畑がきゅうにいそがしくなってきた。
長かった今年の冬。やっと春になったかと思えばいきなり寒くなるし、あれ?春はどこへ行った?と思ってたら、いきなり夏じゃないですか!これじゃまるでニューヨークの春。
ニューヨークの春は、あれ?そろそろかな?いや、まだ寒いな。もーそろそろかな?いや、これじゃまだ冬だ。。。と言っているうちに、あーーーっ、夏になっちゃったあー!と、ニューヨークの春は、過ぎ去ってから「ああ、あれが春だったのねん」と、思い返すもの、なのだ。
それといっしょになっちまった。。。ぐぐぐ。。春は大好きな季節なのにい。
んだもんだから、畑は大忙し。いっきに草たちがぐんぐん伸びてくれる。私に申し合わせたかのように、ビンボー草が畑をおおいつくす。よけいなおせわじゃ。(ハルジオンってやつですね)やまんばがお金持ちになったら、出なくなるんかいな。小首をかしげた状態なので、これを食うとうまいはず。でもメンドー臭いのでばっさばっさとカット。それをマルチ代わりにする。
今回はなんと、無肥料栽培にむかって進んでいる(どこへいくんや)。
草を根っこから取って、グレンとひっくり返した土に種を蒔く。今まで双葉の段階で虫に食われていたものが、それをやりはじめてから食われなくなった。
でも、、、茶色い土が丸だしになるとそこからでるわでるわ、つくしちゃん、すぎなちゃん。おもいっくそ酸性土じゃん。それもぶちぶち引っこ抜いて、野菜さんだけにとりあえず小さいうちは育ってもらうことにする。一回ぐらいはフツーに育ったお野菜ちゃんを拝みたいではないか。(どんだけレベル低かったの?)
じーっとおもいだしたのだ、一番最初の畑。
小松菜が小松菜の親分さんになった(背丈70センチ)。きゅうりがわんさかなった。なぜだ?そりゃ、5、6年放置されていた畑の残りの肥料が育てたと言える。しかしそれだけなのだろうか?だったら、その一年後に無惨に何も育たなくなるだろうか。5、6年経って残っていた肥料が、たった一回の野菜育てただけで、消えてしまうんだろうか。わからない。なんかやりかたがちがう。。。きっと何かやまんばが見落としているものがあるに違いない。
迷い農法はひたすら続くのであった。。。
2012年4月29日日曜日
2012年4月22日日曜日
ディープな八王子ラーメン
地元のおじさんに(おにいさんか?)、行きつけのラーメン屋さんを教えてもらう。
「ああ、あそこのはねえ、もうサイコー!」
何でも八王子ラーメンとしては代表格らしいのだ。ひとしきりその店の味の魅力を語って、
「さあ、今から食いにいこ」
と、ふじだなコーヒーを出た。
いつもいくふじだなコーヒーさんには、地元のおっちゃんたちが集まる。おっちゃんといっても心は少年。だから兄ちゃんと言わないといけない。いろんな情報が集まって来るので、ここに足を運ばないことには地元は語れない。だから足繁く通うのだ。
さて、やまんばも家に帰ってから、そのラーメンが食いたくなった。ダンナと二人で未知の世界に出かける。
八王子インターにむかう通りから、ある汚ーい感じの本屋の脇の道を入る。
いきなりディープな世界に突入だ。
車一台通れば人は歩けないくらいせまーい道を、おっかなびっくり走る。曲がりくねって突き当たりにラーメン屋の駐車場。15台も置ける広いスペースを完備。さぞかし大きな店なのだろうと予測。さて、みわたしても店がわからない。→の看板があるので、そっちにむかう。
だが、あたりにラーメン屋らしきものは見当たらない。ただの狭ーい住宅がぎっしり並んだ路地だ。おそるおそる直進する。すると店とも思えない建物に、薄茶色ののれんがぴらぴらとかかっているのを発見。よく見ると、小さな字で店の名前が書いてあった。
あったあった。
おそるおそるガラスのドアを開く。お客さんがぎっしり。
「あいてるところにどーぞー」
とちょっと変な発音のお姉ちゃんにすすめられるが、どこにも座るところはない。しばしつったってると、一番奥の席が空いた。
緊張しながら座る。と、席のすぐ横にガラス。なにげにその奥を見ると、イノシシと目が合った。はっとして目をそらすと、私のすぐ隣に子鹿がいた。ぎょっとして見上げると大きなシカが。なんとりっぱな角には色あでやかに着色されたひょうたんがふたつ両角にぶらさがっていた。こっこれは、シカのイヤリングなのであろうか?誇らしげに遠くを見つめている。ガラスのショーウインドウの中には、ありとあらゆる剥製がところ狭しと飾られている。。。というか、無造作に置かれているというか。。。口があいたまま締まらなくなったやまんばは、そのままぐるっと店内を見渡す。すると反対側の壁にも巨大なイノシシの顔がつきでている。その頭には中国風のあでやかな色の丸い帽子がのっかっていた。
こっ。。この野生動物たちを見ながらラーメンを食うのか。。。いや、見られながら食うというべきか。。。
なぜか後ろめたーい気分になりながら、まっ茶色のラーメンをすすった。
うわ。。。ディープ。。。
