正しくあろうとすると、苦しくなる。
そんな体験をする今日この頃である。
選挙も「正しさ」のオンパレードだ。
お互いの「正しさ」が違うことで、
抹殺したり、抹殺されたりする事態にまで至る。
安倍元首相にはお悔やみ申し上げます。
正しいってなんだろうね。
それは時代と場所と人によって、
場合によっちゃ、動物たちによってもえらく違う。
いや、動物たちには「正しい」も「間違っている」という観念もないだろう。
上昇気流に乗ってゆっくり天に上がっていくワシも、
家のものを突散らかす犬も、
喜びの中にある。
「正しい」は人間だけにある観念だ。
正しくあろうとすることは、正しくいることによって、
自分がここにいてもいいと安心を買うことでもある。
でも同時に、その正しさの後ろには、間違いを存在させる。
「こうであることが正しい」という瞬間に、
「こうでないことは間違い」というものをも出現させるのだ。
そこで必ず葛藤が起こる。
こうでなければいけないのに、こうでない自分。又は他人。
その「こうでなければいけない」形を巡って、言い争いやわだかまりができる。
でも本当は、人は幸せになりたいだけなんじゃないか。
幸せを求めるうちに「こうであれば幸せ」という形を作った。
ここで正しさが生まれる。
正しさは言葉と形を作った。
でも幸せは、形や言葉を超えている。
こういう形にならなくても、
誰かに「あなたは正しい」と認められなくても、
幸せでいることができる。
正しさと幸せは相容れない。
正しさの不自由さ、
互いを縛りつけるという限界に気づいて、
そこにいることを放棄していくとき、
自由という幸せが、
すでにそこにあったことを
思い出させてくれる。
絵:朝顔/COOPけんぽ表紙イラスト
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