゃいけない、ああしなきゃとんでもないことになる!と。
守るべき常識!守るべき姿!守るべき価値観!
なんだか力強いねえ。
するってえと、それを守らん奴は、許せん!とか、敵だとか、悪だとかになっちゃって、ちょっとでも違う事ゆー人は、
「あんたって、なにもの!?」
みたいにキョゼツされちゃう。
ある人も石けんなし生活をだれかにすすめると
「それっておれに、原始人になれと言ってんのか?」
と言われたそうだ。
なんだか生きづらいねえ。
特に最近は言っちゃいけないことが多くなった気がするなあ。あれでしょ?これでしょ?
え?なに?ダメダメ。言ったら袋だたきにされる。
やまんばは石けんなし生活で、あれ?常識ってこんなもんだったんかいな?っておもった。アレコレしなきゃいけないと思い込んでいた『常識』が、ナーンだ。単なるガセネタかよ。って。
まわりを見渡してみると、まあ常識だらけ!
「それって、ジョーシキでしょ!」
は、殺し文句になっちまった。
だけどそーながやろーか?
えらい窮屈ながよ。
世の中完全に二元論の中に落ち込んじゃっている。あっちじゃなきゃこっち、善と悪、敵と味方、損と得、勝ち組と負け組、成功と失敗。。。。
この世は二元論ではちっとも推し量れんがよ。そんなのちっぽけな価値観ぜよ。
そろそろさあ、ちまたのダイジーな常識ってやつを
「どっちでもいいじゃん。あんたがそれをどう思うか?ってことよ」
ってなレベルにまで下げてもいいんでないの?
絵」MF新書表紙「カブトムシとクワガタの最新科学」
虫好きにはたまらな〜いワクワクものです!!
2012年8月15日水曜日
石けんなし生活で野生か!
勝手に石けんなし生活もかれこれ3年半近くなる。相変わらずやまんばは、歯磨き粉も、石けんも、シャンプーも、リンスも使わない。
コマーシャル的に解釈すると、さぞかし垢や菌がたまりまくっている事だろうから、よいこのみなさんは、まねしないように。
だがやまんば的にはナーンも支障がない。今までなんでカラダにいろんなもん使ってたんだろな?ってなかんじだ。
カラダに石けん使ってると、冬はかさかさお肌になって、あっちゃこっちゃクリームを塗らないといけなかったし、夏はベトベトしてあせもになっちゃうから、ベビーパウダーなんかぱたぱたしないといけなかった。だけどお湯か水で洗うだけで、さっぱりすべすべ。適度な油分が肌に潤いをもたらしてくれる。天然の化粧水だあ。
先日前から残ってた虫歯をとりに歯医者に行ったけど、歯石を取らないといけないとは言われなくて(以前はいつも行くたびに『はい、歯石を取りましょう』っていわれて歯石取りにいってた)、「まあ、きれいに歯が磨けてますね」ってさ。以前と同じようにしか磨いてないのに。
歯石って、ひょっとして歯磨き粉でできてる??もしくは自然に出来上がってくるはずのエナメル質を歯磨き粉が取ってる??なぞだあ。
シャンプーリンスもなくってもすこぶるカイチョー。さらさらヘヤー〜。
畑から汗かいて帰っても、シャワーでザザザーではい終わり。カラスの行水だあ。
おかげでガス代が安い。
こないだ畑で草刈りをしているとあるにおいがした。
今は亡きホワイトシェパードのユタのぱう(肉球)のにおいだ。
香ばしいような、わらのような、アメリカ人的にいえば、ポップコーンのようなにおいのあれだ。やまんばはあのにおいが大好きで、しょっちゅうユタのぱうを自分の鼻に押しあてて「くっさ〜」といいながら嗅いでいた(ヘンタイか)。
ユタがここにいるのか?とあたりをみわたしてもいない。よーくにおいの元をたどれば、目の前の刈り倒したメヒシバ(イネ科の植物)からだった。
ユタもよくこの草をくってたからなあ。くった草のにおいがカラダからにおい立つんかもしれんなあ〜。ああ、そうか。動物は自然に近いんだな。自然と一体だからきっと自然からにおいをもらうのだ。
などとユタのぱうのにおいを懐かしんだものだった。
だがしかし。
まさかそのにおいが、自分からするとは思わなかったのだ。
このくそ暑い今年の夏。
汗をかきかきコンピューターに向かう。(冷房つけろや)
するとどこからともなく、ユタのぱうのにおいが。。。
あれっ?ユタが?(いるわきゃないだろ)
するとにおいのぬしがここにいた。
なんとやまんばの脇の下からにおっていたのだ〜〜〜〜(きゃーやめてー)。
こりゃ、どーいたことぜよ。
わしゃ犬になったがやろか?
