2010年8月29日日曜日
こわくね?
風邪薬、シャンプーリンス、石けん、除菌、歯磨き粉、化粧水、ニキビのクスリ、UVカット、胃薬、頭痛薬、生理痛、医療保険、自動車保険、生命保険。。。
久しぶりにテレビをつけると、こんな種類のコマーシャルで満たされているのが分る。たいてい、菌の絵を見せられ、こんなにたまった汚いもの、コレで一気に除菌しましょ、とか、痛いのとりましょ、とか、もしもの時のために、という言葉が飛び交う。
なんだかこわくねえか?テレビつけただけでその種類のコマーシャルのオンパレードなのだ。単におもろい漫才見たいだけなのに、その合間合間に「こうなったらど〜します〜?そうならないためにこうしましょ〜」と脅され続けているのだ。クスリも保険も石けんも表向きは「親切」で行われている。しかしその裏は、常に人を不安にさせておいて、何か行動しなきゃいけないと思い込ませる。60や70のおばちゃんまで「シミが出来たらいけないから、UVカットしましょ」と顔や腕に塗りたくる。心はいつもあれしなきゃ、これしなきゃという強迫観念のなかにいる。その価値観は全く知らない間に頭に入り込んで、人々の心を操っているのだ。
私たちは今まったくの2元論の中に暮らしている。
コレはいい事、コレは悪い事、コレは正しい事、コレは正しくない事、得な事、損な事、やってもいいこと、やってはいけないこと。。。
菌はとらなきゃいけないし、UVカットはしなきゃいけない。保険に入らなきゃいけないし、ビタミン剤は飲まなきゃいけない。
人はあまりポジティブな事に心は集中しない。どっちかっちゅーと、ネガティブな事に心は集中する。
その思いは人にも向けられる。「アライヤだ、あの人あんなことへーきでしている」とケーベツする。
一人ジャッジ状態なのだ。自分の中に検事がいて、「あれは悪い事」「コレはイケナイこと」といちいち反応してこの世を見ているのだ。それはコマーシャルや健康番組やニュースを基準にしてモノを考えさせられていたりしないだろうか。
それは自分にも向けられる。「わたしったら、こんなことして。。。」「ああ、いやだ、だらしない」「こんなはずではない。私の人生はこんなはずではなかったのだ!」などなど。
単に頭の中でかんがえているだけのことだ。とるにたらない独り言だ。勝手に言わせておけ。
しかしコレが人の人生に重要な意味を持つ。こういう言葉は常に頭の中で言い続けているものだ。
そのジャッジが他人に向けられる事が多い人。
「あいつめ、あんなこといいやがって」
「おれにその態度はねえだろ」
「いやあねえ、あのおばさんったら、みっともない」
「おうおう、だから政治家は汚いんだよ」
そのジャッジが自分に向けられる人。
「げげ〜、わたしってだらしね〜」
「イヤだ、シミが増えている!だめだめ、UVカットしかったからだわ!」
「鼻水が出る。。。ひょっとしてガンじゃないかしら!?」
そうやって四六時中あれやコレやと心が自分や他人の世話をやいている。その根本的なところにどっかりと存在しているのは恐怖だ。自分でなんとかしなきゃ、とんでもないことになったら。。。ダンナを監視していないと、とんでもない事仕出かすかもしれない。。。と。
恐怖は今そこにはない。ただ未来の事を心配して恐怖しているだけなのだ。今そこに恐怖するものはないのに、いちいちそれを思い出しては恐怖を再現する。心はいつもゆさゆさと恐怖と不安の中で揺れている。こんな状態がずっとつづいていて、人は健康でいられるだろうか。幸せでいられるだろうか。
その状態とは、あるがままの状態ではなく、あるべき姿を思い描いている状態なのだ。つまり今のこの状態をそのまま受け取る事が出来ないのだ。あああってほしい、こうあってほしいと願うばかり。だがその価値観はたいていどこからかもらって来たものだ。テレビもコマーシャルもそういう価値観をあおっている。恐怖しろ、不安になれと。
きれいな肌の女優さんを見せられて「こんなふうになりましょう」と畳み掛ける。しかしその化粧水を塗ったらそうなるなんて保証はどこにもない。きれいな髪の女優さんを見てこのシャンプーを使ったらこうなります、という。しかしシャンプーなくてもきれいでいられる。歯磨き粉使わない方が健康でいられる。
人々は恐れている。ニンゲンはもろいものだと信じている。菌はマスクでおおって遮断しなきゃいけないと思っている。しかしニンゲンってそんなにやわじゃない。現になにもしない方が健康でいられる。身体は大自然そのものなのだ。石けんなし生活でそれを直に肌で感じている私がいる。
しかしもっと大事な事がある。私たちは、本当に心の習慣がいかに人々を病気にし、不幸にさせているのか、気がつく必要があるように思えてならない。
作られた価値観が私をおびえさせる。ほんの些細な事でさえも自分自身をジャッジする。目に飛び込んでくるものに、無意識にいい悪いと判断を下し、あるがままでいられないのだ。今私がやっている事は、意識的にいちいちを判断しないようにしている。判断がはじまった瞬間にそれをやめる。いい事だとか、悪い事だとか、正しいとか、間違っているとか。だらしないとか、きたないとか。悪い事していると思うから、心が乱れるのだ。ただそのままの状況を見るだけ。
そのとき、何となく、心が静かな自分に気がつくのだ。
絵:メディアファクトリー新書:おもしろかったよ〜
2010年8月28日土曜日
海と台風
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」はおもしろいんだか、おもしろくないんだか、だんだん分らなくなって来たが、主題歌(?)の中で胸にキュ~んと来るシーンがある。それは最後の方の、海のシーンだ。カメラが白く泡立った海の上をなぞっていく。そのとき私の心はぞぞ~っとする。これだ。これなんだ。私がずっと見続けていた海のイメージ。岩にぶつかる波、荒れ狂う波。アレが私の海のイメージ。間に福山龍馬が走っている間抜けなシーンがあるが、それは見ない事にして、海をなめるようにカメラが飛んでいくシーンが好きダーーー!アレを見るだけのために毎週見ている気がする。。。
小学生のとき、図画工作の時間で、岩に砕ける白い波の絵を描いた。我ながらすごい絵を描いたとほくそ笑んだ。するとせんせーが横にやって来て、
「そんなもの描くんじゃない」
と言った。そしてせんセーは、友だちが描いた絵を高々と持ち上げてこう言った。
「この絵を見なさい。とてもすばらしいです。こうやって良く見て丁寧に描きなさい」
その絵は、ビッチリと瓦屋根が描かれていた。ビッチリ詰まった家々の瓦の一枚一枚をていねいに描き込んだ空間恐怖症の人が描いたような絵だった。
アレで、せんセーに対する私の態度が決まったようなもんだ。教育とは恐ろしいもんだ。たった一言で人が人生に対する考え方が決まっていく。
