2009年4月25日土曜日
わしらの畑
前人未到のような場所の開拓からはじまった畑。今やっと畑らしくなった。
農薬は使わない昔ながらの農法。棟梁の音頭のもと、せっせと草むしりに紛争する。ほくほくに耕した土に、シュンキク、小松菜、ジャガイモ、モロヘイヤ、ルッコラ、トウモロコシに、枝豆を直播きする。あたたかくなるにつけ、ちょろちょろと芽が出始める。かわいい。
一方、買ってきた苗は、過保護に育てる。ウラの山から落ち葉が腐った堆肥をとってきて混ぜ込み、石灰で消毒。キュウリ、ナス、ピーマン、カボチャ、栄養満点の土にそっと入れる。上からはたっぷりの水。ナスは寒さにヨワイから、しばらくは上からビニールをかけて、寒さを防ぐ。トマトは花がでるまでは植え替えちゃいけないので、そのまましばらくポット苗に。
じつはそのかたわらで、別の農法に挑戦し始めた。
私がまだニューヨークにいた頃、その頃出来たばかりのブックオフで、ある本を見つける。「自然に還る」。私はこの本に衝撃を受けた。本当の野菜はこのように育たなければいけないにちがいない!
ニューヨークの「これはホントに野菜なのか?」と思うようなスーパーの野菜を見ていたたまれなくなっていた私に、この本は大きな希望をあたえてくれていた。
このじいさま(名を福岡正信といわれる)の書かれた本の内容は、とても私ごときが語れるものではない。「この世はなにもないのだ!」という彼の言葉には、胸を震わしてくれる何かがある。宇宙の真実をつかみ取ったものにしか表せない、何かがにおいたってくるのだ。そのほんのひとかけらでもくみ取ろうと、必死で読んだ。そしていつか彼のようなやり方をやってみたいと。
チャンスは8年後にやってきた。
しかし、問題は棟梁である。彼は自分の農法が一番正しいと思って疑わない。全部を自分流でやりたがっている。私も最初はこのじさま流は、絶対無理だと思ってあきらめていた。しかしどうしても心がうずく。
結局、棟梁をなだめすかして、あほうになって、そして友達の後押しによって、やっと畑の一部を実験場にさせてもらう事が出来た。
耕さない、草とらない、自然にまかせる畑。(じいさまの農法には足元にも及ばないけれど)草とともに生える野菜がこの目で見たみたい。全てがバランスよく共存する世界を....。
ところがこの畑、美しく並んだ、草一つない畑を理想とする棟梁にとっては、屈辱的な畑だ。
「そんなもの、なまくらのすることじゃ〜っ!」と一喝される。言われて当然の事だ。日本の伝統的な農業を真っ向から否定する事になるのだもの。
けれども、ゲージツ家のはしくれとして、やってみたい!と思った事は、納得するまで追求してみたいのだ。やってみたいと思った事は、どーしようもなく、やってしまいたいのだ。たとえ失敗こいても。
今日は雨。
畑には誰もいない。草ぼーぼーの中に、けなげに双葉を出すキュウリ、ズッキーニ、茶豆、トウモロコシを見つける。この若い芽がこれからどんなふうに育っていってくれるのかくれないのか、ジッと観察してみる事にしよう。
雨の中、赤クローバーの種をそこらへんにまき散らしてみた。緑肥になってこの土たちを肥やしてくれるのだと、うちのダンナがリンクをはっている栽培する人、田中敬三さんから聞いた。
気分はほとんど花咲か爺さんか、ミレーの種蒔く人になりきっていた。
絵:coopけんぽ表紙「さつまいもほり」
2009年4月23日木曜日
保険ってなあに?
