2008年12月14日日曜日

ダークナイト



映画通の友達が『絶対おもしろいから!」というので、『ダークナイト』という映画を見た。単純な私は、暗い夜?まあ、地味なタイトルね。と思っていたが、ホントは『闇の騎士』だそうで(笑)。

アクションヒーローものにありがちな、勧善懲悪ではなく、アメリカ映画にしてはこちょっとこむずかしい深い内容だった。話の結末は、バットマンは光の騎士から闇の騎士に変わっただけで、言い方が変わっただけで、「あいかわらずヒーローはヒーローじゃん!」なのだが、悪のジョーカーと善のバットマンとのかかわり方がおもしろい。

ジョーカーは言う。『おまえを殺しちゃったらオモチャをなくしちゃうから、おもしろくない。だから殺さない』つまり彼は、バットマンと戦うことを楽しんでいるのだ。
彼は善人であるはずの人々にわなをしかける。そしてその善人がだんだん悪の意識に変わっていく。そうやって、ニンゲンは悪人にもなりえることを証明していく。そういう核心的なことをもりこんでいく映画はそうなかった気がする。なかなかやるじゃん。


私は小学校の時、人が残酷な意識に変わる瞬間を見たことがある。
その子はクラスで一番頭のいい子で、だれからも好かれる明るい子だった。口の両脇にくっきりとえくぼを作って笑う、美しい女の子。だが、その子は反面、クラスの子をあやつる権力も持っていた。

ある時、私は何かやっていて、何かの拍子に私の肘が彼女の顔に当たってしまった。意図的にやったことではなかったし、そんなに痛くなるほど当てた記憶もない。しかし彼女のプライドを傷つけてしまったようだった。

私は学校の体育館のウラに連れて行かれた。彼女の後ろには3人の子分がついてきた。
「私にやってくれたことを、あんたにお返しするわ」
彼女は後ろの子分を呼んで来て、
「私の変わりに、あなたがつくしをやってちょうだい」といった。子分が私の顔面を殴ろうとすると、彼女は『きゃあ怖い!』と言って、手で顔をおおい、べつの子分の後ろに隠れた。そして私は一発、顔面にお見舞いされる。
事が終わると、彼女は子分のうしろから顔を出して、こう言った。

「あら?もう終わっちゃったの?私、見ていなかったから、もう一回やって」

その言葉を聞いた瞬間、ニンゲンというものはなんて残酷なんだ、と思った。
私は小さい頃から、学校でいじめられ、殴られ、蹴られ、追いかけられ、家でもしつけとして、殴られ続けて来た。だから、人というものはそんなものかと思っていた。肉体的な痛みはその瞬間で終わる。一瞬意識を飛ばせばいいだけのことだ。そうやって切り抜けて来たが、このときほどニンゲンの局面を見た気がしたことはなかった。

彼女は小学生である。いつもコロコロ笑う美しい女の子だ。その子が自分の手を痛めず、他人を使い、そして自分で見ないようにしていたのに、それを見ていなかったと言って、もう一回殴らせる。
その心の動きにぞっとしたのだ。単純に殴る蹴るということの怖さよりも、その心の恐ろしさを感じてしまい、今だにはっきりと覚えている。しかしこれは彼女だけのことではない。私にもその残酷さはあるのだ。そしてだれにでも。

そこにニンゲンの底知れない恐ろしさとおもしろさを感じる。私は小学校の時その経験をして、ニンゲンの悪と善の両方はいつでもそなわっているものだと直感した。
だからそこを描いた『ダークナイト』は、アメリカ映画をちょっと越えてしまった気がする。

そしてもう一つは、ジョーカーは、バットマンと対になっているということだ。映画の中で「バットマンが出て来たから、世の中に悪がはびこった」というようなセリフがある。理屈ではあり得ないことだ。だがその言葉にはすごい説得力を感じる。『正義』というものがあると『悪』もあらわれるのだ。なぜなら、正義は、どこかに悪いものがない限り存在しようがない。悪なくして、正義はありえないのだ。

ニューヨークに住んでいると、日常の中に「悪だ、敵だ」というキーワードがはびこっているのを感じた。大の大人の大統領でさえ『EVIL(邪悪な)』と、いいまくる。ニンゲンというものは、どこかに敵を作ることによって、結束を固めさせられるようだ。911は、まさにそれを実体験で証明している。あのあとみんながその言葉に賛同して、結局戦争に持ち込んだのだから。

結局ジョーカーは死なない。(実際の役者は死んでしまったが)
心に正義と言うバットマンが住む限り、もう一人のジョーカーを育ててしまうのだ。
正義の意識におだやかさはあるのだろうか。正義を貫こうとすると悪を制する気持ちでいっぱいになるのではないか。そこには、裁きや評価や批判がつきまとう。正しいや間違っているという心でいっぱいになりはしないだろうか。その二元論的な物差しで、世の中や他人を測ろうとしないだろうか。
ニュースで見かける犯罪者は、自分以外の赤の他人のことなのだろうか。彼らは行動で裁きを表したが、私たちは、心の中で人を社会を裁く。あのブラウン管の中に登場する人物は、自分自身の中にも存在するかもしれないということを考えたことはないだろうか。

最近のテレビはとくに『悪者を憎め』といわんばかりにあおってくる。感情たっぷりのニュースのナレーションを聞く度にうんざりするほどだ。しかしそういうものを見て『そうだ、そうだ、あいつが悪い」と同調していていいのだろうか。それこそ、心にバットマンを作ってしまう。自分がバットマンになるのはさぞかし気持ちがいいに違いないもの。

でもジョーカーは、もう一人のバットマンなのだ。
これからの世の中にバットマンはもういらないのではないだろうか。
私はそこにニンゲンがニンゲンであるための答えはないような気がする。

絵:NHKドイツ語テキスト表紙

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