2017年9月10日日曜日

快と不快




ここんところ感じていた感覚「目標達成~が消えていった。
それはそれでちと寂しいが、そういうもんだとおもう。

人は現れてくる感覚が心地よいと、長く続いてほしいと思い、不快なものだったら、すぐに消えてほしいと思う。

でもすべては平等にやって来る。快も不快も平等に。
それがじょじょにわかってくると、快を追いかけなくなる。そして不快もまた取っ払おうとしなくなる。
そうすると快も不快も現れては消えていく。


先日、畑でブヨに小鼻をさされた。「あっ、やられた。。!」と立ち上がって、かぶっていたネットと帽子を取る。小鼻がジンジンする。痛みが激しくなってくる。指で触ると固くぷっくりと膨らんでいる。塗り薬もない。ためしにつばを付けてぬりぬりする。つばのにおいが鼻について臭い(笑)。

ふと、これも現れては消える現象なのか?とおもい、痛さを味わうことにする。
抵抗すると余計不快が増すことを知っている私は、抵抗しない。じっとその場に立ち、痛さを観察する。かなづちで叩かれるような痛さが来る。まずい。。。と感じる。しかしそれもめげずに味わっていると、小さいとき母親にいわれた言葉を思いだした。
「悪いもんと、いいもんが、今戦っているのよ」
私がケガをした時、オロナインを塗りながら母が言った言葉だ。

そうか。今、ブヨ菌と私のからだが折り合いを付けているのだ。だから痛みを感じさせて動かないようにさせているのだ。じっとしてろと。
それから間もなくして、痛みが変わりはじめた。さっきのまずいと思うような痛みではない。そっと指で触ると、さっきより腫れが大きくなっている。しかし痛みの種類が穏やかになっていることに安堵した。このまま、ほっておこう。

そのまま畑で作業をし、しらないあいだに痛みは消え、家に帰りシャワーを浴びた頃にはまだ固さはあったが、腫れは引いていた。夜寝る頃には、すっかりもとの小鼻にもどっていた。


現象、特に不快なものは、自我がはっきりと抵抗する。痛みなどは肉体への死を暗示させるものなので、その反応は顕著だ。
ブヨの痛みも花粉症のかゆみも、最初に激しい症状が起こる。その激しさに心は揺さぶられ、抵抗するのだ。しかし痛みもかゆさもジッと観察していると、激しいのは一瞬だけ。ピークのあとは、ゆっくりと、じょじょに、下り坂に向かう。そして消えていく。

感情もまた同じこと。
よろこびも長くは続かない。続かせようと、同じことを繰り返しても、最初に味わったよろこびは、二度とやって来ない。
「美味しい!」って、感動したものを再び味わおうとしても、最初の感動ほどのものはすでになくなっている。

また哀しみも、怒りも、嫉妬も、心配も長くは続かない。
しかし私たちは不快の方をいやがる。
一瞬でも味わうのがいやなので、無理矢理ひっぺがそうとする。これがいけない。ひっぺがそうとすればするほど、その不快は巨大化する。巨大化するのでもっと抵抗する。そして延々とそれに取り組む負の連鎖がおこる。

おなじ巨大化してくれるなら、よろこびもわざとひっぺがそうとすれば、巨大化してくれるか?

しかしよろこびに抵抗したことがないので、成果のほどは知らない(笑)。



絵:「Much Obliged」ペーパーバック表紙イラスト


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