つまりこーゆーことか?
畑の野菜を食う。畑の野菜は肥料もない。ほとんど自然の状態で育っている。という事は、そこらの雑草と同じような状態におかれている。いわばメヒシバをくっているようなもんだ。その野生化した野菜を食らう+石けんなし生活で、こりゃ、まさに野生動物じゃねえか!
ついにやまんば、石けんなし生活によって、野生化してきたのであったーーーー!
あのユタのように底なしの元気が出てくるんかもしれん。
なんだか底力が湧いてきたどおー!
ということで、イヌ化してきたやまんばにはお近づきになりませぬよう。
よいこのみなさまは、石けんをちゃんとつけて、スーパーの野菜をちゃんと食べて、ニンゲンらしくお過ごしください。
絵:スマホケースデザイン「やまんば」(私の理想の姿)
『やまんば』
蛇滝付近に生息する元人間族。おんとし233歳。
江戸時代に大失恋をしてから、やまんば道に入る。
山水を飲み、草を食らううちに怪力を身につけ、近年は高尾山に熊を寄せ付けない。
蛇滝から高尾山頂まで3秒で駆け上がる。
まわりの空気を読まない独自の道を突き進む。
ちなみに大天狗とは、ダチ関係。
なんちゃってご利益:
やまんばが近くにいりゃ、なにものにもへこたれない、強い心と身体を身につけられるかも~。
2012年8月14日火曜日
イノちゃん抗議する。。?
日曜の朝7時まえ、突然目の前の山から、大きな鼻息が聞こえた。
ぶひー、ふがふがふが、ぶぶー、ぶおーん、ふがふがふが、ぶぶぶーっ。。。
家の前はすぐ川。その小川の向こう側に、山にそって遊歩道がある。その遊歩道でイノシシが草木をなぎ倒しながら一人で怒っている。樹々に隠れて姿は見えないが、あの声からするとあきらかにウリボウではない。かなり大きなイノシシのようだ。
な、なんか知らんが怒っている。ウチの家の真ん前で。
ふつうこんな明るいうちにイノシシがふもとまででてくる事はない。しかもそこは、犬の散歩コース。今はまさに人が犬と歩く時間帯だ。やばい。でくわしちゃったら、どーするの!
すると案の定、西の方からセントバーナードを連れたおじさんがあるいてきた。でもおじさんは行く先を見据えたまま動かない。イノシシに気がついていた。そのまま行くか、引き返すか迷っていたようだ。だがほどなくしてゆっくりとおじさんは進行方向に歩き出した。山の上の方を見ながら。あのイノシシは山に帰っていったようだった。
日曜日は一日中、町内会のご神事やのんべや夏祭りに参加して忙しかったのでやまんばは畑に行けなかった。
次の日、畑に行く。入り口のドアが開いていた。
あ、やばい。。。
案の定、サツマイモ、ジャガイモ、トウモロコシ、ズッキーニが荒らされていた。イノちゃんだ。あーあ。
サツマイモなんてまだまだちっこいイモしかくっついてないはずなのに、食い荒らされ、トウモロコシもなんとか順調に育っていたものが半分食われていた。しかも部分食い。うちすてられた裏半分きれいに残っているトウモロコシを後ろ髪引かれながら捨てる。種にする?でもなんかやだなあ。。ズッキーニは根元をがぶり。
畑の後ろの墓石はほとんどなぎ倒されていた。
イノちゃんは、畑の正門から堂々と入ってきたようだ。入り口はいつも自転車に使われる番号を合わせるチェーンロックで繋がれていた。落ちているチェーンを調べると、カギのようなストッパーになっている金属のでこぼこが、きれいさっぱりとれていた。どんな力で押したんだ?恐るべしイノちゃんの力。
それにしてもあのチェーンを外した労力のわりには大した腹の足しにはならなかっただろうな。サツマイモはほどんどなっていないし、秋用に植えた種イモもほんの少ししかない。
それだけ山にエサがないってことなんだろうな。
今日は久しぶりに高尾に雨が降っている。少しは山も潤ってくれるだろうか。
あれ。ひょっとしたらあの日曜日の朝のイノちゃんは、やまんばに抗議していたのか?
ぶひー、こら、やまんば。お前んとこの畑、なんにも食うもんがないじゃないか!おれ様が力振り絞ってチェーン外してやっと入ったのに、なんじゃあのちっこいイモは!ちったあ、でっかく育てとけや!
って。。。?