これでもかというくらい濃い醤油ラーメンであった。麺は今ハヤリのコシが強いのと真反対。とろとろのゆるゆる。。。しかしそれがこのこーい醤油ラーメンにからんで、みょーにうまいのだ。シャーシューはまあまあかな。メンマはうまかったなあ。
しかしあれに普通のネギだったら、やまんばはもっとうれしかったなあ。どうも八王子ラーメンのネギの変わりにタマネギって言うのが、まだなれないのだ。
でもみょうにあとをひく、不思議ーなラーメンであった。。。
店を出ると、表に色あせた縁台がずらっとならべてあった。多分こここそが行列のできる店なんだろう。
いや、八王子はディープじゃのう。
「ああ、あそこのはねえ、もうサイコー!」
何でも八王子ラーメンとしては代表格らしいのだ。ひとしきりその店の味の魅力を語って、
「さあ、今から食いにいこ」
と、ふじだなコーヒーを出た。
いつもいくふじだなコーヒーさんには、地元のおっちゃんたちが集まる。おっちゃんといっても心は少年。だから兄ちゃんと言わないといけない。いろんな情報が集まって来るので、ここに足を運ばないことには地元は語れない。だから足繁く通うのだ。
さて、やまんばも家に帰ってから、そのラーメンが食いたくなった。ダンナと二人で未知の世界に出かける。
八王子インターにむかう通りから、ある汚ーい感じの本屋の脇の道を入る。
いきなりディープな世界に突入だ。
車一台通れば人は歩けないくらいせまーい道を、おっかなびっくり走る。曲がりくねって突き当たりにラーメン屋の駐車場。15台も置ける広いスペースを完備。さぞかし大きな店なのだろうと予測。さて、みわたしても店がわからない。→の看板があるので、そっちにむかう。
だが、あたりにラーメン屋らしきものは見当たらない。ただの狭ーい住宅がぎっしり並んだ路地だ。おそるおそる直進する。すると店とも思えない建物に、薄茶色ののれんがぴらぴらとかかっているのを発見。よく見ると、小さな字で店の名前が書いてあった。
あったあった。
おそるおそるガラスのドアを開く。お客さんがぎっしり。
「あいてるところにどーぞー」
とちょっと変な発音のお姉ちゃんにすすめられるが、どこにも座るところはない。しばしつったってると、一番奥の席が空いた。
緊張しながら座る。と、席のすぐ横にガラス。なにげにその奥を見ると、イノシシと目が合った。はっとして目をそらすと、私のすぐ隣に子鹿がいた。ぎょっとして見上げると大きなシカが。なんとりっぱな角には色あでやかに着色されたひょうたんがふたつ両角にぶらさがっていた。こっこれは、シカのイヤリングなのであろうか?誇らしげに遠くを見つめている。ガラスのショーウインドウの中には、ありとあらゆる剥製がところ狭しと飾られている。。。というか、無造作に置かれているというか。。。口があいたまま締まらなくなったやまんばは、そのままぐるっと店内を見渡す。すると反対側の壁にも巨大なイノシシの顔がつきでている。その頭には中国風のあでやかな色の丸い帽子がのっかっていた。
こっ。。この野生動物たちを見ながらラーメンを食うのか。。。いや、見られながら食うというべきか。。。
なぜか後ろめたーい気分になりながら、まっ茶色のラーメンをすすった。
うわ。。。ディープ。。。
これでもかというくらい濃い醤油ラーメンであった。麺は今ハヤリのコシが強いのと真反対。とろとろのゆるゆる。。。しかしそれがこのこーい醤油ラーメンにからんで、みょーにうまいのだ。シャーシューはまあまあかな。メンマはうまかったなあ。
しかしあれに普通のネギだったら、やまんばはもっとうれしかったなあ。どうも八王子ラーメンのネギの変わりにタマネギって言うのが、まだなれないのだ。
でもみょうにあとをひく、不思議ーなラーメンであった。。。
店を出ると、表に色あせた縁台がずらっとならべてあった。多分こここそが行列のできる店なんだろう。
いや、八王子はディープじゃのう。
2012年4月18日水曜日
巨人であることを思い出す
人間は石けんなしで生きていける。
こんな単純なことなのに、何か大事な事を教えてくれていた。私たちが「これ必要。これがないと生きていけない」と思い込んでいるものが、単に思い込まされているだけだったかもしれないということを。それが思考のいつもの手口だったという事を。
これがないと、あれがないと、こうしなきゃ、ああしなきゃ。。。。
思考はそれを加速させてくる。思考は私たちを、脅かしたり喜ばせたりしながら、アメとムチでその存在を主張して来る。そして最終的にはその宿り主を自爆させる。それが今の時代、強烈になった。こんなに精神的な病いが多いのは、彼らの頭の中が、敵、味方、自分、他人、信じる、信じない、許す、許さない。。。。そんな考えでいっぱいになって、自分自身を忘れているからではないのか。
それはすべて思考が作り上げてきた罠なのかもしれない。それに気がつかず、勝手に自分の中で思考を爆走させているのではないだろうか。私たちは今、その思考に振り回されている。わたしたちは思考の特徴を知る必要がある。思考万能主義になってはいけない。それは道具であって、けっして主人ではないのだ。
その主人は、思考の宿り主は、巨人だ。
