2011年9月30日金曜日
不自由にするのは私たち自身
母は身体が動かなくなった。
今年のお正月に帰った時でも随分歩けなくなっていたが、この2か月程でほとんど歩けなくなったようだ。
彼女は、私が小さい時からゆっくり歩く人だった。親子3人で道を歩くと、最初は3人並んで歩いていても、そのうち父と母との距離が開き始め、私はその間を行ったり来たりした。
母は美人と言われて育ってきた。
二つ違いの姉と一緒に高知の田舎道を歩く。
「あんたらあ姉妹が道歩くだけで、わたしらあうれしいよ。」
ホコリっぽい田舎道をビロードのワンピース、エナメルの靴、レースの靴下で歩く幼い姉妹。村の華であったことは想像に難くない。浜まで出るのに、他人の土地を一歩も踏まずにいける大地主の娘。蔵の石段は大理石。じいちゃんは見渡す限り自分の領地である畑を馬に乗って闊歩する。5歳の娘が使用人を呼び捨て。会社に勤めるまでお金という存在を知らなかった。お茶の世界に入り審美眼を極め、料理も絵もセンスは抜群。彼女は完璧だった。あの時までは。
あるとき、会社で「あんた歩くの遅いねえ」と言われた。ショックだった。それまで仕事もすべて完璧にこなしていた彼女。同期の、その何気ない一言で彼女の人生は大きく変化した。
「私は歩くのが遅いんだ。。。。」
彼女は、うまれてはじめて人に劣っている自分の部分を見つけた。
考えてみれば、今まで何でも「優れている」とほめられ続けた人が、「劣っている」といわれたのだ。(言われてないけど、そんなニュアンスで受け取った)
プライドが傷ついた。
しかしどうなんだろう。もしかしたら、その同期の人にとって遅いと感じただけだったかもしれない。たまたま急がないといけないから、同期の人は急ぎ足だったが、彼女はそれについて来なかったから、いらついていったのかもしれない。ほんとは遅い歩きじゃなかったかもしれない。
だが、そんな現実はどーでもいーのだ。
彼女は自分のあり方にケチつけられたのだ。(と思い込んだ)
負けん気の強い彼女は、それから自分をけしかけた。
「はよう歩きたい」
「はよう歩かんかね!」
それが彼女の人生を通してのマイブームとなった。早く歩きたい。普通の人のようにしゃんしゃんと歩きたい。
その言葉の後ろには、私は速く歩けない、という確固たる確信があった。その確信は現実のものになっていく。思いは、思いを現実化していくようだ。
彼女が結婚して、私が生まれた頃には、もうすでに歩くのが遅くなっていた。
私が生まれてからずっと付き合って来た彼女の口癖は「はよう歩きたい」と「はよう喋りたい」である。
で、結局「はよう歩く」どころか、動けなくなった。
これは「はよう歩きたい」という努力が報われた結果なのだろうか。
近所で70過ぎのおばあさんが、毎日巨大なイエローラブを一日二回、2時間づつ散歩させている。
「今日も高尾山登ってきましたのよ~」という。
彼女にとって「はよう歩きたい」というアイディアはおくびにも入ってなさそうである。
マイブームは人によって違う。
私はおなかがすぐピーになりやすい。と考える人はすぐピーになる。その人はいかにピーにならないようにするか、ということを無意識に四六時中気にしていたりする。だから「これ食べたら、ひょっとしたらピーになるかも。。。」と思いながら食べると、ピーになる。「ほら!やっぱりピーになった!だから食べなきゃよかった!」と後悔する。しかしたいていそういう人はイヤシかったりする。逆に食欲にとりつかれる。
母はそんな人を見ると、「あはは、ばっかねえ。なんでそんなもん食べてピーになるのよ。わたしなんかちっともならないのに」という。そのピーにすぐなる人は、母の2歳上の姉、わたしのおばさんである。
うちの母は、ピーにならない。なぜか。「私の内蔵はすごい」と自負しているからである。だからちょっと壊れたって「ほっときゃ治るわよ」と思っているので勝手に治っている。しかしおばさんはピーがマイブームなので「なったらどーしよー、なったらどーしよー」とつねに考えているから、それはそのようになるのではないか?
