コースの先生のもりGさんが動画で面白いことを言っていた。
非二元の教え「What」を言い、
コースの教えは「How」を言うと。
確かにそうかもしれない。
非二元の先生方は、非二元とはどう言うものかを語る。
私はいない。世界はない。と言うことを、
言葉を変え品を変えて説明してくれる。
だけどどうやったらそのことがわかるのか、教えてくれない。
それはただ起こると。
その感覚になってみようと試みるも、
ちっともそこにたどり着けない。
そのもどかしさがあった。
コースは、世界はないことを、まずなぜ世界はないのかを説明し、
ではなぜこの世界が現れているのかとを説明し、
それをどうやったら知ることができるのかを、
あの分厚い本で語られている。
これが難攻不落で、一朝一夕にはいかない。
しかしそれに取り組む意志があれば、
徐々にその意味が見え始め、
あの分厚い本には語られ尽くされてないものが見え始める。
「世界はない」
コースや賢者たちの言葉を、
いとも簡単に語ることはできる。
でもこの言葉は危険をはらんでいる。
それは隠蔽に使える。
「この世界は所詮幻だから」と自分を納得させるために使えるし、
バッサリと、この世界の兄弟たちをないものとして、
見すかすこともできるのだ。
それは明らかな分離。
自分も他人もいないと言いながら、
兄弟を消すために密かに使うこともできる。
自我は自分を存続させるためにコースをも、非二元をも使う。
だから自我が何をしているのかをじっくり検証していく必要がある。
そして自分もそれを隠蔽に使っていないかをしっかり見る。
賢者たちがそこにたどり着いて語られた言葉と、
借り物の言葉ではまるで違う。
でも私にはそれが本当にその人の体験から出た言葉なのか、
借り物なのかわからない。
私はそこにたどり着いていないから。
だけどきっとそうなれるんだ!という希望にもなる。
そのための形而上学。
これを学ぶことによって、固く結ばれていた呪いが解け始める。
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