絵:スマホケースデザイン「孫カッパ/九寸」
『孫カッパ』
カッパ目カッパ科小仏川属。第145代目カッパ族のぬしの孫、九寸、85歳。
小仏川を拠点に古くから住む種族。縄文時代に人間族が入ってきた頃にはすでに生息。
近年人間族のすぐ隣で住んでいるうちに、人間が持つ独特のアンニュイな気分をまねるようになる。
ぬしは、最近の彼のそんな様子をウレイている。
なんちゃってご利益:
カッパ族が持つ皮膚の柔軟さはあらゆる水を味方につける。
その九寸の姿を身近に持てば、水から身を守れるかも~。
2012年8月11日土曜日
背中をはうもの
畑で草刈りをしていると、背中を誰かが触った。
後ろを振り返ると誰もいない。
なんだ、気のせいか。と思ってまた草刈りを始める。
するとまた背中に何かが触る。
切り倒したヒメジオンの茎でも背中に触っているのかと振り返る。しかしそれらしいものはない。
おかしいなあ。。と思いながら、また草刈りを始めようとするそのとき、背中を何かが這っているのに気がついた。。。!
ゆっくりと、何本かの足で私の背中をはいあがっていく。もう少しで首の所にまで来ようとしていた。
!!!
何本かの足。そいつが一歩歩くごとにぴりぴりする刺激。。やまんばの頭の中に、あのときのムカデのイメージが浮かび上がった。
ある日野良仕事しようと小屋においてあった手袋に手を入れた。左手の中指に妙な違和感があった。
はて?この違和感はなんだ?
と左手を持ち上げてみる。赤い手袋の真ん中の指のてっぺんに穴が開いていた。そこからオレンジ色のちっちゃなひげが二本左右にいそがしげに動いている。
なんだろうこれ?
じーっとみていると、その下から、真っ赤な足がニョキッと出た。
ムッッムカデだああああ〜〜〜〜っ!
必死で手袋を脱いだそのあとから、ぴょんっと、でっかいムカデが躍り出た。
幸いかまれはしなかったが、あのときのショックったらなかった。何度も左手の中指を確認したほどだ。
そして今、そいつは私の背中を這っている。。。!
あわてて立ち上がる。やつは、私のTシャツと木綿のベストの間を這っているようだった。頭をできるだけ下に下げて振り払おうとする。しっかりしがみついたまま、はなれない。首に巻いたタオルを投げ捨て、べストを脱ごうとする。いや、ここで下手に刺激したら、かまれるかもしれない。ひえ〜〜〜っどーすりゃいーのよーと一人もがく。だがそいつはもう私の首まで達していた。意を決してやまんんばはそいつを素手でむんずと掴んだ。
掴んだ瞬間、でかいのがわかった。だが長くなくて、そいつはまるっこかった。
掴んだ手をゆっくりひらいた。
手の中には、でっかいメスのカブトムシがいた。。。。
あわてんぼのやまんばのせいで、カブトムシはケガする事もなく、無事だった。
そのまま自然の中に返した。
自分の姿を思い出し、顔が赤くなる。
びっくりさせてごめんよ。
絵:スマホケースデザイン「大天狗の孫/玉露」
『大天狗の孫』
初代大天狗は、高尾山が隆起して山になったときから住む山の精。
その孫玉露は、草のつゆから現れてきた。年齢不詳。
気分屋なので、いわゆる天狗の修行はしないが、その気になりゃ、かるく百変化する。
今は、何となく昆虫の姿になって、ふもとの村人たちの観察を続ける。
カラス天狗のだるとは、ちょっとやばい関係。
なんちゃってご利益:
形を持たない種族だが、強い意識を持って自由に生きる。
なんにでも変化できる、自由で強い心になれるかも~。
2012年8月8日水曜日
高尾の夜の音
高尾もどど暑かった日々だったが、ここにきて夜はひんやりと寒いくらい。
秋はそこまでやってきている。
ふしぎなのは、今年は虫が少ない。毎年この時期になると、蚊はもちろんのこと、アブやらブヨやら、やーなもんがうろうろとびまわっている。なのに畑にも庭の草ぼうぼうの中にもほとんどない。全くいないわけではないが、うんとすくない。
夜は4月から鳴きはじめたカジカの声が、夏に向かって行くにしたがって、虫の声と間髪入れずにバトンタッチするはずなのに、今年はカジカがその活動を虫たちに譲ったのに鳴かないのだ。
しーんと静まり返った闇のなかで、時々遠くの方で微かに「ちんちろりん」と聞こえるだけだ。
これじゃまるでNYの夏だ。あっちは虫の声なんてほとんどきこえない。蝉だってかろうじてこそこそといるだけだ。しかしここ日本は、虫の存在感が目一杯あるはずなのに。
