何かが起こった時、
「やっぱりこうきたか!」
と思ったことはないだろうか。
どこかでそうなることを恐れていたのかもしれないし、
もっと深く掘り下げていくと、
こうならなければいけないのだという思いがあった。
それは期待に等しい。
例えば、人にのけ者にされるはずだ。嫌われるはずだ。仕事にケチつけられるはずだ、、、
など心の深いところで思っていると、
それがやってきたとき、
「やっぱりこうきたか!」と確信する。
「思った通りだ。やっぱり私の考えは間違っていなかった!」と。
これ、逆ですから。
始まったのは、私。原因は私なのだ。チーン。
最初に「私は罪びとだ」と信じ込んだ。
罪びとなので、罰を与えないといけない。
だから「罰」をもらっている。
いや、正確には罰を作っているのだ(笑)。
そーゆーことで、無意識に問題を探す。
問題をみつけては、(罰を与えられたと思ったら)、
それに取り組んで(刑に服して)
解決させ(刑期を終え)、
ホッとする(出所する)。
を繰り返しているだけなのだ。。。!
苦労は買ってでもしろ!というのは、
罰は買ってでも受けろ!という意味だった。
苦労を買って出るのは、罪を罰によって、あがなおう。。というか、
嫌な思いさえすれば(苦労しさえすれば)、これからの人生、
ちょっとは楽に生きられるんじゃね?という魂胆なのだ。
しかしいくら問題(苦労)を解決させ続けてもキリがないのであった。
なぜなら、もともと信じて手放さない「私は罪びと」という信念があるのだから。
私もずっとクライアントから「直しが来る直しが来る。。。。」と信じてきた。
毎朝メールのチェックをすることがどれだけ怖かったことか。
心臓ばくばく。心は大騒ぎ。
で、蓋を開けてみると「やっぱりこうなった!」と、冷や汗をかく。
あれから40年。
今から思えば、そうあって欲しがっていたのだった。。。
自分は罪びとだから。罰を与えなければいけないのだと。
そして罰を受けるたびに、少しづつ、罪が消えていき、
晴れて死という出所によって「お勤めごくろーさん」と言われたいのだ。
そんなんが欲しくって、あたしはここにきたわけ!?
ちがーう!
もし「苦労ばっかりしているわ、私。」
って思ったら、まず自分を疑ってみる。
ひょっとして罰を欲してね?と。
あいつに嫌な思いをさせられてるって思ってるのは、
それを欲している自分がいるからだって。
かわいそうな被害者を欲しているか、
罪深い罪びとは罰しなければいけないのだと、罰を欲しているか。
どっちも同じこと。
辛い思いはさせられているんではなくて、
自分でそれを望んでいることに気がつくことだ。
自分が元ですから~~~。ざんね~~ん!
だからやまんばはちょっとづつやっていった。
怖がりたいのか、
怖がりたくないのかと。
恐れを選びたいのか。
愛を選びたいのかと。
朝メールが開くまでのドキドキの時間。
そのとき「私は恐れを選ばない!愛を選ぶ!」と宣言する。
それでもまだ恐れている自分を赦す。
これを聖霊とともに見たいと願う。
そんな地道な作業をしていくうちに、いろんなことが起こり、
だんだんなにかがわかり始める。ますます信頼がやってくる。
出来事が波立たないようになってくる。
波を欲していた自分にも気がつく。
流れるようにことが進み始める。
人生が優しくなってくる。
こう書くと、自我が騒ぐ。
「そんなにうまくいくわけねえだろ!」
でもそんな自我の声も赦す。
すべては心の中の出来事。
心の中を変えていくだけでいい。
俺の指先一本動かすこともない。
怪物くんよりもすごいことだ。
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