2024年9月26日木曜日

何も変えなくていい

「オトコエシ」/和紙、水彩

 


「君は変わらなくていいんだよ。

そのまんまでいいんだよ。

自分を否定することはないんだ」

ダンナがうちに遊びにきた友人にそう言った。


その時私の心に、今いる3人がまったくそのまんまを肯定されているイメージが見えた。


「そうだ!

私らこの3人、何一つ変わらなくていいんだ!

そうだ!そうだ!私も変わらなくていい!

何も変わらなくていいんだ。

何も変えなくていいんだ!やったあ!」


私は喜びで飛び跳ねそうになった。




人は何かをしようとする時、何かを変えようとしている。

行動のモチベーションはほとんど恐れからくる。

「~をしなければ」「こうであらねばならないからこれをする」

心の前提に、こうあるべき姿があって、その姿に今私はなっていない。

だからこそ、その姿になるために行動する。

それ自体が、今この時の自分への否定だ。


私は変わらなければいけない。

私を変えなければいけない。


私たちはその思いが意識にも登らせないほどに、

息するようにびっちりこびりついていて、

それが焦燥感となって、つき動かされている。


人に対しても持っている。

あの人は変わらなければいけない。

なんとかして変えなければいけない。



それが逆方向に変わった。


あの人は、変わらなくていいんだ。

あのままでいいんだ!

誰も変えなくていい!


そう思った時、心が自由になった。


あの人も、この人も、その人のまんまでいい。

その人のまんま。。。


イメージする。

その人のまんま。。。


するとなぜかホッとする。

その人への愛しさが湧き上がってくる。

ホッと安堵するような不思議な想い。。。


きっとそれは自分への想いなのだ。

自分が自分のままでいいと、自分を受け取っているんだな。


何もする必要がないい。

どうにかして自分を変える必要もない。


ああ、なんだ。何もすることはなかったんだ。。


なんの努力もいらない。

作戦を練らなくていい。

計画立てなくてもいい。

今そのまんまの自分で、なんかやりたくなったらやればいい。

なんも思いつかなかったら、そのまんまぼーっとしてればいい。


人が誰かの悪口を言っていても、

それを止めることもしなくていい。

言うには言うだけのその人のこれまで生きてきたことからの理由があるのだ。


それを止める人もそのままでいい。

それを止めなければいけないと思うその人のこれまで生きてきた理由があるのだ。



そう思えるようになってきたのも、

自分の中から罪悪感が徐々に消えてきたからだろう。


人のネガティブな行為を見て、それを嫌だなと思ってきたけど、

それは自分の中で自分を否定的に見てきたからそう反応してたのだと知る。

自分への否定が少しづつ減ってくると、人への否定も減ってくる。


なんで?だってひとつの心だから。


だからダンナが言った言葉は、私に向けて言ってくれた言葉だったんだ。




何も変えなくていい。

変える必要もない。

あなたは、あなたそのもので、すでに素晴らしいのだ。













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ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです






2024年9月21日土曜日

何も起こっていないのかもしれない

 


人が嫌なことをするのを見る時、

それは自分の鏡、自分がそうなのだと思い、

自分を責めてしまうことが多々ある。


罪悪感を持ちやすい私みたいな人は、

すぐそれを「自分がやった」と言って自分を責めてしまう道具にする。


自我はなんでも罪悪感を誘発する材料にする。

だから「投影」という言葉は恐れを生み出す。


そこで「うっ。。。」と立ち止まる。

自我の誘惑に乗るのをやめてみる。


そしたらこう囁かれるのだ。


「やめたらダメだ。

それをやっているからお前はまだマシなのだ。

やめたらとんでもない人間になるぞ!」




「奇跡のコース」はそれを聖霊と共に見て、

それを何も起こってないこととして赦す。。。。



となるのだが、

この「何も起こってないこととして」というところが、

どうしてもそうは思えなかった。


いや、起こってるし!

目の前で見えるし!


ないことにするフリはできても、

ないとはならないし!


と、苦悩してきた。


しかし「何も起こっていないこととして」とは信じられなくても
「何も起こっていないのかもしれない。。。」

と、その可能性を思ってみるのは助けになる。


そして「聖霊はこの場面をどう見ているんだろう?」

と想像してみるのも手だ。


きっと聖霊は、微笑んでいるだけだろう。

人を批判している兄弟にも、それを見ている私にも、

きっとその両方に微笑みかけてみているだけだろう。



そう想像するとき、世界を遠くに見る。

その時、ほんの少しこの横軸の世界から

縦軸に引き上げられているのかもしれない。


誰が何を言おうと、何をしていようと、

それをただ微笑みの中で見ることができる。




何の責任も取る必要がない。

私が「どう見るか」にだけ責任がある。


起こっている出来事は結果でしかなく、過去だ。

そこをいじる必要もない。

そもそもそこはいじれないし。


それをどう見るか。

誰と見るか。


それだけだったのだ。


あまりにもシンプルで愕然とする。


だがあまりにもその言葉は深かった。







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2024年9月20日金曜日

出てきてくれてありがとう



ある時急に具合が悪くなった。

誰か助けてくれ。。。そう思ったが誰も助けてくれない。

一人体の不調に耐えた。

私のことを誰も助けてくれない。。。。

襲ってくる恐れ、そして怒り。


あ、今日はこれか。。。


毎日予想もしなかったところから、レッスンがやってくる。

その都度それと向き合う。



不意に出てくる恐れを、これは自分の考えではない、

ただ湧いてきただけだと流すことは私にはできない。

そこに出てくる思いは、

きっと私の中にある何かが出てきてくれようとしているのだと思っている。


「これはこういうものだ」という信念が私を苦しめていると

苦しみの原因がはっきりわかるものもあれば、

言葉に置き換えられない漠然とした恐れもある。

しかしその恐れも、私の中にあるものが浮上して浄化を促していると信じるようになった。

個人の私と言いながらも、私たち全員であるひとつの心が恐れを持っていて、

それを私を通して浮上してきているんだろうと。


「恐れが出てきてくれているんだな。

出てきてくれてありがとう。」


恐れている最中は苦しいが、その恐れを優しく見る時間をもつことが大事だ。

それはその恐れを自分のこととして受け入れ、赦していく行為なのだと思う。

隠し持っている闇を光の下に持っていくのだ。


その中にいるうち、みるみるうちにその恐れが消えていくことがある。

そういう経験が「恐れは物質的に解決してこそ消えていくものではない」ことを実感する。


先日もどこから聞こえてきているかわからない音に悩まされた。

よく聞いていると壁の中だ。壁の中ではどうしようもない。

しかも誰が立てている音かもわからない。

どうしようもなく、誰の音かもわからない、何の解決法もない中で、

私は音に対する恐れを持っていることに向かわなければいけないこと(レッスン)を知る。


何かを削除して物事を解決するというのは、

この物理的な世界の解決法だ。

しかし原因はそこにはない。

心の中に何を信じているかを見るきっかけを教えてくれているだけなのだ。



そうやってだんだん物理的なことではなく、心が重要なのだと気づいてくる。

心が変われば物理的な変化がなくとも安堵する。

これにはいつも驚く。

目の前のものが何一つ変わっていないのに、

喜びが溢れてくるのだから。


こういう体験が増えてくると、この世界が少し遠のく。

この世が幻想だという言葉もがぜん真実味を帯びてくる。


そうして満月を眺めながら喜びで涙が止まらない夜もやってくる。








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