2015年12月13日日曜日

気がつけば、コゲラ側に立っていた



「ギーッ、ギーッ」
聞き慣れた声が庭にやって来た。あの声を聞くと、反射的にある出来事を思いだす。

5、6年前、ウチの庭の梅の木に、小さな丸い穴をあけてコゲラが巣を作った。それほど大きくもない梅の木に、穴をあけられて、私はそのせいで木が倒れるんじゃないかとはらはらしたものだ。
だが毎日巣穴に出たり入ったりしているコゲラの行動に見入ってしまい、いつかあの穴から出てくるであろうヒナたちの姿を想像しては楽しんだ。

巣作りもいつのまにか終わって、子育ての時期に入ったらしい。コゲラがじっと巣にこもったり、穴から顔だけ出してお日様に当たる姿がほほえましかった。やがて、きいきいとかすかな声が聞こえはじめた。コゲラのヒナの声だ。親コゲラは、いつにもよりひんぱんに巣出入りする。ヒナたちのエサの調達に忙しいようだった。

ある日の事、いつもの梅の木に違う風景が目に入った。それは梅の木にまとわりついたもう一本の白っぽい枝だった。よく見れば、その枝は巣穴からあらわれている。
いや。巣穴からあらわれているのではなく、巣穴に頭をつっこんだヘビの姿だった。

私は全身が凍りついた。あわててダンナを呼ぶ。
早く!早くあのヘビを巣穴から引っ張り出して!

体長70センチ以上はある大きなヘビをダンナはぐっとつかんで持ち上げた。その瞬間、ずるずるっとヘビは彼の手からはなれ、あっというまに、その全身を穴の中につっこんだ。
「え?」
ダンナと私は、あっけにとられた。あの小さな巣穴に、ヘビは全身をねじ込んだのだ。

「ギーーッ、ギーーーーーーッ、ギーーーーーーーッ!」

親コゲラは、それからずっと梅の木のまわりで旋回しながらはげしく鳴き続けた。



今聞こえるコゲラの声は、そのときのものではない。けれどもその時の私の感情が自動的に呼び起こされる。ヘビがヒナをすべて食べつくしているそのあいだ、自分は何も出来ず、ただ鳴き続けるしかない親コゲラのかなしみ。いつのまにか自分の姿を重ねていたのかも知れない。

自然界は人間の視点から見ると、時に残酷に映る。
だがそれはコゲラ側の視点だ。ヘビにとってはエサを食べていたら、いきなり自分の体をだれかにつかまれたのだ。反射的に身を守って当然だ。ヘビにしたら食事中にいい迷惑だったのだ。私の視点はいつのまにか、コゲラ側の視点に立っていたのだ。

人間はいつもどこかの位置に立って、物事を判断する。それに一喜一憂するものだ。それがあるからこそ、物語が出来、共感し、心を震わせる。

だがもうひとつ別の視点に立つ。それはどちらにも立たないと言う視点。
そこからは全く別の世界が見えて来る。

あれからコゲラの巣穴はだんだん小さくなっていった。まるで過去の出来事がなかったかのように。自然界はいつまでもそこにとどまろうとする人間の心を置き去りに、ひたひたと変化を続けていく。


写真は梅の木の根元。真ん中あたりに小さな穴が見える。




2 件のコメント:

  1. わたしの勤め先の近くには、食肉「処理場」があります。
    日々屠られる側にすれば、ヒトはどう見えるんでしょうね。
    わたしたちも、コゲラに対するそのヘビのようなものかもしれません。
    そうやって自然がなりたっているでしょうか。
    なにかをペットだと言えば命が惜しいし、食べるものだと言えばそういう気持ちを捨てざるを得ない。

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  2. なかなか鋭い視点をお持ちですね。
    生き物を「食肉」と言うカテゴリーに入れる私たち人間は、ヘビのようなものですね。
    立ち位置によって、いい、わるい、残酷、愛、などとコロコロと変わります。
    自分がする行為が、そういう視点のすべてをはらんでいるという事に、気がついていることは、とてもだいじなことだと思います。
    貴重なコメントをありがとうございました。

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