2024年5月31日金曜日

私は世界を、私の束縛から解き放つ



「これまで『世界』だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ」



この言葉が、波打ち際にいる私に日々ひたひたとうちよせる。


世界に私が与えている想念。

それがこの世界を作っている。


世界は、私の考えでできている。



私は世界に対してどう思っていたのか。


「世界は私にいじわるだ。」



いじわる


どこからそんなイメージがついたのか。

私はいじめられっ子だった。


そもそもなんでいじめられっ子になったのか。

想念はその源を離れないのなら、世の中にはいじめがあると信じているからか。


いじめるものと、いじめられるもの。


ある日つくしちゃんはAくんにいじめられました。


さて。そのいじめられたという考えはどこからきたのか?

「いじめ」という考えがあるから、いじめられたと思ったのではなかったか。

ではどこからいじめという考えが出てきたのか。



いじめっ子はなぜいじめっ子になったのか。


親がその子に厳しかったのかもしれない。

その苦しさから、つくしちゃんみたいな自分より弱そうな子を見つけて、

いじめてたのかもしれない。

じつはその親もまたその親に叱られて育っていたのかもしれない。


親と子の関係だけじゃない。

上司と部下、男女、町会、先生と生徒、グループ、国と国、、、。


この世界はいじめっ子といじめられっ子、加害者と被害者、

その役割がぐるぐると日替わりランチみたいに変化しながらあてどもなく続く。


その原因を探っていったら、鶏が先か卵が先か、

みたいなぐるぐる回りになって収拾がつかない。


ここに答えが見出せないのは明白。


別の道を探ろう。





私は世界がいじわるだと思っている。


もしかしたら、そう思っているからいじわるなんじゃないか?


日々、いじわるな世界を見て、

「ほーらやっぱり私が思った通り、世界はいじわるじゃないか!」

と、得意げに言う。


ホントはその一瞬一瞬に「いじわる」をアップデートしているだけなんじゃないか?



想念はその源を離れない。


「いじわる」という考えは、

「世界は私にいじわるだ」という信念から、

ひたすらそう見えているとしたら。。。。?


先にいじわるな世界があって、

そこにひ弱なつくしちゃんが放り込まれたんではなくて、

先につくしちゃんが、この世界はいじわるだと信じたから、

それを見ているだけなんだとしたら。


」ではないか?


めちゃネタバレじゃないか?


いや、何やってんねん。

おもろいやないかい!


ってことになる。





高校時代に大事にしていた一冊の絵本がある。

今でもボロボロになって本棚にある。


「よるのきらいなヒルディリド」




ヘクサムの丘の上にヒルディリド婆さんは住んでいる。

彼女は夜が大っ嫌いで、一晩中夜に向かって悪態をつく。

夜に向かって唾を吐いたり、紐でくくろうとしたり、

ハサミでちょん切ってやろうとしたり。

どうにも夜に我慢ができない。

そして疲れ果てて寝ると、朝日が昇って朝になる。

ヒルディリド婆さんは、昼を楽しめばいいものを、

夜に目が覚めて、ひたすら夜と戦うんだ。



「この世界大っ嫌い!だって、この世界は私にいじわるなんだもん!」

といって、いじわるに見える世界とひたすら戦い続ける。




私はヒルディリド婆さんだ。


彼女は闇しか知らない。

まさか自分が寝た後に光があるとは気がつきもしない。


私は「世界はいじわるだ」としか知らない。

まさか自分の考えによってそう見えているだけなのだとは気づきもしない。

本当は世界は光なのに。


つくしばあさんは、「世界のいじわる」と戦い疲れあくびをする。

背中から朝日が昇っているのも知らずに。

ぐっすり休んで元気をつけて、夜が来たら目を覚まし、またけんかが始まる。


おやすみ、つくしばあさん。












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ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです










2024年5月29日水曜日

つまずき石

「可愛い石ころたち」/和紙、水彩

好きなようにやればいい。

やりたいようにやればいい。


だけどなかなかそうはできない。


だってそんなことしたら、絶対どこかでしっぺ返しがくる。

好き勝手したら、そのうち嫌なことが起こる。。。





実はその嫌なことは自分で起こしているとしたら。。。?



私たちは自分で自分につまずき石を置いている。


私たちの奥深くにある罪の意識。。。

それが私たちを不幸に導いている。


罪があると信じているから、罰を欲する。

つまずき石は、罰なのだ。


一瞬一瞬、自分に罰を与えている私たち。


「こうなったらどうしよう」

「あの人、私のことこんなふうに考えているかもしれない」

「あ、、痛い、、これってひょっとしてすごい病気の症状じゃないか。。。?」


この思いさえも、自分に与えている罰だ。


苦あれば楽あり。


これも罰だ。


苦労を美徳とする。

これも私たちが罪深いと感じていることへの慰め。


好きにやっちゃいけない。

わがままはいけない。


それをしたら、何かが、、、起こる、、、、。

というビクビクした思いも、また罰の一つ。


そんな風に、ちょっとづつ、苦しい思い、辛い思いをしたら、

きっといつか私は幸せになって、、、、。


って、いつ幸せになった?

それは一瞬だけのものではなかったか?

その幸せを感じた次の瞬間、また次の不幸のために怯える。



これが延々と繰り返されているだけなのだ。


罰は受ければ受けるだけ、刑が軽くなる、、、

わけではない!


視点が間違っている。


罪があるという前提に立っているから、

苦あれば楽あり、

飴と鞭の人生、

いつかやってくる幸せのためにあくせくする人生なのだ。


そしてその「いつか」は、永遠に「いつか」でしかない。

やっては来ない幸せ。ここにはない幸せ。



視点が間違っている。


私たちには罪はない。

だから当然罰もない。


ということは苦労する必要はないのだ。

犠牲を払う必要もないのだ。


ただ、そう信じただけなのだ。


親がそういうことをしているから、そう信じただけなのだ。

社会がそう仕向けているように見えるから、そう信じただけなのだ。

ドラマがそういうもんだと教えてくるから、

自分もそういうもんだと信じさせられているだけなのだ。


ただ罪があると信じただけなのだ。



いつかやってくる幸せは、永遠にやってこない幸せ。

それって、今私は幸せじゃないと宣言している。

何かが欠けていて、それを埋めると幸せになれると信じている。

そしてそれはいつまでたっても埋められない。





私たちには罪はない。

罰を受ける必要もない。

幸せは、今ここで受け取れる。

受け取っていいのだ。

何かいいことをして受け取る必要などないのだ。

何かいいものを見て美味しいものを食べてからの~幸せ!ではないのだ。


何ひとつ、なにもしなくていい。

今、そのままで受け取っていい!

幸せを!

無条件に!



つまずき石を見つけたら、

それを見て、にっこり笑おう。


つまずき石くん、

出てきてくれてありがとう。


あなたは消えるために出てきてくれたんだね。



つまずき石くんは、光に包まれて消えて行きました。











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