2012年4月11日水曜日
認められたい私
夢を見た。
秋野暢子と梅宮辰美が私のパンを食べておいしいと言った。私はうれしくなって、台所にいき、焼いたばかりの一斤分のパンを二人にあげようとした。ところがあるはずのパンがどこにもみあたらず、パンの耳の小さく刻んだのしかなく、わたしはそれをティッシュにくるんで渡す。二人はいやーな顔しながら持って帰った。
人は、他人に認められるとうれしい。
そこまではいいんだが、それがいつのまにか、他人に認められることが自分がここにいていいのだ、という判断基準になっている。自分の存在理由を、他人が自分を受け入れてくれる事によって成り立たせるのだ。いわば他人に依存している。
「私はここにいていいの?こんな私でも受け入れてくれる?」
心はいつも他人にその答えを求めている。
その他人とはだれ?上司?クライアント?親?お友だち?ダンナ?子供?ご近所さん?ツイッター仲間?
だれでもいいのだ。とにかく自分以外の誰か。
自分以外の誰かに認めてもらう。ほめてもらう。それが自分がここにいていい理由。
近所にすごく人当たりのいいおばさんがいる。道でであうと「あーら、こんにちは~」とかんじがいい。しかしひとたび会話を始めると止まらない。えんえんと自分の話をする。自分はこうやったああやったと話す。
彼女は恐れている。
自分が何かまちがったことをしているんではないだろうか、ちゃんとしていないのではないだろうか、とたえず他人の反応を確かめながら生きている。
私だって他人の評価を気にする。
秋野暢子と梅宮辰夫にパンがおいしいと言われればあげたくなる。でもそのあげたい気持ちが度を超えると、自分のしていることが見えなくなり、パンの耳をあげてしまい、結果的に他人にイヤな印象を与える。
あの時「あ、パンがないからしょうがないわね」
と、自分の「もっとうれしがりたい」という欲望に気がついて、意識を切り替えると、彼らには「ああ、おいしかった」という印象だけが残る。
認められると、もっと認められたいという思いが次の瞬間にょきっと顔を出す。トンネルビジョンに入る瞬間だ。それはいつも自分が他人の評価によって生きる理由を探しているからだ。もっと認められると、もっとここにいていいのだ、と。
こうやって私たちは外の誰かに認められるために外ばかり見て、他人のご機嫌を取り、他人の評価を気にし、他人に心を寄生させて生きているのだ。
それでいーのかー。
絵:COOPけんぽ表紙「チューリップと妖精」
まぁ、大抵の人は”誰かに認められるために”行動したりしてるし、”他人の評価を気にし”行動してるわけなんで、私はそんなに気にして無いですね。
返信削除というか、全く他人の目を気にせず行動する人とは、一緒の場所にいたく無いです!!(笑)
がははー。
返信削除それって、KYな人!