母は身体はそのうち治ると信じてそれについて気をもまないので、身体は自然に治癒に向かう。しかしおばさんはつねにそのことに気をもむので、身体が自然に治そうとすることを逆に妨げているのではないだろうか。
だとすると、はよう歩けないという思いが、自然に身体が二足歩行することを妨げているのではないのか。
母は、いつも足に向かって
「ほら、ちゃんと歩きなさい。歩けるかね。どうぞね。右足。はい左足、ほれ、右足。よし。よくできた。ほら今度は左足。。」といっているそうだ。
この世のどこに、病気でもない人が自分が歩くことを右左右左と言いながら歩く人がおる?
人はいちいち心で指示しながら動くもんだろうか。いや逆に指示しないから、自然に歩けるのだ。
先日、この世はすべてが秩序でできていて、人間の心だけが無秩序なんじゃないか?と思ったが、まさにそーゆーことじゃないだろうか。自然に流れていくもろもろのことを、心がストップかけたり邪魔をしている。それはこうあらねばならないこうあるべき、という理想の姿をつねに思い描いているからではないだろうか。私たちは理想と現実の狭間でつねに葛藤を生み出しつづけているのだ。これに使われるエネルギーはとてつもなく大きい。
母がいつも自分の足に向かってハッパをかけているエネルギー(これじゃあいかんという葛藤と、なんとかしようとする努力)は、彼女のもっているエネルギーのほとんどをそこで消費している。だが使えば使う程、身体はますます動かなくなる。
それをやる意味が本当にある?
彼女は多分、パワフルな人だと思う。パワフルだからこそ、そこまで「歩けない」という思いの中に没頭できたのだ。そのエネルギーをそこに使うのをやめたら、きっといい絵を描き始めるんじゃないかと思っている。
私たちの人生を不自由にしているのは、実は私たち自身ではないだろうか。
絵:COOPけんぽ表紙イラスト「ぶんぶくちゃがま」
2011年9月25日日曜日
妖怪んちの屋根とんだ
台風15号が高尾に吹き荒れた。
大雨の中、ケータイがなった。
「妖怪んちがたいへんみたいよ。様子見にいって」
珈琲屋のマスターからからだった。
暗闇の中、庭に何かが散乱している。家の中は水浸しだった。
「屋根がね、飛んだのよ。。。」
裏の木が風にあおられて壁に当たり、ゴンゴン音がするといっては外に出てずぶぬれになり、となりのとたんが飛んで来たといっては、またずぶぬれになって対処し、やれやれと家に入ってホッとしたのもつかの間、
「バリバリッ。。。。どお〜〜〜〜〜ん!ってでっかい音がしたのよ。んで、な、何?って思って庭を見たら、何かでっかいものがある。ほんで『こ、これは、どこから。。。?』って上の方見たら、テレビのアンテナがグニューってひん曲がってて。。。うちの屋根だった。。。」
二階に上がると、天井から水がぼたぼたぼたぼた。。ふとんの上にもぼたぼた。。。天袋あけたら、天井のベニヤがぱたぱた風にあおられて、そのすきまから「お空が見えた。。。。」のだそうな。
それから妖怪は、プラスティックの衣装ケースを中身をほっぽり出して雨漏りのする畳の部屋に置きまくる。そうしているあいだにも雨漏りはなおさら部屋中に広がった。
やまんばとダンナが妖怪んちにいった時には、パンツやストッキングが散乱する水浸しの凄まじい状態だった。雨漏りを止めるためにほりなげた衣装ケースは、たまたま下着類のケースだった。
「こ、、これ、どーするの。。」
「もう。。。どーしていーのかわかんない。。。」
とりあえずバケツや洗面器で水を受け、シートでぬれちゃまずいものをかこった。しかしどんどん雨漏りはあらゆる箇所からやって来て、家の中で傘ささないといけないぐらいになった。畳は今ものすごい重いんだろうな。
そうするあいだにも何度も停電がおこり、ショートするとまずいので、とりあえず電源を切った。真っ暗闇、みんなで雨水の音を聞く。妖怪は保険屋さんや消防署などに電話。消防署さんもその日は忙しく、人命に関わることでないと来てくれなかった。
妖怪は被災者になって、やまんばのうちに避難してきた。やまんばは被災者に炊き出しした。被災地に行かずしてプチボランティアになった。
