形が変わってくれれば、私は安心。
どれだけその「形」にこだわってきたか。
この形じゃないといやだ!あの形になってくれないと困る!
仕事の絵、クライアントの返事、友達の反応、出費、入金、自分の体の形(ぷ)、出来事、出来事の結果、、、。
ぜんぶ形だ。
この形さえ、ああなってくれれば、ホッとする。
でそそのホッとするのもつかの間、また別の「この形じゃいやだ!」が始まる。
そうやってずっとこの世界の形を変えることにいそしんできた。
いそしんできたのよ、あたし。(いそしむ。好きだなこの響き)
実はそこじゃない。そこ目標じゃないし。そこ目指すところじゃねえし。
私は罪を探していたんだ。
罪を探して、それを解決させることばかりを。
罪を形に求めて、その形さえ変えれば、罪は消えると。
問題は全くそこじゃなかった。
その罪を感じている自分を見る。
罪を欲している自分に気がつく。
そこにこそ、問題があったのだ。
私たちはすぐ自分を否定する。
あそこもどこもかしこもダメだと。
もしくは、すぐに人を否定する。
あいつのあそこもダメだと。
(エッチな意味じゃないよ)
そうやって自分や他人を否定して裁く自分を発見する。
その時快楽を感じている自分を発見することができたらラッキーだ。
え!まじ?あたし、いい気分になってるじゃん!
人を否定する時、ちょっと勝ち誇った気分になるのはわかる。
しかし自分を否定する時、まさか自分が勝ち誇ってるとは気がつかなかった(!)
自分を罪人として見ることが、自分がここにいていいのだと思わせてくれていた。
「ああ、私はけなげな罪びとなの💙」
だから問題という形を探す。
その形が解決されると、つまり罰を受けると、罪が軽減されると信じて疑わない。
それが形をひたすら変えようとする衝動。形が変わって安心する。
罪があると思っているから、こういうことを延々と続ける。
しかしもし罪というものなど、まったくなかったとしたら?
これ、ものすごいことじゃね?
檻の中で
「開けてぐでえ~~~~!ここから出してぐでえ~~~~!」
って61年間泣き叫んでいたら、
「鍵、かかってねえし。そこ、とっくに開いてるよ。
そもそも檻なんかねえし。よく見てみな」
って言われてるのだ。
ちーん。
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