2008年12月18日木曜日

ばばあちゃんの手




私は人の手をみるのが好きだ。
手の形は、その人の顔なり体つきから受ける印象をくつがえしてくれるような要素を持っている。
ごっついお顔の人がすごく繊細な手をしていたり、とっても美人な女の人が、ごっつい手をしていたりする。
そのギャップをみるのが楽しい。「この人の内面はどんなだろう?」って。

私はからだ中コンプレックスでいっぱいだが、手の形は気にいっている。どんなかというと、まさに職人の手であーる。女らしさのかけらもない手である。高校の同級生に「つくしのおやゆびの爪、弁当箱みたいだ」と言われた(笑)。まさに言い得て妙である。私の親指の爪は、昔懐かしいアルミの弁当箱のようだ。縦長ではなく、横長。こんな爪にネイルなぞした日にゃ、お正月の重箱のようになってしまう。松竹梅の蒔絵でも描くか。

でもそこがいいのだ。まったくシャープで無駄のない形。ときどき、ほれぼれと自分の手を眺める。ひとりでぼそっとつぶやく。
「かっ...かっこいい...」
飾るためではなく、まさに使うためにある手なのだ。

使うための手と言えば、この世でダントツに好きな手があった。
それは母がたの祖母『ばばあちゃん』の手。
彼女は高知の長浜の大きなお屋敷に嫁いだ。360度見渡す限り、自分の土地という大地主の嫁。浜まで他人の土地に足を踏み入れることもなく行けた。
そこで彼女はものすごく働いた。彼女の指は一本だけ途中で切れていて、その先端が大きく膨らんでいた。人はそんな手を見ると、みにくく思うかもしれない。でもその特殊な形の指が大好きだった。いつでもその指を眺めていた。その手はなんでもする。その手は私に美味しいご飯を作ってくれる。その手は畑を耕し、庭にきれいな花を咲かせる。赤い毛糸もパンツも編んでくれた。大好きなわらび餅もその手で作ってくれた。新聞紙を三角に折って、そのくぼみの中にきな粉をまぶしたわらび餅を入れてもらうのだ。
夜中は夜中で、私はまっ暗くて恐ろしいお屋敷の便所に行けず、前の庭で「シーッ」と言いながら私を抱えておしっこをさせてくれた。
その大きくふくれた指は、機械の中にあやまって指を入れてしまったことでなってしまった。ちょっぴりさびしそうに私に教えてくれたことを覚えている。

おじいちゃんは、村人たちといっしょに戦争に行ったが、彼だけ帰ってこなかった。それからばばあちゃんは、少しづつ土地を切り売りしながら生計を立てた。私が生まれた頃には、屋敷以外はすべて他人の土地になっていた。

今ごろきっと天国で、おじいちゃんと大好きな蘭の花を育てていることだろう。おじいちゃんの亡くなったときと同じ年に若返って。



わが畑のリーダー、棟梁の手も左手が変わった形をしている。やはり機械にやられた。病院に行くと手首から切断するしかないと言われた。その時、彼は大工の弟子入りしたばかり。ここで片手をなくしたら、親に申し訳がつかないと思った。病院の待合室で、ふと他の患者さんが洩らした言葉を、彼は聞き逃さなかった。「温泉なら....」
棟梁はその足で湯河原にある湯治場に行き、一ヶ月こもってケガを直したのだ。
一見、不器用そうに見えるその手はあらゆる仕事をこなして来た。東京タワーの下地も作った。神社も作った。何千軒も家を建てた。その手はなんでもする。ちょいちょいってな感じで、なにげなく、すごいことをやる。畑になかった道もあらよっと一人で作ってしまった。これからその手で何をやってくれるのか。

余談だけど、東京タワーの土台は、地上に出ているのと同じ高さ分、深く掘られて土台が作られているんだそうな。震災があっても、東京タワーだけは立ってるんじゃないかな(笑)。あ、ここ東京だってわかるように。

まったくニンゲンってなんてすごいんだろう。

絵:ハーバードビジネスレビュー掲載

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