翌日起きてみると、近所はどこも被害がなかった。妖怪んちだけがピンポイントで被災していた。裏はJRの線路。その後ろが山で、木が無惨におれている。どうも妖怪の家の幅だけくっきりと一直線に風が北から南に吹き下ろしたようだ。ピンポイント竜巻でもおこったか?隣のお家は屋根の上にいろんなモノが乗っかっているのに何も被害がなく、きっちりと鉄の屋根で被われた妖怪んちの屋根だけがめくれあがって飛ばされていた。それにしてもそのめくれ上がった屋根がどこにも行かず、誰のうちも被害に巻き込まず、お行儀よく自分ちの庭にだけ落ちてくれたのは不幸中の幸いだった。ちなみにその一部がずっと南の畑の上に落ちていた。やはり相当な風だったようだ。
「なんで、おれんちだけ。。。?」
「さあ。。。。。」
人生とは不可解なものである。
よーかいんちがとんだ、
やねまでとんだ
やねまでとんで、
あなあいてぬれた。
あーめあめふるな、
よーかいんちがぬれる。
(「シャボン玉飛んだ」の替え歌で)
絵:「The Drums of Noto Hanto」より
2011年9月24日土曜日
人間の心の中だけが無秩序
この世に現れて来るものは、すべて秩序があるのではないだろうか。
朝そんなことを考えた。人生いろんな事がある。突然突発的なこともおこる。病気にもなる。台風もやってくるし、地震もおこる。
しかしそれらはすべて秩序だった事で、必然なのかもしれない。おこる出来事は、摂理にそって整えられていく過程であって、決して無秩序におこる事ではないのではないか。
この世は無秩序に問題がおこるのではない。。。
だとすると、なぜ人間はこうまでも不幸なのか。それはたったひとつ、人間の心の中が無秩序だからなのではないだろうか。。。そんなふうに思ったとき、心がぞくっとした。
問題ということばには、これはいいことである、これはわるいことである。という二つの意識がある。それはある種のものを基準とおいて、それに対して、悪い事といいことという判断が下される。がいして問題という言葉には、これは悪い事であるという意味が含まれている。では自然界にこれはいいことであるというものと、これはわるいことである、というものがあるのだろうか。
台風が突風を起こし、木をなぎ倒す。これはわるいことだろうか。
大木がなぎ倒されたあとは、その地面に光が当たり始め、そこに眠っていた種が芽吹き始める。その大木は微生物に分解され、栄養となって他の植物にエネルギーを与えていく。ということは、いいことなんだろうか。
しかしこの木が民家の裏にあって、家を呑み込んで倒れたらどうなるのだろうか。わるいことなのだろうか。
いやしかし、その大木が倒れることによって新しい芽が吹き始め、これはいいことなのだ。と、いうのだろうか。
結局それは単に人間が言う、いいことと、わるいことなのだ。自然界には、「いいこと」も「わるいこと」もない。ただ順々に摂理が働き、時とともに変化していく。これは無秩序なのだろうか。私には秩序のように思える。
今、放射能をめぐって矛盾する問題が浮上している。被災地を助けるために企画されるイベントが、放射能がまき散らされるといって中止される。これは困った人を助けたいという思いと、面倒なことは避けたいという思いが渾然一体となった、今の人々の心の葛藤がよく現れている。
困っている人を助けることはいいことで、放射能はわるいことである、という考えがごっちゃに入っている。
私たちは小さな時から、これはいいこと、それはわるいこと、と繰り返し教えられて来た。だがそれは人間が生き延びるために考えだされた基準である。私たちはその基準にがんじがらめにされている。
今朝、長いことほっておかれた扇風機を片付けた。
水で濡らした雑巾で扇風機をふく。こんな単純な行為が私には恐ろしかった。なぜなら、扇風機をホコリだらけにするあなたはいけない人、と自分で思っていたからだ。だから見て見ぬ振りをしてほっておいたのだ。いつもの私なら、ざっとふいてさっと片付ける。それは見ないようにしてあわてて片付けるというような心持ちだった。心の中に罪悪感を抱えつつ。
しかし今日はちがった。心は静かなままだった。それは多分、自分の中に非難がなかったからだ。これはいいこと、これはわるいこと、という考えがなかったのだ。