NHKのクローズアップ現代で、オバマ政権の「保険医療制度の改革」特集をみた。
いやあ、アメリカの保険制度は残酷です。
日本の医療保険制度はナンジャカンジャと文句を言われているけれども、アメリカに一度住んでご覧なさい。どんだけ日本が良心的かわかるから。
日本はまず、世界の低いレベルを見直すべきだな。世界には、低いレベルは山ほどあるぞー。日本より高いレベルのものを世界で見つける方がよっぽどむずかしい。
なのに日本のメディアは、なんでもかんでも日本の悪い所ばかりを強調しようとする傾向がある。
「この国はここん所が優れている。なのに、ああ、我が国日本と来たらなんて遅れているのだ....」うんぬんかんぬん。
もう聞き飽きたのじゃー!なんでそう自虐的なのだ!
日本のマスメディアは、ちゃんと公平に情報を流すべきです。朝から晩まで「遅れをとっている日本。まだ、いたらない日本」と何でもかんでも日本が劣っていると思わせてしまっている。だから国民は日本はすごーく遅れている国、と思い込んでしまった。一体どこまで発展させたいんじゃ。
でも実際は違うのだよ、ワトソンくん。上などもういないのだよ。日本はとっても進んだ国なのだよ。
今回のアメリカの大失業率の話はさておき、私がアメリカにいた次点で(2004年まで)、保険に加入していない人は4割いた。(となると、今現在ではもっと増えている)
保険に入っていないとどうなるかと言うと、
1:糸で縫いあわさなければいけないほどの大怪我をしても、
「あんた、なんの保険に入っているの?」ときかれ、
「何も入っていない」と答えると、その大怪我した場所に、バンドエイドを貼られて帰される。
2:救急車を呼ぶと10万円かかる。従って、死にものぐるいでひとりで道ばたにでて「タクシーっ!」と呼ばなければならない。
3:4日間入院すると、200万円の請求書がくる。もちろん大部屋。
以上、実際にあった話に基づく。
仮に保険に入ってもランクがある。
私が入った保険は下から2番め。子供が欲しかったから生まれたときの事を考えて入ってみた。でも毎月4万円の掛け捨て。もちろん私だけ。(ダンナと入ると7万円になる!)しかもホームドクターと言って、限られた医者にしか見てもらえない。知り合いが紹介してくれた日本人歯医者に行ったときも、結局その保険は使えなかった。で、全額負担。
私の医者の友達によると、患者が入っている保険会社のランクによって、効く薬と、効かない薬によりわけられる(信じらんない!)
私には、看護婦と医者の友達がいる。その二人にアメリカの実情の残酷な話をさんざん聞かされた。この話はまたおりを見て。
日本のように、「あー、お腹が痛い!近所のあそこの病院に駆け込もう」ったって、そうはいかない。
「君君、君はどの保険に入っているのかね?え、ああ、ここかね。この保険会社は、ぼくん所は取り扱っていないから、ここから1時間先の、この病院に行ってくれたまえ」
「グググ....せ....先生....、腹痛で死にそうだ.....」
「しかたありませんねえ...。さ、次の方」
と、なる。
実際、アメリカではもっと早く病院に行っていれば死ななかったのに、という患者が後を絶たないのだそうだ。
前に書いたペインキラーのあり方同様、日本とは病いに対する考え方が違う。
アメリカの医療保険会社は、あくまでも利潤追求のための会社でしかない。
その後、私も毎月4万円も掛け捨てするのがバカらしくなって、やめてしまった。
さてオバマ政権が、どこまでこのアメリカの大きな問題にとり組むのか.....。
絵:コージーミステリー表紙
2009年4月22日水曜日
ガビチョウの騒音
近所のおじさんがなげく。
「ちかごらーよお、ガビチョウの鳴き声で、目がさめちまわー。うるさくって寝られやしねえ」