自然にやさしくとか地球にやさしくというのは、自然の驚異を身近に感じた人は言うだろうか。自然はなにをされようと、全く自分たちのペースで、自分たちの調和を保つために、淡々と時には大胆に変化をする。
私は幼い頃目の前海、後ろ即山!という環境に住んでいた。台風は毎年影響を与える。静かだった波が突然変化する。ずっと沖の方にあった波打ち際が、あっという間に国道のすぐわきの堤防の下までやって来る。轟音と殴りつけるような雨風、山のざわめき、家の中の雨漏り、どこからやって来るか分らない地響き。停電で真っ暗な家の中、家族で身を寄せあって自然の猛威が過ぎ去るのを待つあの時間。「どかんどかん!」何かが飛んで来てそこら中にあたる音。得体の知れない怪物が台風の中を暴れ回っているように思える。死がすぐそこにあるという恐怖感に満たされる。ニンゲンは大自然を前にして何も出来ない小さな生き物でしかない。そして突然やって来る静けさ。外に出ると月が出ている。さっきまでの轟音はどこかに消えている。台風の目だ。あの脅威の中心はなんとも言えない静けさがあるのだ。そしてまたやって来る風。轟音は一晩中鳴り続け、そしてまぶしい朝がやって来る。
家のまわりはきのうと全く違った風景で満たされている。バラバラになった小屋、倒れた木や大きな枝が足の踏み場もないほどにあふれている。浜に出れば、巨大な流木でいっぱいだ。
室戸岬のとんがった先には、ときどき鬼火が見えるといわれていた。台風でなくなった人々の哀しみや怒りが鬼火になって現れるという。
あの「龍馬伝」の海のシーンは、そんな私の海の思いを触発する。とてつもない大自然の猛威、脅威、畏怖の念、抑えきれないなにが胸の奥から溢れ出してくるのだ。
今年は台風が少ない。そしてこの暑さ!何かがこの地球で起こっているんだろうか。考えたら、ニンゲンにちょうどいい気候なんて地球さんは考えてくれるのだろうか。ニンゲンが勝手に「ニンゲンにとっていい気候の地球という天体」と思い込んでいるだけだ。もっと暑くなってもおかしくないし、もっと寒さが増してもおかしくない。地球さんがうっとおしいニンゲン種族を滅ぼすのなんか、お茶の子さいさいなのだ。
そういう意味では、今んところ文句を言いつつも、とりあえずまだ生きていける温度であってくれている事に感謝する。
絵:「メディアファクトリー新書」またあらたなシリーズ発売中です!
2010年8月22日日曜日
ここら辺は豊かでいいねえ
くるりさんも言ってくれた、「てきとーにやりましょう」
そうそう、てきとーに、てきとーに。
きのう畑に入って何か様子が違うのに気がつく。あ、またイノちゃんが入ってくれちゃった。トウモロコシはすべてみごとに食いつくし、自家採取のノラボウ(交配したやつ)の畝は、新たに耕してくれ(いらんお世話じゃ)、キュウリの支柱はばったばったとたおされ、ゆいいつたわわに実っていた青いトマトは全部食われていた。
それにしても先日残していったちっこい里芋の苗、残しておいてくれてかすかに期待をしていたのに、それまでも消えている。高かった大野イモ、一口も食えんまま消えていった〜〜〜〜〜〜っ!
それにしてもすごいではないか。畳み掛けるような事実。
幼い苗は次々虫さんに食われ、定植した苗もちっとも大きくならず(ピーマンの苗はいまだに20センチ)、草の勢いは激しく、やっとこさ出来た野菜もイノちゃんやサルちゃんに食い尽くされる。
わしゃ、何食えっちゅうーんじゃ〜〜〜〜っ。草食ったるでえ。
くるりさん、わかってマス。はい。てきとーに、てきとーに。。。心穏やかに。。。。
イノちゃんに入られた事はどこかでなれっこになっている。まずは壊された柵のなおしから、、、と思うのに、身体が動かない。じゃあ、新たに種でも蒔くかあ〜と、畝の上の草刈りをし始めるが、途中で手が止まる。こんな事をやっても、どっちみち虫か、イノちゃんに食われるじゃないか、という思いがよぎって動かなくなる。太陽はとっくに真上にあがって照りつける。
やまんばは、木陰に座って水を飲む。ひとつため息をつく。水を飲んじゃあ、またひとつため息をつく。なんにもしない時間が延々と流れる。田舎の母に思わずケータイで電話をする。
「かーちゃん、畑なんにもとれないよお〜」ぶつくさ愚痴を言う。頭ではこの場所は新たな姿の畑になろうとしているとわかっちゃいるけど、じゃあ、このままほったらかして草ぼうぼうにして、牛糞の肥毒を草さんに抜いてもらっているだけでイイじゃあねえか、と思ってしまうのだ。でも母は言う。
「なにをいゆうが。だからこそ、蒔いて蒔いて、蒔き続けんと畑にならんやろうがね。」たしかにそうだ。このまま草ハヤかしたままにしたら、たんなる「荒れ地」だ。「けんど、蒔いても蒔いてもどーせ全部食べられるがやもん!」
「えいやんか。虫さんやイノさんにもっともっと食べていただきなさい。これどう?おいしいやろ?って」
「え〜〜〜〜」
おとつい、畑からの帰り、地べたに座り込んでいるおじさんがいた。虫かごを持って眺めている。声をかけると、最近日本にいないはずの虫がいるのだと言う。南の方の虫だと言う。私は虫少なくなったでしょ?と聞くと、おじさんは顔をほころばせて
「いんや、ここら辺は豊かでいいねえ。ほら、道にも草が刈られずにある。そうするとだねえ、その草だけに着く虫がいるんだよ。そういうのがここら辺は豊富にいる。きみはその上の畑からやって来たのかい?」うなずくと「いいねえ」といった。ウチの草ぼうぼうの畑を見て嬉しくなったようだ。豊かな虫の世界があると。
「他の畑は虫がいなくて不自然だもんなあ〜」と。生物学者と農家。これは永遠に交わらないのか(笑)。
母は言う。
「あんたのおかげで普通の畑がいかに不自然かわかったがよ。自然農をやると決めたがやろ。はらくくりなさい」
電話を切って、やまんばは壊された柵を直しにいった。
絵:コージーミステリー表紙
2010年8月20日金曜日
みんな同じ葉っぱ
先日、自家採取した種をまいてみた。次々出て来る双葉に眼をほころばせていたのもつかの間、あっという間に双葉は虫さん達のえさに。それでもくじけず、怒濤のごとく蒔きちらす!努力のかいあって、2、3割が本葉を出し始める。
「あれ?へんな葉っぱだなあ。。。」
気がつき始めたのは、水菜のはっぱ。葉っぱのまわりがギザギザはしてはいるが、なんとなくまるっこい。あの水菜のしゅんしゅんしたシャープなカタチではない。。他のが出始めた。ノラボウ。これも似たようなカタチ。。ノラボウもまわりがギザギザしているから、まあ、こんなもんだろう、と思っていたが、よくみると、水菜と同じカタチではないか。いやいや、気を取り直して、今度は壬生菜。これはギザギザしていないはず。。。。「ぎっ。。。。ぎざぎざしているっ!」なんじゃこれは。小松菜、やっぱりぎざぎざ。チンゲンサイも。。。。ギザギザ!
