2008年12月16日火曜日
一瞬の無心
畑の仕事をしてると、何気ないことに感動させられる。
そりゃ、はたからみると、なんてことないんだけど。
高い杉の木全体に絡まった葛のツルを引っぱろうとしたときのこと。頑固なツルは杉の枝という枝に絡み付いて、引っぱっても引っぱってもてこでも動かない。
そこで棟梁はみんなを集めた。
「いいか、せーので一気に引っぱるんだぞ。せーの、ふんっ!」
大人五人と子供一人でせーので引っぱった。
ところがみんなそれぞれのペースで引っぱるもんだから、タイミングが合わず、うんともすんとも動かない。
何度か繰り返すうちに、タイミングも、引っぱる力の方向も、カラダがだんだんわかりはじめる。
少しずつ葛が杉の木からはずれ始めた。みんなの気持ちは一気に盛り上がる。
「せーのっ!」「せーのっ、ふんっ!」最後のひと力でズルズルズル〜ッと葛がはずれた。
そのあとのみんなの歓声ったらなかった。大の大人がみんなでおおはしゃぎ。大自然と綱引きしちゃった。
ある時、一人で草の根っ子が網の間に複雑にからみついたのを引っぱっていたが、どんなに馬鹿力出しても取れない。例の葛の綱引きを思い出して、「ねえ、あれやろ」と友達を引っぱって来た。
二人で息を合わせる。
「せーの、ふんっ!」ずるずるずる〜っ。一瞬で根っこが地面からはずれた。
これは単に、その友達に馬鹿力があるのか?
試しにもう一人の友達ともやってみる。やっぱりいとも簡単にはずれる。
おかしい。この二人にかぎってそんなに馬鹿力があるとは思えない。だって、はたで見ていると、二人とも一人でウンウンやっているもの。
ここになんか秘密がありそーな気がする。
二人で息を合わせた瞬間、なにかがおこっている。その引っぱった瞬間にはほとんど力を出した、という感覚がないのだ。
無心になる?
これが無心になるってこと?
引っぱった瞬間は、取ってやろうとか、引き抜いてやろうという欲の意識はなかった。ただ、いっしょに息を合わせることが楽しかった。一秒にもならない一瞬、二人の心とカラダが同じ動きをするのだ。その時、何かが働く......。
冒頭の葛のときもそうだった。最初は気持ちがバラバラ。引っぱる方向も、タイミングもまるで合っていなかった。けれども何度かやるうちに、だんだん息が合ってくる。ひょっとしたら、そのとき6人の力以上のものが出るのではないだろうか。
火事場の馬鹿力っていうのがある。おばあさんがタンス担いで家を飛び出した話とか。
あれは、「あたしゃ、こんな重たいもん、持てるわけないだろ」と思ったら、担げなかったに違いない。
でもおばあさんは、必死だった。ご先祖様から受け継いだ大事なタンスだったのかもしれない。必死が欲を越えた時、無限の力が発揮されるのかも。そして、その必死は無心の入り口なのかもしれない。
きっと、「二人で引っぱったって、抜けないわ」と思っていたら、抜けなかっただろう。
葛も「ああ、ムリだ」と思ったら、取れなかっただろう。
うちの母の背骨もそうだ。「背骨なんて集まるわけないでしょ」と思っていたら、集まらなかったはずだ。でも母はただ無心にイメージした(無心にイメージするって変か)。
911のときに第2ビルにいた私の友達もそうなのかもしれない。あの時、彼女の心に恐怖が走ったら階段を選んでいたかもしれない。だが彼女はあの時無心だった...。
人の心って何なんだろう。
なんだか、心がいろんなことをさえぎっている気さえする。心がいらぬ世話を焼いて、うまくいくことをさえぎっている気さえする。
ムリ。出来ないに決まっている。常識ではこうでしょ。なにやってんのよ、あなた!
まるで口うるさいおせっかいなおばさん。
たぶん人はみんな、こんな言葉が頭の中で飛び交っているのだ。だから仏教で教えるのは『無心になれ』なのだろう。
じつは最近私は、自分の中に住んでいる口うるさいおばさんを見つけてしまって、うんざりしている最中だ。
ああ、あの一瞬の無心がずーっと続いてくれたなら、私はきっとスーパーマンになってしまうに違いない。
棟梁は、めんどくさい人物だが、なぜか何かを知っている。
畑や山の作業をしながら、それを実体験で何気なく教えてくれる、不思議な人物なのだ。
本人は、まったく自覚していないのだけれど(笑)。
絵:coopけんぽ表紙『三年寝太郎』
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