こう書くと「それは放射能のせいだ」といわれるかもしれない。そうなると高尾でこれだから、東の方はもっと顕著にでているにちがいない。
だからといって、なにもできるわけではない。
すると、何もできないなんて、私たちはなんて不幸なのだ!何もできないから、なんか運動を起こさなくてはいけないと思う人もいるんだろうな。
やまんばは何も行動を起こさないんだな。
何も行動を起こせないからではなくて、行動は起こさない。ある事実をそのまま受け取るだけなんだな。
事実は「虫が少なくなった」という事実だけだ。そこに「放射能のせいだ」とつけるのは、事実ではなくあくまで憶測だ。その憶測でしかないもので、国に向かって行動を起こそうとはおもわない。
わたしゃ気が弱いんだな。
でもさ、この世は目で見えるものだけしかないとはおもえないんだな。目で見えるものなんて、全ての1%にも満たないんではないか?これも憶測でしかないんだけど。だけど目で見えるものだけしかないというのもまた憶測だ。それは50%50%だ、というもの憶測だ。
ひえ〜。
すると私たちは全て憶測の上に、怒ったり、心配したり、嘆いたり、ぬかよろこびをしているのかもしれないではないか。
うちゅーじんからみたら「あー、あほか」というような勝手な解釈で「これはこういうものだ」と決めて右往左往反応しているだけなんかもしれんではないか。
やまんばの勝手な解釈は、人はそう簡単に死なないんではないか?と憶測している。これまでだってどんだけの環境のなかで生き延びてきたかわからない生き物なのだ。これからの環境、どんなふうに順応してたくましく生きていけるかワカランではないか。
それには心というか、思考がう〜んと影響をしている気がするんだな。
人はそれぞれの好みに応じて忙しく反応するのだとしたら、やまんばは虫が少ないのは、地球上になにかの変化が起こっているのかもしれない。ニンゲンはそこでどんな変化に、どんなふうに適応していくのかと、ワクワクする方を選ぶ事にしよう。
絵:スマホケースデザイン『うみんば』
2012年8月1日水曜日
T君の告白
「おれさあ、気がついちゃったんだよ」
「なにに?」
「今までいろんな人によかれと思ってアドバイスしてきたんだ」
「うん」
「でね、それがほんとは人のためと言いながら、自分のためにやってきたんじゃないかと」
「それはなんで?」
「おれ、そこ知ってる、おまえ、ここがおかしい、こうしたほうがいい。ということで、そのとき上に立ってたってその人を見ていたんだ。おれは人にいいことをしているつもりで、じつは自分でいい気分になっていたのだ。それに気がついたとき、おれはなんてことしてたんだ、とショックを受けた。。。」
「なるほど。。」
「ほんでもっとひどいことに、アドバイスするだろ?」
「うん」
「そのアドバイスした人が、おれの言った通りやっているか、追っかけるんだ」
「へえ?」
「だってそうだろ?いいアドバイスしたんだぜ。おれのいう通りやらないと、あいつ失敗するんじゃないかと気が気じゃないんだ」
「そんなのほっといてやれよ」
「そーなんだよ。ほっときゃいいんだよ。ところがおれはそいつが気になって気になってしかたがないんだ。失敗しちゃったらかわいそうじゃないか。だけどやってないのを確認するだろ?」
「やっぱ、やってなかったんだ」
「そう。そしたら、おれ、そいつをおこっちゃうんだ!」
「あちゃー」
「でもさ、そんな一連のおれの行動はさ、結局自分ってものを巨大にさせてきただけじゃないかっておもったんだ」
「自分を巨大に?」
「そう、それが自我っていったりエゴっていったりするもんさ」
「ああ、エゴの固まりなんていうもんね」
「そう、そのエゴの固まり!まさにおれ!」
「ひえー。だけど、そのアドバイスによって救われた人もいたんじゃない?」
「それはそれでいいんだ。問題は相手がどう反応するかじゃなかったんだ。それは相手に任せることだったんだ。」
「じゃ、なにが問題?」
「問題は、おれなんだ。そのアドバイスによって自分は知っている、わかっているんだ、という優越感をもつ。するとそのいい気分をもっとほしがるんだ。ほら、よく宗教家がやるじゃん、あれ。あれきもちいいんだ。恥ずかしいけど正直そう思う」
「キャー、正直だねー」
「んで、また誰かにアドバイスするだろ?そしてその人の反応を見て、おこったりうれしがったりする」
「いそがしーなあ」
「そうそう、いそがしーのだ。つまりおれは、人に依存してるってことさ」
「依存?」