巨人は思考によってでくのぼうと教えこまれているが、素直だからそのまま鵜呑みにしただけだ。巨人が巨人自身に気がつくと、その未来は開けて来る。およそ私たちが妄想する「こうあったらいいな」の能力は、たんに忘れられているだけなのかもしれない。ひょっとしたら大昔、その能力を破壊に使ってしまったのかもしれない。だから封じ込めた。それは「思考」を使うことによって。「恐怖」という封印を使うことによって。
だが私たちはその恐怖によるしばりつけをそろそろ卒業するときだ。それはいわば原始的な方法だ。私たちは理解によってその封印をとくことができるかもしれない。
大昔、巨大な力に、あるときふっと思考がささやいたのだ。
「それで力を誇示せよ。人の上にたて。。。」
それは魅力的な言葉だった。誰よりも強く人の上にたって自分を誇示するんだ。。。
それが自分と他人という分裂をよびおこし、やがて自分さえも破滅にむかわせることをもし本当に理解していたなら、そのふとよぎった思考には乗らなかったのかもしれない。
思考のパターンや特質を本当に理解し、それを単なる道具として扱えるようになるなら、私たちは巨人であることをおもいだすにちがいない。それはこの大自然と宇宙とこの宇宙に住むすべての生命と、すべてはひとつであるという事に気がつく巨人だということを。
絵:オリジナル「天狗の孫/たそがれときまえにまちをのぞむ」
2012年4月14日土曜日
思考の後ろにあるもの
巨人は何かがうずくのだ。何か、こう、心のまん中あたりの奥深いところで、
「これじゃないんだ。。。これじゃ。。。」
と言っている声がするのだ。
ときどきその女の子の事をうとましく思ったりする。すると頭が、
「いやいや、今までだって彼女のおかげでここまでこれたんだ。これからだって、彼女がいないと生きていけない。。。」
巨人がそんな事を考えると、すぐさま聞きつけて来る。
「そーよ、そーよ、なにいってんのよ。ばっかじゃないのー!」
ときどき心が真っ白なときがある。そのときは、まわりの自然もみんな生き生きとして見える。鳥の声も、川でなくカジカの声も、咲き始めた山吹の花も、巨人に何か語ろうとしているようにおもえる。
「え?なに?。。きこえない。。。」
そっと耳を近づけると
「。。。。。。」
何か言っている。
「え?もういっかい。。。」
「。。。。。。」
「ちょっとちょっとちょっと!なにそこでやってんのよ。ばかじゃないの!草がしゃべるとでもおもってるの!」
「あ、そうだよね」
「ぼーっとしている暇があったら、仕事仕事!ほれ、営業!将来の事考えたら、今やるべき事があるんじゃないの!今ぼーっとしてたら、あんたは未来は浮浪者よ!」
巨人はどきりとした。それであたふたと仕事を始めた。。。
こうやって私は仕事と営業を続けてきた。
しかし今になって思う。
彼女がいうように営業をして、その営業先で仕事になった事がないのだ。ではなんで営業をするのか。それは自分が動いていたら他も動き出すから、と思っていたからだ。
それが本当の理由だろうか。
今ぼーっとしてたら、未来はひどいことになるかもしれない。。。という恐怖がそうさせるのではないだろうか。ではどうして未来はひどいことになるとおもうのであろうか。それは彼女がそういったからではなかったか。
彼女とは私の思考なのだ。
私たちは、思考は自分だと思っている。思考はりっぱなものだとおもっている。私たちの文明は思考が生み出したとおもっている。思考さえ操ればどんなことだってできる!
しかしその文明のさいしょのひらめきは「直感」であった。偉大な発明も偉大な創造も、すべてはほんの一瞬のきらめきだったのだ。そしてそれを思考が物質的につむいで形にしていく。思考はそういう使い方をするものであった。
私たちはいつのまにか思考そのものがひらめきを生み出し、想像力を生み出すと思ってしまった。思考は言葉である。言葉は過去だ。ひらめきは、言葉にならないなにかだ。「あっ。。。!」だけである。
アインシュタインはいう。
「どーしてひらめきは、いつもシャワー浴びてる時に限ってやって来るんだ!」
おそらく彼は熱いシャワーをあびながら、ぼーっとしていたに違いない。
思考は言葉である。言葉は過去だ。過去で未来は予測できない。できるとすれば、それはすでにあったものの焼き直しだ。思考が予測できると思い込んでいるだけだ。
けれども私たちがいるのは「今」なのだ。過去というものは頭の中の記憶であり、未来は頭の中で想像するだけのものだ。事実は、私たちには今という瞬間しかない。
ところが思考は過去と未来を行ったり来たりする。別ないいかたをすれば、今という瞬間を知らないのだ。知りたくないのかもしれない。いや、恐れているのかもしれない。。。
思考は時間とセットになっているようだ。思考にとって今という瞬間は、過去の失敗を未来の成功へと導く途中経過でしかない。「いつの日にかこうなれば、私は幸せだ」と言い続ける思考。これじゃないなにか。今じゃないいつか。そうやって今を拒絶するのが思考のようだ。
私は自分の思考にふりまさされている事に気づいた。
だが、それに気づいた「もの」は、いったいだれなのだ?
