2018年6月6日水曜日

父の遺産



四十九日の法要のあと、父の遺産の全貌があきらかになってきた。

財産と言えば聞こえはいいが、父と義母が住んでいる小さな家と、二つの銀行にいくつかの通帳があっただけ。
おそらく異動のたびに銀行マンに頼まれて、口座を開いていたのだろう。同じ銀行でいくつもの支店の通帳をもっていた。預金通帳にも小さな額をちょこちょこ入れて、すこしつづためて来た形跡があった。

公務員とはいえ、しがない地方公務員。出世欲も金銭欲もなかった父。保険も一番最低の簡保に入っていた。見事に父の等身大の財産が残されていた。

それをみて父らしいなあとおもった。
好きな酒を好きな友人と飲む。ささやかな彼の人生がそこにあらわれていた。

保険と言えば、死亡時に何千万円、何億円という金額をかける時代。そんな時代にはめもくれず、「おれはそんなもんには入らん」といったそうな。
「ひょっとしたら。。?」
と、いらぬ知恵が一瞬よぎった私がはずかしい。


いつのまにか私たちは大きなお金を欲しがるようになった。
それは家という大きな買い物をだれもがする時代になったからかもしれない。建て売りの出来上がった既製品を、服や家具を買うような感覚で一気に買う。人生で一番大きな買い物だ。

だけどほんのちょっと昔までは、家と言うとすでに出来上がった既製品を買うというものではなく、すこしまとまったお金が出来ると、あそこを増やし、あそこを直ししながらじょじょに建てていく人々の暮らしがあったそうな。昔知り合った棟梁からそんなはなしを聞いた。
それはまさに人の背丈にあった生き方だったのではないか。

そしてやっとローンも払い終えたかと思うと、今度は老後の心配だ。
何歳までにはいくら必要だ、こんだけもってないと悲惨なことになる、などとメディアは消費者をあおる。老後は?病院は?はてはなにかあったときのために!
いったいどれだけもっていれば心が休まるのだろうか。

しかし考えてみると、人類始まって以来、ここまで必死に老後に備えていた時代はあっただろうか。ついこの間までその日暮らしってのが庶民の生活だったんじゃなかったっけ?
あれは落語だけの話?

また父は警察官でもあったため、人間が何を動機に犯罪を犯すか、いやほど見て来たにちがいない。その一番の動機はお金。
お金がいかに人を惑わし、狂わせ、奈落に突き落とすかという暴力の現実をみてきたのだ。実際父も金持ちと貧乏という極端な変化を体験する家庭に育って、心身ともにふりまわされてきた。

大きな単位のお金が動く時代。それはけして人の背丈には合っていない額。いないが故にそこに不自然なものが浮かび上がる。世帯主が亡くなると、親子や兄弟が血みどろの争いを起こしはじめる。

「ないほうが幸せ」
莫大な財産を残した父親を亡くした友人が語った言葉は重かった。


父は私を決して浮き足立たせてはくれなかった。
それは父の生きて来た知恵だ。

『おまえの足で生きろよ』
そうメッセージをくれている気がした。

少しずつためていたとーちゃんのお金。
だいじに使わせてもらうよ。



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