なんでも中国から渡ってきて居座ってしまったガビチョウというちょっとハデめの鳴き方をする鳥が、ここいら界隈を最近占領して、ウグイスを圧倒しているらしい。
「あいつらが鳴くときゃ、ウグイスが遠慮しちゃってよお。ほの字も鳴きゃしねえ」
おじさんはウグイスさんの事まで心配している。
これは環境の変化によって生態系が変わってきているという由々しき問題なのだ。
でも...突然コンクリートを打ち砕く爆音で目覚めていたニューヨーク帰りの私にとって、ここの騒音はそよ風の音に等しい。おじさんの嘆きを聞いて、フキンシンにも思わずへらへら笑ってしまう。
(すんません)
どんどん引いて考えたら、コンクリートを打ち砕く音も、雷の音に比べたら、そよ風の音よりも小さいにちがいない。何を基準として考えるかによって、人それぞれの幸不幸は決る。
しかし人為的な音は、大自然の爆音よりも不快な気分になるのはどうしてだろうか。同じ音でも自然が織りなす音は、ある種の法則を持っているのかもしれない。ニンゲンが作り上げた音には、その宇宙の法則とは違うリズムが入っているのかもしれない。
これがゆらぎのようなものだろうか。
うちの犬のユタの心臓の鼓動は規則正しくはなかった。
「トク、トクトクトク....トックン....」
彼の心臓に耳を当てて聞きながら、目を閉じると心地よい感じがした。いつのまにか自分も同じリズムを刻んでいるような......。
きっと宇宙のリズムとはそんなようなものなのだろうな。軍隊の行進のように寸分の狂いもなく刻むものではないんだろうな。
きっとお山もそんなリズムを刻んでいるに違いない。
今お山は「ほっほっほ」という笑いから、「があーっはっは」という高笑いに変わった。
絵:coopけんぽ表紙「フィッシング」
2009年4月18日土曜日
風邪引いちまっただ
なんてえこったい。いきなり風邪引いちまっただ。
畑仕事の疲れか、はたまた花粉症が治っちゃった〜と調子こいちゃって、鼻おっぴろげて、ずーずーとお山の英気を吸いすぎたか。
とにかく仕事があるから寝込めない。でも一日だけ寝込ませてもらって、あとは念力で起きる(?)。
熱はとっくに下がったのに、喉が痛い。咳もする。そのうち飲んべえのあねごみたいな声になっちまった。(酒飲んでないのに〜)
あたしゃ声だけは、今迫力があるぜい。
そんなときは、庭に生えた草でも食って滋養を養うがよろしい。大地から自力で生えてくる強烈なエネルギーをいただくのだ。
ハルジオンのごまあえ、ウルイと生ハムのサラダ、玄米粥の三つ葉まぶし。ご近所さんからもらったタケノコで煮物。あ〜〜〜、日本人でよかった〜〜〜。
こんなとこ、ガイコク人に見られてはいけません。「ヤバンネ〜」と、白い目で見られるので、お気をつけあそばせ。ニューヨークで野草を取っては、白い目で見られていた私。そんなふうに季節の野のものを食って楽しむ民族は、あまりいないらしい。日本人は、未開と進化が入り乱れたフシギ〜な民族なのだ。わたしゃ、そこんところが無性にたまらん。
ここん所、何年も風邪など引いたためしがない(ほら、アホは風邪引かないというではないか)。
これは、勝手に石けんなし生活でからだに何かしらの変化が起こっていると見る。石けんやめてから、何度か花粉症の症状のぶり返しがやって来た。でもそれを乗り越える度に症状が軽くなっていって、ついに消えてしまった。
今回の風邪も、そのからだバージョンなのではないだろうか。もっと私のからだの根本的な部分の改造計画....?
漢方薬をやりはじめの頃、症状がより重くなると言う。それをくり返し、だんだん治っていくと言う。そんなものに似ているのかもしれない。
私は喉がヨワイ。鼻も敏感すぎてヨワイ。まさに今そこんところがこれでもかというくらいひどい。
このままなるにまかせることにする。
ちなみに今日はいとこたちと飲み会の日。ああ、大好きな飲み会をあろうことか、自らドタキャンしてしまうなんて。ありえな〜い!