んなわけないだろうーーーーーっ!
というわけで、アブラナ科の植物、すべてが交配しちまったのか、(ノラボウは交配しないと聞いたんだが。。。?)みーんな、おんなじカタチのものが出来ちゃった。ははは~~~~っ。しゅん。。。。
どっとやる気が失せる。やだ。もう。こんなの。やめてやる。
畑を見渡すと、ここんところの雨で、うおりゃあ~~~~っと草の海。気がつけば、胸の高さにまで伸び上がったイネ科の植物。一面麦畑~みたいだ。
乾燥を好むトマトは雑草に遮られ湿度たっぷり。カメムシがわんさか取り憑いて水分を吸い始めた。先日のピーマンと同じ状況に。このままほっておいたら、やがて枯れてしまう。。。地面にへばりついてくもの巣を払いながら、トマトの足下の草刈りをする。支柱がないからそこらの竹でなんとか間に合わせるが、地面がまだ固いので途中でボキッと折れる。やまんばはバランスを崩し、目の前のトマトに倒れ込む。その勢いは、その向こうのオクラの畝にまで及ぶ。やまんばの体重を浴びて、何本か折れる。なんだかなさけなーくなる。。
やだ。もう。こんなの。やめてやる。。。!
ここの畑を昔何年も手伝っていた近所の兄ちゃんに聞く。
「今私がやっている畑、昔、何の肥料入れてた?化学肥料?」
「いんや。化学肥料は金がかかるからそんなものは入れねえ。肥料は、ほれ、その目の前にあるうちが、昔は牛舎があっただろ?あそこからもらってたんでえ」
「え!?ひ、ひょっとして牛糞!?」
「あたぼうよお。でっかい野菜がいっぱいとれてたぜ~」
「そのとき、虫はいなかったの?」
「そーいやあ、昔は今みたいにこんなにたくさん虫はいなかったなあ。なんでだろう。。。?」
「ところで、なんでそんな事聞くんでい」
「い。。いや、。それは、その。あそこの畑の歴史を知りたくってさあ~」
と、ごまかす。
まさか、その肥料が毒になって土のバランスを崩している、とはいえない。しかも、ショックだったのは、化学肥料ならまだ自然界と分裂しているから肥毒が出やすいのだそうだが、いわゆる鶏糞とか牛糞とかの有機肥料は、自然界のものと融合してしまうので、その肥毒が土の中から完全に出てしまうには、相当時間がかかるという事を聞いていたからだ。
実は昔、有機農法をやっている人からじゃがいもをもらったことがある。そのジャガイモは畑から掘出してウチに来た直後から腐り始めていた。白い泡がぶくぶくと出始め、異臭がする。そのままほっておいて次の日、玄関が肥だめの匂いで満たされていた。ジャガイモ達はしゅーしゅーと音をたてながら、見る見るうちに腐っていった。結局もらったジャガイモの半分は、一晩で腐っていったのだ。その肥だめの匂いは、近所のおじさんが畑によくまく、鶏糞と全く同じ匂いだった。
自然農で言われている事は、植物はその土のものをすべて吸収する。土にはいった不自然なものをその根っこで吸い上げ、土を正常にするのだと。まさにそのままじゃないか。おじゃがは、鶏糞のたっぷりはいった土地の中で鶏糞をそのまま吸収し、肥大化していったのだ。恐るべし!肥料の力!そして植物の素直な吸収力!
奇跡のリンゴで有名な木村さんいわく、ホントの野菜は腐らない。
自慢してしまうが、今年ウチの畑でとれた、チョー少ないおジャガは、とりっぱなしの湿った土付きの、しかもビニールに入れっぱなしの悪条件にもかかわらず、ちっとも腐らないのだ。直径1センチのちっこいお芋もゆがくと塩もいらないくらい、ものすごくうまい。同じ条件でもらった方のジャガイモをゆがいてみると、何も味がしなかった。ここまでくると、肥料って一体なんなんだろうと思う。
うっそうと茂る草を見て思う。
「今、その牛糞の毒素をこうやってイネ科の植物が吸い上げて空気中に放出してくれてんだなあ。。」
確かにイネ科の植物が生えたところの畝はふかふかとやわらかい。大豆も片っ端から植えたから、土にチッ素を固定化してくれている。
しかーし!ニンゲンの強欲は果てしないのだ。
「やっぱり、ちょっとは収穫したいわよねえ。。。」である。
変なカタチの本葉の若い苗を恨めしげにながめながら、自分の忍耐力のなさになげくやまんばであった。
皆さん、自然農は忍耐だぜえ~~~~っ!
