怒りは、人に何かをされたから怒るのではない。
自分の中の何かが触発されたから怒るのだ。
心が傷つくという。しかし心は物理的なものではない。
だから心は傷つきようがないのである。
しかし私たちは体だと思っている。体は傷つく。だから心も傷つくと信じているのだ。
もし自分が体だとは信じていなかったなら、心は傷つかない。
だからイエスは体を痛められても傷つかなかった。
なぜなら「私は体ではない」とはっきりと信じていたからだ。
私が体だと信じることは、罪悪感から来ている。
私の中に強烈な罪悪感があるから、その罪の意識から逃れるために、私はこの体に入った。
そしてこの体の中で、自分の無罪性を訴えているのだ。
罪は他人にあり、自分にはない。
そう言い続けている。
ということは、罪は自分にあると言い続けているということ。
自分に罪があると信じて疑わないから、その罪を他人になすりつけ続けるのだ。
だから人に攻撃されたと思う時、自分の中がうずく。
自分の中に、ないこととして隠しておきたい罪が浮上してくるから。
だから言い返す。「私は罪ではない!」と。
しかし相手は「私が怒っているのは、あなたが罪を持っているからだ!」という。
どちらも罪を感じている。
どちらも罪を感じてそこから逃れようと、その罪を自分以外のものになすりつけようとしている。
だから怒りは収まらない。
怒るきっかけはなんでもいい。箸が転がっただけで怒るのだ。
笑う場合もあるが。
この世界のものなら、なんでも使う。人は怒りたいのだ。
自分の中にある罪が苦しくてしょうがないから。
ほんというと、自分に怒りたい。なんでこんな苦しさを持っているのだ!と。
自分を消してしまいたいぐらい苦しい。だったら自ら消すという手もあるが、それは痛いからできない。
だからこの苦しさを人になすりつける。
「あんたが罪だから、私を怒らせた!」と。
その時だけは、自分が無罪だと主張できる(ほんとは気のせいやけど)。
鬼のような他人にいたぶられる、かわいそうな私。
罪は他人にあり、私は純粋な可愛い無垢な私で居られる。
ところがその鬼だって言い返してくる。だって鬼の方も自分の中の罪悪感が揺さぶられるからだ。その苦しさに耐えかねて、防衛という攻撃に入る。
「何よ!あんただって!」
二人の間に罪というう○こを持って、
「これはあんたのだ!」
「いや、あんたのやつだ!」
と、互いに突き返し続けている。
さて。そんな二人の間に、見知らぬ存在が入ってきた。
「まあまあ、お二人さん。そのう○こ、もともとないですから」
「へっ?」
「いや。あるじゃん!ここにこうして手に持ってるもん!」「そうだそうだ!」
「あると思ってるだけですよ」
「あると思ってる!?そんなバカな話はない!あるからあるじゃないか!」「そうだそうだ!」
「じゃあ、ないと思ってみたらどうですかね」
「は?」
「そこにう○こはなかったらどうなりますかね」
「う○こが、、なかったら?ないわけないじゃん。この人は私にあんなう○こをして、こんなう○こををして。。。!」
「だからそのう○こがなかったら」
「う。。。なかったら、、、。そうやね、そんなもんなかったら清々するね。。。
っていやいや、その手にゃ乗らん!」
「楽でしょ?」
「うん。まあ、それがなかったら、らくっちゃあ、楽かも。。。」
「そのう○こ、持ってるから、渡しっこしてるんでしょ?」
「そりゃ、それはいらんからね」
「それを渡せたら、楽?」
「そりゃあ、渡せた時は楽だ」「そうだそうだ」
「でもそれ、相手に渡したら、相手が苦しむでしょ?」
「うん。まあ、そりゃあそうだわな」
「でも相手はそれを持ったら苦しいから、それをまたあなたに渡し返すでしょ?」
「うん。。。まあ、そういうことになるかな。じゃあ、この人じゃなくて他の人に渡して、と。。」
「そうするとまたその人が苦しくなって、あなたに渡し返されない?」
「え~。。。そういうことか。。」
「あ。捨てたらいいじゃん!捨てたら、もう押し付け合わなくて済む」
「お。いい考えですね!捨てましょう!」
「そうだそうだ。もうこんなのいらない。捨てちゃえ!」
と、二人はう○こを捨てようとした。ところが手から離れない。
「これ、捨てられないよ。手から離れない。どうして?」
そのう○こを相手に渡してみる。すると相手に渡った。
渡された相手は自分で持つのが嫌だから、また相手に渡す。また渡しっこになった。
「あれえ。なんでだろう。。」
「それはあなたがそれがあると信じてるからです。あると信じているものは消せないのです」
「そのう○こを存在させたいのは、あなたが人と違うと思いたいからなのです。それは人と人とを分けるもの。汚いから自分で持ちたくない。自分がきれいでいたいから相手に渡すのです。つまりそのう○こは人と人とを分けさせるためにあるのです。
人と人と距離を置きたいから、それを存在させて、分離させるのです。」
「そのう○こを渡し続けて、いつまでも離れていたいですか?」
互いが顔を見合わせる。
「いや~~~~。そんなことはもうしたくないなあ。。」「だよねえ。。。」
「あると思いたいですか?」
「いや~。。。あるとは思いたくないねえ。」「そうだねえ。。。」
顔を見合わせた。
「いらないですか?」
「はい!いらないです!」
二人同時に言った。
その存在はにっこり笑った。
「では」
といって、う○こを手に取った瞬間、う○こもその存在も一瞬のうちに消えた。
「何?今何が起こった?」
「わっかんなーい!」
「。。。お腹すいたねえ。。」
「そうだねえ。。。今日はカレーだよ」
「わーい。やったあ!」
さっきまでのう○こ談義をすっかり忘れている二人であった。
私たちに罪という思いが入り込んだ瞬間、この世界を作った。だからこの世界は罪でできている。
けれどもその罪は思い込んだだけである。ということはこの世界も思い込んだだけである。
罪という架空のものを人に押し付けあっている間は、私たちは互いに違うものとして分離して見える。
しかしその罪というものがないと徐々に知るうちに、私たちの間にあった底なしの深い谷は、だんだん浅くなってくる。
そして人に押し付けていた罪は、実は自分のことをそう思っていたのだと知る。
怒りは、自分に罪があると信じていることを思い出させてくれる。
そしてそれを手放したいかと聞いてくるのだ。
「それはもともとないのです。
あると思っているから、あるかのごとく見えるのです。
手放したいですか?
そう思ったら、私に頼んでください。
一瞬にして消しますから。
ほーっほっほ」
0 件のコメント:
コメントを投稿