自分の中にジャッジがないと、それをそのまま見ることができる。そのまま受け止めると、行為は自然に動く。「問題」がおこったとき、「これはわるいことだ」「これはたいへんだ」と、普通はパニクるもんだ。しかしそれは秩序なのだと思えたなら、そのときその人はその出来事をただ受け止め、必要な行為を必要に応じて即座に動くのではないだろうか。それがまさに秩序だった行為なのかもしれない。
なあーんて思ったんだ。
そうはいいつつも、いざ自分に大きなことが降り掛かると、きっとパニクるだろうな。だけど今朝考えたものは、何かヒントを教えてもらった気がするんだな。
絵:「MF新書」表紙イラスト/江戸将軍が見た地球
2011年9月17日土曜日
世話焼き妖怪
妖怪の正式名称は、「世話焼き妖怪」である。
ことあるごとに、なんかやまんばが問題抱えるごとに
「なんか世話焼かせろ~」
と、やって来るのである。
その世話の焼き方は極まっている。ありとあらゆる事を想定して準備おこたらなくやってくれる。
「これ、もってるか?もってってやろうか?」
「これしってるか?おしえてやろうか?」
「これ、くうか?ほれ、くえ」
妖怪は妄想が暴走する。瞬時にあらゆる状況を想定できるものだから、何が必要か、どうやったらうまくいくかわかっている。
だもんだから、やまんばがいたらないのを傍でいつもイライラしながら見ている。
「もううううううう~~~~っ。だ、か、らあ~~~~っ」
先日その妖怪の畑にご招待された。自慢じゃないが、有機農法の畑を間近で見るのははじめてである。妖怪は油かすと鶏糞をどばどばと畑の畝に撒いた。やまんばは今年はじめて油かすというものを買ったが、畝に撒くといってもひとつかみをさらさらとうっすら地面に色がつくくらい。さすが妖怪はちがった。10キロ入りの鶏糞と油かすの袋を抱えたままバケツの水を撒くがごとく撒いた。やまんばはびっくらこいた。あの巨大なナスやゴーヤはこれで太ったんか。。。畝の中の土は3分の1鶏糞と油かすでできているようにみえた。
思わず聞く。
「土はなんのためにあるの?野菜の土台?」
「バカたれ。土と肥料が混ざっていいあんばいになるんじゃ」
サトイモのツルの巨大さは圧巻であった。実はやまんばと同じ種類のイモを買っている。やまんばの畑のツルはせいぜい1メートルちょっと。妖怪んちのは、軽く2メートルを超えていた。根元の太さは4、50センチはあろうか。太ったおじさんが小さいサイズのTシャツを着ると首元がパンパンなのとそっくり。黒いビニールマルチがパンパンにはちきれそうだった。
「いったい何入れてあんなに大きくなったの?」
「あれはだなあ、牛フンと鶏糞と油かすじゃ。まず先に効く牛フンで大きくなり、時間差攻撃で鶏糞で大きく育つのよ。小中一貫教育みたいなもんだな」
なるほどー、うまいことゆーなあ。
やまんばの畑の一角に落ち葉堆肥をしたところがある。先日はぐってみたら、カブトムシかクワガタの幼虫がいっぱい出てきた。その話をしたら、
「お、やまんばんちの畑半分仕切ってミミズ育てろ。それ売って一儲けするんだ」
という。
「やだ。ミミズなんていらないもん。」
最近やまんばの畑はミミズがほとんどいなくなった。これをいけないという人もいれば、良しという人もいる。
「ミミズがいなくてどーする!ミミズがいてはじめて肥えたいい土になるんだ」
そこでやまんばはたんじゅん農法の林さんのうけうりを口走る。
「ミミズ自慢は恥じ自慢。。。。」
「なんだってえ?んーなわけないだろ」
「だって、、、、山にミミズいっぱいいる?ミミズいないのに、山には草木があんなに生い茂ってるじゃない」
妖怪は身体をユサぶってこう言った。
「山にダイコンは生えてないだろう!」
カンカンカーン!妖怪の勝利ーーーーーっ!
朝、昨日の妖怪とのバトルを思い起こす。ちえっ、ちっとも妖怪を説得できないや。。山にダイコンねえ。。。言えてるなあ。。。生えてるわきゃないわな。。。
そのとき、ふっと夏の日の暑い浜辺を思い出す。アレ?浜にダイコンが。。。
あーーーーっ。
浜ダイコンがあるじゃないかーーーーっ!!!!