絵:coopけんぽ表紙「キンモクセイ」
2010年8月19日木曜日
石けんなし生活結果報告その3
石けんなし生活を初めて1、2ヶ月たったころ、とつぜん咳が出始めた。めったに風邪を引かない私が引いた。その風邪はなんだか少し変だった。とにかく咳がすごかった。今考えると花粉症の季節を終えた頃だ。朝も昼も晩も、文字通り一日中咳をする事が半月近くつづいた。ダンナもさすがに心配していたらしい。しかし私はこれは石けんなし生活の結果なのだと何となく感じていた。ずっとたまりたまった毒素が出ているに違いない。
私は皮膚が弱く、小さい時からいろんなクスリを飲んだり塗ったりしてきた。手はいつもあかぎれでひび割れて赤く晴れ上がっていて、いつもクスリのお世話になっていた。夏は湿疹あせもでただれ、化粧水もつけただけで皮膚がただれる。あっちこっちに塗るステロイド軟膏は常備薬だった。20代半ばまで塗っていた。今調べると副作用がすごい医薬品だったようだ。
先日船瀬俊介さんの『くすりは飲んではいけない!?』という本を読んだ。すごい。すごすぎる。それはクスリのあらゆる副作用、そしてクスリとして効果のない現実を徹底的に書いてある。それを読むと、「ああ、そりゃ、毒素もたまってたはずだわい」と納得する。たぶん私の咳はステロイド剤だけでなく、シャンプーや石けんや歯磨きや、ありとあらゆる毒素を出そうとするニンゲンの反射運動と、人体改造計画を自動的に行っていたんではないか?と思うのだ。
そして咳はある日突然、ぴたっと終わった。
その本はいう。
ギリシャの医聖ヒポクラテスがいう。『人は内に100人の名医をもつ』と。その名医とは自然治癒力のことだ。生命は常に正常に戻ろうとする!!野生動物はからだに異変があったとき、じっと動かず何も食べず、ただひたすら寝る。そうやって治していくのだ。今のニンゲンのする事と全く反対じゃねえか。
安保徹教授も船瀬さんも言う、痛いのはからだが治っている最中。だから痛いのはからだが何もするな、動くな、というメッセージを送っているのだと。
それってすごくね?よく考えたら、すごくシンプルで、わかりやすくね?もしも私が身体だったら(変な言い方だな)、その人に動いて欲しくなかったら、「痛い」という信号を出して動かせなくするよ、うん。
ところが私たちは、「痛い」とは、とんでもない事で、なんとかしなきゃと大騒ぎする材料で、お医者さまんとことさ、そそくさと出向いていって、治してもらわなきゃ治らないとおもっているのだ。ところがこの本は、緊急の場合をのぞいて病院に近づくなという。寄るな触るな病院とクスリ、なのだ。
痛いとどうにかしなきゃいけないと思うのは、自然の摂理ではない。ニンゲンが勝手にパニクってどうにかしなきゃとおもうだけなのだ。動物はただ寝る。ウチの犬もそうだった。ユタが病院にいきたがったのではない。私たちニンゲンが病院に連れていかなきゃとおもったのだ。そこに私たちが脈々と続けて来た行為がある。痛いとどうにかしなきゃ、と。そこから混沌への道のりがはじまる。今の医療は食べなきゃいけないといい、痛みは取らんといかんと言う。そしてクスリと言う名の毒を盛られる。最初は症状が軽くなる。対処療法なのだ、痛さを単にとるだけ。そんなの根本治療ではないに決まっている。クスリが切れるとまた痛みが戻る。そしてまたクスリ。ところがニンゲンのからだはそれに対抗をし始める。やがてそのクスリは効かなくなる。するとお医者さまはもっと効く毒をくれる。だが、肝心の病気の治療にはなっていない。ひたすら表に現れてくる不快なモノだけを取り除くと言うモグラたたきのような治療方法。。。
こういう風にニンゲンのからだの中には、自然ではないものがたまっているのかもしれない。もちろん人によってそのだし方は違うはずだ。私は咳という症状だったのかもしれない。
今は皮膚もただれないし、あかぎれも全くない。うっすらと油分を保ってくれている顔にも化粧水をつける必要もない。かさかさお手手にもならないから、冬も手にクリームを塗る必要もない。皮膚は内蔵と直結していると聞く。皮膚を健康にする事が内蔵まできれいにする事なのかもしれない。快便なのはそのせいか?
石けんなし生活を初めて、自分のからだがいかに精巧にできているかを身をもって感じているやまんばであった。
絵:似顔絵
2010年8月16日月曜日
石けんなし生活結果報告その2
さて問題のシャンプー。
歯磨き粉をやめて石けんをやめ、一週間後3月15日にシャンプーなしをはじめた。2、3日はなんともなかったが、その後からじょじょに油でじっとりした髪に。しかしフケもかゆみもなかった。けっこうロングヘアーだった私は、このべとべと感がきつかった。おまけにブラシに変なものがこびりつく。
その頃、偶然にも1年間近くシャンプーを使っていないと、近所の男性に教えられた。
「あれは半年でさらさらになるよ」
と、ありがたいアドバイスをいただく。
頭の中で「半年の辛抱、半年の辛抱。。。」
と呪文のように唱える。すこーしずつだが髪が軽くなって来る。
「この油をなんとかとらなきゃ!」とごしごし頭皮を洗いまくったり、
「いや、頭皮を刺激する事で逆に油が出てくるのかも。。。」
とおもいたち、頭皮をあまりいじらなくなったり。試行錯誤が延々とつづく。おまけにプラスティックのブラシにべっとりとこびりつくなぞの物質。どうもフケのようだ。一週間に一度そのブラシを洗う事に。洗うったって、簡単にはこびりつきはとれない。指でしごいたり、歯ブラシで取り除いたり。そんな苦労はあるが、抜け毛はがくっと減るし、心なしか髪の毛がコンブトになりはじめる。相変わらずかゆみもないし、フケも落ちていない。
たぶんこうゆうことなんではなかろうか。40数年間シャンプー使われつづけて頭皮さんが「油出さなきゃ!」とせっせせっせと出し続けていた。しかし突然シャンプーなしになってもまだ頭皮さんは気がつかない。「油出さなきゃ、油出さなきゃ」とがんばっている。
余談だが、3、4ヶ月に一度床屋さんにいくとき髪切る人にベトベトさせて悪いなあと、シャンプーを洗面器に薄めて洗ってみる。その油の落とし力といったらすごい。あっという間に油分がとれる。それを見ると、こんな強烈なものを私は何十年間も使っていたのかと恐ろしくなるのだ。
それだけシャンプーの威力はすごい。からだはその威力を知ってそれに会わせた動きをしている。だから頭皮の油出現量がなかなかへらないのだと思うのだ。