するとまた「大好きな自己嫌悪菌」が発令したがってうずく。「わたしって、ダメなニンゲン....」
おっと、いけない。自己嫌悪にたゆたよる癖はポイだ。
私の肉体精神改造計画は続く....。
(えらいたいそやなあ)
絵:coopけんぽ表紙「ワラビとり」
2009年4月14日火曜日
お山は笑う
お山が笑っている。
高尾山は富士山のように一つのお山ではなく、いろんな山々と尾根でつながっている。その山脈はまるで龍の背中のよう。くねくねとうねりながら、その背はどこまでも広がっている。
その山の尾根を眺められる所にたつ。目の前に広がる山並みは、巨大な着物の帯のようだ。
ズギとヒノキの深緑の織物の間に、広葉樹が織られる。冬の間には、味気ないグレーな色をしていた広葉樹たちは今、刻々と変化を始めた。グレーからかすかに赤みを帯び、ベージュ色になる。ベージュ色から黄色に染まりはじめ、そこからじょじょに緑色へ。枯れ色、香色、山吹色、うこん色、黄蘗色、刈安色、鳥の子色、ヒワ色......日本の色には、深い味わいの名前がつく。
お山はまだ春のかすみにおおわれて淡い彩り。何と微妙な色合いなのだ。そこに山桜のうすピンクの刺繍が点々と施され、高尾の美は極まる。きっと日本の美の職人は、こういう景色を眺めて自分のものにしていったのだ。
「ステキーーーーーーッ!」
山に向かって雄叫びをあげる。大声を出さないと、この絶賛は聞こえないだろうから。
すると、山は笑うのだ。いや、ホントに笑うのだ。
それは褒められたから笑うのだろうか。それともアホな私を笑っているのか。いやいや、つらい冬を乗り越えて、これからうれしい事でもやってくるからなのだろうか。
なんだかお山はうきうきと、いや、「ほっほっほ」と、笑っている。
ニンゲンの目先の利潤や、はたまた善悪の二元論に振り回された、バタバタとした行為をへともおもわず、淡々と、静かに、ほくほくと笑いながら、ひと時たりとも立ち止まりはせず、変化し続ける。
そんなお山をたのもしくながめる。
大きく息を吸い込む。お山の本当の叡智を、全身であやかるために。
絵:coopけんぽ表紙「もみじ」
2009年4月12日日曜日
ある昔話
むかーし、むかし。
あるところに、小さな男の子と女の子がすんでいました。
二人は毎日お空から降ってくる、神様からの一つのお餅を分け合って食べ、何不自由なく仲よくくらしていました。
ある時、二人はふと不安になりました。
「もしもこのお餅が、明日降ってこなかったらどうしよう.....?」
そう思うと、急に怖くなりました。そこで二人は、お餅を半分に割って、明日のためにとっておきました。
さて、その次の日から、お餅がお空から降ってくる事は、二度とありませんでした。おわり。
これは南の島に伝わる昔話。
え〜〜〜〜っ、これで終わりイ〜?
と、思わない?
フツー昔話は、最後はハッピーエンドで、めでたしめでたし、となる。
ところがこれは、「二度とお餅が降ってくる事はありませんでした」と、不幸な終わり方をする。
おとぎ話の不幸な終わり方の後ろには、「こうしてはいけませんよ」という戒めのような教えが隠されている。たとえば、オオカミ少年のように、うそをついてはいけませんよ、とか、小太り爺さんのように、欲をかいてはいけませんよとか。(あれ?これじゃメタボ爺さんが、欲かいて太ったみたいだ)違う、もとい。コブとり爺さんだった。
でもこれは、いわゆる備蓄というか、保険のようなもんで、これは今の時代、アリなんじゃないかとおもうのに。
しかもそれをすると神様は「自分で食べ物、とって来なさい」という戒め付き。
今の創作絵本流でいくと、
二人は明日のために備蓄しました。それを見た神様は、「備えあれば、憂いなし」とおよろこびになられました。
と、なりそーな気がする。
いや、ひょっとしたら、下のような言葉が省かれて、伝えられた?