「これじゃないんだ。。。これじゃ。。。」
と言っている声がするのだ。
ときどきその女の子の事をうとましく思ったりする。すると頭が、
「いやいや、今までだって彼女のおかげでここまでこれたんだ。これからだって、彼女がいないと生きていけない。。。」
巨人がそんな事を考えると、すぐさま聞きつけて来る。
「そーよ、そーよ、なにいってんのよ。ばっかじゃないのー!」
ときどき心が真っ白なときがある。そのときは、まわりの自然もみんな生き生きとして見える。鳥の声も、川でなくカジカの声も、咲き始めた山吹の花も、巨人に何か語ろうとしているようにおもえる。
「え?なに?。。きこえない。。。」
そっと耳を近づけると
「。。。。。。」
何か言っている。
「え?もういっかい。。。」
「。。。。。。」
「ちょっとちょっとちょっと!なにそこでやってんのよ。ばかじゃないの!草がしゃべるとでもおもってるの!」
「あ、そうだよね」
「ぼーっとしている暇があったら、仕事仕事!ほれ、営業!将来の事考えたら、今やるべき事があるんじゃないの!今ぼーっとしてたら、あんたは未来は浮浪者よ!」
巨人はどきりとした。それであたふたと仕事を始めた。。。
こうやって私は仕事と営業を続けてきた。
しかし今になって思う。
彼女がいうように営業をして、その営業先で仕事になった事がないのだ。ではなんで営業をするのか。それは自分が動いていたら他も動き出すから、と思っていたからだ。
それが本当の理由だろうか。
今ぼーっとしてたら、未来はひどいことになるかもしれない。。。という恐怖がそうさせるのではないだろうか。ではどうして未来はひどいことになるとおもうのであろうか。それは彼女がそういったからではなかったか。
彼女とは私の思考なのだ。
私たちは、思考は自分だと思っている。思考はりっぱなものだとおもっている。私たちの文明は思考が生み出したとおもっている。思考さえ操ればどんなことだってできる!
しかしその文明のさいしょのひらめきは「直感」であった。偉大な発明も偉大な創造も、すべてはほんの一瞬のきらめきだったのだ。そしてそれを思考が物質的につむいで形にしていく。思考はそういう使い方をするものであった。
私たちはいつのまにか思考そのものがひらめきを生み出し、想像力を生み出すと思ってしまった。思考は言葉である。言葉は過去だ。ひらめきは、言葉にならないなにかだ。「あっ。。。!」だけである。
アインシュタインはいう。
「どーしてひらめきは、いつもシャワー浴びてる時に限ってやって来るんだ!」
おそらく彼は熱いシャワーをあびながら、ぼーっとしていたに違いない。
思考は言葉である。言葉は過去だ。過去で未来は予測できない。できるとすれば、それはすでにあったものの焼き直しだ。思考が予測できると思い込んでいるだけだ。
けれども私たちがいるのは「今」なのだ。過去というものは頭の中の記憶であり、未来は頭の中で想像するだけのものだ。事実は、私たちには今という瞬間しかない。
ところが思考は過去と未来を行ったり来たりする。別ないいかたをすれば、今という瞬間を知らないのだ。知りたくないのかもしれない。いや、恐れているのかもしれない。。。
思考は時間とセットになっているようだ。思考にとって今という瞬間は、過去の失敗を未来の成功へと導く途中経過でしかない。「いつの日にかこうなれば、私は幸せだ」と言い続ける思考。これじゃないなにか。今じゃないいつか。そうやって今を拒絶するのが思考のようだ。
私は自分の思考にふりまさされている事に気づいた。
だが、それに気づいた「もの」は、いったいだれなのだ?
2012年4月13日金曜日
その女の子は何者?
先日書いた、でくのぼうの巨人は、宗教的にいうと、真我、無我。すぴりちゅある的にいうと、大いなる存在、ハイヤーセルフ。今風にいうと、つながっているモノ、なあんじゃなかろーか。
するってえと、小うるさいちっちゃな女の子は、自我、エゴ、じこちゅー。おやぶんのようにいばりたいやつ。しったかぶりをしたいやつ。そうかと思うと、自分に自信がない。あげくにビクビクする。何かあるとおおさわぎする。比較し、分析し、自分と他人、正しい、正しくない、と二元論をぶちかましたがるやつ。そんする、とくすると、値踏みするやつ。伝統をおもんじるやつ。テレビのいう事を真に受けるやつ。
私が生まれたときは存在していなかったが、少し大きくなると、気がつかないうちにそいつは出現していた。用もないのになんだかんだと耳元でしゃべる。たいていは母ちゃんやとーちゃんから聞きかじった事をおうむ返しのように言っているだけだ。
だけど巨人はそいつのいうことを
「ウンウン、君の言うとおりだねえ」
と感心する。すると、
「でしょ?でしょ?だからあたしが言ったじゃないのー!これからはあたしのいう事をよーく聞くのよ!」
と、あるときから位置関係が決まった。
巨人が春うららな野原を歩いている。きれいな黄色い花を見つける。「あ、きれいだなあ」とそっと近づく。すると、肩に乗った女の子が
「だめ!きたないでしょ。ばいきんがうつったらどーするの!」
