2012年8月8日水曜日

高尾の夜の音




高尾もどど暑かった日々だったが、ここにきて夜はひんやりと寒いくらい。
秋はそこまでやってきている。

ふしぎなのは、今年は虫が少ない。毎年この時期になると、蚊はもちろんのこと、アブやらブヨやら、やーなもんがうろうろとびまわっている。なのに畑にも庭の草ぼうぼうの中にもほとんどない。全くいないわけではないが、うんとすくない。

夜は4月から鳴きはじめたカジカの声が、夏に向かって行くにしたがって、虫の声と間髪入れずにバトンタッチするはずなのに、今年はカジカがその活動を虫たちに譲ったのに鳴かないのだ。
しーんと静まり返った闇のなかで、時々遠くの方で微かに「ちんちろりん」と聞こえるだけだ。

これじゃまるでNYの夏だ。あっちは虫の声なんてほとんどきこえない。蝉だってかろうじてこそこそといるだけだ。しかしここ日本は、虫の存在感が目一杯あるはずなのに。

こう書くと「それは放射能のせいだ」といわれるかもしれない。そうなると高尾でこれだから、東の方はもっと顕著にでているにちがいない。

だからといって、なにもできるわけではない。
すると、何もできないなんて、私たちはなんて不幸なのだ!何もできないから、なんか運動を起こさなくてはいけないと思う人もいるんだろうな。

やまんばは何も行動を起こさないんだな。
何も行動を起こせないからではなくて、行動は起こさない。ある事実をそのまま受け取るだけなんだな。

事実は「虫が少なくなった」という事実だけだ。そこに「放射能のせいだ」とつけるのは、事実ではなくあくまで憶測だ。その憶測でしかないもので、国に向かって行動を起こそうとはおもわない。
わたしゃ気が弱いんだな。

でもさ、この世は目で見えるものだけしかないとはおもえないんだな。目で見えるものなんて、全ての1%にも満たないんではないか?これも憶測でしかないんだけど。だけど目で見えるものだけしかないというのもまた憶測だ。それは50%50%だ、というもの憶測だ。
ひえ〜。

すると私たちは全て憶測の上に、怒ったり、心配したり、嘆いたり、ぬかよろこびをしているのかもしれないではないか。

うちゅーじんからみたら「あー、あほか」というような勝手な解釈で「これはこういうものだ」と決めて右往左往反応しているだけなんかもしれんではないか。

やまんばの勝手な解釈は、人はそう簡単に死なないんではないか?と憶測している。これまでだってどんだけの環境のなかで生き延びてきたかわからない生き物なのだ。これからの環境、どんなふうに順応してたくましく生きていけるかワカランではないか。
それには心というか、思考がう〜んと影響をしている気がするんだな。

人はそれぞれの好みに応じて忙しく反応するのだとしたら、やまんばは虫が少ないのは、地球上になにかの変化が起こっているのかもしれない。ニンゲンはそこでどんな変化に、どんなふうに適応していくのかと、ワクワクする方を選ぶ事にしよう。



絵:スマホケースデザイン『うみんば

2 件のコメント:

  1. こんにちわ。
    一年前くらいからHP、拝見しています。
    私も石鹸なしの生活にチャレンジしてみたいな。と思い、検索していて見つけました。石鹸なしの生活、いいですね。なんだか気楽な気がします。癖毛も子供の頃のようなストレートに戻ってきているし、肌の調子も大分良くなりました。

    その他のコラムも面白いです。
    「心の風Healing by being」というHPをご存知ですか?もしよければ、ご覧になってみて下さい。

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  2. 匿名さま
    コメントをありがとうございます。
    石けんなし生活もなかなか楽しいものでしょう。
    これはやってみたもんでないとわかりませんよね。
    いただいたHP拝見させていただきました。
    すてきなHPですね。大事な事をおっしゃってくれていますね。
    ありがとうございました。

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