今にあるとか、今こことか、今この瞬間に意識を持っていくとか言われる。
けれども私たちはなかなか今にいられない。
先日も電車の中で座っていた。何もすることがないので、
「よし。今にいよう」と、いてみた。
そう思って今にいようとじっとするが、どうも落ち着かない。
ここにいられないような、妙な不快感がある。
「これはなんだろう?」
あ。。。恐れだ。
言葉にもならない恐れのさざ波が、私の心にひたひたと打ち付けていた。
これは自我の思考体系だ。自我は恐れそのものなのだ。
心の中を観察することを続けていくと、
無意識にやっていたことが、だんだん意識されるようになってくる。
そうすると自分がやっている行動のほとんどの動機が、恐れからくることに気づく。
これをやっておかねばならない、こうしとくほうがいい、、、。
その行為は、一見優しさのように見えるものでさえ、自分の保身からきていることにハッとさせられる。
空気を読むこともその一つ。
私には恐れがあるのだ。。。
そう気づくことは、罪悪感を誘発してくるが、そこにはまるのではなく、
その恐れを認めることだ。
わたしたちは小さい時からなんとなく「怖がっちゃいけない」と教わってきた。
それはある意味、動物的な本能に近いのかもしれない。恐れを持つことは死を意味する。
野生動物が自分の弱っている姿を見せると捕食者に喰われるから痛みを見せないように。
そんな動物的な本能が、恐れを自覚することを拒むのかもしれない。
だから自分の中にある恐れを認めないように、見ないようにしてしまうのだ。
だがそれは自我の策略でもある。
「見るなよ。見たらとんでも無いものを見ることになるぞ」と。
しかしそれは全く逆だった。
見ることによって、隠されてきたものが明るみにされる。
恐れがあると自覚することは、押入れの中に隠すことではなく、お日様の下に持ってくること。
闇は光の中に入れてしまえば、あっという間に消える。
光に晒すとは、それを咎めることなく見ること。それは赦すことでもある。
実際、自我がやっていることは、ただ私たちを怯えさせようとしているだけだ。
恐れがあるのではなく、恐れろと吹聴しているだけなのだ。
それは私たちが恐れ、罪悪感を感じてくれればくれるほど、
この世界が実在すると、ますます信じ込ませることができる。
心の中を詳細に見ていくと、絶えず恐れのさざ波があることに気づく。
そのさざ波は個人的な恐れを思い起こさせ、不快感を感じさせ、
それを取り除くために何かしなければいけないという衝動を起こさせる。
それが今にいられない理由だ。
ただじっとしていることさえ私たちにはできない。
だから絶えず何かを見たり、何かを考えたり、何かをすることによって、
この今の不快感から逃げようとするのだ。
賢者はその「今」の秘密を知っている。
本当は今しか実在していないことを。
その実在するものを知るには、
知らん顔して居座っている恐れを認め、赦していくことなのだろう。
自我も恐れも罪悪感も実在していない。
それはさもそこの家の主のように振る舞う妖怪「ぬらりひょん」のようなもの。
私の中にいる「ぬらりひょん」を赦して解放していこう。
絵:「ぬらりひょん」
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