2010年5月15日土曜日

レントゲン14枚





「あたし、ヒバクしたみたい」
母の電話の第一声。

いつもの不安グセが一人暮らしの彼女を襲う。歩けない。うごけない。これは何か病気か、どこかがおかしいに違いない。そう考えた彼女は
「これはもう、徹底的に病院で検査してもらうしかないちや」
そう決めた。これでもう何回目だ?
意を決した彼女は高知で一番でっかい病院にいく。あらゆる検査の後、レントゲンを徹底的にとる。彼女はX線を14回浴びた。その結果。。。
「どこっちゃあ悪いとこないって~」
ああ、かみさま。

歩けない、動けないのに病院に一人で行って、あらゆる検査をし、放射能を14回浴び、家に帰ったとたん、おなかの中で雷が鳴りだした。
「下痢ってねえ~。まにあわんことがるがやねえ~」(つまりなにかい。おもらしってこと?)と、けたけたと笑う。
「まっくろいうんこがいーっぱいでたよー。それってヒバクしたからかなあ?悪いもんが出てくれたがかもしれんねえ」
その夜、おそくまでおなかのなかがうるさかったらしい。ものすごい音がおなかの中で鳴り響き、「うるさくって、寝れんかったがよ」それは午前2時までつづき、その後彼女は寝た。そして翌朝にはもうけろっと治っている。

彼女曰く「普通やったら、救急車呼んでたとおもうよ。」とのこと。
じゃなぜ呼ばなかったかと言うと、別に痛くなかったからだそうな。
これは私が思うに、母は、胃腸に関しては興味の対象にないからだ。彼女の中で「胃腸?丈夫だもん」というぐらいにしか認識していない。だから下痢しようが、おなかがうるさかろうが「胃腸?丈夫だもん」で終わりなのである。

ところがこれが「頭が痛い」という事になると自体は急変する。
「あっ!頭が痛い!」
ほんのちょっとの痛みでもすぐに反応する。動揺した心はどうやったら治るか、必死で探り始める。なぜ痛くなったかと原因を探り始める。さあ、これからたいへんだ。ソファで寝たのがいけなかったのか?外を歩いたからいけなかったのか?寝る前に牛乳飲んで冷えちゃったんだろうか?と、めまぐるしく心が動く。そしてどうやったら治るか悪戦苦闘する。風呂に浸かってみる、ケールを飲んでみる、タマネギジュースを飲んでみる、頭をもんでみる。。。。そうする間に痛みはどんどん増してくる。割れんばかりに痛くなる。

彼女に聞いてみる。
「最初どんな痛みだった?」
「ほんのちょこっと。爪楊枝の先みたいな痛さだった。なのにどんどん痛くなって最後は頭が割れそうになった」
彼女は病院にしょっちゅう行く。いつも決まって言われる言葉は「まったくドコモ異常はありません。そのお年の割に何もかもがきれいなカラダです」血圧も正常、血液さらさら、骨も丈夫、胃腸、もちろん元気。となると、彼女の頭痛は病気ではないようだ。

友だちによくゲリピーする子がいる。気の毒な事に彼は「東京中の駅のトイレはどこにあるか全部頭の中にインプットしてある」そうだ。電車に乗っていて、おなかが鳴りだすと、間に合わない。だから次の駅のトイレは最後尾に近いから電車の後ろの方に行って。。。となる。目下の彼の関心事は「おなか」なのである。だからウチの母のように、ヒバクして(?)、下痢になって夜中おなかが鳴り響いていたら、パニックになるに違いない。
じゃあ例えば彼が電車の中で爪楊枝の先ほどの頭痛がしたとしたらどうなるか?「なんや?ほっぽっとこか」
となるに違いない。つまり彼は頭痛には興味がないのだ。


つまり人はそのひとそれぞれに関心がある事にしか興味がないのだ。それはその人の生まれて来た間に培われて来たバックボーンにことごとく影響されている。
母は、小さい時から「あんたは身体が弱いきねえ、弱いきねえ」と言われ続けて来た。だから「私は身体が弱い」と信じている。ところがそれも部分的にだ。胃腸に関しては丈夫とも思っていない。意識の上にあがっても来ない。たぶん、過去に一度もそれで辛い思いをした事がないのだ。だから彼女にとっては胃腸は存在感がないのだ。かわいそうな胃腸さん。
彼女の75年間の関心事は「頭痛」と「歩く事」だ。
母は「私は歩けない」と信じている。いちいち歩く事を意識している。「右、左、右、左。。」といながら歩く。そんな事を言いながら歩いているやつはいない。そんな事言ってたら、言葉に振り回されてうまく歩けない。たぶん、彼女は急いでいるとき、そんな言葉はいっていないはず。おしっこにいきたくなったとき、電話が鳴ったとき、彼女は意識しないでさささっと歩いているはずだ。
「歩かなきゃイケナイ」とおもって無理矢理散歩に出た時「右、左、1、2、1、2、」と言っている。そしてよたよたとのろのろと歩く。そりゃそーだ。頭の中の言葉にあわせて歩いているからだ。

精神は何かを増幅させる役目をしているのではないだろうか。彼女の頭痛は、最初ツマヨウジの先ほどの痛みだった。そこに意識が集中する。「あ、痛い。。。」するとその意識や言葉をきっかけにあらゆる過去の出来事がよみがえる。あの時はひどい痛みになった、この時はもっとひどい痛さだった、ああっ、もしかしたら私はものすごい病気にかかっているのではないか?その心配に同調するかのように痛みは激しさを増してくる。そしてついにツマヨウジの先ほどのちっこかった頭痛は、全身がお寺の鐘になったように大きな音を立て始める!ガ〜ン、ゴオ〜ン!ガ~ン、ゴオ~ン!!