神様は、「うん、二人で備えようとするよいこころがけじゃ。ならこれから、わしはお餅をあげぬ事にしよう」と言われたのかもしれない。
でもなんかへんだ。
これは何か単なるおとぎ話ではない、何か深いものが入っているに違いない。
たぶんそのお話のあとには、こう続くのだ。
それから二人は食べ物を自分たちで手に入れなければなりませんでした。男の子は狩猟に行き、女の子は野から食べられるものを手に入れました。
二人は大人になり、たくさん子供が出来ました。食べ盛りの子供たちを育てるために、野を耕し、作物を作りました。冬の間は、作物が取れません。彼らは少しおおめに作物を作って冬の間に備えました。しかし年によっては、日照りの年もあれば、雨の多い年もあります。二人はもしものために、一生懸命働きました。働いて働いて、食べ物はいっぱいになりました。
でもどこか不安が残ります。
「もう少し食べ物を貯めておかないと、なにかあったときにたいへんだ」
そうして二人は、自分たちの食べる分までがまんして、子供たちのために一生懸命残していきました。
冬の寒いある日の朝、お母さんが、雪の上でたおれていました。子供たちのためにと自分は食べなかったために、餓死してしまいました。そのとき、お父さんも山と詰まれた食べ物の下敷きになって、死んでしまいました。
そのとき一つの眩しい光が天から降りて来ました。
光は大きな神様の手となり、二人のからだを包み込みました。二人の魂はからだから抜け出て、神様の前に座りました。
「お前たちには、すでにすべてがあたえられていたのじゃ。案ずるでない。案ずれば案ずるほどその心配や恐怖は膨らんでいき、きりがない。恐怖はこえていくもの。それもまた意志力なのじゃ。すべてをゆだねよ」
神様の姿が消えた時、二人は雪の上に寝ていました。
いつのまにか、二人はもとの小さな子供の姿に戻っていました。彼らは夢を見ていたのでしょうか?一体どのくらい長い夢を見ていたのでしょうか?いやそれはほんの一瞬の出来事だったのかもしれません。
二人は手を取り合って、お空に感謝しました。彼らの心から不安や恐怖は消えていました。
すると一つの白いものが、天からゆっくりと舞い降りて....。
二人はいつまでもいつまでもお空から降ってくるお餅とともに、仲よくくらしましたとさ。
おしまい。
絵:「おもちがぶーっとふくらんで」
2009年4月8日水曜日
これって洗脳?
洗脳。
なんだかある特殊な宗教の、おどろおどろしい言葉に聞こえるけれども、世の中は、あんがい洗脳に満ちているのかもしれない。
今回、勝手に石けんなし生活を実践するにつけて、「今まで何を信じてたんだあ?」という気分になってきた。
シャンプーなんかしなくても髪はさらさらになりはじめている。石けん使わなくなって、ますますからだは臭わなくなるし、アカも出なくなる。歯磨き粉を使わなくなって、便通もいい。からだが汚れた感じがしないついでに、洗濯洗剤も使わなくなった。今はすすぎと脱水だけ。お風呂は湯垢やカビが出なくなっていつもきれい。ここだけの話、トイレも臭くなくなっている。
あいかわらず、お酒は飲むし、お肉も食べるし、甘いものも食べる。だからこの変化は、あきらかに石けん類を使わない事から来ているのはまちがいない。
今まで、からだはほっておいたらヨゴレていくもの、と思い込んでいた私。
1: 口の中は、ほっておいたらウイルスがうようよと繁殖して、雑菌まみれ〜。
2: からだ中の毛穴や、その他の、えーと、あの、大事な穴という穴から、汚いものが常にたれ流れし〜。
3: 腸の下の方は、きっとうんこが詰まっていて、ほっておいたらたいへーん!
