2022年12月21日水曜日

小忙しくしていなさい

 


「小忙しくしていなさい」


母の言葉が印象に残っている。

ぼーっとしているよりも、

なんとなく忙しく見せておく方がいいという母の意見だ。


今思えば、彼女の防衛の意識だった。

ゆったりしているよりも、忙しそうに振舞っている方が、

人目にいいというわけである。


人目を気にするというのは、母のようにお嬢様で育った人にとって、

生きていく上でとても重要なことだったのだ。




「お金持ちの家ほど、不幸なことが多い」


ある友達から聞いた話だ。

なるほど、そういえばそんな気がしないでもない。

でもこれは私の「やんごとなき家系」ドラマの見過ぎか?(笑)



不幸であることは、防衛の別な形とも言える。


「あそこのお家、あんなことがあったのよ。お気の毒~~~」

そう思わせておくことは、お金持ちに対するやっかみや嫉妬への無言の防衛になる。


母の「小忙しく説」も、

「悠長なことやってんじゃないわよ。」という陰口を避けるための防衛だ。



私たちは無意識に、誰かに陰口を叩かれないように、ありとあらゆる防衛策を練る。


うちの町内会でもオヤジどもがよくいう言葉。

「あとで何言われるかわからない」


「言われない」ために、あらゆる防衛策を練るのだ。

それがたとえ不幸という形であっても。

「小忙しくする」犠牲という手段を取っても。


つまり昨日の話の続き。


不幸や苦労することは、刑に服するということであり、

同時に周りからの攻撃をも避けられる。

この二つの利点は大きい。


刑に服せば、私の罪は軽減され、しかも周りからの防衛もできる。

一石二鳥だ!


と、思っている。

ってか、信じている。


ってか、それはいつまで続くの?って話だ。


苦労(刑)はいくら買っても減らない。





防衛するのは、攻撃する人がいると信じているから防衛がある。

でもそもそも攻撃する人はいるのか。


オヤジは「こう言われたもん!」という。

しかしはたから見てたら、攻撃のつもりで言ってないのが見える。

だけど本人は攻撃されたと思っている。


実は攻撃などされていない。

自分が攻撃されたと信じている。


これはどういうことか?


つまり密かに自分には罪があると思っているから、

それに対する罰を受けなければいけないと、

そのチャンスを狙っている、ということだったりして。



では罪って何?


「私がすこぶる美しいから。だからそれが罪ね」

「私はすこぶるお金持ち。だからそれが罪ね」

「私はすこぶるブス。だからそれが罪ね」

「私はすこぶるバカだ。だからそれが罪ね」


罪探したら果てしなく続く。

もう存在していること自体が罪だ!というところまで行く。


コースはいう。

実は、神から離れてみたいと思ったことから、この世界ができたという。

つまり神に逆らったという重罪を背負って、私はこの世界にいるのだ。

それってもう生まれたこと自体が罪!


そう信じているとすれば、この意味不明な罪悪感の大元が見えてくる。


そしてひたすら罪をあおってくる心の中の声の正体がバレ始める。


その声は、ずっと「お前は罪人だ罪人だ罪人だ罪人だ。。。」

と言い続けているだけなのだ。


だけどそれを真に受けるか、真に受けないかは、ひとえに私たちにかかっている。


つまり!その声には何の力もない。


その声は、ただそう言い続けるだけで、

私たちがその気にならなければ、

指一本動かすこともできない!


自我の声には何の力もない。


力があるのは、私たちだ!



私たちとは、正しい心を持った存在。神の子。

だけどこの世界で生きているということは、すっかりその源を忘れてしまっている。

その忘れたものを、今、思い出そうとしているのだ。


自我の声を真に受けるとは、間違った心で生きること。

混乱と恐れと戦いと防衛に明け暮れる、十字架を背負った心。

小忙しくしたり、不幸をコンビニで買ってくる心。

誰かが私を襲いにくるという、あなたと私が分離した心。


そんな心、持ってる必要ある?




さてと。


コンビニで、おいなりさん買ってこよ~。

(そっちかいっ)





絵:「道草」



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