「だってそうじゃんか。人の反応見て、自分の満足不満足を決めてるんだ。それって自分の幸不幸を人によって左右されているんだ」
「あっ、たしかに依存だ」
「人の反応ばっかり気にして、人に幸不幸をもらう。。それっていつまでたっても自分に満足は持てないってことなんだ」
「なるほどー。。。それってさ、みんなにいえることなんじゃない?」
「そうかもね。。。。人は結局外ばっかり見て、自分の位置をはかっているんだろうな」
「ここにいていい理由。。。みたいなものを、ね」
「そうそう。おれは人に認められて、ここにいていいんだって確認する」
「ほんとはさびしいんだよな」
「ほんとは、みんなといっしょになりたいのだ」
「そのきっかけがアドバイスすることだった?」
「。。。そういうことだったんだな。。。だけどそれによって、ますます自分と他人が大きく隔てられて、ますますお互いがバラバラになる。。。。」
「なんか皮肉だねえ。。。」
「。。けっきょく自我って強くさせてもいいこたあひとつもねえなって思ったよ」
「なにに?」
「今までいろんな人によかれと思ってアドバイスしてきたんだ」
「うん」
「でね、それがほんとは人のためと言いながら、自分のためにやってきたんじゃないかと」
「それはなんで?」
「おれ、そこ知ってる、おまえ、ここがおかしい、こうしたほうがいい。ということで、そのとき上に立ってたってその人を見ていたんだ。おれは人にいいことをしているつもりで、じつは自分でいい気分になっていたのだ。それに気がついたとき、おれはなんてことしてたんだ、とショックを受けた。。。」
「なるほど。。」
「ほんでもっとひどいことに、アドバイスするだろ?」
「うん」
「そのアドバイスした人が、おれの言った通りやっているか、追っかけるんだ」
「へえ?」
「だってそうだろ?いいアドバイスしたんだぜ。おれのいう通りやらないと、あいつ失敗するんじゃないかと気が気じゃないんだ」
「そんなのほっといてやれよ」
「そーなんだよ。ほっときゃいいんだよ。ところがおれはそいつが気になって気になってしかたがないんだ。失敗しちゃったらかわいそうじゃないか。だけどやってないのを確認するだろ?」
「やっぱ、やってなかったんだ」
「そう。そしたら、おれ、そいつをおこっちゃうんだ!」
「あちゃー」
「でもさ、そんな一連のおれの行動はさ、結局自分ってものを巨大にさせてきただけじゃないかっておもったんだ」
「自分を巨大に?」
「そう、それが自我っていったりエゴっていったりするもんさ」
「ああ、エゴの固まりなんていうもんね」
「そう、そのエゴの固まり!まさにおれ!」
「ひえー。だけど、そのアドバイスによって救われた人もいたんじゃない?」
「それはそれでいいんだ。問題は相手がどう反応するかじゃなかったんだ。それは相手に任せることだったんだ。」
「じゃ、なにが問題?」
「問題は、おれなんだ。そのアドバイスによって自分は知っている、わかっているんだ、という優越感をもつ。するとそのいい気分をもっとほしがるんだ。ほら、よく宗教家がやるじゃん、あれ。あれきもちいいんだ。恥ずかしいけど正直そう思う」
「キャー、正直だねー」
「んで、また誰かにアドバイスするだろ?そしてその人の反応を見て、おこったりうれしがったりする」
「いそがしーなあ」
「そうそう、いそがしーのだ。つまりおれは、人に依存してるってことさ」
「依存?」
「だってそうじゃんか。人の反応見て、自分の満足不満足を決めてるんだ。それって自分の幸不幸を人によって左右されているんだ」
「あっ、たしかに依存だ」
「人の反応ばっかり気にして、人に幸不幸をもらう。。それっていつまでたっても自分に満足は持てないってことなんだ」
「なるほどー。。。それってさ、みんなにいえることなんじゃない?」
「そうかもね。。。。人は結局外ばっかり見て、自分の位置をはかっているんだろうな」
「ここにいていい理由。。。みたいなものを、ね」
「そうそう。おれは人に認められて、ここにいていいんだって確認する」
「ほんとはさびしいんだよな」
「ほんとは、みんなといっしょになりたいのだ」
「そのきっかけがアドバイスすることだった?」
「。。。そういうことだったんだな。。。だけどそれによって、ますます自分と他人が大きく隔てられて、ますますお互いがバラバラになる。。。。」
「なんか皮肉だねえ。。。」
「。。けっきょく自我って強くさせてもいいこたあひとつもねえなって思ったよ」