「サウンド・オブ・メタル」を観て、
私が何に感動していたのかがだんだんわかってきた。
主人公が最後に知った、あの安堵感。
あの解放。自由。広がっていく心。それに感動していた。
それは耳が聴こえなくなって得た静寂への感動ではなく、もともとここにあったものを見出したという感覚。
あのシーンを見た時、デスバレーで体験した音のない世界を思い出したのだが、もう一つ、最近味わった不思議な体験もまた思い起こさせた。
それはある日の朝、布団をあげているとき訪れた。
静寂だった。
まわりの音が消えたわけでもなく、心の中で呟く声が消えたわけでもない。
なのに完全な静寂がそこにあった。
「え?え?なにこれ?」
布団をあげながら戸惑う私。
しん。。。としたものが辺りを覆い尽くしている。
布団のかすれる音も聞こえる。自分がそれに気がついて話している声も聞こえる。なのに静かなのだ。
なんとも言えない大きな安らぎがあった。
あの映画の彼が味わった感覚はそれに似ていると思った。
いったい何が「静か」だったのか。
それは自我の声だった。
2、3分後にいつもの私の感覚に戻った時、この世界に戻ってきたような感じがした。
いつもの私の声。いつもの思考。いつもの感情。
私はカラダで、私は何歳で、私はこの世界に生きていて、、、という感覚。
その「いつもの」感覚は自我の思考があるからこそ感じているものなのだ。
思考は二種類ある。
自我の思考と、もう一つの思考。
コースはそれを聖霊の思考と呼ぶ。
静けさの中にいた時の思考には恐れがなかった。ただ非常にシンプルに喜びと安堵と自由があった。
だが自我の思考に戻った時、重苦しさと複雑さと閉塞感と漠然とした恐れがあった。
それは前者の感覚に入ったから、なおさらその差がわかるのだろう。
この自我の思考の中にいる私はなんと苦しんでいることか。
瞑想をしたり、行を積んだりして取り除く思考は、自我の思考なのだ。
私たちはほとんど自我の思考でものを考えているのだから。
自我の思考は、言葉だけでなく、感覚でさえも私たちに浸透してくる。
それはさざ波のようにささ~ッと、私たちの中に入ってくる。
それを受け入れると、恐れが忍び込んできて、
何か行動せざるを得ない衝動が起き始める。
こうして私たちは自我の思考の操り人形になっていく。
その声があの時消えていた。
何かしなければ心が落ち着かない、あの感覚が消えていたのだ。
あなたは何もしなくてもいい。
ただそこにいるだけでとても素晴らしい存在だと、
大きなお墨付きをもらっている安心感と開放感。
私はそんな感覚をあの映画の最後のシーンに思い出したのだった。
絵:インディアン
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