(どっかで聞いた事のあるフレーズ。。。かあちゃんだ。。。)
空がきれいでぼーっとながめる。
「こらあ、ぼーっとするな!しゃんしゃんしろ!」
(これはとーちゃんのフレーズだ)
そうかとおもうと、
「かすてらいちばん、でんわはにばん、さんじのおやつはぶんめーどー」
と歌いだす。するとそれにあわせて、巨人も踊りだす。
だんだん巨人は、その小さな女の子と自分を同一化する。女の子は自分なんだと思い始める。その子が怒ると巨人も怒る。その子が泣くと巨人も泣く。その子は泣いたり笑ったりいつも感情的だから巨人も一緒になって感情的になる。
気がつけば、いつもその子に振り回されている事に気がつく。
あるとき、あまりのことに「ちょっとそれはないだろう?」というと、
「何よ!あたしに向かってはむかう気?だいたい今まで誰があんたの面倒見てきてあげたとおもっているのよ!ここまでこれたのはいったいだれのおかげ?あんたなんか、ひとりでは、なーーーんにもできないくせに!あたしに意見いうなんて、100年早いわよ!」
とくる。
ちょっといえば、100倍になって帰って来る。巨人はなにもいえなかった。
しかし考えてみれば、彼女の意見は、いつもどこかで聞いたフレーズだ。そのアイディアは過去に聞いた事のあるアイディアだ。日々起こる事は新しい。だがそれを解決する方法はいつも過去の方法論だ。確かにそれで切り抜けられてきた。それはそれでいいことではある。。
だが、、、
するってえと、小うるさいちっちゃな女の子は、自我、エゴ、じこちゅー。おやぶんのようにいばりたいやつ。しったかぶりをしたいやつ。そうかと思うと、自分に自信がない。あげくにビクビクする。何かあるとおおさわぎする。比較し、分析し、自分と他人、正しい、正しくない、と二元論をぶちかましたがるやつ。そんする、とくすると、値踏みするやつ。伝統をおもんじるやつ。テレビのいう事を真に受けるやつ。
私が生まれたときは存在していなかったが、少し大きくなると、気がつかないうちにそいつは出現していた。用もないのになんだかんだと耳元でしゃべる。たいていは母ちゃんやとーちゃんから聞きかじった事をおうむ返しのように言っているだけだ。
だけど巨人はそいつのいうことを
「ウンウン、君の言うとおりだねえ」
と感心する。すると、
「でしょ?でしょ?だからあたしが言ったじゃないのー!これからはあたしのいう事をよーく聞くのよ!」
と、あるときから位置関係が決まった。
巨人が春うららな野原を歩いている。きれいな黄色い花を見つける。「あ、きれいだなあ」とそっと近づく。すると、肩に乗った女の子が
「だめ!きたないでしょ。ばいきんがうつったらどーするの!」
(どっかで聞いた事のあるフレーズ。。。かあちゃんだ。。。)
空がきれいでぼーっとながめる。
「こらあ、ぼーっとするな!しゃんしゃんしろ!」
(これはとーちゃんのフレーズだ)
そうかとおもうと、
「かすてらいちばん、でんわはにばん、さんじのおやつはぶんめーどー」
と歌いだす。するとそれにあわせて、巨人も踊りだす。
だんだん巨人は、その小さな女の子と自分を同一化する。女の子は自分なんだと思い始める。その子が怒ると巨人も怒る。その子が泣くと巨人も泣く。その子は泣いたり笑ったりいつも感情的だから巨人も一緒になって感情的になる。
気がつけば、いつもその子に振り回されている事に気がつく。
あるとき、あまりのことに「ちょっとそれはないだろう?」というと、
「何よ!あたしに向かってはむかう気?だいたい今まで誰があんたの面倒見てきてあげたとおもっているのよ!ここまでこれたのはいったいだれのおかげ?あんたなんか、ひとりでは、なーーーんにもできないくせに!あたしに意見いうなんて、100年早いわよ!」
とくる。
ちょっといえば、100倍になって帰って来る。巨人はなにもいえなかった。
しかし考えてみれば、彼女の意見は、いつもどこかで聞いたフレーズだ。そのアイディアは過去に聞いた事のあるアイディアだ。日々起こる事は新しい。だがそれを解決する方法はいつも過去の方法論だ。確かにそれで切り抜けられてきた。それはそれでいいことではある。。
だが、、、
2012年4月11日水曜日
認められたい私
夢を見た。
秋野暢子と梅宮辰美が私のパンを食べておいしいと言った。私はうれしくなって、台所にいき、焼いたばかりの一斤分のパンを二人にあげようとした。ところがあるはずのパンがどこにもみあたらず、パンの耳の小さく刻んだのしかなく、わたしはそれをティッシュにくるんで渡す。二人はいやーな顔しながら持って帰った。
人は、他人に認められるとうれしい。
そこまではいいんだが、それがいつのまにか、他人に認められることが自分がここにいていいのだ、という判断基準になっている。自分の存在理由を、他人が自分を受け入れてくれる事によって成り立たせるのだ。いわば他人に依存している。
「私はここにいていいの?こんな私でも受け入れてくれる?」
心はいつも他人にその答えを求めている。
その他人とはだれ?上司?クライアント?親?お友だち?ダンナ?子供?ご近所さん?ツイッター仲間?