絵:似顔絵モンスター列伝
2011年9月14日水曜日
妖怪の草刈り機
有機農法で成功を収めている妖怪が草刈り機を貸してくれた。はじめて使う機械にやまんばは圧倒される。早い。あれほど高く生えそびえた草たちをバッタバッタとなぎ倒していく。それもこの轟音と振動のおかげなのだろう。
しかし刈り終わったあと、手にぶるぶると振動が残る。手の皮膚と骨のあいだに無数のミミズがはいまくっているような、なんともきみょうな感覚。さすが妖怪が貸してくれた草刈り機だけの事はある。妖怪ぶるぶるまでおまけしてくれた。
小さく刈り取った草たちを畝にスキコする。手でやっていた時、刈る、草を小さく切る、という作業を、一気にやってくれる草刈り機。簡単にスキコできる。じつにありがたい。
しかしなんだか心が痛い。なんでだろう。
草たちの切り口が無惨なのだ。繊維を引きちぎられたような痛々しい姿が散乱している。たんに私の切り方がへたくそなのか。草たちの威厳も何もあったもんじゃない。
ちょうど同じ頃、高知のとーちゃんがハミキリを送ってくれた。むかしからある、草を小さく切る道具だ。草を束にして歯の上に乗せる。上からハンドルをおろして切る。それだけなのだが、面白いように切れる。しゅぱっときれいに繊維を断ち切ってくれる。切り口は美しい。草たちの威厳も保ってくれる。
この二つの草を刈る道具は、何かが明らかにちがう。草刈り機は作業が早い。効率を考えたらもっともいいだろう。だが破壊的なのだ。その破壊力は振動を感じる手にももたらす。白蝋病という病気もそういった振動をともなう機械によって起こされる。
一方クワで草を刈り、ハミキリで草を切る。これは能率効率悪い。しかしその作業は穏やかで、地面と自分を近くし、土と草の関係を確かめながら切る事ができる。ゆっくりした動きだから、草の中や下にいる虫たちの逃げる時間も与えられるし、私もかれらをよけながら切る事ができる。思わず鼻歌もでる。機械はスピードが速いために生き物たちの移動を遅れさせ、時には殺してしまう。鼻歌なんかでない。
クワは根元から切るため、草はきれいに集められる。ハミキリも入れやすい。何より破壊音のしないゆったりとした時間が、草たちの生まれて死んでいく過程を味わっているようなそんな感覚にさせてくれる。草刈り機は立ったままで草の死を眺め、ハミキリは座って地面に近いところで草の死を見届けるからなのかもしれない。
先日知り合ったおじさんがいっていた。
「草刈り機で刈った草は、あとから生えて来るのが早いんだ。なんでだろうね。草がコノヤロ〜って挑戦して来るんかね。でもクワで刈った草は、あとから生えるのが遅いんだ。おもしろいね」
彼の言葉は、何か深いところを話してくれているのかもしれない。
絵:COOPけんぽ9月号イラスト/コスモスと妖精
2011年9月12日月曜日
自分の価値をお金で決める
あなたの価値をお金に換算してみる。。。そんな恐ろしー番組があった。なんのことはない、銀行からお金を借りるのに、今のあなたの状態から、どこまでお金を借りられるのか、というものだ。
なのに、何となく番組のトーンとしては、「あなたの価値はいくら?」というニュアンスがある。まるで銀行さんがあなたの価値を決めてくれる、と言わんばかりである。
やまんばは、銀行さんとはてんで縁がない。イラスト料を銀行に振り込んでもらい、それを銀行から下ろす。そんなことぐらいにしか利用させてもらっていない。ましてやそこで自分の価値をはかってもらうなどと。。。おお、おそろしー。
査定する人は聞く。あなたの収入は?現在その業界においてのあなたの位置は?資産はどのくらい?不動産は?金の延べ棒はいくつもっていますか?持病は?コレステロールは?数値はどのくらい?お酒は飲みますか?おつきあいは週にどのくらい?お金の管理は奥さん?それともご主人?矢継ぎ早に突っ込んで聞いてくる。それに応えるタレント。査定人はフムフムと物知り顔で話を聞く。
き、金の延べ棒。。?そんなもん、もってて当たり前なんか。。。
査定さんの話を聞く限り、やまんばには何の価値もないとみた。たぶん0円だろう。ふはははは~。
ようするに、価値と言いながら、銀行さんにとっての価値なのだ。
「こいつに金貸したら、どんだけもうかるか」
という価値なのだな。ところが世の中はいつのまにか、何でもお金で価値判断をする、という様な風潮が出来てしまったために、自分の値段を付けてもらうことがなんだか重要になってしまった。
人=お値段
人の価値をある一定のものだけではかる。なんじゃそりゃ。
銀行の査定さんがもっている物差し。不動産、健康、仕事の位置。ほとんど物質的なものじゃないか。
人ってそれだけ?
