山の林道を散歩。
途中、川に足をつけてじっと目をつぶり、流れるあらゆる音に耳を傾けていた。
せせらぎの音、蝉の声、時々鳥が鳴きながら通り過ぎる。
川の水の音は、ぽちょぽちょ、サラサラ、ざあざあ、ポコポコ、ちょろちょろ、ザップンザップン、、、。いろんな音を奏でる。
これ、心の中の声と似てるなあ。
私たちの心の中に聞こえる声を観察していると、絶えず喋っている。
ちょっとのぞいてみるとすぐわかる。一瞬も黙っていない。
ああじゃない、こうじゃないと、絶えず喋っている。
昔禅寺で坐禅を組んだ時、心がどれだけ言葉の中にいるのか知り、沈黙とは程遠い自分を知ることになった。
流れてくるあらゆる言葉の中に、今旬である内容を見つけると、すかさずそれを掴んで、その言葉とともに一緒に流されていく。
だいたい掴むのは問題。楽しいことなんかほぼ掴まない。
私たちは、考えたら問題は解決されると思っている。学校のテスト問題のように。
そやけど現実はそんな風にうまくはいかない。
どちらかが正しければ、もう一方が間違っているってことになる。ということは、どっちかが嫌な気分になる。ケンカはお互いがどっちも正しいと言い続けて、両方が幸せ~な気分でうまく収まる答えなどない。
自我は考えたら、答えが出ると思ってる。
そやろか?よく考えたら、今まで一度もできなかった。もうストップ。自我に答えは聞かない。
川を流れるものは私のものじゃない。
頭の中を流れてくるこの声は私の声じゃない。
自我が私に「ほれほれ。掴むんだぞう~」と、仕掛けてくるトラップみたいなもんだ。今まで散々掴んできた。それに振り回されてきた。
確かに掴んだ時は一瞬楽しいが、そのあとはただ苦しいばかりだった。その苦しさを繰り返すのはもうたくさん。
だから川を流れる葉っぱを眺めるように、心の声もただ眺める。
眺めているうちに、消えていく。
どんなにいろんな言葉が表れようとも、それを掴まなければ流れていく。
それはただやって来ては去って行く、幻のようなもんだった。
あれから心の中で美空ひばりの歌が流れる。
「あ~あ~ 川の流れのよ~に~ おだ~や~かに~
ただ見つめて~ いたい~。。。」
(チョット違いました)
いつもうなづきながら読んでます。更新楽しみにしてます!
返信削除匿名さん、
返信削除いつも見てくれているんですね!
ありがとうございます!
励みになります。