だれでもいいのだ。とにかく自分以外の誰か。
自分以外の誰かに認めてもらう。ほめてもらう。それが自分がここにいていい理由。
近所にすごく人当たりのいいおばさんがいる。道でであうと「あーら、こんにちは~」とかんじがいい。しかしひとたび会話を始めると止まらない。えんえんと自分の話をする。自分はこうやったああやったと話す。
彼女は恐れている。
自分が何かまちがったことをしているんではないだろうか、ちゃんとしていないのではないだろうか、とたえず他人の反応を確かめながら生きている。
私だって他人の評価を気にする。
秋野暢子と梅宮辰夫にパンがおいしいと言われればあげたくなる。でもそのあげたい気持ちが度を超えると、自分のしていることが見えなくなり、パンの耳をあげてしまい、結果的に他人にイヤな印象を与える。
あの時「あ、パンがないからしょうがないわね」
と、自分の「もっとうれしがりたい」という欲望に気がついて、意識を切り替えると、彼らには「ああ、おいしかった」という印象だけが残る。
認められると、もっと認められたいという思いが次の瞬間にょきっと顔を出す。トンネルビジョンに入る瞬間だ。それはいつも自分が他人の評価によって生きる理由を探しているからだ。もっと認められると、もっとここにいていいのだ、と。
こうやって私たちは外の誰かに認められるために外ばかり見て、他人のご機嫌を取り、他人の評価を気にし、他人に心を寄生させて生きているのだ。
それでいーのかー。
絵:COOPけんぽ表紙「チューリップと妖精」
2012年4月8日日曜日
巨人と小さな「私」
わたしはちいさいとき、あるイメージを持っていた。
巨大なでくのぼうの肩に、ちょこんとちいさく乗っている自分。その小さな自分は、その巨大なでくのぼうをもてあましていた。
それはのろまで、ばかで、なにやってもだめで、みにくくって、どこにも取り柄のない存在。あの頃、ウルトラマンの番組のなかに出てきた「ジャミラ」という気味の悪い怪獣をみたが、あれそっくり。あのジャミラは元人間なのだそうだ。幼い心の中にその姿を自分と照らし合わせていたのかもしれない。
だが私のジャミラはでくのぼうだった。
その巨人にむかって小さな私は
「こら!のろま!もっとさっさと歩きなさい!」
「ああ、もう、どうしてこんなにおばかさんなの!」
としかってばかり。
その小さい自分は「私」だった。「私」のはずだった。
その「私」は、大人になった今もそこにいて、私にだめ出しをする。
「私」が私にだめ出しをする?
じゃ、そのだめ出しをされてそれをしょぼんとして聞いているその存在はなんなの?巨人?じゃ、その巨人は一体なにもの?
小さい「私」は、この世が生み出してきた条件づけの固まりだったのだ。
よく聞いていると、お父さん、お母さんに言われてきた言葉を繰り返ししゃべっている。テレビで見てきた事、ラジオで聞いてきた事、お友達に言われた事、おばさんに言われた事。。。そんな言葉をしゃべって巨人をおどすのだ。小さなうるさい女の子にガミガミ言われてしょぼんとした巨人。。。なかなか絵になるなあ。
いわゆるジョーシキというものをその子はもっている。生まれてきてこのかた聞きかじった世間のジョーシキを巨人に教えようとする。だがそのジョーシキは所詮、この今の社会で作り上げられたジョーシキである。そのジョーシキが正しければ、こんな世の中であっただろうか。そのジョーシキは矛盾に満ちあふれている。昨日正しかった事が今日は非常識になる。「正しい」と「間違っている」はコロコロと変わる。無秩序と混乱のなかにある。その知識を持った小さな私なのだ。その限界のある脳みその「私」が巨人に向かってこうあるべき、あああるべきとうるさく言う。
巨人は必死で聞こうとする。しかし彼女の言葉を聞ききれない何かが残るのだ。何かこう、大きな身体を小さな箱のなかに閉じ込めようとするような窮屈感。
なぜ彼女の言葉を聞かなければいけないのか。
それは今までその存在とともに生きてきたからだ。その存在のおかげで私はここまでこれたからなのだ。だが同時に、自分のなかでつねに葛藤を生み出してもいた。
世間はこういう。でも何となくそうではない気がする。。。
こうあるべき姿、理想の姿。だがそんなものはどーでもいいと思っている自分がいる。。。
時代や時間を越えた普遍的なものが存在する、、、そう思っているその存在はなんなのだ?
その巨人はそのものを知っているように見える。いや、それそものものなのかもしれない。それは本当の私?それとも私ではない私?
二つの分裂する存在をもつ。
イヤそうだろうか。その小さな子うるさい女の子をもったのは巨人だ。巨人がその存在を作り上げたのだ。それはこの小さな星のこの時代に物質として生まれ出て、とりあえずそこのルールに従って生きていかないといけないとふんだからだ。
彼女は思考そのものだ。思考によってこの世は作り上げられた。だが今の世の中はどうだ。思考による文明の発達にはもう破壊しか残っていないようにみえる。思考には限界がある。その限界を超えていくにはもう彼女の出番はない。
私たちは自身がもっているその巨人に気がつかなければいけないのではないだろうか。その巨人はあらゆるものをもっている。あらゆるものとつながっている。あらゆる事を知っている。
はえのようにぶんぶんといつも頭の中を駆け巡る思考に耳を傾けず、自然に耳を心を傾けよう。都会のなかにある自然は小さいかもしれないが、大きさの問題ではない。アスファルトの間から出て来るたくましい雑草を見つけよう。街路樹に芽吹いて来る新しい芽を見つけよう。そして何よりも一番身近にある自然、、、自分の身体に耳を傾けよう。心臓の音、暖かい皮膚、体中をものすごい勢いで流れ巡っている血液。これが宇宙の英知でなくて何が英知なのだ?これが巨人が持っているパワーそのものなのだ。
絵:COOPけんぽ表紙イラスト「タンポポとてんとう虫と妖精」
2012年4月6日金曜日
春はタクワンのにおい?
畑で作業をしていると、どこからともなくタクワンのにおいがする。
冬のあいだに霜にやられた源の助大根がタクワン化してるのかなあ?とおもい、畑に転がしてあった上半分が霜にやられた大根の匂いをかぐ。におわない。
立ち上がって畑全体を見渡す。鼻はタクワンのにおいをキャッチし続けている。
畑全体がなんとな〜くタクワンのにおいに満ちているのだ。わんわんにおうわけではない。そこはか〜となく。
今朝、窓を開けてお茶をすすっていた。ああ、いい天気だなあ〜。ついに春がやってきたなあ〜。そこはか〜となくタクワンのにおいもするし。。。。あれ、タクワン?