ここはほれ、頭皮さんが気がつくまで待ってあげないといけない。
「あ?あの強烈なやつがいない。あれ?あたし、油出さなくていーんだ」
と気がつくまで。たぶんその時間が半年ぐらいなんではないだろうか。(鈍感な頭皮さんもいるかもしれんが)
もひとつ言えば、アテクシ(私の事)は髪を切るごとにべとべと感が減っていった気がする。長かった髪もセミロングになり、ボブになり、ついにショートカットになった。髪を切るごとにべとべと感が消えていく。しっとりと脂ののった落ち着いた髪になる。乾くのも早い。ロングでシャンプーなしを挑戦している方、一度バッサリ切ってみるのも手だと思う。
髪は記憶する。
髪の中にコンピューターが埋蔵されている(ほんまかいな)から、その記憶はなかなか消される事はない。(だって考える事をする脳みその上からにょきにょき出てくるんだぜえ)長い髪の先の方はまだシャンプーした頃の記憶が残っているはずだ。だから油も出ようとする。しかし頭に近い方の髪はシャンプーなしで行こうとする意識が入っている。
昔、悩み事が一杯で朝起きても延々と悩んでいた時、ばっさり髪を切ったら、その翌朝、全く悩んでいない自分を発見した事がある。失恋したら髪切るのも相手を忘れるとかそういう事が無意識にインプットされているからかも。
髪とは恐ろしーもんだ。その人の考えや習慣や体質が入り込んでいる。ほれ、お化けも長い髪だとなんとなくこわいじゃろ?あれは恨みつらみを髪の毛にためこんでいるからかもしれん。
だからわしゃ、人の毛のカツラは好かんのじゃ。エクステンションとか言うつけ毛も。別の人の意識が入って来るかもしれん。
ともあれ、今は暑いので毎日洗う。シャワー出しながらせいぜい1分。わしゃわしゃと洗って、はいおしまい。ちょっと洗いすぎてぱさぱさに乾き気味な髪の毛だけど。
ブラシにこびりついたフケのような黒いものはずいぶんへった。まだあることはある。しかしあまりブラシを洗う必要もなくなっている。
さて、以上が石けんなし生活の部分的結果報告。あとは少しからだの変化について付け加えておこうと思います〜。
絵:似顔絵
2010年8月15日日曜日
石けんなし生活結果報告その1
「野人エッセイす」の野人さんの理論に感銘を受けて、勝手に石けんなし生活を開始してから1年と5ヶ月。
人体実験結果、石けんなくってもなんにも支障がない。どころか、すこぶるかいちょー。細かい事はよく覚えていないが、大まかな変化をたどってみる。
去年3月初旬、歯磨き粉を使わなくなること開始。ブラシにお水をつけてごしごし洗う。立体的な歯の側面にそわせてやさしくごしごし。寝る前に一回磨くだけ。あとはご飯食べようが、お菓子食べようが、無視。
歯磨き粉つけていた頃は、よく疲れると歯ぐきがはれた。虫歯もあった。時々血も出た。そして歯磨き粉をやめた途端、歯痛もなく、歯茎も腫れた事もなく、虫歯にもなった様子もない。そしてなにより、喉の痛みがなくなった。
つまりこーゆー事かい。のどの粘膜が唾液によって保護されているということになるのかもしれない。そーいえば、使わなくなってから、よく唾液が出る。気功の先生が「唾液は液体の宝石」とか呼んでいた。なによりも大事なモノと。ウイルスが入って来る場所は口と鼻。そこからのどを通って身体に侵入して来る。そのかなめののどがひ弱だと、ウイルスはそのまま、あらよっと身体まで素通りする。ここで唾液がその侵入を阻む!歯磨き粉は薬だ。劇薬のフッ素も入っているし。その薬によって唾液の威力が消され、粘膜がただれていたとしたら、ウイルスに勝てるわけもない。虫歯予防~といって、ウイルス侵入させる?
歯磨き粉といっしょに身体洗う石けんもやめる。タオルも使わない。シャワーあびながら、両の手で、さ~らさら、さ~らさらさすって、はいおしまい。手が届かない背中の上の方は時々タオルでこする。あそこは、さすがにしばらくは石けんを使っていた。しかし、時々かゆくなるのは石けんのせいか?とおもいたち、やめる。するとかゆみもむれもなくなったではないか。
石けん使わなくなって、洗濯石けんもやめてみた。ところが洗濯物のTシャツが、お乳のところが2点黒ずんでいる。どうもお乳のさきっちょからブンピブツが出ていた模様。なもんで、ふたたび石けん粉を使い始め、汚れを落としていた。しかし2ヶ月くらいでお乳のところのヨゴレも消えていった。たぶんそれまで石けんを使うことによって落とされていた油が、石けん使わなくなった事で油を出さなくていいんだと言う事に気がついたのか?
今は米ぬか石けんをお湯でうすめてとき、洗濯機に入れて洗っている。しかしこれも元は苛性ソーダという劇薬だ。迷いつつ、使ったりお水だけで洗ったりとモノによって変えている状態。劇薬ながすと地球に影響するなんていわれてしまうが、わたしゃ、「地球にやさしく」なんておこがましー事を考えられるほどエラくないので、この実験は自分のためなのだ。
さて、におい。これがよー、におわなくなるんだなー。今のような暑い時期は、みょーに甘ったる〜い匂いが少しするが、これがたまらんいい匂い。(私の鼻がイカレただけかもしれんが)おまけに皮膚の上にある微生物ちゃんかなんかの働きか、夏でもさらさらしたすべすべお肌に!前はべとべとべった~りといや~な感触が肌全体にあった。しっしんやあせもも出来ていた。なのに石けんやめたらなんともならない。ダンナにいたっては、足もわきがもにおわなくなったのだ!わきからシミ出ていたみょ〜なブンピブツも石けんをやめてからでなくなったんだそうな。だからにおわない。仕事で表に出て散々ムレタ足でかえって来るが、臭くない。
理屈で考えたらおかしーではないか。石けんで菌を殺し、臭いも消えるはず。。しかし現実は逆だった。石けん使っていた方が体臭がする。ま、早い話が石けんの香料はその匂いのごまかしなのだろうな。
私の足のかかとのごわごわした皮膚も消えて今はすべすべ。これはたぶん、シャンプーやめたからではないかとおもっている。男性の悩みの水虫もこれらのものをやめると消えていくんではないかと思っているが。
ちなみにお風呂で石けん類を使わなくなってお風呂にカビが出なくなった。壁一面張り付いていたカビ。どっかにいってしまった。
さて、問題のシャンプー。この話はあとのおたのしみ。
絵:似顔絵
2010年8月13日金曜日
心ってなに?
