2021年9月12日日曜日

あなたは何もしなくていい

 


「サウンド・オブ・メタル」を観て、

私が何に感動していたのかがだんだんわかってきた。


主人公が最後に知った、あの安堵感。

あの解放。自由。広がっていく心。それに感動していた。


それは耳が聴こえなくなって得た静寂への感動ではなく、もともとここにあったものを見出したという感覚。


あのシーンを見た時、デスバレーで体験した音のない世界を思い出したのだが、もう一つ、最近味わった不思議な体験もまた思い起こさせた。


それはある日の朝、布団をあげているとき訪れた。

静寂だった。

まわりの音が消えたわけでもなく、心の中で呟く声が消えたわけでもない。

なのに完全な静寂がそこにあった。


「え?え?なにこれ?」

布団をあげながら戸惑う私。

しん。。。としたものが辺りを覆い尽くしている。

布団のかすれる音も聞こえる。自分がそれに気がついて話している声も聞こえる。なのに静かなのだ。

なんとも言えない大きな安らぎがあった。


あの映画の彼が味わった感覚はそれに似ていると思った。

いったい何が「静か」だったのか。


それは自我の声だった。


2、3分後にいつもの私の感覚に戻った時、この世界に戻ってきたような感じがした。

いつもの私の声。いつもの思考。いつもの感情。

私はカラダで、私は何歳で、私はこの世界に生きていて、、、という感覚。


その「いつもの」感覚は自我の思考があるからこそ感じているものなのだ。


思考は二種類ある。

自我の思考と、もう一つの思考。

コースはそれを聖霊の思考と呼ぶ。


静けさの中にいた時の思考には恐れがなかった。ただ非常にシンプルに喜びと安堵と自由があった。

だが自我の思考に戻った時、重苦しさと複雑さと閉塞感と漠然とした恐れがあった。


それは前者の感覚に入ったから、なおさらその差がわかるのだろう。

この自我の思考の中にいる私はなんと苦しんでいることか。


瞑想をしたり、行を積んだりして取り除く思考は、自我の思考なのだ。

私たちはほとんど自我の思考でものを考えているのだから。


自我の思考は、言葉だけでなく、感覚でさえも私たちに浸透してくる。

それはさざ波のようにささ~ッと、私たちの中に入ってくる。


それを受け入れると、恐れが忍び込んできて、

何か行動せざるを得ない衝動が起き始める。

こうして私たちは自我の思考の操り人形になっていく。



その声があの時消えていた。

何かしなければ心が落ち着かない、あの感覚が消えていたのだ。



あなたは何もしなくてもいい。

ただそこにいるだけでとても素晴らしい存在だと、

大きなお墨付きをもらっている安心感と開放感。


私はそんな感覚をあの映画の最後のシーンに思い出したのだった。




絵:インディアン


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