あるとき私は彼女に、「その痛みが襲ったとき、それに集中するのをやめてみたら?」といった。
しかし痛い事を忘れる事はなかなか難しい。そこで
「その痛みを観察してみたら?」
観察と集中は違う。集中はそれにとらわれる。そしてそれにとりこまれる。しかし観察は一歩出て外からそれを「観る」のだ。
痛みは過去のトラウマをよみがえらせ感情を高ぶらせる。しかし意識してその感情からはなれると、それはそれとしてみる事が出来るのだ。

後日彼女は電話して来た。
「あんたが言ったあの方法やってみたよ。ほいたら、痛みが消えていた」

最初に痛みがやってくる。
「ふんふん、その痛みはそれでどうなるの?」と様子を見る。
すると痛みは
「ほ〜っほっほ、やってきたわよ〜、大きくしてやるわよ〜」
とちょっと大きくなる。すると彼女は、
「それでそこからどの位大きくなるの?」とちょっとぱっぱをかけてみた。
痛みは
「ほれ!このように大きく。。。。アレ?大きくなれない。。」
「だからほんでどうするの?」と母。
「。。。。え〜ん、大きくなれないじゃないの。あんたが私を大きくしてくれるエネルギーをくれないから。。。」
「あ、そんなもんだったのね」
痛みはその場で消えていた。

彼女はレントゲンとってから「なんか元気になったみたい」とのこと。
ヒバクして元気になるんか?けど聞くところによるとラドン温泉のように微量の放射能はカラダにいいとの話もある。ま、ともあれ、医者にもお墨付きをもらい、気分が良くなっただけなのではないかと私はおもっている。

結局、苦しみも哀しみもそこに集中するから増幅するのではないのか?これはカラダという物質にも同じように働きかけるのではないだろうか。
人はそのあるがままの自分の状態を「なんとかしなくてはイケナイ」とおもう事から苦悩がはじまっているように見える。
母の痛みも、歩くのが下手なのも、「こうあるべき」という願望がよりその下手さを強調し、痛みを増幅させているようだ。

善悪。
これがすべてを見えなくさせている。痛みはイケナイこと、とおもっている私たちがいる。だから痛いと「なんとかしなくては!」とおもう。その痛さを取り除かなくては!とおもう。そしてあの方法この方法、あの情報、この情報とフンソウし、より複雑な状態に持っていき、どつぼにはまる。
しかしその痛さは、実はもっとカラダ自身の知恵があって
「そこにじっとしていて、今治すからね」
というカラダからのメッセージなのかもしれない。だから私たちはそれを素直に聞き、
「はい、わかりました。じゃあ、じっとしています」
といって安心して心を精神ををカラダに任す。
それが一番の回復の早道なんではないだろうか。


絵:コージーミステリー/ペーパーバック

4 件のコメント:

  1. まいうぅーぱぱ2010年5月17日 18:50

    うーん。
    自然のままに委ねる意志力があれば、物事楽なんでしょうがね、なかなか煩悩もあれば、欲も出てきて、もっと健康に!とか、もっと楽に!とか思っちゃうのでしょうかね。
    で、お母上大丈夫ですか?

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  2. 安心できたのが、なによりの薬であります。母と子のセリフは、なにやら意味深。住んでいるところは遠く離れていても、外からは計り知れない世界があるようです。

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  3. ぱぱさん、
    母はあいかわらずです。元気です。

    わしらは、「自然のママに委ねる(ちょっとちがうだろ)」ということをあまり教わっていない気がする。
    なんでもかんでも「なんとかしなくてはいけない」と教わって来た気がしないですか?

    「自己責任」という言葉がよりそれを助長しているように見える。わしらがニューヨークから帰って来た時、その言葉がよく使われていました。その前にはあまり言われていなかった気がする。
    だけど自己責任を否定するという事は、誰かにおんぶにだっこしろと言っているわけではない。ただその言葉を聞くと、何でもかんでも自分で決めなくてはいけないという突き放されたようないやな感じが残るのは私だけなんだろうか。

    畑をやっていて思う。川口さんも言っていた。
    「こまったらそのままにしておけ」
    これはとても深い言葉だと思う。野菜の成長も人生の出来事もとてもじゃないが、自分一人で抱え込んだり、決めたり、解決したりできるような事ではない気がする。そこにはなにか人間がおよびもつかない活動が行われているんじゃないだろうか。

    自然のママに委ねることは、放棄ではなくて、勇気のいる事だけれども、そういう方法もありだとおもう。

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  4. リスさんありがとう。

    彼女と住んでいるのは18年間だけなのに、ずーっといつも近くにいます。うっとおしいくらい。母親は存在が大きいですよね。

    セリフが意味深?高知弁だから?(ちがうだろ)

    私が好き勝手彼女にいっても、彼女は彼女なりに一生懸命受け止めて理解してくれようとします。
    まあ、へんなお人です。

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