2024年5月27日月曜日

聖霊の見方、自我の見方2

「ある夕暮れ」和紙、水彩

 

先日のつづき


聖霊に教えられることによって、変わってくるものの見方。

その見方は決して心を苦しくしない。

楽しくこの世界を生きていくことになる。


それによってこの世界がますます存在感を増すかというと逆に希薄になってくる。


むしろ辛いこと、苦しいことがある時の方が、この世界が実感として迫り始めるのだ。

リアル感は恐れを伴うのではないか。


お化け屋敷に入ると、恐ろしさで身も凍る。

いつ恐ろしいものが出てくるかとぞわぞわする。

この時自分というものをはっきりと捉える。


誰かとケンカをすると、自分とケンカ相手という分離がはっきり起こる。

ケンカして相手と自分が一体になることってない。


楽しい時に「わあ~~~、楽しいよねっ!」と友達と相槌を打ち合う時、

そこに分離はない。一体感がある。


苦しみと恐れは、分離感を伴ってこの世界に強烈な実感を与えている。


喜びは、相手と自分の境が消え、

この世界を恐ろしさではなく、

幸せな大きく広がる何かの感覚を伴って私たちを包み込む。




聖霊の「こう見ればいいんだよ」というメッセージの根底に流れているものは、

この世界をリアルにさせる必要はないことを

暗にほのめかしているのだということがわかってきた。

それは通り過ぎるものであると。



うまくいかない時、人はそこで止まる。

この時自我とともにいれば、それをなんとかクリアさせようとさせる。

「こうあるべき」を推進させる。

「それさえ乗り越えれば、お前は一人前だ!」と。

この世をますますリアルにさせる方針である。


だが聖霊とともにいるとき、

「これは私に何を伝えようとしているのだろう?」と考えさせる。

その壁を乗り越える必要はあるのか?と一歩引いて見る姿勢を促す。


「その壁は本当にあるのか?」

「その苦しみはどういう考えから来ている?」

「その考えは本当に正しいのか?」





先日、友達の家に泊まった。

朝、目を覚まして窓から見える景色を眺めたとき、悲しみが私を襲った。


こんな人里離れた場所に、どうして住むことに決めたのだろう?

一体老後はどうするのだろう?

やるせない思いや数々の心配が私の心を襲った。


苦痛を感じた時は、一旦立ち止まるようにしている。


ああ、私はこれを愛で見ていない。愛で見よう。

愛で見たらどうなる?


次の瞬間、思いは愛に変わった。


窓から見える青い空をバックにした赤松の林が美しく輝いた。

私の心は喜びで震える。

なんて素敵なところなんだろう。。。



同じ風景を見ていても、心が自我とともにいるとき、

人間の営みの中に埋もれる。数々の不安の中に埋没する。
それらが私に重く苦しくのしかかる。


しかし心が聖霊とともにいるとき、人間の営みが消える。

本来の私たちの心に戻る。

広がりと喜び、平安と幸せの中にいる。

この世界は、ただただ美しい、

神の思いが反映された世界に見えてくる。




すべては自分が作り出しているというコースの言葉。

こうやってゆっくりと聖霊にヒントをもらううちに、

徐々に、だんだんと、これは本当なのかもしれない、、、

この目の前に見えているものは実在しないのかもしれないという思いが、

さざ波のように私の心にひたひたとやってくる。











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