小さい時から教育されることは、この世をどうやって渡っていくかである。この世でおまんまを食べるための方法論を教わるのだ。誰よりも成功しろと教わり、人の上にのし上がれと教わり、弱肉強食の中でサバイバルしろと教わり、一方で人にやさしくしなさい、などと矛盾する事を教える。
そういう教育はされて来たが、そのすべてを動かしている心というものがどういったものであるかを、私たちは一切教わって来ていない。せいぜい道徳の授業くらいなものだ。あとは母親や父親がしつけと称して教える事もあるだろうが、それも恐怖という心理作戦の上に乗っけられ、コントロールされた、おままごとみたいなやり方だ。
しかし心はとてつもない影響を及ぼす。この不思議なものを理解しないでいるからこの世は混乱し、矛盾に満ちた状態なのだ。物質的なことではどう生きるかを散々教わった。しかし心という生き物がなんなのかは私たちは何も知らない。最初っからくっついているものだから、あえて教えるというものではないのか。一個も教わっていない心という生き物は、全くうまく使いこなされていないから、私たちの心の教育レベルは1、2才の子供だ。「あ~っ、これなーんだ!?」と興味のあるものに突進して好きなようにこねくり回して壊して暴れている次元なのだ。大人も子供もない。老人も心の中は1、2才の子供だ。怒ったり恨んだり大騒ぎしたり動揺したり心配したり怖がったり。
昔の日本人はそれが分っていたようだ。「見を弱く、観を強く」など、今の人にはいえない言葉だ。目の前に見えるものに心を振り回されるな、その奥の真実を見ろという戒め。真実は心静かにしていないと観えない。今の人は心が暴れ回るに任せている。物質的に眼に見えるものばかりに心が奪われているからだ。
友だちが怒っていた。
「あ、うんの呼吸っていうよね。あれって、お互い分ったつもりでいるけど、ホントはなんにも分っちゃいない。あれはそんな気になっているだけ!」
仕事仲間がお互いにあれはあれよね、というと、そうそう、アレはアレよね。と、分り合ったつもりがじっさいそのつもりで動いてみたら全然違っていて、その「アレ」を理解してもらうためにすべて一から説明しなきゃなんないことがあったという。
先日『剣岳 点の記』という映画を見た。測量官と山の民が二人、山の上でじっとだまっている。交わす言葉はほんの一言二言。二人の間に濃厚な時間がひろがる。山と人とが一体になって、どれが人でどれが山なのか分らなくなる。その美しい風景に私は圧倒された。
阿吽の呼吸という言葉が通用したのは、そんな時代までだったかもしれない。今の言葉はせいぜい「空気読まない」だ。
今は言葉が先行している。言葉に完全に頼っている。マニュアル主義。アメリカは言葉で覆い尽くす。人はひたすら話し続ける。自分がどういうニンゲンかを知ってもらうために、もの凄い量の言葉でうめつくす。それは阿吽が通じないからだ。世界中の文化や言葉や宗教が入り交じる混沌とした文化。その中で唯一仮の道具として使われている道具が英語と言う言葉であるだけなのだ。だから人はやみくもに言葉を発する。怒濤のごとくしゃべりまくる。まるで喋っていないと自分の存在を消されてしまうんではないかという強迫観念のように。
今日本はそんな状況にある。日本が恋しくなってかえって来たのに、阿吽の呼吸はどっかにいってしまった。アメリカ人のように自分を主張する。いや、彼らのように言葉にできない分だけ(空気読まないと思われるから)心の中はもっとすごい。
それが押し入れいっぱいになって、ある日突然キレる。昨今ワケの分らない事件が起こるがこれもその心のなせるわざなんじゃなかろうか。一線を超えるも越えないも、たいして違わない。超えないからニンゲンが出来ている、わけではないのだ。
まずはその暴れまくっている心の動きを自分で知っている事だ。暴れまくっている心を否定することではない。ただ淡々と「あ、私今心が乱れている」とか「あ、今怖がっているんだなあ」と気がついていることだ。決してそれを止めようとしてはいけない。なぜなら止めれば止めるほどその抑圧に逆効果を及ぼして、なおさら暴れる事になる。心とはそういうものだ。押し入れに突っ込んでも、袋だたきにしても、見ないフリしても、逃げても、そこにいる。その自分を批判したりなげいたりすることなく、その心をそのまま見る。怒っている自分、恨んでいる自分、嘆いている自分、苦しんでいる自分、怖がっている自分、その自分を否定する事なく、その感情に気がついて観察する。怒りの対象になっている人物や物事を思い起こさず、ただジッと自分の感情だけを見つめ観察していると、怒りはふっと静かになる。その時、すでに心は静けさを持っているのだ。その時自我が消滅する。自分と他人という境目が消えていく。すべてに境がなくなって「問題」がどうでもいい事に成る瞬間がある。きっとそのとき人は全的になっているのだ。それが阿吽の呼吸につながっているのではないだろうか。すべてに気がついている。山も木も草も「私」も。
心がすべてを握っている気がする。ここにニンゲンの無限の力が、すぐ紙一重のところでかくれているような気がしてならないのだ。
絵:コージーミステリー(めずらしく水彩)
2010年8月10日火曜日
あったらいいかも〜?