その人がもつやさしさや、気遣いや、感性や、情緒や、おおらかさや、ユーモアや、臨機応変さや、人への理解力や、その人独自がもつ空気感のようなもの、その他、山のようにある、数値で証明も立証もできないものでいっぱい満たされた人間を、単なる目に見えて明らかなものだけではかるのか?自分の年収でもって自分の価値を決めるのかい?
インターネットのホームページにはだいたい隅っこに「私の年収って低いの!?」ってなものがある。そーやって危機感をあおってくる。
おお。他と比べて低いわい。それがどーした。
ジョーダンみたいな単純なはかりで決める最近の価値基準パターン。そう笑ってもいられない。落ち込んだりすると、自分の価値をだいたいそんなところで無意識に測ってしまうものだ。「ああ、オレってこんなちっぽけな安い価値の人間なのさ。。。」
やがてそれが習慣になってしまい、ことあるごとに「おれはだめだ」と、自動的に考えてしまう。フッと自分を笑ってこの世を斜に構えて見る。つらくなると「こんな世の中だし、オレもこんなふうになる」なんて言ってみたりする。
それは事実とは全く違う。
空気を読めるあなただし、それってやさしいってことだし、ボケと突っ込み入れて人をなごますし、人の悪口もあんまり言わないし、人の失敗も「ま、しゃあないか」と受け流せるし、街の中で風を感じて楽しめるし、家族のために頑張ってみたりする。そんな豊かな心の持ち主なのだ。
それをお金で測って、自分をいやんなるなんてもったいない。
やまんばの価値はお金に換算すると0円だけど、「やまんば」っていう価値はあるんだ。
絵:「サクサクわかる世界経済の仕組み」MF新書表紙イラスト/こりゃおもしろいよ〜!
2011年9月7日水曜日
気になりだしたら止まらない
おとついの夜中おしっこに起きたあと、ふと庭の木のことが気になった。
わが家は庭に木がたくさん植わっている。引っ越して来た当初は、年に一度職人さんに来てもらい、木の剪定をお願いしていたのだが、毎年かかる経費を削減しようと、3年目から頼むのを止めた。それから私が庭の草を刈り、低木を剪定し、上の手の届かないところはダンナに剪定してもらっていた。
畑をやり始めてから、草や毎年の剪定に疑問を感じて、ほったらかしてみることにする。草は毎年冬になると枯れて消えていくんだし、木の枝も毎年剪定するのにやっぱり春になるとぐんぐん伸びて大きくなる。
「切っても切っても伸びるぜえ。。。」
と、いやんなるので、一回ほったらかしにするとどーなるかやってみるか、とそのまんまにした。
その結果。ジャングルになった。
今わが家は、ジャングルにかこまれたおうちになった。これはよろこんでいーのやら、かなしんでいーのやら。。。
そんなこんなで今の状態に至るのだが、そう、おとついの夜中、突然そのことが気になった。
近所はちゃんと手入れが行き届いている。うちだけぼーぼー。いつだったか、近所の畑のおっちゃんが、畑見りゃ、あんたんちの様子が分かるっていわれて、そのまんまじゃないか!これはウチの畑と全く同じ状態!やばい!ちょーみっともない!
心が動揺にうちふるえ、ぶるぶるしたまま止まんなくなった。すると次から次へと、あそこのあれが汚い、ここのそれがだらしない、とどんどん出て来る私の怠惰さ。こーなったら、寝るどころの騒ぎじゃない。お目目ぱっちり、心臓どきどき。いけない。寝ないと。心のうるさいの、止めないと!