4: おまけに何もしないで寝ていても、汗という汚い油が、一晩のうちに1カップもあふれでている....などなど。
自分と言うニンゲンのからだは汚い存在だ。だからいつも殺菌しないとキケンだ!と。
じつは母の影響で、結構菌にうるさい私であったのだ。なのに勝手に石けんなし生活を実践するうちに、私のからだはそのままできれいなんじゃないのか?と思いはじめている。
おかあさ〜ん、こっ、こんな私でいいのお〜?
テレビをつけるといつも、さらさらヘヤーのシャンプーやリンスの宣伝、ヨゴレを浮かせるイメージの映像のオンパレード。これでもかこれでもかと繰り返し見せつける。そうするとまず、
「そーか、ほっておいたらウイルスに侵されるんだ」とか
「汗をかくって、汚い事なんだ」と思えて来て、そーするとだんだん
「これを使わないと清潔になれないんじゃないか?」とか
「これさえあれば、私のお肌はきれいになれるわ...」と、なってこいないか?
でも使わなければ使わないほど、肌はすべすべになる。自己治癒力は増してくる。免疫力も増してくる。
ちょっと調べりゃわかる。シャンプーや石けんに含まれている摩訶不思議な者たちが。一体なんのために、その摩訶不思議なものたちでひがちになってからだを洗うのだろう。
これって、洗脳.....?
こりゃ、洗脳って言う言葉は、宗教の事だけじゃないよーな気がする。洗脳は日常生活の中にしっかりはびこっているかも...。
きっとまわりを見渡してみると、私はもっと他のたくさんの、洗脳の渦の中に巻き込まれているのかもしれない。なんてえこった。
花粉症のおかげで、気がついた小さな出来事。そろそろ、私をがんじがらめにしている洗脳の渦の中から「いっち、ぬっけた〜」と、抜け出て行きたいもんだ。
最近、近所の人たちから報告される。
「シャンプーやめたよ〜。ぜーんぜん、いいかんじ!」とか、
『石けんやめて、わしのわきがの臭いが止まった』と、わきの下を手でこすって、
『ほれ!どうだ、臭わんだろ!』
と、その手を奥さんに向けて、確認させようとするダンナまででてきた。(くわ〜)
どうも変化が起こっているのは、私ら夫婦だけじゃなさそうだ。
こりゃ、おもしろくなってきたど。
絵:「レタスクラブ・お金の本」借金地獄より
2009年4月7日火曜日
高尾山のわき水
高尾のお山のふもとには、わき水というのか、山の脇から勝手にしみ出てくる脇水(わき水?)というのか、があちらこちらにある。
でもわき水というのは、富士山のふもとの名水のような、何十年も何百年もかけて濾過されたミネラルたっぷりの、地面から湧き出てくる水の事をいうのであって、高尾のそこらの山のどてっぱらに、
「水がしみ出てくるから、ちょいとパイプでも突っ込んどいてやろうか」
などというイーカゲンなものは「脇水」でよろしいのかもしれない。
そんな脇水をときどき汲みに行く。
脇水であるからして、天候に味が左右される。雨が降ったあとは、雨の味がする(笑)。雪が多いと、苦みがある。衛生管理局がやってきて、顕微鏡で水質検査をするでもない。自身の腹が下ったか、下らなかったかが基準になる(笑)。
それでも気に入った場所の脇水には愛着がある。いつも飲みそめているから、危険か危険でないか、いつのまにかセンサーが動き出す。(これを動物的直感というのか)
同じ山の中でもそれぞれに味が違う。上に生えている植生によっても違うし、南向きの山か、北向きの山かでも味が違う。
やっぱりどこまでいっても脇水なのである。ありがたい富士山の名水とくらべてはいけない。でもその機嫌の変わり加減が、何となく私にはあっている。
私の貧そな舌によると、杉林の下の脇水は、固い味がする。
反対に、広葉樹のふもとは、柔らかい。個人的には広葉樹のふもとの脇水が好きだ。
今日も汲みに山に入ると、おじさんたちがちょうどそこでランチをしていた。
私たちが汲んでいると、
「ここの水はうまいかね。やっぱりコーヒーがうまく入るかね」
と、おにぎりをほうばりながら聞く。
じつは、ここの水はコーヒーがうまくなるわけではない。むしろ緑茶にはっきりとのその違いが出る。抹茶にいたっては、きわめつけだ。絶品になる。
お正月に若水をくんでお茶会を開くその醍醐味が、この水を使うとよくわかる。やはり日本の水には、日本のお茶が一番合うのだ。
おじさんは、脇水を横目で見ながら(試しにひとくち飲んでみる様子もなく)、持って来たポカリスエットで、おにぎりをのどに流し込んだ。
おじさんおじさん、そのおにぎりには、ここの水で入れたお茶が一番合うんだけど...。
自然観察に来たおじさんたちは、地元のニンゲンが目の前で飲んでいる水さえも疑う。一体なんの自然観察なのだ?
