人を助けることは大切なことだと思うけど、助けつづけることは、その助けられている人を生かすことになるのだろうか。
母が言う。
「あのねえ。きのう市役所の人が来て、びっくりされた」
「なんで?」
「あんたは病院をムリヤリ退院して、わたしらはその後てっきり施設おくりになる状態になっていると思って今日やってきたのに、全然違うじゃないのって」
母はひとりで料理も洗濯もしている。
人は人生の途中で色んな事件があって、その時人に助けてもらうことはとても大切なことだとおもう。
でもその助けは一時的でいいのではないだろうか。
そこから先は自力で生きる。それが人として生きることかもしれない。
母は病院の中で、母より後あとに入院した、最初は「お父さん」と呼んでいた人たちが、どんどん身内が誰かもわからない、言葉もしゃべられない状態になっていくのを見ていたと言う。そして彼女はこうはなりたくないと心底思ったと言う。
助けてもらうと生きた心地がする。ああ、よかったって。で、次は自分で生きることを選択することが、その人がその人らしく生きることじゃないだろうか。
やまんばもふくめて、みんなあったかいところがいいし、手取り足取りやってもらうことは気持ちいい。でもそれを続けていると、不思議なことに、人のカラダも心もその環境の中でそれに見合ったカタチになっていく。
薬も一生飲みつづけるものもあるよね。一時的に必要なものはあると思うけど、ずっとそれを飲まなきゃいけないようなカラダなのだろうか、人類って。そんな軟弱なカラダでありながら、何万年も生きてこれたんだろうか。
それはそう教えられたからではないのか。
そうおもえば、そういうカラダになっていくのではないだろうか。
年はいくと衰えるもの、だから介護されるもの、薬は一生飲みつづけるもの、そういうアイディアにあまり明るい未来ではなさそうだ。される側もする側も、いつか何かしらの矛盾をはらみはじめるんじゃないだろうか。
最近介護疲れで事件が起こるのも、そういうアイディアに対するメッセージのような気がする。
ろうれいしゃのこと老齢者の言葉は、受ける側はとてもエネルギー消耗します。毎日沢山の人を介護している方々を心から尊敬します。おかしくなってしましまった介護者を庇えるわけではないですが・・・
返信削除やまんばはなんか腑に落ちないんだな。。。
返信削除これから考えを変えていかないと、どんどん袋小路にハマっていく気がする。