石けんなし生活を初めて1年と5ヶ月。人の身体に石けんというもんは必要ないという事が分った。畑に肥料も農薬も入れないで育てても野菜は育つという前提で今実験をしている。畑は身体と違って時間の流れが遅い。だからなかなかその答えが見えて来ないが、なぜか心の奥には確信のようなものがある。
石けんも、肥料も、ニンゲンが勝手に「あったらいいかも〜」といって付け加えたものだ。
石けんできれいになったつもりでいたら、皮膚がバランスを崩し、それを補うためにクリームや化粧水がいる。しかしそれも不自然なものだから皮膚がかぶれる。
肥料をやって大きな野菜が育ったはいいが、土地に不自然なものが入って、虫が湧く。それを補うために、農薬がいる。
ニンゲンの「あったらいいかも〜」が、よけいな仕事を生む。
このあったらいいかも〜は、心が作り出す。あったらいいかも〜は、欲なんだけど、元は恐怖から出た発想だ。
「もしこうなったらどうしよう」
「ああ、虫にくわれた。これからもっとひどいことになったらどうしよう」
心はどんどん恐怖を生産してくれる。さっきまでこれがテーマだったのに、次の瞬間あっちのテーマに飛ぶ。そうやって心は四六時中動き回っている。その支離滅裂な動きをする心を人はあまり意識していない。そうなるのが当たり前だと思っているからだ。しかし昔の人はその事を知っていた。心を静める事がいかに大事かを。だから瞑想という方法論もできたのだ。
今の時代は、その心の動きを野放図にされている。メディアは次々に心配事をあおる。殺傷事件、インフルエンザ、保険、年金問題、政治家の不祥事。未来を心配しろと訴えて来る。
「あなたはそれでいいんですか?」
「地球にやさしくしてますか?」
「あなたのためだから」
「私の年収低すぎ!?」
最近のコマーシャルのコピーにはぞっとさせられる。一体どんな無神経なアートディレクターが、そのコピーにオッケーを出すのだろう。
そんな種類の言葉は直接的にわたしたちの良心や恐怖心に入り込んで来る。そのコピーは静かに心に作用し、これでいいんだろうか私、地球にやさしくない、このままでいいんだろうかと、絶えず今ある状態がダメなんじゃないかと思わされている。「このままでいてはいけないのよ、あなた」とおどされているのだ。そして人はその言葉に知らず知らず誘導されていくのだ。
「あったらいいかも〜」は、そういう恐怖の上に乗っかっている。保証のようなもんだ。そうやってアレもこれも恐怖心から逃れるために付け加えていくのだ。。。
石けんもいらないし、肥料も農薬もいらない生活が、ニンゲンになにかを言おうとしているような気がする。始まりは心なのだ。自分の心の動きを見る事、知る事がまずは必要な気がするのだ。政治を疑ったってよくなりゃしない。近所のおばチャンを恨んだってよくなりゃしない。イノシシを怒ったってよくなりゃしないのだ。
まずは自分の頭の中が常になにかをブームにして考えていないかを探ってみるのはいいかもしれない。するとたいてい似たようなパターンの考えがぐるぐる回っている。その人特有の心の渦がそこにあるのだ。
絵:似顔絵
2010年8月8日日曜日
ヤバい町。
私がイラストを担当したお茶(マテ茶、ルイボス茶、越前茶)を持って、日頃からお世話になっている近所の人たちのところに持っていった。こんな事昔の私なら出来なかった。恥ずかしくってかっこ悪くってできるかよ〜、みたいな感じで。でもおばばはもう気にしないのだ。うれしいことはうれしいと表現してしまうのだ。
いつもおいしいコーヒーを飲ませてくれる珈琲屋さんに持っていく。お返しにとコーヒー豆とお菓子をもらっちゃった。その足でお豆腐屋さんに寄る。お豆腐を買いながら、話の種にとお茶を置いていく。帰り道、いつも畑の野菜をくれる町内会のおじさんに出会う。これまた話の種にとお茶を渡す。すると、そのまま家までつんでいってくれやというので、家までつんでかえると、カボチャ持ってけやという。その日とれたカボチャを6個もくれた。
家に帰って豆腐の袋をあけると、買っていないものまで入っている。お豆腐屋さんの黙って何かを入れてくれる、あの粋なところがたまらない。
結局、日頃のお礼のつもりで持っていったお茶なのに、そのお返しの方がはるかに大きいという結果になってしまった。家に帰ってみるとお茶がいろんなものに化けていた。わしゃワラシベ長者か。
なんだか心があったかい。みんなの顔が次々に浮かんでたまらなくなる。ヤバい。なきそーになる。
今日は町内会の夏祭り。午前中は若宮八幡さまのご神事。そのあと昼まっから近所のオヤジどもとのんべして、午後は子供神輿がねりあるく。夜は夜店が出て、やまんばは盆踊りを踊るのだ。
一体ここはどこだ?いつの時代の日本なのだ?
ヤバいぜ、裏高尾町。
絵:コージーミステリー表紙(めずらしく水彩)
2010年8月6日金曜日
大野イモ食われる
一瞬、眼を疑った。ない。そこにあるはずのものが、ない。(生理じゃないぜ)
やっぱり来たかー。そーきたかー。
「ここらの畑のイモはぜーんぶやられてるぞ。だもんだから、おれんところは電流よ」と、近所の畑のおじさんが自慢してくれた。見ると畑の一角だけが電流線でウヤウヤシく囲われていた。
んで、ついにうちもやられちまったわけだ。ウチだけなぜかいつまでたってもやられないので、草にかくれて見えないかな?とどこかで鷹をククッっていた。あまかったー。見事に食われた。40本の里芋、ちっこいのんを2個だけ残して。ついでにトウモロコシも7割、スイカにいたっては100%!
フェンスの金網が無理矢理こじあけられている。ここから入ったとすれば、どこから出たのだ?あった。南東の角のフェンスがもの凄い力で押されてひん曲がっていた。入ったところはやわな金網。出たところはと相当分厚い鉄のフェンスだった。すごい力だ。イモ食ってがぜん力が湧いたのか?
里芋は大野イモといって結構高級なお芋さんだった。
「これ、高かったんだぜえ〜。さぞかしうまかっただろうなあ」
散らばったイモの葉を集めながらつぶやく。なんだろう。心は動揺していない。むしろどこかがはしゃいでいる自分がいる。これは気が狂ったのか?あきらめの境地か?それとも開き直って自分をあざ笑っているのか?
実は前の晩、一瞬このシーンを見た。夜、頭に畑に散らばっている里芋の葉を見たのだ。動揺した。まさか。いや。そんなはずはない。気のせいだ。ないない。心で動揺を静めようとしていた。そして次の日畑でそれを確認する。じっさいはもっとすごかった(笑)。
やっぱりそれだったか。どこかで覚悟していたからあまり動揺していないのかもしれない。
ピーマンの枝という枝にカメムシがビッチリと食らいついていた。どうやらピーマンの水分を吸っているらしい。あれよあれよという間にピーマンの苗がひからびていく。その虫はナスにもつき始めていた。私はしかたなく、ピーマンの苗を全部根元から切ってフェンスの向こう側に捨てた。そのときふと、こんな風に拒絶していいのだろうか?という思いが頭をよぎった。自然は不必要なものなどなにもない。すべては必然。そこに虫がいるのは、その土地や植物を浄化してくれている。そういう前提で草も虫も敵にしないのではなかったか。
そう頭では分っていても、じっさい虫がもの凄い量いると、他に移るんではないか、もっとひどくなるのではないかといらぬ心配をし始めるのだ。
ピーマンを切って捨てたのが、おとつい。その夜にイノシシはやって来てイモ、トウモロコシ、スイカを食っていった。あまりにタイムリーではないか。何もその捨てた夜に来なくてもいいではないか。これは何かを言おうとしているのだろうか。自然に不必要なものはない、と。カメムシが食うのはちゃんと意味がある。大事なお仕事をしているのだと。だとしたら、イノちゃんに食われたのは、その代償や仕返しではなく、カメムシをとった私のした事が、畑のバランスをくずしてしまって、イノちゃんが入ったと?
