2011年9月30日金曜日
不自由にするのは私たち自身
母は身体が動かなくなった。
今年のお正月に帰った時でも随分歩けなくなっていたが、この2か月程でほとんど歩けなくなったようだ。
彼女は、私が小さい時からゆっくり歩く人だった。親子3人で道を歩くと、最初は3人並んで歩いていても、そのうち父と母との距離が開き始め、私はその間を行ったり来たりした。
母は美人と言われて育ってきた。
二つ違いの姉と一緒に高知の田舎道を歩く。
「あんたらあ姉妹が道歩くだけで、わたしらあうれしいよ。」
ホコリっぽい田舎道をビロードのワンピース、エナメルの靴、レースの靴下で歩く幼い姉妹。村の華であったことは想像に難くない。浜まで出るのに、他人の土地を一歩も踏まずにいける大地主の娘。蔵の石段は大理石。じいちゃんは見渡す限り自分の領地である畑を馬に乗って闊歩する。5歳の娘が使用人を呼び捨て。会社に勤めるまでお金という存在を知らなかった。お茶の世界に入り審美眼を極め、料理も絵もセンスは抜群。彼女は完璧だった。あの時までは。
あるとき、会社で「あんた歩くの遅いねえ」と言われた。ショックだった。それまで仕事もすべて完璧にこなしていた彼女。同期の、その何気ない一言で彼女の人生は大きく変化した。
「私は歩くのが遅いんだ。。。。」
彼女は、うまれてはじめて人に劣っている自分の部分を見つけた。
考えてみれば、今まで何でも「優れている」とほめられ続けた人が、「劣っている」といわれたのだ。(言われてないけど、そんなニュアンスで受け取った)
プライドが傷ついた。
しかしどうなんだろう。もしかしたら、その同期の人にとって遅いと感じただけだったかもしれない。たまたま急がないといけないから、同期の人は急ぎ足だったが、彼女はそれについて来なかったから、いらついていったのかもしれない。ほんとは遅い歩きじゃなかったかもしれない。
だが、そんな現実はどーでもいーのだ。
彼女は自分のあり方にケチつけられたのだ。(と思い込んだ)
負けん気の強い彼女は、それから自分をけしかけた。
「はよう歩きたい」
「はよう歩かんかね!」
それが彼女の人生を通してのマイブームとなった。早く歩きたい。普通の人のようにしゃんしゃんと歩きたい。
その言葉の後ろには、私は速く歩けない、という確固たる確信があった。その確信は現実のものになっていく。思いは、思いを現実化していくようだ。
彼女が結婚して、私が生まれた頃には、もうすでに歩くのが遅くなっていた。
私が生まれてからずっと付き合って来た彼女の口癖は「はよう歩きたい」と「はよう喋りたい」である。
で、結局「はよう歩く」どころか、動けなくなった。
これは「はよう歩きたい」という努力が報われた結果なのだろうか。
近所で70過ぎのおばあさんが、毎日巨大なイエローラブを一日二回、2時間づつ散歩させている。
「今日も高尾山登ってきましたのよ~」という。
彼女にとって「はよう歩きたい」というアイディアはおくびにも入ってなさそうである。
マイブームは人によって違う。
私はおなかがすぐピーになりやすい。と考える人はすぐピーになる。その人はいかにピーにならないようにするか、ということを無意識に四六時中気にしていたりする。だから「これ食べたら、ひょっとしたらピーになるかも。。。」と思いながら食べると、ピーになる。「ほら!やっぱりピーになった!だから食べなきゃよかった!」と後悔する。しかしたいていそういう人はイヤシかったりする。逆に食欲にとりつかれる。
母はそんな人を見ると、「あはは、ばっかねえ。なんでそんなもん食べてピーになるのよ。わたしなんかちっともならないのに」という。そのピーにすぐなる人は、母の2歳上の姉、わたしのおばさんである。
うちの母は、ピーにならない。なぜか。「私の内蔵はすごい」と自負しているからである。だからちょっと壊れたって「ほっときゃ治るわよ」と思っているので勝手に治っている。しかしおばさんはピーがマイブームなので「なったらどーしよー、なったらどーしよー」とつねに考えているから、それはそのようになるのではないか?
母は身体はそのうち治ると信じてそれについて気をもまないので、身体は自然に治癒に向かう。しかしおばさんはつねにそのことに気をもむので、身体が自然に治そうとすることを逆に妨げているのではないだろうか。
だとすると、はよう歩けないという思いが、自然に身体が二足歩行することを妨げているのではないのか。
母は、いつも足に向かって
「ほら、ちゃんと歩きなさい。歩けるかね。どうぞね。右足。はい左足、ほれ、右足。よし。よくできた。ほら今度は左足。。」といっているそうだ。
この世のどこに、病気でもない人が自分が歩くことを右左右左と言いながら歩く人がおる?
人はいちいち心で指示しながら動くもんだろうか。いや逆に指示しないから、自然に歩けるのだ。
先日、この世はすべてが秩序でできていて、人間の心だけが無秩序なんじゃないか?と思ったが、まさにそーゆーことじゃないだろうか。自然に流れていくもろもろのことを、心がストップかけたり邪魔をしている。それはこうあらねばならないこうあるべき、という理想の姿をつねに思い描いているからではないだろうか。私たちは理想と現実の狭間でつねに葛藤を生み出しつづけているのだ。これに使われるエネルギーはとてつもなく大きい。
母がいつも自分の足に向かってハッパをかけているエネルギー(これじゃあいかんという葛藤と、なんとかしようとする努力)は、彼女のもっているエネルギーのほとんどをそこで消費している。だが使えば使う程、身体はますます動かなくなる。
それをやる意味が本当にある?
彼女は多分、パワフルな人だと思う。パワフルだからこそ、そこまで「歩けない」という思いの中に没頭できたのだ。そのエネルギーをそこに使うのをやめたら、きっといい絵を描き始めるんじゃないかと思っている。
私たちの人生を不自由にしているのは、実は私たち自身ではないだろうか。
絵:COOPけんぽ表紙イラスト「ぶんぶくちゃがま」
自然のまま生きて、自然のまま死ぬ。こんな、極めて簡単なことが、人間世界では、難しいんですよね。実際許されもしていないでしょ?
返信削除恐らく。自分で、収穫・狩猟の役に立たない方は昔なら、生きていけなかったんじゃないでしょうかね。
このような悩みも、豊かになったからでしょうね。
お大事に・・・。