2017年12月30日土曜日

「ここにいていいよ」といわれるために


悪戦苦闘していたアメリカの仕事を終え、ほっとする。

出来上がってみれば、大した仕事じゃない。
でもやっている最中は、ひたすら苦しい。暗中模索の中、出口を探す。
あるときふと何かが動き出す。トンネルの先にちいさな出口をみつける。
その後は、あっというまに出口にたどり着く。
今までの苦悩はなんだったんだ?と、あっけにとられるほどだ。

窓を開け、庭に出る。
裸足ではなく、くつ下のまま地面に足をつける。

寒空の中、ぼーっとする。
ぼーっとするというよりは、ほっとする。解放感というのか。
人はそれを求めて生きる。

安堵感。
それは、「ここにいていいよ」と言われている気がすること。

私たちはいつも何かにせき立てられるように生きている。
でも一瞬だけ、ぼーっとしていい時間がある。それはこうやって「ノルマ」をこなしたあと。

しかしそれも、ものの2、3分で消える。
次にやらなければいけないことが浮かび、またせき立てられていくのだ。

これは単に「やることがある」という理由だけではない。私の中に「このままではいけない」という何か足りない感覚があり、その不足感を埋めようとしている。そして次の仕事に取りかかり、また出口を探して苦悩する。やっと見つけ出し、たどり着き、ホッとする2、3分間。
たった2、3分間のためだけに、ずーっと苦悩するのだ。

私たちは、誰に「ここにいていいよ」と言われたいのだろうか。
一体、誰に。

そのことをさぐっていくと、自分以外の他人にいきあたる。
それは、時と場合によってコロコロと変わる。
親、パートナー、上司、子供、友だち、ときには飼っているペットにだって。
そして、神。




小さいとき、いい子でいて、親にほめられた。
問いの答えが正しく答えて、先生にほめられた。
道に落ちているゴミを拾って、ご近所さんにほめられた。

そのとき、心が嬉しかった。
ほっとした。
あ、私はここでいていいんだ。。。とおもった。
そして。。。。。

ここでいていいと思えるには、
「人にほめられることをすることだ」、とインプットをした。

一見いいことのように思える。しかしそこに一種の怖れが生まれた。

それは逆に言えば、ただ何もしないでいることはだめだ。
つねになにかしていないと、人にほめられない。
ほめられないと言うことは、
「ここにいてはいけない人」という強烈なインプットだ。


それは生まれて最初の頃身につけた条件付け。人の行動の基本にまでなって、深い深い所に根付き、簡単には見えてこない。

だけど、ただぼーっとしていると、だんだんお腰がむずむずすると言うか、心が次の何かを探しているのに気がつかないだろうか。
じっとしてはいられない何かを感じないだろうか。

電車に乗ると、ほとんどの人がスマホを見ている。
電車に乗っているあいだにも、何かすこしでも勉強を、
何かすこしでも情報を、
何かすこしでも楽しいことを、
手に入れようとする。

私たちはつねに「なにかしていないといけない」という衝動にかられている。

いいことがあると、「それは君がいい行いをしたからだよ」と言われる。
何気ない会話にも、それが現れている。



ほめられるために、
ここにいていよと言われるために、
そしておてんとう様に、
「よきかな」といわれるために、動き回っている。


それは自身の人生を、外に預けてしまっている。




絵:二宮和也の似顔絵/映画GANTZのニノ。


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