2012年4月8日日曜日
巨人と小さな「私」
わたしはちいさいとき、あるイメージを持っていた。
巨大なでくのぼうの肩に、ちょこんとちいさく乗っている自分。その小さな自分は、その巨大なでくのぼうをもてあましていた。
それはのろまで、ばかで、なにやってもだめで、みにくくって、どこにも取り柄のない存在。あの頃、ウルトラマンの番組のなかに出てきた「ジャミラ」という気味の悪い怪獣をみたが、あれそっくり。あのジャミラは元人間なのだそうだ。幼い心の中にその姿を自分と照らし合わせていたのかもしれない。
だが私のジャミラはでくのぼうだった。
その巨人にむかって小さな私は
「こら!のろま!もっとさっさと歩きなさい!」
「ああ、もう、どうしてこんなにおばかさんなの!」
としかってばかり。
その小さい自分は「私」だった。「私」のはずだった。
その「私」は、大人になった今もそこにいて、私にだめ出しをする。
「私」が私にだめ出しをする?
じゃ、そのだめ出しをされてそれをしょぼんとして聞いているその存在はなんなの?巨人?じゃ、その巨人は一体なにもの?
小さい「私」は、この世が生み出してきた条件づけの固まりだったのだ。
よく聞いていると、お父さん、お母さんに言われてきた言葉を繰り返ししゃべっている。テレビで見てきた事、ラジオで聞いてきた事、お友達に言われた事、おばさんに言われた事。。。そんな言葉をしゃべって巨人をおどすのだ。小さなうるさい女の子にガミガミ言われてしょぼんとした巨人。。。なかなか絵になるなあ。
いわゆるジョーシキというものをその子はもっている。生まれてきてこのかた聞きかじった世間のジョーシキを巨人に教えようとする。だがそのジョーシキは所詮、この今の社会で作り上げられたジョーシキである。そのジョーシキが正しければ、こんな世の中であっただろうか。そのジョーシキは矛盾に満ちあふれている。昨日正しかった事が今日は非常識になる。「正しい」と「間違っている」はコロコロと変わる。無秩序と混乱のなかにある。その知識を持った小さな私なのだ。その限界のある脳みその「私」が巨人に向かってこうあるべき、あああるべきとうるさく言う。
巨人は必死で聞こうとする。しかし彼女の言葉を聞ききれない何かが残るのだ。何かこう、大きな身体を小さな箱のなかに閉じ込めようとするような窮屈感。
なぜ彼女の言葉を聞かなければいけないのか。
それは今までその存在とともに生きてきたからだ。その存在のおかげで私はここまでこれたからなのだ。だが同時に、自分のなかでつねに葛藤を生み出してもいた。
世間はこういう。でも何となくそうではない気がする。。。
こうあるべき姿、理想の姿。だがそんなものはどーでもいいと思っている自分がいる。。。
時代や時間を越えた普遍的なものが存在する、、、そう思っているその存在はなんなのだ?
その巨人はそのものを知っているように見える。いや、それそものものなのかもしれない。それは本当の私?それとも私ではない私?
二つの分裂する存在をもつ。
イヤそうだろうか。その小さな子うるさい女の子をもったのは巨人だ。巨人がその存在を作り上げたのだ。それはこの小さな星のこの時代に物質として生まれ出て、とりあえずそこのルールに従って生きていかないといけないとふんだからだ。
彼女は思考そのものだ。思考によってこの世は作り上げられた。だが今の世の中はどうだ。思考による文明の発達にはもう破壊しか残っていないようにみえる。思考には限界がある。その限界を超えていくにはもう彼女の出番はない。
私たちは自身がもっているその巨人に気がつかなければいけないのではないだろうか。その巨人はあらゆるものをもっている。あらゆるものとつながっている。あらゆる事を知っている。
はえのようにぶんぶんといつも頭の中を駆け巡る思考に耳を傾けず、自然に耳を心を傾けよう。都会のなかにある自然は小さいかもしれないが、大きさの問題ではない。アスファルトの間から出て来るたくましい雑草を見つけよう。街路樹に芽吹いて来る新しい芽を見つけよう。そして何よりも一番身近にある自然、、、自分の身体に耳を傾けよう。心臓の音、暖かい皮膚、体中をものすごい勢いで流れ巡っている血液。これが宇宙の英知でなくて何が英知なのだ?これが巨人が持っているパワーそのものなのだ。
絵:COOPけんぽ表紙イラスト「タンポポとてんとう虫と妖精」
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