「今、ここ」
ずいぶん聞き慣れた言葉になったけれど、
今の私にとってこの言葉は大きな存在になった。
コロナが開けて、6年ぶりに行われる夏祭りのために、盆踊りの練習をする。
大人が円陣を組み盆踊りをする間を、たくさんの子供たちが駆け回る。
真ん中で子供達が腕の引っ張り合い。
踊りで振り下ろした手が、間をすり抜けた子供の頭をはたいてしまう。
子供は大人の真似をするか、じっと側で見ているもんではないのか。
今の時代はそういうものなのか。
あまりの混沌とした情景に唖然とする。カオス。
家に帰ると旦那が映画を見ていた。
その音だけを聞きながら、「今、ここ」にいる。
「今、ここ」は、さっきあったカオスを思い出さない。
そのカオスに対する思いもない。
時間は追いかけるものなのかもしれない。
今ここにないものを思い出し、心を泳がせる。
あれはどうだ。これからどうしよう。
アメリカのイラストの仕事が潮が引くようにスーッと引いて、今私は依頼仕事をしていない。
純粋に自分が描きたい絵を描いている。
それがお金になるかどうか全くわからない。
それに加えて自費で本も出し、これから旦那の写真集も作る。お金は出ていく一方。
常識的に考えても恐ろしい話だ。
そうやって未来を心配する。
過去と未来の行ったり来たりは、確実にこの世界を実在させる。
時間を考えると言うことは、この世界を実在させているのだ。
今、こことは、時間がないことを表していた。
今、こことは、この世界は実在しないことを教えてくれていた。
「記憶とは、今を思い出すことだ」とコースは言う。
記憶とは、過去を思い出すことではなかった。
過去を思い出すことは、この世界を実在させることだったのだ。
昨日のことを思い出して、あの躾は如何なものか、子供の教育はどうすればいいのか、
これからの日本の未来は。。。
そうやって、心はこの世界がさも実在するかのように見せてくる。
その仕組みを体験を通して知り始める。
この世界は一見理屈が通っているかのように見える。
でもよくよく見ていくと、矛盾だらけだ。
何かの法則を見つければ、科学も、医学も、農法も、すべて答えが見つかると思っている。
しかしそれは本当だろうか。
ただただひたすらさらに混沌に向かうばかりではないか。
この世界にその答えは見つからないのだ。
「探せよ、されど見つけることなかれ」
だから私は今、ここにいる。
静けさがある。
蝉の声を聞きながら、パソコンを見る。
この静けさの中に叡智が宿る。
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