人が優しい。日常が楽しい。
そんなことが続くと、ふつふつと湧き上がってくる例のやつ。。。
夜中、息苦しさで目がさめる。
心にボワ~~~っと、わけのわからんネガティブな感情が。
う。。きた。
言葉にならない恐れ。
自分を否定してくるような感情。裁き。
それは言葉にすれば、
「お前はそんなふうに幸せであっていいのか?
そんなものを味わっている場合か?
幸せになる資格などあると思うなよ。
楽しいことがあれば、その代償は必ず支払わねばならぬ。
ほーら、これから辛いことがやってくるぞ。。。」
この世界に生まれてきているということは、
もれなく「お前には罪がある」という信念とともにやってくる。
だから幸せを全開で受け取ろうものなら、
しっぺ返しがくると、思い込んでいるのだ。
私たちが幸せ下手なのはそういう理由。
「幸せすぎて怖い。。。」
恋愛の真っ最中など、その恐ろしさが全開になったりする。
そしてどうせ悲しみがやってくるのなら、
とっとと自らそれを壊してしまった方が安心する。。。とまで行く。
どこかで自分の不幸を願っているのだ。
不幸であれば、それが安心の材料になる。
この理屈、不思議でしょ?
不幸であることが安心って(笑)。
だから上手いこといってる時、
心が落ち着かず、問題を探している自分に気がつくことだ。
それは言ってみれば、今不幸であるならば、
もうこれ以上不幸になることはないだろうという思い。
もしくは、神様。私は今不幸という罰を受けています。
だから自分の罪を軽減してください。。!と。
自我は絶えず裁こうとする。
その自我のいうことをどれだけ聞いてきても、
完全な幸せにはならなかった。
その自我の正体に気がついてくるなら、
これこそが自分を不幸に貶めていただけだとわかってくる。
実はその裁きこそが、自我が生きていられる原動力になっている。
マトリックス、つまりこの世界の原動力は、罪と裁きと恐れなのだ。
その正体に気づくと、自我からの抵抗が始まる。
夜中に怒涛のごとく私を裁くことによって。
自我が生きていられる方法は、私が裁き続けてくれること。
社会を、他人を、自分を、さばいてさばいて裁き続けてくれたら、
ヒャッホーイ!大成功~~っ!と大喜びする。
私の不幸の上に成り立つ自我。
「自我は裁きなしには生き残れず、
裁きがなくなれば退けられる」
(奇跡講座/第4章/自我の幻想より)
裁くことをやめていくことは、自我自身が消滅してしまう。
それが自我が一番恐れていること。
私は自我ではない。
自我が消えていった後に残るものは、
ほんとうに実在しているもの。
自分へのご褒美どころか、
自分への罰の思いに気がついて、
そこから離れていくことこそが、
この世界に生まれてきたことの理由であった。
ネオはそこから脱出したのだ。
絵:「ドラゴン」
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