止めようとすればするほど、なおいっそう暴走する。夜中に一人暴走族になる。
おりゃあ~~っ!
止めようとする意識は、それに対して抵抗していることだ。状態に抵抗するということは、それがいけないこととして否定をしているということだ。心は、押しとどめようとすればするほど、なおいっそう強烈に暴れだす。
そう、私は自分が怠惰だということを認めたくないのだ。心は、草ぼうぼうなのも、庭がジャングルなのも、これこれこう言う理由があってやっているのだ、と言い訳しているのだ。
誰に?自分に。
夜中に自分が自分に必死になって言い訳をしている。でも言い訳を聞いている自分はちっとも納得していない。だからなおのこと必死になって言い訳する。それが心が暴走する状態なのだ。
キリのない自分の中の葛藤にうんざりした私は、別の方法を思いつく。よし、私は怠惰なのだ!とひらきなおった。
私は怠惰なのだ。怠惰なのだ。だらしないのだ。きたらなしーのだ。
そしてひとつひとつだらしなーい場所を思い出す。
庭のジャングル。じっとながめる。あーきたならしい。。台風の時電線に引っかからないようにと切った枝。枯れて茶色になってきたならしく駐車場に放置したまんま。あ、大根のぬか漬けをあまりに臭いのでビニール袋に入れたまんま庭の東側に放置したままだ。ゲー、あれの中どーなっているのだ?それもじっとみる。心がいちいち言い訳をしそうになるが、それも無視。何の解釈も言い訳も非難もせず、じーっとみる。部屋の中に飾った枯れた花。冷蔵庫のぐちゃぐちゃ。畑の草ぼーぼー。小屋の中のぐちゃぐちゃ。床下の得体の知れないもの。。。あらゆるだらしなさをじーっと頭に思い浮かべて見続ける。
すると、いつのまにか心が静かになっているではないか。
え~、単にだらしないことしてあるものをながめただけなのだ。それだけで心が静まる???
現実を見ることは、おそろしーことだ。特に自分がいけないことだ、と思っていることをしている現実を。いけないことだと思っているくせに、それをやっちまわなきゃいーのに、「あとでやろ~っと」といって、ほったらかす。そんで時々気になって横目ではちらっと見るけど、見なかったことにしたりする。そんな自分の至らなさを思い起こし、また自己嫌悪する。
いけないことだといーながら、やり、それをやっちまったあとで自己嫌悪する。君、バカじゃないの。
だけどねえ、人はそう、おもわずやっちまうのよ。それはそれでいいじゃないの。んで問題はそっから先。自分批判が始まるのよ。私も私の中に監視人を作ってしまった。いちいち「そこ、ダメ」「ああ、それもいけない」と自分で批判する存在。それが自動的に動くの。んでその監視人をもっている間は、まだマシ。と思っている。ところが、それが心につねに批判とそれに対する言い訳を繰り返すと言う、葛藤を生み出したのだ。
そうすると、実際自分がやったことを直視することが怖くなる。だから見ないようにする。避ける。逃げる。ほかのことをする。そのうち忘れる。だいたいこんなことをニンゲンは心の中で常日頃やっているようだ。
非難も批判もしない。ただそれを直視する。たったそれだけでいいのだ。もしそこで心がそれについて非難も批判もしなければ、自分で言い訳も正当化も出て来はしない。
キーワードは、非難と正当化。
とにかく自分を非難するな。いけないとか、いやだと言おうとしたくなる衝動をぐっとおさえろ。
ただそれをじっと見る、観察する。そこから逃げない。するといつのまにか心が静かになる。さっきまで自分で恥ずかしいと思っていた心がどこかに行ってしまった。
しーんとした夜の空気の中で、やまんばはいつのまにか眠っていた。
絵:「密室入門」MF新書表紙イラスト
2011年9月5日月曜日
変な台風
台風すごかった。高知に上陸するっていうんで、あくせくして親に電話する。
するととーちゃんは、
「こっちゃあ、風も雨もなんちゃあこんぜえ。みょーな台風じゃ」
という。ま、高知県人にしてみたら、風速30メートルでもそよかぜに感じる県民性だから。(ちがうちがう)
上陸のコースよりも、東っかわがすごかった。基本台風はそういうもんだが、それにしても和歌山や他の県の方々は本当に大変な思いをされている。