昨日畑でにおったにおいと同じである。タクワンのにおい。おかしいな。わが家の庭には、大根なぞ生えとらんぞ。もいっかい鼻をクンクンする。やっぱりにおう。タクワンのにおい。
石けんなし生活で、ついに鼻が曲がったのかもしれん。おかしなにおいを嗅ぎ付けるようになっちまったぜい。
タクワンと言えば、発酵食品。このにおいは、何かが発酵しているにおいなのか?畑と庭で共通のものと言えば、草、木、そして土。草は今から元気に生えて来るもので、発酵する理由がない。木が発酵?いやひょっとして。。。土が。。。?
季節が変化して暖かくなって来ると、ほれ、パンを作る時に使うイースト菌が活発になるのと一緒で、ある温度になると、発酵が促されているのやもしれん。土の下でパンが発酵しているのやもしれん。
春は土の下から、小枝のなかから、空気のなかから、もわもわとぐんぐんと生命が爆発的に動き出すのだ。
冬のあいだに霜にやられた源の助大根がタクワン化してるのかなあ?とおもい、畑に転がしてあった上半分が霜にやられた大根の匂いをかぐ。におわない。
立ち上がって畑全体を見渡す。鼻はタクワンのにおいをキャッチし続けている。
畑全体がなんとな〜くタクワンのにおいに満ちているのだ。わんわんにおうわけではない。そこはか〜となく。
今朝、窓を開けてお茶をすすっていた。ああ、いい天気だなあ〜。ついに春がやってきたなあ〜。そこはか〜となくタクワンのにおいもするし。。。。あれ、タクワン?
昨日畑でにおったにおいと同じである。タクワンのにおい。おかしいな。わが家の庭には、大根なぞ生えとらんぞ。もいっかい鼻をクンクンする。やっぱりにおう。タクワンのにおい。
石けんなし生活で、ついに鼻が曲がったのかもしれん。おかしなにおいを嗅ぎ付けるようになっちまったぜい。
タクワンと言えば、発酵食品。このにおいは、何かが発酵しているにおいなのか?畑と庭で共通のものと言えば、草、木、そして土。草は今から元気に生えて来るもので、発酵する理由がない。木が発酵?いやひょっとして。。。土が。。。?
季節が変化して暖かくなって来ると、ほれ、パンを作る時に使うイースト菌が活発になるのと一緒で、ある温度になると、発酵が促されているのやもしれん。土の下でパンが発酵しているのやもしれん。
春は土の下から、小枝のなかから、空気のなかから、もわもわとぐんぐんと生命が爆発的に動き出すのだ。
2012年4月2日月曜日
迷い農法
さて4、5番めの春がやってきた。(どっちか忘れた)
なんだか頭がごちゃごちゃになってきた(もとからだろ)。
喜び勇んで自然農やって、それからたんじゅん農法学んで、、、、。
春になって畑を眺めるに、ついにどーしていいかわからなくなった。
ハコベと、カラスノエンドウと、オオイヌノフグリと、ヒメオドリコ草。見事にはえそろった畝。この種の野草が生えて来るという事は、聞く所によると、酸性でもアルカリ性でもない、中和された、何でも良く育つ上質の土が出来上がっているという証拠だそうだ。(自然農や、自然栽培や、自然農法であって、有機農法でも化学農法でもないやりかたによると)
今までのやまんばだったら、
「わーい!ついにいい土が出来た!」と喜びかけまわるはずだ。
でも近所の畑(有機と化学と両刀使い)のわきにも、同じようにその草たちははえている。その理屈だと、、、こっちもいい土じゃねえかよお!
暮れも押し迫った寒い日々、裏の山に何度も通って、ずたぶくろに落ち葉をかき集めた。春にすき込むためだ。たんじゅん農法でいくと、畝の上に5センチも積もる程とってこなければいけないのだけれど、広い畑全部に落ち葉でおおいつくす程の量はないし、それをやり通す気力もなかった。だから畝間をちょっと埋める事ぐらいしか出来なかった。
春が来て、さてすき込もうかと思うけど、なんだか心が動かない。草も落ち葉もすき込むか、はたまた自然農のように、上の草だけ刈って、種をまくか。。。
どっちもやりたくなかった。
な、な、なんか、無性に耕したかった。
草も根っこもぜーんぶとっちまって、真っ黒い土を丸出しにさせ、グレンと下からさくってみたい衝動にかられた。
頭が、「そんな事はできないのだよ、ワトソン君。それじゃあ、まるで慣行農法だ。それこそ、肥料やうんちを入れなくちゃいけなくて、するとわんさかやってくる虫を手で取る作業に突入なのだ」と言って来る。
なのでやりたい衝動を抑えて、ムリヤリ草と落ち葉をすき込み、種をまき、はたまた自然農のやり方で種を蒔く。
しばらくたって、様子を見る。うんともすんとも芽が出ない。きっとまだ寒いからにちがいない。。。。
昨日、畑の南がわ、線路に面したどてにノビルを見つけてとっていた。それはちょっとやそっとでは引き抜けない程、かなり奥深くにあった。
おかしいなあ、去年はもうちょっと浅いところにはえていたはずなんだが。。よく考えると、一昨年の方がもっと楽にとれた。という事は年々深いところにノビルが出来ているという事か?ノビルは下にのびる?
それとも土が上にたまっているのか?