「自己責任」という言葉は、人と人とのあいだに溝を作ってしまった。
日本人も変わったなあ....。
夢のない話だが、高尾は人が多く入山するので、脇水に小便が混じっているぞ、とおどされる。わたしも薬王院のある方向の山のは、どのみちあまりおいしくないので飲まない。
もし飲む勇気のある人は、自己責任...じゃなくて、自己センサー(動物的直感)を働かせて、あまり人が踏み入れない場所のをどうぞ。
って、そんなとこ高尾にないってか?
絵:けんぽ表紙「柳川」
2009年4月6日月曜日
いちご
私がまだ小学5、6年生だった頃、近所にかわいい女の子が住んでいた。
小学1年生ぐらいだったかなあ。彼女は学校が終わると、しょっちゅううちにやって来て、庭にある大きな鳥小屋で飼っているジュウシマツや文鳥、玄関口で飼っていた九官鳥をうれしそうにながめたり、ケモクジャラの犬のナナをからかったりしていた。
庭は荒れ放題。そのどーでもいい庭の片隅に、イチゴが植えてあった。その時期は白い花びらの可憐な花が咲いていた。二人はそのかわいいイチゴの花をいっしょに並んで眺めていた。
「かわいいねえ。きれいだねえ」と彼女。
「うん、そうだねえ」と私。
しばらく沈黙があって、
「ねえねえ、もうそろそろいいんじゃない?」と彼女。
「え?もうそろそろって?」
「うん、私はもういいと思うんだけどなあ」と、うれしそうに私になにかをねだっている。
「え?だ...だから、なにが...?」と、私。
すると、彼女はうれしそうにイチゴの花を指を指して、
「ほら!だってもうお花が咲いているでしょ?その下を掘ってみようよお〜。
もうそろそろイチゴさんが土の下に出来てるかもしれないよ〜」
彼女はイチゴがジャガイモと同じように、土の下になるもんだと信じていた。
私の頭の中で、ジャガイモみたいに土にまみれたイチゴの姿が浮かんだ。
思いもよらないかわいい勘違いに、まちがいを否定も出来ず、
「ま....、まだなんじゃないかな〜」
と、その場をごまかした私であった。
わが畑もそろそろイチゴの植え時。
近所の友達の子供たちは、あのかわいい勘違いをしてくれるだろうか?
絵:coopけんぽ表紙 「お花見」
2009年4月2日木曜日
展覧会を終えて
高尾山のふもと「ふじだな珈琲」での展覧会が無事終了いたしました。
来てくださった方々、絵を買っていただいた方々、ほんとうにありがとうございました。
今回は、はじめての小さな作品ばかりの展示。ただのカットイラストレーションだから人様にお見せできるものではないと、今までどこかで恥ずかしくて表に出せなかったものばかりでした。
なのに、なぜか他のもっと力を入れて製作したものよりも、反響があったのです。これはいったいどういうことなのか?