む。。。むずかしい。
この現象をどう解釈すればいいのだ?単なる出来事、偶然の一致ですますのは楽でいいんだけど、その背後にある大きな英知を感じずにはいられない。
それにイモを食われてどこかで「うまかったかい?」とイノちゃんが食べているシーンを思い浮かべてほくそ笑んでいる私がいる。なんでだ?これはまるで、自分でパンを作って人にあげて喜んでいるのとおんなじ感覚だ。
やまんばはついに気が狂ったか。
絵:コージーミステリー表紙(めずらしく水彩)
2010年8月4日水曜日
心配して疲れ果てる
朝起きると、私は自分の頭ん中がもろもろの心配事で溢れているのを感じる。起きたと同時にコンピューターが作動するのだ。ソフトはシンパイゴトレーターバージョン10。
このままでいいんだろうか。
いっぱい仕事しなきゃ。
老後はどうなる?
親の面倒は?
庭の木の手入れはほったらかしだ。
ああ畑。。。
などなど、あとからあとから怒濤のごとくあふれてくる心配事。人の頭の中をのぞいてみたら、きっと心配事でいっぱいにちがいない。その心配事の根っこは恐怖から来る。ほんとは今そこにはないのに、先に起こるかもしれない事を考え、ああなったらどうしようと心配するのだ。
それは、そうなる前になんとかしなきゃと思うからだ。でもそうなるかどうかは全く分らない。人はどこで死ぬのか、どこでコケるのか、一秒先はまったくわからないのだ。それなのに、その先の事ばかりを心配する。今この瞬間、心地よい風が吹いているかもしれないのにそれを感じる暇がない。
なんかさ、世の中の風潮って、どっかで
「何かをつねに考えている事がえらい人」
みたいなもんが妙にみんなにインプットされてね?
「風?そんなもん感じている暇があったら、なんか考えろ。考えんでどーする!」
みたいな。なんか策を練っていないと、とんでもない事になってしまうと思い込んでいる。だから転ばぬ先の杖、なんて言葉があるのだ。石橋を叩いて叩いて、またまた叩いて、その先に渡るかどうか考えている間に、叩くのと考えるのに疲れて、そこに座り込んでいるのだ。
「考える事」は言葉で成り立っている。言葉は常に過去のものを考える道具なのだ。どこかで知っているものしか知覚できない。
「なんかさー、言葉にならないものってあるよね~」みたいなものがあるのは知っているが、その言葉にならないものが未知の部分。言葉は既知の分野にあたる。知っている事はすべて過去に属する。自分で体験はしていないけど、本で読んだ事があったり、テレビで見たり、人に聞いたり。けれども自分でじっさいに体験する事は人ともテレビとも本とも違う。ところがそれが言葉にされると、ひとくくりになる。「山」といったら、人によって富士山を思い浮かべる人がいるし、エベレスト山を思う人もいる、はたまた山奥に住むやまんばを思い起こす人も。(そりゃ、わしか)言葉はあまりにも暴力的にじゅっぱひとからげにされてしまうのだ。ちょうど多数決の原理のように。
つまりその過去の記憶の道具によって未来を考えているのだ。よく考えたら、そんなもん考えられるわけないじゃないか。それなのに自分の未来を人の経験や自分の過去の経験に照らし合わせて考えているっちゅう、矛盾を抱えているのだ。
行き着くところ、そこには何の答えもないと言う事じゃなかろうか。不安なのだ。不安を解消するために、先に先に考えている。想像できない未来を想像して、答えの出ない答えを求めて、人々は疲れ果てているのだ。
あー、朝から疲れるのー。
このままでいいんだろうか。
いっぱい仕事しなきゃ。
老後はどうなる?
親の面倒は?
庭の木の手入れはほったらかしだ。
ああ畑。。。
などなど、あとからあとから怒濤のごとくあふれてくる心配事。人の頭の中をのぞいてみたら、きっと心配事でいっぱいにちがいない。その心配事の根っこは恐怖から来る。ほんとは今そこにはないのに、先に起こるかもしれない事を考え、ああなったらどうしようと心配するのだ。
それは、そうなる前になんとかしなきゃと思うからだ。でもそうなるかどうかは全く分らない。人はどこで死ぬのか、どこでコケるのか、一秒先はまったくわからないのだ。それなのに、その先の事ばかりを心配する。今この瞬間、心地よい風が吹いているかもしれないのにそれを感じる暇がない。
なんかさ、世の中の風潮って、どっかで
「何かをつねに考えている事がえらい人」
みたいなもんが妙にみんなにインプットされてね?
「風?そんなもん感じている暇があったら、なんか考えろ。考えんでどーする!」
みたいな。なんか策を練っていないと、とんでもない事になってしまうと思い込んでいる。だから転ばぬ先の杖、なんて言葉があるのだ。石橋を叩いて叩いて、またまた叩いて、その先に渡るかどうか考えている間に、叩くのと考えるのに疲れて、そこに座り込んでいるのだ。
「考える事」は言葉で成り立っている。言葉は常に過去のものを考える道具なのだ。どこかで知っているものしか知覚できない。
「なんかさー、言葉にならないものってあるよね~」みたいなものがあるのは知っているが、その言葉にならないものが未知の部分。言葉は既知の分野にあたる。知っている事はすべて過去に属する。自分で体験はしていないけど、本で読んだ事があったり、テレビで見たり、人に聞いたり。けれども自分でじっさいに体験する事は人ともテレビとも本とも違う。ところがそれが言葉にされると、ひとくくりになる。「山」といったら、人によって富士山を思い浮かべる人がいるし、エベレスト山を思う人もいる、はたまた山奥に住むやまんばを思い起こす人も。(そりゃ、わしか)言葉はあまりにも暴力的にじゅっぱひとからげにされてしまうのだ。ちょうど多数決の原理のように。
つまりその過去の記憶の道具によって未来を考えているのだ。よく考えたら、そんなもん考えられるわけないじゃないか。それなのに自分の未来を人の経験や自分の過去の経験に照らし合わせて考えているっちゅう、矛盾を抱えているのだ。
行き着くところ、そこには何の答えもないと言う事じゃなかろうか。不安なのだ。不安を解消するために、先に先に考えている。想像できない未来を想像して、答えの出ない答えを求めて、人々は疲れ果てているのだ。
あー、朝から疲れるのー。