巨人は何かがうずくのだ。何か、こう、心のまん中あたりの奥深いところで、
「これじゃないんだ。。。これじゃ。。。」
と言っている声がするのだ。
ときどきその女の子の事をうとましく思ったりする。すると頭が、
「いやいや、今までだって彼女のおかげでここまでこれたんだ。これからだって、彼女がいないと生きていけない。。。」
巨人がそんな事を考えると、すぐさま聞きつけて来る。
「そーよ、そーよ、なにいってんのよ。ばっかじゃないのー!」
ときどき心が真っ白なときがある。そのときは、まわりの自然もみんな生き生きとして見える。鳥の声も、川でなくカジカの声も、咲き始めた山吹の花も、巨人に何か語ろうとしているようにおもえる。
「え?なに?。。きこえない。。。」
そっと耳を近づけると
「。。。。。。」
何か言っている。
「え?もういっかい。。。」
「。。。。。。」
「ちょっとちょっとちょっと!なにそこでやってんのよ。ばかじゃないの!草がしゃべるとでもおもってるの!」
「あ、そうだよね」
「ぼーっとしている暇があったら、仕事仕事!ほれ、営業!将来の事考えたら、今やるべき事があるんじゃないの!今ぼーっとしてたら、あんたは未来は浮浪者よ!」
巨人はどきりとした。それであたふたと仕事を始めた。。。
こうやって私は仕事と営業を続けてきた。
しかし今になって思う。
彼女がいうように営業をして、その営業先で仕事になった事がないのだ。ではなんで営業をするのか。それは自分が動いていたら他も動き出すから、と思っていたからだ。
それが本当の理由だろうか。
今ぼーっとしてたら、未来はひどいことになるかもしれない。。。という恐怖がそうさせるのではないだろうか。ではどうして未来はひどいことになるとおもうのであろうか。それは彼女がそういったからではなかったか。
彼女とは私の思考なのだ。
私たちは、思考は自分だと思っている。思考はりっぱなものだとおもっている。私たちの文明は思考が生み出したとおもっている。思考さえ操ればどんなことだってできる!
しかしその文明のさいしょのひらめきは「直感」であった。偉大な発明も偉大な創造も、すべてはほんの一瞬のきらめきだったのだ。そしてそれを思考が物質的につむいで形にしていく。思考はそういう使い方をするものであった。
私たちはいつのまにか思考そのものがひらめきを生み出し、想像力を生み出すと思ってしまった。思考は言葉である。言葉は過去だ。ひらめきは、言葉にならないなにかだ。「あっ。。。!」だけである。
アインシュタインはいう。
「どーしてひらめきは、いつもシャワー浴びてる時に限ってやって来るんだ!」
おそらく彼は熱いシャワーをあびながら、ぼーっとしていたに違いない。
思考は言葉である。言葉は過去だ。過去で未来は予測できない。できるとすれば、それはすでにあったものの焼き直しだ。思考が予測できると思い込んでいるだけだ。
けれども私たちがいるのは「今」なのだ。過去というものは頭の中の記憶であり、未来は頭の中で想像するだけのものだ。事実は、私たちには今という瞬間しかない。
ところが思考は過去と未来を行ったり来たりする。別ないいかたをすれば、今という瞬間を知らないのだ。知りたくないのかもしれない。いや、恐れているのかもしれない。。。
思考は時間とセットになっているようだ。思考にとって今という瞬間は、過去の失敗を未来の成功へと導く途中経過でしかない。「いつの日にかこうなれば、私は幸せだ」と言い続ける思考。これじゃないなにか。今じゃないいつか。そうやって今を拒絶するのが思考のようだ。
私は自分の思考にふりまさされている事に気づいた。
だが、それに気づいた「もの」は、いったいだれなのだ?
(シュタイナーの云う)認識の小道はうっそうとしていて時々、迷子になります。
返信削除巨人でもなく、女の子でもない、もう一つの視点は「霊我」なのでしょうか?
慣れ親しんだ意識が分化し葛藤が生まれると、それを俯瞰する意識。
まるで鏡の中の鏡みたいに。
そうなのでしょうね。
返信削除それは3次元の世界だけにいると、わからない3次元の世界。つまり誰かが3次元より上の方から見下ろしているからこそ、3次元を知っているという事と同じなのでしょうか。