土?土なんかその上にかぶせた覚えはないぞ。ここは草しかないはずだが。。。
そうだった。ここを開拓したとき、この畑全体に広がっていた篠竹と木と葦のような巨大な草を刈り取ってはここに置いて土手のように高く積み上げておいた場所だ。その後フェンスを作って境をもうけたが、毎年ここに草が生える。夏はものすごい勢いで育ち、冬にはかれていく。それが4年も続いた今、あの土手はどこかに消えてしまい、真っ平らになった。しかも面積まで広くなっている。そんなはずはない。フェンスのすぐ外はすぐ線路にいたる崖のはずだった。。。
あの土はそれらが変化したものだ。それしか考えようがない。土は1センチできるまでに何百年も何千年もかかるんじゃなかったっけ?
それはふかふかでさらさらで、匂いをかぐとかすかにカビのいいにおいがした。土の上の方は、まだ分解されていない炭素類とのあいだに糸状菌がびっちりとあった。下にいく程、ホントの土になっていた。においは全くしなかった。
手のなかでさらさらとフワフワところころとやわらかい。なんだろうこれは。。。
夕方もういっぺんでかけていって、その土をとった。なんとも言えないいい感触。ショベルは地面の奥までどんどん入っていく。このやわらかさはなんだ?
これで苗を育ててみよう。こし器でこしてちいさな土だけ選別して家に持ち帰った。レタスを家で育苗していたので、それの一部をその土で育ててみようと思った。
迷い農法、どこへいく。
なんだか頭がごちゃごちゃになってきた(もとからだろ)。
喜び勇んで自然農やって、それからたんじゅん農法学んで、、、、。
春になって畑を眺めるに、ついにどーしていいかわからなくなった。
ハコベと、カラスノエンドウと、オオイヌノフグリと、ヒメオドリコ草。見事にはえそろった畝。この種の野草が生えて来るという事は、聞く所によると、酸性でもアルカリ性でもない、中和された、何でも良く育つ上質の土が出来上がっているという証拠だそうだ。(自然農や、自然栽培や、自然農法であって、有機農法でも化学農法でもないやりかたによると)
今までのやまんばだったら、
「わーい!ついにいい土が出来た!」と喜びかけまわるはずだ。
でも近所の畑(有機と化学と両刀使い)のわきにも、同じようにその草たちははえている。その理屈だと、、、こっちもいい土じゃねえかよお!
暮れも押し迫った寒い日々、裏の山に何度も通って、ずたぶくろに落ち葉をかき集めた。春にすき込むためだ。たんじゅん農法でいくと、畝の上に5センチも積もる程とってこなければいけないのだけれど、広い畑全部に落ち葉でおおいつくす程の量はないし、それをやり通す気力もなかった。だから畝間をちょっと埋める事ぐらいしか出来なかった。
春が来て、さてすき込もうかと思うけど、なんだか心が動かない。草も落ち葉もすき込むか、はたまた自然農のように、上の草だけ刈って、種をまくか。。。
どっちもやりたくなかった。
な、な、なんか、無性に耕したかった。
草も根っこもぜーんぶとっちまって、真っ黒い土を丸出しにさせ、グレンと下からさくってみたい衝動にかられた。
頭が、「そんな事はできないのだよ、ワトソン君。それじゃあ、まるで慣行農法だ。それこそ、肥料やうんちを入れなくちゃいけなくて、するとわんさかやってくる虫を手で取る作業に突入なのだ」と言って来る。
なのでやりたい衝動を抑えて、ムリヤリ草と落ち葉をすき込み、種をまき、はたまた自然農のやり方で種を蒔く。
しばらくたって、様子を見る。うんともすんとも芽が出ない。きっとまだ寒いからにちがいない。。。。
昨日、畑の南がわ、線路に面したどてにノビルを見つけてとっていた。それはちょっとやそっとでは引き抜けない程、かなり奥深くにあった。
おかしいなあ、去年はもうちょっと浅いところにはえていたはずなんだが。。よく考えると、一昨年の方がもっと楽にとれた。という事は年々深いところにノビルが出来ているという事か?ノビルは下にのびる?
それとも土が上にたまっているのか?
土?土なんかその上にかぶせた覚えはないぞ。ここは草しかないはずだが。。。
そうだった。ここを開拓したとき、この畑全体に広がっていた篠竹と木と葦のような巨大な草を刈り取ってはここに置いて土手のように高く積み上げておいた場所だ。その後フェンスを作って境をもうけたが、毎年ここに草が生える。夏はものすごい勢いで育ち、冬にはかれていく。それが4年も続いた今、あの土手はどこかに消えてしまい、真っ平らになった。しかも面積まで広くなっている。そんなはずはない。フェンスのすぐ外はすぐ線路にいたる崖のはずだった。。。
あの土はそれらが変化したものだ。それしか考えようがない。土は1センチできるまでに何百年も何千年もかかるんじゃなかったっけ?
それはふかふかでさらさらで、匂いをかぐとかすかにカビのいいにおいがした。土の上の方は、まだ分解されていない炭素類とのあいだに糸状菌がびっちりとあった。下にいく程、ホントの土になっていた。においは全くしなかった。
手のなかでさらさらとフワフワところころとやわらかい。なんだろうこれは。。。
夕方もういっぺんでかけていって、その土をとった。なんとも言えないいい感触。ショベルは地面の奥までどんどん入っていく。このやわらかさはなんだ?
これで苗を育ててみよう。こし器でこしてちいさな土だけ選別して家に持ち帰った。レタスを家で育苗していたので、それの一部をその土で育ててみようと思った。
迷い農法、どこへいく。