それに比べれば高尾なんてへのカッパかもしれんが、それでも雨風がすごかった。東と言えば、北海道は旭川まで浸水の被害が。一体どこまで東に影響させればいいんじゃ。それも台風さん、ちゃりんこに乗って走っている。移動が遅い遅い。どんだけ雨を降らせれば気がすむんだろう。
高尾の雨のふり方も変だった。さっきまでぽつりとも降らなくっても、いきなりドッバア〜ッ!とバケツひっくり返したみたいに降る。かとおもうと、1分後にいきなりぷいっとそっぽをむくようにやむ。でもそれも長い事持たない。また1、2分後にどっばあ〜っっとくる。で、またぷいっとそっぽをむく。のくりかえし。なんか呼吸しているみたいに降るのだ。どんな雲の形が、そんなみょーな雨の降りかたをさせるのか。生き物みたいだ。まるで何かの存在が、雲の形を装って、日本の上におおいかぶさって、雨と風を降らせているみたいだ。
真っ暗な夜、ごお〜っというすごい風の音と大雨の音。それを交互に聞きながら、なんだか何かを洗い流しているようにもおもえた。
ニッポンは今洗濯されているのかもしれんなあ。
2011年9月2日金曜日
畑を泳ぐ
最近の畝の作り方。
まず1メートル越えしたメヒシバを根元から刈る。(どんだけハヤカしとんねん)
裏山から落ち葉を拾ってくる。真っ白いカビの生えたものを(糸状菌か?)、ウホウホ言いながらバケツに入れる。それを裸になった畝にばらまく。そこに米ぬかを薄くまく。そして、先ほど刈ったメヒシバを一部15センチぐらいの長さにカットし、またその上にまく。
そして畝の上に立ち、クワでそれらを土にすき込む!これがまたむずかしいんだが。
すき込んだ畝の上に、残りの大量のメヒシバをドサッと乗せる。
以上、畝作り完了。一個の畝作りに大汗かく。
最近こってる「たんじゅん農法(炭素循環農法)」のまねごとである。これが「自然農」だったら、草刈って、そのまま畝に乗っけてはい終わり。で簡単なんだがなあ。。。
最初の年は小松菜が1メートルになるほどでかかった。その2年目は、全くできない。ショックを覚えた。これはどーしたことか。
最初、その畑に残っていた牛フン肥料が一気に出たのだろうと思っていた。しかし5、6年放置された畑にまだ肥料が残っているのなら、開墾2年目の畑にも少しは残っているはず。でも全く野菜は育たなかった。とするならば、土自体が持っている栄養素が使われてしまったのではないかと思った。
たんじゅん農法はその事を言う。「土にエサをやれ」
5、6年放置されている間に、畑の上に草や竹やくずなどが生い茂り、微生物がたんまりと育ち、土に栄養が行き渡っていたのかもしれない。それを開墾1年目で使うだけ使ってしまってたのかもしれん。これはたとえるなら、乳牛さんにエサもやらずに「乳出せ」といってるようなもんだ。ならば土さんにエサあげんでなんとする。
たんじゅん農法は、なんやらむずかしい理屈なんで、はしょるが、ようするに土の中にエサを入れておるわけだ。だから畝に、落ち葉と草を入れる。栄養が行き渡るのに、乗っける方法より3倍速いと言う。くほほ。
すき込むのは、自然農ではあり得ない。キホン土は動かしちゃなんねえから。けど、すきコするったって、せいぜい5センチから10センチ程。そしてちょっと土を動かす事で、草がぼーぼーとすぐには生えて来ないという利点もある。
秋野菜を蒔き始めた。北の畝に壬生菜。南西の角に白菜。さすがにまだ暑いのか、白菜は見事に双葉を虫さんに食われまくっている。北の壬生菜は今のところ順調。やはりここは涼しいらしい。
今年は草がすごい。刈っても刈ってもすぐ伸びる。今はメヒシバだらけ。見事に1メートルを越えている。近所の畑のオヤジが見たら、めまいを起こしてぶっ倒れるだろう。なもんで、今ウチの畑は草をかきわけながら前進する。ほとんど泳いでいるかの様。平泳ぎで草をかき分けながら野菜を探す。いそいでいる時はクロールで。水じゃなくて、草でできたでっかいプールだ。
ドーダ、すごい畑だろー。
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