おまけにたくさんの人々が絵を買ってくださって....。
確かに今回は安い値段をつけたのです。でも絵はリンゴやバナナとは違います。安いからと言って、おいそれと買えるものではありません。今まで何度も展覧会をやって来て、絵を売るとはどんなにむずかしい事か経験上わかっていました。でもその「常識」がくつがえされた。
力んで「名作を作るぞ!」と意気込んで作ったものよりも、何も力まず、楽しみながら作ったものの中に、何かが入る.....。
そんな所に秘密があるように感じて来ました。
今まで何をやっていたのだろう....。
「これは自分の絵である」という自我意識によって作られたものには、私の背丈の表現しか出来ないのかもしれません。でもその自我意識を持たない所で制作すると、なにかもっと大きな力が入ってくる....?
力まないとは、自我を入れない事とは、何と偉大な行為なんだろう。まるで仏教の教えみたいになっていますが、表現することの底知れない深さをかいま見せてもらった気がします。
イラストレーターになって25年ほどになります。
そろそろ自分自身の力を抜く時に来ている...。
そんなことを教えられた今回の展覧会でした。
みなさま、ほんとうにありがとうございました。
絵:雑誌「House Beautiful」カットイラスト
2009年4月1日水曜日
自己嫌悪石けん
自己嫌悪菌にやられっぱなしだ。
ちょっと失敗してダンナに指摘されると、もうふにゃふにゃだ。
ああ、私ってダメなニンゲン。よよよよよ...。
で、その「やってしまった」事をクヨクヨと悔やみ続ける私。しつこーいっ!
「やってしまった」ことは二度とリセットできないだろ。
コンピューターなら、コマンドZを押せば、もとにもどる。でも現実の世界はどんどんと前に進むだけ。時間が引っ返す事なんてタイムマシーンでもないかぎり、できゃしない。
なのに悔やむ。
アホかいな。悔やんでなんかいい事でもあるのかい、私?
どうもいいことがあると思っているらしい。
悔やんでも時間が元にもどるわけもなし、失敗した事も帳消しにはならない。そうすると心はよけいあせって何かしなければ!と思い込む。で、その「何か」は「自己嫌悪する」という行為になる。そうやって自分の心を落ち着かせようとしているのか。
「私は今、とっても反省しているのよ。おもったよりいい人でしょ。だから許して〜」と。
早い話が自分に都合のいいように心をすり替えているだけだ。
いったい誰に向かって許してほしいのだ?要するに、例の監視人という自分に向かって許して〜といっているだけなのだ。ホントにそう思っているんだったら、その本人に言え!っちゅうはなしや。
でも失敗するという事は、それを通して何かを学べというメッセージ。なのにその失敗した自分の行為を真正面から見る勇気がないから、そんな行為でごまかしている....と言えないだろうか。
「ああ、ごめんなさい、ごめんなさい」
と、心で言い続けているだけでホントは反省していない。私の自己嫌悪の本当の理由とは、どこかで謝っておけばいいとおもっている?
そ...それって、全然いい人ではないではないか!
こういう事を「自分をごまかす」というんだな。
これは石けんに似ている?
自己嫌悪という石けんは、失敗と言う菌を殺菌するのに有効だと思い込んでいる。自己嫌悪している間は(石けんでからだを洗っている間は)いい人である(清潔である)、と思い込んでいる。
ところがそれは、その気になっているだけで本質をみきわめているわけではない。
うんこが手についたり(おっと!)、どえらい失敗をしてしまった!
なんて時には、ちょちょっと洗うには有効である。しかし、毎日入っているお風呂度にゴシゴシ洗う必要はない。洗えば洗うほど、皮膚の上にある無数の私たちを保護してくれている菌さえもこすり落としてしまい、しだいに肌が荒れてくる。
ちっぽけな事でうじうじ悩んで自己嫌悪石けんで心を毎日ゴシゴシ洗ってしまっていたら、肝心の大事なものまで失ってしまっているかもしれないではないか。しだいに心までも荒れてくる。
ああ、私の皮膚さん、心さん、こすりすぎてごめんなさい。
自己嫌悪と石けんはほどほどに。
絵;コージーミステリー表紙