母に最近の私の作品を見せる。
「これはもっと重くしないと」
「ここがまだ足らん。もっと色を足して、存在感を出さんと」
「うん。これはえい」
手厳しい母の言葉を聞きながら、
『あー。これかー。私がずっと心でしゃべっていたものは。。。』
と気づく。
延々と続く辛らつな母の感想に、私は何だか可笑しくなって来た。
「ほんなら、これは?」
「うん。これは、ここがあーでこーで。。。」
思った通りに反応が返ってくる。
彼女の感想は、彼女の感性の幅の狭さをみせた。
考えてみれば、私は絵を職業にして30年たっている。彼女よりももっと広い世界を見てきた。彼女の感性を越えたもの、もっと自由な感覚をすでに身に付けていたのに。
わたしは自分の絵の基準を、必死で彼女の基準にあわせようとしていたのだ。
その時、私は彼女の絵の感性の塀を越えた。
高い高い塀だと思っていた。天にも届くほどの高い塀を私は越えねばならないとおもっていた。
56年経って、やっとそれがとても低いものだったと気がつく。ひょいって一足でまたげるほどの。わたしは這いつくばって、それを越えようとしていた。
この世に生まれて来て、一番最初に自分という存在を意識させられるのが、はじめての他者、母親という存在だ。
いわば、母は子供にとって「神」だ。絶対神だ。この世で生きるルールをその神から教わる。
人は最初に聞いたものを鵜呑みにする。「そーなんだー。あーそーなんだー」と。それを基準にこの世を生きはじめる。
この世に批判的な母のもとに育つと、同じようにこの世に批判的になる。被害者的な母の元に育つと、たいてい被害者的な気分になる。
私はいろんなことに批判的な母の元に育った。それは他者を批判するのと同時に、自分をも批判をする。美意識が高いと、美意識が高いがゆえに、自分を「まだ足らない」と批判し、お尻を叩くのだ。
母の声は、いつのまにか、私の声になり、自分を非難し、お尻を叩き続けていたのだ。
もっと!だめ!そんなんじゃ!と。
彼女もまた、自分の中にある美意識がゆえにわきあがる、自分自身への非難の声に、今もさらされている。
自分の中にわき上がる声を聴く。
たいてい同じ言葉だ。
同じカセットテープが、ただ再生され続けている。
それはいかにも自分にとってためになること、効果があることのように歌う。
だけどそれはテレビの宣伝広告の文句とたいして変わらない。何一つ本質をつかない。それに乗ると、ただ右往左往させられるだけのことだ。
母親を越えるって、たいへんなことやな。
いわば自分があがめている絶対神を踏み越えることになる。
踏み越えたろ(笑)。
絵:「夏」/樹シリーズ/和紙、水彩、オイルパステル
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